(11-25-04)
村本さんは、サイト内で次のような発言をして、 創世記をそのまま信じようとするエホバの証人を嘲笑します。 「…創造は宗教であり、進化は科学であり、この両者は全く異なった次元で論じられ るべきであると考え る。本来宗教概念である創造を科学の方法で分析・検証しようとするのはお門違いで あるし、 同様に厳密に科学の概念である進化を、宗教の見方で批判しても、これまたお門違い なのである。」 村本さんのように進化を信じながら、「クリスチャンである」という人は少なくあり ません。 しかしそのような八方美人的な態度は矛盾なく成立していると言えますか? 天地は神によって創造されたのではなかったとしたら…? アダムを通して罪が世に入ってきたのではないとしたら…? イエスはアダムの罪を購うために処刑された救い主ではなかったとしたら…? パウロが述べたキリスト教の「救済」の教理は崩壊します。 「一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為に よって、 すべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」(ロ−マ5:18) 中には、聖書の記述はすべて文字通りの史実でなくてもよいという”クリスチャン” もいます。 彼らは天地創造、ノアの大洪水、さらにはイエスの復活さえも、 聖書のいわゆる奇跡的な話はすべて「神話であるし、それでよい」とします。 しかしパウロは言います。 「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の 信仰も無駄です。 …キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなたがたは今も なお罪の中に あることになります。 」(コリ15:13〜17) 決して「良きサマリア人の例え話」だけがキリスト教の教理ではありません。 そういう当たり障りのない部分だけを掻い摘んでクリスチャンを自称し、 聖書の史実性を信じる人々を「お門違い」「時代錯誤」と嘲笑し、 それがキリスト教の根幹を否定しているという矛盾に気づかない人に、 エホバの証人を「異端」と呼ぶ筋合いがあるでしょうか?
《編集者より》
これが今週あなたが送られて来た5通の投書の最後ですので、前の4つの投書に対して答えた内容はここでは繰り返しません。宗教と科学とを別の次元で論じることが必要であることは、このサイトの記事でもあなたの投書に対する答えでも書きました。これは「嘲笑」ではなく非常に真剣な、人間の基本的な思考方法の問題です。それを「嘲笑」としか受け取れないあなたの心の状態に私は疑問を持ちます。
この投書での問題は「クリスチャン」という言葉です。一つ前の投書であなたは「カルト」、「マインドコントロール」という言葉を問題にされましたが、ここでは「クリスチャン」という言葉を定義なしに持ち込んで、議論しています。確かに「クリスチャン」と言う言葉はエホバの証人の間でも頻回に使われているし、エホバの証人以外の世界でも頻回に使われています。しかし、問題は誰が何を指して「クリスチャン」と言うかです。エホバの証人が「クリスチャン」と言えば、それは献身したエホバの証人のことを指しますが、他のキリスト教世界のクリスチャンと呼ぶ人々には「自称」という言葉を付け加えますし、ひどい場合には「キリスト教世界の背教者」と考えています。つまり同じ「クリスチャン」でありながら、一方は献身した信者、他方は背教者なのです。そのように実態とラベルとが一致しない用語を議論に使う限り、不毛な水掛け論になるのは当たり前です。
あなたが展開した上の議論は、あなたと読者が共に「エホバの証人型のクリスチャン」である場合にのみ当てはまりますが、それ以外の「クリスチャン」には当てはまりません。それは聖書の解釈の仕方が違うからです。「キリスト教の根幹を否定しているという矛盾」が矛盾であるのは、あなたの聖書解釈に従う場合のみに言えることだという、基本的な認識にまず目ざめることをお勧めします。あなたがいくら「私たちの聖書解釈だけが正しくて、他の聖書解釈は間違っているから、私たちの議論は全ての人に当てはまる」と言い張っても、「私たちの聖書解釈だけが正しい」というあなたの信仰は、他に五万とある多くの聖書解釈に基づく信仰の中のただ一つに過ぎませんので、全く説得力はありません。