「インターネットで自分の正体を明かさない者」

(11-16-04)

最近号の中でも、インターネットで自分の正体を明かさない者との交わりをしないよう、
特にチャットに注意を向けられていた。自分はチャットはしていない。軽い社交の場とし
て意義があるのかもしれないが、それほどひまな身分ではないし、人間関係にも不自由し
ていないからかな。しかし、真摯な中身のサイトには説得力がある。単なる社交でなく、
本当に霊的なことに関心がある人たちがやっている。だが、それに対しても協会は、正体
を明かさない者がエホバとの関係や霊性を破壊する目的で開いている、と示唆している。
組織信仰者には説得力があるかもしれない。だが、ちょっと考えてみよう。仮に正体を明
かしたとしたらどうなるか。間違いなく排斥である。排斥の理由は背教、それは「組織」
に対する背教を意味する。しかし、エホバと組織を分離して考えるという発想は絶対に受
け入れない人たちなので、組織に対する背教=エホバに対する背教として処分し、あの人
はサタンに取られたとか、エホバを捨てた等々と吹聴される。あくまでも組織中心の言い
分だけが吹聴され、本人の言い分は完全に無視される。しかし、それだけならまだいい。
排斥処置は「村八分」と全く同じ扱いを意味する。葬儀にもタッチしないから、「村九分」
とさえ言われている。村八分は、今は人権侵害として忌避されている処罰であり、ギロチ
ンやリンチがまかり通っていた時代の産物である。村八分がまかり通るのは、今や宗教界
とマフィア、あるいは閉鎖的集団や発展途上国だけと言って過言ではない。相手が正体を
明かさない背景には、そういう時代錯誤の人権侵害があることを伏せて、正体を明かさな
いことだけに注目させるのは片手落ちだ。排斥は聖書に書かれている霊的処分方法である
というかもしれない。だが、霊的かどうかはわからない。当時の時代背景の中で言われた
処分方法であり、「世」から見れば時代錯誤、時代遅れの方法でしかない。それを聖書に
書かれているから普遍的方法と解釈するのは、本当にキリストの精神とマッチしているだ
ろうか。イエス・キリストは、罪をおかすよりは目や手、足を切り落とすようにとおしゃ
ったが、それを普遍的方法と受け取る人はいないし、ものみの塔も比喩として教えている。
そういう表現方法が通用した時代背景の中で言われた言葉だ。文字通りの「方法」として
解釈するのが忠節な姿勢なのでなく、言葉の背景や精神をくみ取ることは、聖書全体にい
えることだと思う。 

《編集者より》
インターネットでの発言の多くが名前を隠して行なわれるのは、その発言が不特定多数の人に向けられる可能性があるからで、当然のこととして認められています。このサイトもその原則を貫いています。もし、ものみの塔協会の指導者が、インターネット上で全ての人が実名を明かすべきだというのなら、それはものみの塔協会の長老や監督が、自分たちのやりとりする手紙を全て開封にして送らなければいけないと言うようなもので、自分たちでもそれは拒否することでしょう。あなたの書かれている趣旨に一致するかもしれませんが、インターネットは全く新しい交流の手段ですので、それにふさわしいルール、エチケット、倫理というものが作られる必要があります。ものみの塔の指導者が勝手に聖書をこじつけて作り上げたルールが、インターネット上の人々の行動を支配するものにはなりませんし、なるべきではないと考えます。