批判は何を生み出すのですか?

(7-24-98)

流行語のように使われているマインドコントロールと言う言葉
は、その言葉の持つ本質に関係なく一人歩きをしているような
気がしてなりません。そしてこの言葉を聞いているもの達が
エホバの証人がマインドコントロールされているとマインド
コントロールに陥っているようにも感じます。
多数の意見が出てくればそれがいつのまにか正論となってしまう
人間の思考の順応性、これは誰もが持っている傾向でしょう。
人間の行動は自分の持つ知識と経験と本能、その他多くの情報を
元に支配されています。
私達は、何を基準に批判し、また善悪を判断すればいいのだろうか
エホバの証人情報センターに掲載されている情報の正誤の判断は
誰が出来るのだろうか、真実とはどこにあるのでしょうか?
人の幸福や不幸は第三者が見て決められるものだろうか・・・・・・
村本氏はエホバの証人を批判する事が生きがいなのでしょうか?
例えば、エホバの証人が輸血に関する教理のために命を失う事が問題だと
すれば宗教上の教理や政治思想が違うために戦争が起きて何百万人もの命
が奪われている現実は何なんでしょうか?
戦争を起こした宗教家や政治家はいろいろな理屈をつけて自分の行った事柄
を正当化しているのが現実です。

批判から真実が生まれてくるのでしょいか?そうだとしても、その真実がまた
批判されるだけでしょう。

そんな世の中で金銭的利を求めることなく、懸命に中立を保とうと努力して
いる宗教組織が他にあるでしょうか?
エホバの証人が他の人の命を奪いたいと願っているでしょうか?
また、他の人と争う事を願っているでしょうか?
大勢の人の命を救いたいと願い、争いは避けたいと願っているだけでは
ないでしょうか?

エホバの証人が求めているのはただ一つ、愛にほかならないと思うのですが

あまり、まとまった文でないことをお詫びいたします。

本当に神が求めているものを行いたいと願ってやみません。

《編集者より》
貴重なご批判をありがとうございます。確かにマインド・コントロールという言葉はいつのまにか独り立ちして、すべて自分と異なる意見を持つ者をマインド・コントロールされていると片づける傾向があることは否めません。エホバの証人を批判する人間こそマインド・コントロールされているというあなたの批判は、一般的にエホバの証人がよく使う批判の論理です。それに対する私の答えは次のようなものです。私はエホバの証人を批判する意見や情報をもちろん集めて研究しましたが、それと同時にエホバの証人とものみの塔協会の意見や情報も同じように徹底的に研究した積もりです。それに対して、エホバの証人の信者は、もちろんものみの塔協会から与えられる情報は徹底的に研究しますが、私と同じように、それを批判する情報や意見も研究したでしょうか。答えは間違いなくいいえです。ここがエホバの証人とその批判者の決定的な違いなのです。エホバの証人は非常に重要な知識と情報を持たずに、片手落ちの情報で信じているのです。それをカルトと呼ぶか、盲信と呼ぶか、マインド・コントロールと呼ぶか、どのようなレッテルをつけても結構ですが、問題はレッテルではなくて、そのエホバの証人の行っていることの内容なのです。

エホバの証人情報センターに掲載されている情報の正誤の判断をするのは、読者個人個人の責任です。あなたが新聞を読んだり本を読んだりした時にも同じように常に自分の判断が必要です。このウェブサイトも何らの例外ではありません。正確さには注意を払っていますが、誤った情報が何処かに知らないうちに潜んでいる可能性は常にあります。「真実とはどこにあるのでしょうか」とのご質問ですが、これも典型的なエホバの証人思考です。「真実とはどこにあるのか、みんな間違いだらけだ、だからエホバ(の組織)により頼むしかない」、と言って自分自身の判断を放棄して、組織に最終的判断の下駄を預けるのがエホバの証人なのです。確かにエホバ(神)により頼むのは、クリスチャンの生き方ではあります。しかし一人一人の人間の日常の判断には、あくまでその人間が、人生の様々な体験を通して訓練された判断力を使うしかありませんし、神は人間にその力を与え育ててくれているのです。それを放棄して、エホバにより頼っているという錯覚の元に、ものみの塔協会という純然たる人間の指導者に下駄を預けてしまっているのがエホバの証人です。

「村本氏はエホバの証人を批判する事が生きがいなのでしょうか」というご質問には、ごく最近の別の読者からの手紙にはっきり答えてありますので、そちらを参照して下さい。結論だけを繰り返しますと、私のこのウェブサイトの目的は、エホバの証人には与えられない情報を提供して、自分の力で自分の宗教を判断する材料を提供することです。私はこれを生きがいとは思っていませんが、情報の統制を受けて正しい情報を与えられない人々にそれを与えることは、栄養失調の人にバランスのとれた栄養を与えるのと同じように非常に重要なことであると考えています。

エホバの証人と戦争の問題ですが、私は宗派に関係なく、戦争に参加したり人殺しに参加したりする宗教は、全て批判する用意はあります。ただ、私はエホバの証人の問題に取り組むだけで精一杯で、それ以上のことは、一人の人間としてはできません。従って、戦争の問題も人殺しの問題もエホバの証人に限って取り上げているまでです。あなたは他の宗教が戦争に参加するから、エホバの証人が輸血拒否で人命を落とさせても正当化できると考えるのでしょうか。これは「皆が悪いことをしているから、自分たちが少しぐらい悪いことをしても責めなくたっていいじゃない」という子供じみた議論ではないでしょうか。ちなみに、エホバの証人だけが戦争に反対してきた宗教ではありませんし、エホバの証人の指導部が第二次世界大戦中にヒットラーと協調関係を結ぼうと努力していたことは、揺るぎのない史実です。そしてあなたのおっしゃるように、「戦争を起こした宗教家や政治家はいろいろな理屈をつけて自分の行った事柄を正当化している」のと同じように、エホバの証人の指導者も、自分たちとヒットラーとの関係をあくまで正当化し、他の宗教のように第二次世界大戦中の過ちを認めて謝罪することはしません。

「批判から真実が生まれてくるのでしょいか」と問われていますが、真実は「生まれる」ものではなく、われわれが常に探し求めるものだと私は思います。そして真実を求めるには常に批判が必要でした。聖書の中でも、イザヤもイエスもパウロも、その時代の宗教の「主流」と考えられていたものを徹底的に批判していました。誰もが当たり前だと考えてその上で居眠りしているものを、批判的に調べることから真理の探究は始ると思います。もっと最近の歴史を見ても、ルターもガリレイもレーニンも批判者でしたが、もちろん彼らは後に自分が批判の対象となりました。このような限りない批判の繰り返しの中で、間違いが明らかにされ、人間の行動がより正しい方向に向かうのではないでしょうか。私は批判のない世界は真実が死ぬ世界だと思っています。

「エホバの証人が求めているのはただ一つ、愛にほかならないと思うのですが」とのあなたの見解は、やはり情報の欠乏から来ている結論です。エホバの証人は確かに「愛」ある人たちですが、それは一つの重要な条件がつきます。それは彼らの愛は、自分たちの仲間か、自分たちに賛同するか、協力する人々に限られているという明白な事実です。彼らは自分たちから出ていった人々、自分たちに反対する人々にはあからさまなな憎しみをむき出しにします。この点では「宗教戦争」の心理と何ら変わりません。彼らの中にはイエス・キリストの教えた「最も小さい者への愛」「敵への愛」はありません。

以上あなたの提起された問題について、私の答えと考えを述べました。これに対しての更なる批判も歓迎します。なお、あなたとエホバの証人との関係が文面からだけではよく分からないので、このグループの中に掲載させていただきました。もしあなたがエホバの証人と全く関係のない方で、別の欄に移して欲しければ申し出て下さい。