「『進化か創造か』の考察について」−T

(11-18-04)

こんにちは。「進化か、それとも創造か』の考察を拝見しました。
村本さんの批判を要約すれば、以下のようになると思います。

「この本は、文脈を無視した不正直な引用をしてるし、頻繁に引用される
ヒッチングなる人物は、友人の調査によるとうさんくさいオカルト評論家だ。
科学用語も定義が曖昧で混乱している。少しでもまともな教育を受けた人間なら、
まじめに相手にできるものではない。」

引用の手法や用語の定義については、その通りなのかもしれません。
しかしこの本が提示している、次のような科学的事実についてはどう思われてるので
しょう?

1.無生物から生物への変化は、人為的にも起こせていない。

2.「中間化石」は見つかっていない(ミッシングリンク)

3.突然変異には限界がある

第一に、最初の生命について。
村本さんの専門的すぎる「進化」の定義からすれば、
「どのようにして最初の生命ができたか」という問題は
確かに別問題なのかもしれません。

しかし最初の生命が発生してくれなければ進化も起こらないわけですから、
”無生物から生物への変化”も包括的に進化の「土台」として焦点を当てることは、

「生命-どのようにして存在するようになったか」と題する本として当然だと思いま
す。

人為的に現代の科学をもってしても無生物から生物への変換ができないのに、
それが太古の昔には自然に勝手に起こったと考えるのは道理にかなっていますか?
と疑問を投げかけるのは、別におかしくはないですよね。

第二に、化石の証拠について。
ミッシングリンクについては、ご存知のことと思います。通常の進化論のサイトの中
にも、
「ミッシング・リンクとは、直訳すれば「失われた環(つながり)」ということで、

直立二足歩行した人類の祖先の直前の原猿の化石が発見されておらず、
その進化の過程がはっきりしていない部分のことを意味します」などと説明されてい
ます。
(http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jinruihadokodetannjousitaka.htm)


またスティーブン・J・グールドが唱えた「断続均衡説」(進化は、ダーウィン理論
のように
徐々に少しずつ変化するのではなく、ある短期間に急激に起こり、その後安定した時
期を
繰りかえすとしたもの)は、中間化石が見つからない事実を説明するために考え出さ
れた説ですよね?

第三に、突然変異の限界について。
進化の基盤といわれる「突然変異」のほとんどは有害なものであり、
まれに有利な変異がみられても、それはその種の中でのバリエーションが増えるだけ
であって、
サルからヒトへ変わるような大化論の証明にはならないことが示されています。

村本さんの序文の中に、昨日ポートランドで会った友人が、今日東京から電話してき
て、
彼はどんな手段で一日のうちに地球を半周したのかを推測する例え話がありました
ね。その中で

「彼が飛行機に乗って東京へ行ったことだけは確実であると結論できる。
なぜなら、今の時点で一般人がポートランドから東京へ一日で
移動できるのは飛行機以外に方法がないからだ」

とありましたね。言い換えれば、「人類が進化してここまできたことは確実であると
結論できる。
なぜなら、進化以外に方法がないからだ」ということでしょうか。
もしかして、これが進化論者の本音なんでしょうか…?

でも、生命が自然発生して、勝手に進化して人類がここまできたにしては、
不自然な点がいくつもあるとしたら…?

最初の生命の自然発生ができない、
中間化石の物証もない、
大進化につながる遺伝子の大幅な書き換わりを説明できる現象も見出せないのに、
「進化は事実」と言い切れるのでしょうか?

事実が、むしろ「その種類にしたがって創造された」という
創造説とより適合するとしたら…?
リアルな創造説を信じる人がいたって別にいいじゃないですか。

村本さんの言い分は結局、

「この本は内容が余りにもいい加減であり、少しでもまともな教育を受けた
人間ならまじめに相手にできるものではな(い)」

「大学以上の自然科学、特に生命科学(生物学、遺伝学、人類学、考古学、生化学、
医学など)
の専門教育を受けた人間にとってこの本の欺瞞を見抜くことはそれほど困難ではな
い」

「自然科学の方法論と知識になじみのない人々にとっては、
あたかも科学の入門書のような印象を与え…るようだ」

と、「進化を信じるまともな科学者」としての権威や学歴至上主義を無意味にふりか
ざして
この本に「だまされる」人を小ばかにし、肝心の科学的事実については、
何も説明していないものに思えました。

匿名希望

《編集者より》
この投書者の方は、今回1週間の間に5通の投書を立て続けに送ってきました。これはこのサイト始まって以来のことです。内容を見れば分かりますが、全て批判内容ばかりです。このサイトの方針は批判的な投書も好意的な投書と同じ様に取り上げることですので、全てを掲載しますが、同じ投書者からのものであることを示すために、「T」のイニシャルをつけることにしました。

私は別に科学者の権威主義を振りかざしているわけではありませんが、進化論が生物学の根本的な法則と知見の上に構築されている以上、それを理解しない宗教家がいくら攻撃しても、全くの的外れにしかならないということを言っているまでです。これは逆の立場を考えて見ればわかるでしょう。(こんなことは絶対にありませんが)、生物学者が聖書の解釈の仕方に問題があって創造論が間違っていると主張し出したとしましょう。どんなに生物学者が聖書を論じて、創造論は間違っていると言っても、たかが生物学者のこと、どこまでヘブライ語の原文を読み、その古代の語彙とその用法と文法を理解した上で、創世記の誤りを指摘できるでしょうか。これは無理なことですし、従って生物学者は聖書論に基づいて創造論の誤りを指摘していません。同じ事は進化論を攻撃する人々にも言えることではないでしょうか。生物学者は生物学を論じ、宗教家は聖書を論じれば問題は起こらないのですが、なぜか宗教家はそれでは満足できず、生物学者の領域に入ってきて、半分は誤解に基づいて、半分は科学の思考方法が理解できずに、やみ雲にかき回しているのが現状なのです。

生命に限らず人為的に起こすことの出来ない事柄は自然界にいくらでもあります。従ってそれらを全て「創造者」に帰する考え方は、太古から全ての文明にあり、私はそれは人間の自然の感性であると思いますし、宗教の見方として当然であると思います。ただ、これが宗教の外に出て科学の領域を支配しようとしだすことによって、問題が生じてきました。科学者の使命は、分かることを分からないことは区別し、分からないことには仮説は立てるが、その説は常に実証によって修正され、変更されるものであると理解しています。

あなたが取り上げた、私の記事にある例、すなわち私の友人が一日の内に地球を半周した事実から、どれだけのことが分かり、どれだけのことが分からないか、を示す例えも、そのよい例なのです。あなたは、この考え方がいい加減なもののように考えていますが、これは科学の根本的な思考方法ですし、あなた自身も多分学校教育などを通じて身につけているはずです(もっともエホバの証人として学校教育を軽んじていたとすればわかりませんが)。あなたの家の本棚に瀬戸物の置物があるとしましょう。朝出かける時にはそれはいつもの所にありました。夕方帰ってみたら、その瀬戸物はいつも置いてあった所の下に割れて落ちていたとします。他に家の中には何の変化もありません。鍵は開けられた様子はなく、誰も入った様子もありません。その瀬戸物以外に落ちたものはありません。この状況から、あなたはどれだけのことが分かり、どれだけのことが分からないでしょうか。これは探偵や警察官などが常に直面する問題ですが、科学者も同じ様な思考法をとります。(だからほとんどの人が馴染みがあるのです。)まず、この瀬戸物が本棚から落ちて割れたということは結論できるでしょう。その時に、いや天使が見えない形で鍵も開けずに部屋に入り、瀬戸物をいじりまわして壊したとか、あなたの敵が念力を使って壊したとか、別の理由も考えられるでしょう。誰も見ていませんし、証拠はありません。しかし普通の人は、それでも誰も特別な話を作り上げずに、何が起こったかを説明できるでしょう。これが不確定ではあるが最も確からしい説明をとる、科学者の論理です。何も難しいことはありません。問題は、それに対し、「あなたは瀬戸物が落ちる現場を見たこともなければ、落ちる中間を撮影した写真やフィルムもない、だから、誰かが念力で壊したことを否定することは出来ないし、それを無視して、勝手に落ちたというのはおかしい」と言い出すことです。ここで、科学者は別に念力が瀬戸物を壊したことを否定する証拠を持ちませんし、それを示す必要はないと考えます。また科学者は瀬戸物が落ちたことは確かだと思いますが、なぜ落ちたかについてはよく分からないと言います。地震が起こったのかもしれませんが、他のものが揺れたり落ちたりしていないので、それは分かりません。何かの外の振動が伝わって落ちたのかもしれません。科学者は幾つかの可能な仮説は立てますが、他に確かな証拠が出てくるまでは、結論は急ぎません。しかし、ここでも問題は続きます。「科学者は何もわかっていない、だから念力の存在を否定することはできない」とあなたは言うかもしれません。科学者はそれはそれで結構ですから、ご自由に信じて下さいとしか言えません。でも念力を他の科学の知見と混同することだけは拒否します。

生命の起源も、生物と人類の進化についても多くのことが常に分かってきていますが、今でも分からないことは沢山あります。生物学の理論は、全ての科学の議論と同じ様に流動的です。分かっていることは「より確か」なことであり、分かっていないことは「可能性のあること」に過ぎません。このように、科学の思考法は宗教の教義、つまり最初から揺るがない絶対の真理を信じる態度とは全く正反対なのです。この二つの全く異なる思考法を同じ次元で無理やり議論させようとすると、果てしのない平行線の議論になるのです。ほとんどの科学者は、コップの落ちるのも、地震が起こるのも、台風が来て災害が起こるのも、生命の起源も、宗教家がそれらを全て神やサタンのせいにすることは、宗教の論理として否定しないと思います。宗教家が宗教の中で何を信じるかは全く自由ですが、それと関わりなく、生物学者は今日も変わりなく研究を進めて行くことでしょう。