「輸血と血液分画についての考察」−ラハムより

(5-20-04)

わたしが研究を始めた30年近く前、エホバの証人が輸血を受けない
ということを聞いても何の問題も感じなかった。
わたしは高校生で、元気だったし輸血に関して必要とする
治療や怪我が自分に生じる可能性すら思い浮かばなかったのである。
だから、輸血を受けないという教義を聞いても
“なあんだ、輸血を受けなければいいのか!”という程度だったのである。

しかし、組織にとどまって時間が長くなってくると様々なことを聞くし、
ことさら、川崎で起きた“大ちゃん”事件という小学生の
輸血拒否死亡事件の時は緊張感が走ったものである。

友人にJWICを教えられ輸血に関しての多くのウェブを見るようになってから
いかに自分の認識や考えが浅はかであったかを思い知らされるようになった。

知人から2004/6/15のものみの塔を受け取って内容を確認すると
研究記事と読者からの質問が、特に血液分画の扱いに関してであることに
注意を引きつけられた。わたしもたくさんのサイトを読むことができたので
その知識にも影響されていると思うが、その助けも借りて
その号のものみの塔の記事を考察してみたい。


この記事を読んで最初に受けた印象は、
「輸血を受けるための抜け道を教える記事なのだろうか」というものだった。
以下にその理由を述べてみる。

22ページには「血に関する基本的な立場」という図表がある。
この図表はエホバの証人が受け入れられないものが
全血で、それを構成するのは、赤血球/白血球/血小板/血漿であり、
エホバの証人各自が決定すべきは、
赤血球の分画/白血球の分画/血小板の分画/血漿の分画と図示されている。

わたしは日本語で読んでいるのでこの「分画」が単数形なのか
複数形なのかはっきりわからないが、分画がひとつでは主要成分を
細かくいくつにもわけて分画にすることができないだろうから、
当然ふたつ以上の複数形だと思う。

ここでは実例として主要成分の赤血球を考えてみたい。
たとえば赤血球の分画に(a,b,c,d,e)があるとする。
分画を主要成分である赤血球にするためには分画a,b,c,d,eを
単純に合成すればよいと思ったのである。

わたしは医者ではないから緊急時にそうしたのんびりしたことを
していられるのか、分画をバラバラに体内に注入して
体のほうで赤血球として合成できるのかはわからないが、
残りの3個の主要成分だって分画の単位までバラバラにして
体内に注入できれば、結局は合計が同じになり、
全血を輸血できたことになるのではなかろうか、と思う。

輸血が必要なときは緊急時ばかりではないだろうから、
時間が許されるのであれば、分画の単位まで分けたものをいくつも
準備しておいてそれらを同時に注入するのはどうであろうか。
わたしは病院でいくつかのビンを使用して同時に点滴しているのを
見たことがあるので、素人ながらにこれを思いついた。

最近の輸血は全血を必要としない場合も多いようだから、
こうした方法は可能かもしれないし、自己血であれば、
安全性も高いので、わたしだったら抜け道として実行してみたい。
この考えが単純で愚かなことは承知だが、
このようなことを思いつく者がいることを知ってほしかったのである。

単純に言ってエホバの証人はエホバが血を食べてはいけないと
命じられたので、それを輸血に当てはめて拒否するわけだ。

サイトでは食べることに関してのたとえがよく使われているし、
イエスに見習ってたとえを使うことに熟達するよう
神権宣教学校では訓練されてきたので、それを活用する。

糖尿病の患者は糖分の摂取を制限されることが多い。
だから、彼らは甘いお菓子などは控えることがある。
甘いお菓子にはアンパンやケーキ、饅頭などがあるが、
そのどれにでも砂糖が多く使われている。

それらのお菓子の主要成分は薄皮やあんこや乳製品だろう。
それらを分離させれば、小麦粉、小豆、砂糖、乳製品、
タンパク質などの分画になると思う。もっと分けることも可能だろう。
どれも糖分があるが甘い大元は砂糖という分画である。

医者から甘いものの代表として菓子類を食べないように言いつけられた
患者がお菓子の分画である砂糖を食べたり、水に溶かして飲んでも
点滴したりしてもいいと理解するであろうか?

そのような理解は子供じみたこっけいな言葉の遊びという意外にはない。
だから、血を避けること、食べないことを輸血に適用するのであれば、
主要成分はだめで、分画は良心の問題などとわかりにくいことを言わずに、
すべてを徹底して避けるほうが道理に合っていると思う。
これ以外は矛盾と混乱を引き起こすだけだろう。

一世紀当時のクリスチャンが血を食べなかったという証拠に
「テルトゥリアヌス」という人物がものみの塔では頻回に使われている。
わたしは1977年頃発行された「エホバの証人と血の問題」という
小冊子をはじめにずいぶんと血に関する出版物を読んできたが、
聖書以外の出典で一世紀当時のクリスチャンが血を食べなかったという
証拠として提出されるのが、この人物のことば以外に読んだ記憶がない。

もうひとつあるとすれば、迫害で死ぬ直前にクリスチャンがどうして
血を食べるであろうかと語ったとされる名もない少女の言葉である。
今回の記事では「テルトゥリアヌス」以外は登場していない。

仮に上記の二人がそうした記録を残したとしても、
非常に証拠に乏しいのではないだろうか。
当時のキリスト教の人々がほんとうに血を食べなかったのであれば、
もっと記録があってもよいと思うのであるが、どうだろうか?

さて、研究記事21ページの10節から12節は「医薬としての血」
という副見出しになっており、血液の主要成分と分画に分け、
エホバの証人が主要成分を受け入れず、分画を受け入れる
根拠が述べられているのであるが、信仰の基本である
聖書中の聖句が、かっこ付きであったとしても
ただの一部分も引用されていないことが非常に目立つ。
要するに神からの直接の指図はないという証拠だろう。

ここで根拠として提出されている文献は
エホバの証人自らアメリカ医師会ジャーナルに寄稿したもの、
「救急医療」というテキストの文章である。
これらを読んでも主要成分は受け入れず、分画であるのなら
良心上の問題であるという聖書的根拠は示されていない。

わたしがJWICも含めて、ネット情報を何も知らなかったときから、
もっとも当惑し欺瞞的でおかしいと感じた
一文がここにも使われている。

それは「証人たちはこれらの句により…」「医学上の事実とも
一致してエホバの証人は…」「証人たちの宗教上の理解によれば…」
など、責任転嫁と考えられる表現である。
これらの表現はことばを変形させ、多く用いられてきた。

信者一人一人が人生や命をかけねばならない場合に、
このような表現を用いて、それら統治体が提出する規則集に
あたかも信者が自分自身も同意し、賛成したかのような印象を与えるが、
わたしたち自分個人は同意も賛成もしていないので、
ここで述べられている「エホバの証人」とはいったいどこのだれなのか、
という強い疑念にとらわれるのである。

わたしたちが、血に関する理解も含めて、新しい解釈が統治体により
公表される以前に自分で聖書を学んで、ある事柄を良心上の問題であると
定めて、実行し、他の仲間に話したりするのなら、おそらく多くの場合、
背教行為と解釈され、審理委員の聴聞を受けることになる。

そして、悔い改めて、その行為が間違っていたことを認め、
実行することをやめないのなら、排斥になることは間違いない。
聖書そのものよりも組織の解釈が優先されるからである。
いや、その長老たちのきまぐれな気分かもしれない。

だから、「エホバの証人は…」と記されてはいるが、
ここで述べられているのは、執筆委員の兄弟たちか、
これらの記事を承認した統治体の人々であることは間違いない。

ものみの塔のバプテスマを受けた信者によってバプテスマを受けた研究生は
「エホバの証人」であるとみなされるから、そのような表現を使うことにより、
血液分画を使用せずに死亡事故が生じた場合に、記事の執筆者や統治体に
責任が及ばないという狡猾で、ずる賢い書き方であるとも思う。

さらに、29ページから掲載されている読者からの質問であるが、
2000年6月15日号の再掲載となっている。

「再掲載」と言うから、質問までそっくりかと思ったが、2000年6月15日号の
29ページに記載されている質問は「エホバの証人は、血液に由来する
医薬品を受け入れますか」となっており、
今回のほうは「エホバの証人は、血液の小分画を受け入れますか」である。
答えの内容に差異はなさそうである。

ここで述べられている「血液に由来する医薬品」と「血液の小分画」は
どのように異なっているのであろうか?

わたしのような素人が、血液に由来する医薬品から思い浮かべるのは
全血、主要成分、分画など血液関係全般すべての医薬品であり、
血液の小分画といわれれば、分画のみを考える。

質問内容を変更した理由は、JWICなどで公表されている、
「ポリヘム」などの血液成分が使用されるようになってきているからだろう。
これは、ヘモグロビンの薄皮をむいたものとされているので
明らかに組織の言う血液の小分画だと思う。

この読者からの質問に関しての妥当性には、JWICからリンクされている
サイトで多くが述べられているが、わたし自身はそれらの意見に賛成している。

わたしはJWICなどからの情報を得てから、ことさら聖書を注意深く
読むようになり、輸血に関して組織と対立する意見を持つようになった。
当然分画についても同様である。

現在のわたしの意見は、この血に関する教義は命がけで守るべきもの
ではないというものである。
もちろんのこと、健康上の問題から血液に関連する感染症を避けたいので、
可能であれば血液関連の製剤は一切避けていきたいが、
事故や手術において多量の出血が生じた場合は、必要に応じて用いることも
キリスト教の原則に反していないと思う。

また、5月の投書のひとつで編集者が述べているように、
ものみの塔が過去において種痘を禁じて、それを撤回したときと同じように、
血の教義が撤回されたとき、それにより排斥されて精神的な打撃を
加えられ、また輸血拒否により、死に至ったりした仲間に対して、
また神に対しても、どのような弁解をおこなうのかということにも、
大きな関心を抱いている。
はたして、こうした教義が継続されてもいいのであろうか?

わたしが自分で聖書を研究して考察したことについては、
別の機会に公表してみたいと思う。
彼ら、聖書研究者と自称してきた、エホバの証人個人個人が、
いかに聖書そのものを読むことをおろそかにしてきたことを知ってもらい、
自分の信仰の根拠を自らの知力で再確認してほしいからである。

ご意見ご感想など、下記のメールにいただければ、うれしく思います。
kenbouoh@ybb.ne.jp  です。

《編集者より》
本年6月15日のものみの塔誌は、2000年6月15日のものみの塔誌に掲載された、輸血拒否に関する方針転換の記事の4周年記念のように、この新しい方針を再確認する記事を掲載しています。しかし、細かくこの記事を検討すると、興味ある問題がそこには内在しています。この編集者は、現時点で日本語のものみの塔誌6月15日号を入手しておりませんが、英語版で検討してその解説記事を英語で掲載しています。このリンクでご覧下さい。日本語版のものみの塔誌が入手できましたら、次回の更新時に日本人向けにした日本語版を掲載する予定です。

ラハムさんも「抜け道を教える」と指摘していますが、この記事は「輸血拒否」の「原則」を前面に打ち出すことをしながら、もう一方でいかに沢山の血液製剤を受けて構わないかを強調する記事となっています。早い話が、「原則で拒否、実際には受け入れ可」という姿勢で、いかに原則を形だけ守りながら、実際には輸血を受け入れるのと同じ効果になる「抜け道」を、何度も強調して教えているのです。この記事は、「皆さん、これらの血液製剤は受け入れて構わないのですよ、忘れずに受け入れなさい」と必死で呼びかけているようです。ラハムさんも指摘しているように、原則が血液を受け入れないことなら、単純に全てを拒否すればいいはずなのに、実際にはものみの塔協会は必死で「血液の小分画」を受け入れるように呼びかけているのです。

このことは、ものみの塔協会の輸血拒否の教義がますます形骸化し、ここまで無数の死者を出してきた長年の協会の方針を引き下げるわけにはいかず、そうかと言って輸血絶対拒否を貫いていては、ますます死者が山積し社会や医学界からの風当たりが強くなることから、教義を実質的に形骸化し、広い抜け道を作って何とかお茶を濁そうという、ものみの塔協会の狡猾な苦肉の策を良く示しています。聖書の時代にパリサイ人の安息日の教義が形骸化していたのと何と良く似ていることでしょう。よくエホバの証人は現代版パリサイ人と言われますが、輸血拒否の教義は、その最も良い例と言えるでしょう。