「なぜエホバの証人に疑問を感じるようになったか」−ピーター

(8-5-04)

今日はなぜエホバの証人に疑問を感じるようになったかをお話したいと思います。
 
ことの始まりは「目ざめよ」98年7月8日号の「エホバの証人ーナチによる危機に直面して
も勇気を示す」という記事です。
 
当時は、なんだかおかしな記事だな???というだけで深くは考えなかったのですが、そ
の後もずっとこの記事は気になっていました。
しかし、最近知り合いから”1933年の大会でエホバの証人はヒットラーに取り入ろうとし
た”ということを聞きました。
 
このときピンときました。”そういえば以前1933年大会の決議について扱った記事があっ
たはず”と思いすぐに調べました。
そして、「目ざめよ」98年7月8日号を見つけ読んでみましたが、やっぱりどうも腑に落ち
ませんでした。
それどころか、この記事を読んだだけでもその知り合いの言っていることが正しいような
印象を受けました。
 
村本さんはこの記事をお読みになったことがおありですか?
 
”苦しい言い訳”、そういう印象の記事でした。
これはしっかりと調べなければ…と思い、まずこの記事でも取り上げられていた1975年の
年鑑を読みました。(英語版は1974年のようです)
それを読んで非常にびっくりしました。
 
 
以下は75年「年鑑」からの引用です。
 
1933年の夏までにはドイツの大多数の州でエホバの証人のわざは禁止されました。兄弟た
ちの家は定期的に捜索され,多くの兄弟たちは逮捕されました。単に一時的ではありまし
たが,霊的な食物のよどみない流れは部分的に妨げられました。また,多くの兄弟たちは
いつまでわざを続けることができるのだろうかとなおも尋ねていました。こうした事情の
もとで,諸会衆は6月25日にベルリンで開催される大会に出席するよう,そのほんの少し
前に知らせを受けました。各地でわざが禁止されていたので大勢の人々の出席は無理だと
考えられたため,会衆は少なくとも一人あるいは数人の代表者たちを出席させるよう勧め
られました。ところが,7,000人もの兄弟たちが集まることになりました。多くの人々は
出席するのに3日もかかりました。ベルリンまでの道のりを自転車で走り通した人たちも
いましたし,他の人々はトラックでやって来ました。活動を禁じられた団体にバスの便を
供することをバス会社が断わったからです。
 
ラザフォード兄弟は大会の何日か前に,協会の地所や建物の安全を確保するにはどうすれ
ばよいかを知るため,ノア兄弟と一緒にドイツを訪れ,バルツェライト兄弟を通して同大
会に提出し,出席者たちの賛同を得て採決する宣言文を用意しておきました。それは私た
ちの行なっていた宣べ伝えるわざに対するヒトラー政府の干渉に抗議したもので,ナチ国
家の大統領をはじめ,政府高官全員に,その宣言文の写しを1部できれば書留めで送り届
けることになりました。ラザフォード兄弟はその大会の始まる数日前にアメリカに戻りま
した。
 
しかし,出席していた人たちの多くはその「宣言」に失望させられました。というのは,
その内容は多くの点で兄弟たちの期待していたほど強烈なものではなかったからです。当
時までバルツェライト兄弟と密接な関係を持って働いていたドレスデン出身のミュツェ兄
弟は後に,その原文の真意を弱めたことでバルツェライト兄弟を非難しました。政府機関
との関係で問題を避けようとしてバルツェライト兄弟が協会の出版物の明確で間違えよう
のない言葉づかいに手加減を加えたのは,これが最初ではありませんでした。
 
相当数の兄弟たちはまさにそうした理由のゆえにその宣言の採択を拒否しました。事実,
以前の巡回旅行者でキッペルという兄弟は採択を求めるためのその宣言文の提出を断わっ
たので,別の兄弟が代わって提出しました。後日,バルツェライト兄弟は同宣言が満場一
致で採決された旨ラザフォード兄弟に伝えたとは言え,正しくはそうは言えませんでした。
 
大会出席者は疲れて家に帰りましたが,失望させられた人は少なくありませんでした。と
は言え,兄弟たちはその「宣言」書を210万部携えて帰宅し,早速それを配布し,政府の
責任ある地位に立つ大勢の人々に送りました。ヒトラーに宛てて送られたその宣言書には,
一部次のように記された手紙が添付されました。
 
「ものみの塔協会のブルックリンの会長事務所はこれまでも,また現在もドイツに対して
きわめて友好的態度を取っております。1918年にはアメリカの当協会の会長および理事会
の七人の理事は合計八十年の懲役刑を課せられましたが,それは同会長の編集する二つの
雑誌がアメリカでドイツに対する戦争宣伝に供されることを会長が拒んだためでした」。
 
その宣言の真意は弱められ,また兄弟たちの多くは同宣言の採択に心から賛同することは
できなかったとは言え,それでも政府は憤り,その宣言書を配布した人たちに対する迫害
を開始しました。
 
 
そして以下は「目ざめよ」98年7月8日号からの引用です。
 
「エホバの証人の1975年の年鑑」の記録によれば,「宣言」の論調があまり明確ではない
と考えてがっかりしたドイツ人の証人たちもいました。支部事務所の責任者パウル・バル
ツェライトがその文書の本文に手心を加えていたのでしょうか。そうではありませんでし
た。ドイツ語と英語の本文を比べてみると,そうではないことが分かります。その逆の印
象は,その「宣言」の作成に直接関与しなかったある人々の主観的な意見に基づいていた
ようです。そうした人たちの結論には,バルツェライトがわずか2年後に棄教したことも
影響を与えていたのかもしれません。
 
 
この二つの文章を読み私は唖然としました。
 
75年の年鑑では「バルツェライトが原文の真意を弱めた」と主張しているのに対して、
98年では「バルツェライトが手心を加えたわけではない」と言っています。
75年の年鑑に書かれている事柄は明らかに嘘ですし、
それに対する98年の「目ざめよ」の書き方は非常に無責任です。
 
はじめは、”75年の年鑑に「ドレスデンのミュツェ兄弟」個人の間違いもしくは悪意が入
り込んだのだろう”と考えました。
というよりはそう思いたかったという方が正しいです。
しかし、75年の年鑑をヌめば読むほど、年鑑の内容の真偽についての疑問は増すばかりで
した。
とくに”まさにそうした理由のゆえに”などという書き方は明らかに違和感があります。
この表現を見たとき”これは背教者を意識しているに違いない”とピンときました。
実際75年の年鑑には「当時(33年)に棄教した人たちのグループは現在(75年)も活動して
いる」と書いてありました。
”これは何か怪しい。臭うぞ”と感じました。
 
そしてyahooで「1933年」 「ベルリン大会」 「宣言」で検索した結果出会ったのがこ
の「JWIC」でした。
そしてその中の「ナチスヒトラーとものみの塔協会の協調関係」という記事でした。
この「ナチスヒトラーと…」は(2−15−97更新)ということでした。
「目ざめよ」が出たのが98年7月8日号です。7月8日号といっても手元に届くのは5
月くらいで、記事の準備に1年かかったとしたら(勝手な推測ですが)
準備を始めたのは97年5月頃です。
「ナチスヒトラーと…」は(2−15−97更新)と時期が非常にリンクしています。
 
”75年の協会の「年鑑」に嘘がある以上、これはもう一方の側の意見もきちんと調べな
くてはいけないな”
と思い、いわゆる”背教者”のホームページと分かっていましたが調べることにしました。
 
そして、私が出した結論は、
協会がヒトラー政権と協調関係を結んだかどうか、または結ぼうとしたかは分からないが
33年の「決議」は、言葉巧みな文章でいかにもエホバの証人がナチ党を支持しているか
のような”印象を与えようとした”文章であった
というものでした。
 
しかし私が一番気になったのは、ナチ党を支持しているかのような”印象を与えようとし
た”という、その策略の部分ではなく、
75年の年鑑に書かれている事柄です。
 
上記の結論のもとにもう一度75年の年鑑を読んでみると当時の事情が非常にはっきりと
見えてきました。
 
この年鑑にはバルツェライトとラザフォードの”対決”が書かれています。
詳しい状況は分かりませんが、この年鑑を読むだけでも”非常に大きな対立”があったこ
とであろうことがうかがえます。
そして、上記に書きましたが”バルツェライトが33年のベルリン大会の「宣言」の真意
を弱めた”という嘘を書いています。
はじめは、サタンの策略で年鑑に間違いが入り込んでしまったのでは…と思いましたが、
「良心の危機」を読んで、そうではなく、むしろ協会の意図的な嘘だったのだろうと感じ
るようになりました。
そう思うと下記のくだりなど特に納得できます。
 
 
以下は75年「年鑑」からの引用です。
 
ドイツの忠実な兄弟たちの多くが5年にまで及ぶ懲役刑を宣告されたのとは対照的に,バ
ルツェライトは2年半,そしてドリンガーは2年の懲役刑をそれぞれ言い渡されました。刑
務所で刑期を終えた後,バルツェライトはザクセンハウゼン強制収容所に入れられ,その
収容所で不面目この上ない役割を強制的に演じさせられました。彼は既に,兄弟たちとの
交わりをやめるという趣旨の宣言書に署名し,兄弟たちとの接触を一切避けていました。
そうした行動ゆえに彼は約1年後に釈放されましたが,その間,さまざまの屈辱的な仕打
ちを甘んじて受けなければなりませんでした。というのは,基本的に言って親衛隊の官憲
もやはり裏切者を憎んでいたからです。「ベエルゼブブ」という名前を彼につけたのはほ
かならぬ親衛隊員たちでしたし,ある時など,ひとりの親衛隊員が兄弟たち全員の前に彼
を立たせ―その時,収容所にはおよそ300人ほどの兄弟たちがいましたが―彼の署名した,
エホバの証人との交わりをやめるという趣旨の宣言書を繰り返して読むよう要求しました
が,何と彼はそうしました。
 
 
なぜこれほどまでに一個人をこき下ろすのでしょうか?
 
ただ彼は背教しました。と言うだけで十分ではないでしょうか?
 
人の尊厳を卑しめるようなことをなぜ書くのでしょうか?
 
この「年鑑(75年)」が書かれた頃、当時(33年)に棄教した人たちのグループが活動し
ていたということを考えるとよく分かります。
このいわゆる”背教者”のグループは、33年大会の決議を持ち出しエホバの証人を”攻
撃”していたのでしょう。
それに対して75年「年鑑」で対抗しようと試みたのでしょう。
そして、恐らく75年にはバルツェライトを含め当時のことを知っている人はほとんど死
んでしまっていた、生きていても相当高齢だったことでしょう。
バルツェライトが1916年にすでにドイツの業の監督に選ばれていたことからすると
(75年年鑑より)
当時(1916年)若くても30歳くらいでしょう。と考えると75年の時点では約60
年経過しているので約90歳くらいでしょう。
つまり、バルツェライトが死んだ頃を見計らって年鑑を用意し
バルツェライトを非難することによってその”攻撃”をかわそうとした、と考えると非常
につじつまが合うように感じます。
”まさにそうした理由のゆえに”などと書くところに、まさにその真意が顔をのぞかせて
いるように思えます。
 
 
このようにして私は、協会の威信を守るためには一個人の尊厳を無視する、という協会の
体質を知ることになってしまったのです。
 
その体質は、”良心の危機”にも、”輸血拒否”にも顕著に表れていました。
全血と”主要”4成分の拒否、その他は自由などと…。
 
 
以上が私がここに投書するようになったいきさつです。
 
もしお分かりになるようでしたら、33年そして75年頃のことの真相を教えていただけ
るでしょうか?

《編集者より》
ものみの塔協会と、ドイツのヒットラー政権との隠された関係については、カナダのジェームズ・ペントン教授の研究課題です。ペントン教授は現在、現役の教授(宗教歴史学)を引退されましたが、研究と執筆活動を続けています。その研究の集大成とも言える「Jehovah's Witnesses And The Third Reich: Sectarian Politics Under Persecution」は、すでに完成しており、今年の11月にトロント大学から出版される予定になっています。この本にあなたが触れられた疑問や問題は、ほとんど全て載せられていると思います。私は一昨年、たまたまペントン教授と昼食を一緒にする機会がありましたが、その時は研究が完成しつつある時で、直ぐに出版するようなことを言っていましたが、その後健康問題があって、出版が遅れたようです。この本は、世界に広く読まれるべき本であり、できれば日本の読者の方々にも紹介したいと思っております。