「研究生の一人として」−6

(4-16-04)


記念式から十日ほどたちました。まったく泣けませんでした。「知識が入っているからじ
ゃないかしら」と言われました。
前回の講話が三浦綾子さんの 『塩狩峠』 のような痛ましいものだったため、悲しかっ
たのかもしれません。今年は記念式の由来や意味などが主だったからなのか、式に臨む私
の態度が問題なのかよくわかりませんが、受難の痛みに鈍感だったことは確かです。
たぶん来年からは参加しないと思います。
 
古い話で恐縮なんですが、去年の六月に投書された 「ご質問ありがとうございます ミ
ミ様」 がマリー・アントワネットの件に触れていらっしゃるので、もしや参考はマンガ
 『ベルばら』 ではないのかしらと思い、ちょっと反論させていただきたいのです。
 
かのフランス王妃は、謙そんさによって頭を下げたのですか?
私の資料は遠藤周作氏の 『王妃マリー・アントワネット』 と 『藤本ひとみさんの 
『マリー・アントワネットの生涯』 です。遠藤氏の作品は 『イエスの生涯』『キリス
トの誕生』 同様のフィクションです。藤本氏の場合は辛口批評でした。
池田理代子さんの前出のマンガは正直言ってまだ読んだことはありません。しかし、私の
友人がこのマンガによって感化され、マリー・アントワネットをやたら礼賛していたので
す。それで、ひょっとしてあなたもそうかもしれないと思いました。
 
もしも、彼女を美化した創作を実話と思っていらっしゃるのなら、宣伝に乗せられている
んです。
私がマリー・アントワネットの断頭台でのふるまいを考える時には、自己の罪を自覚せず、
優雅なふるまいで神の使者を出迎えた女王イゼベルを思い出します。エヒウたちに殺され
たアハブ王の妻でバアル神を支持したあの女です。(列王記 下 9:30)
 
マリー・アントワネットの他には、クレオパトラの絶世の美女伝説に関することで、あと
いくらか鼻が低ければという話があります。
実際どうだったのかは好みや価値観のちがいにもよるので言えませんが、どこかのコラム
で読んだところでは、ある小説の中のクレオパトラという女性について書かれたものが、
エジプトの女王だったクレオパトラと混同されてしまったということです。
 
それはともかく、世にいう高貴な位に属する人たちへの評価は、有名人への評価と同じよ
うにファン心理が大きく働いていることを考えると、割り引いた方がいいと思います。人
間くささのエピソードも魅力あるドジぶりとして描かれることが多いと思います。深刻な
失敗も寛容なゆるしと共に説明されるようになりますから。
時代をへだてると特にその傾向は強まってゆくように思います。人間の善意は、冷静な判
断と称して何とかして事情を理解したいと願うものなのでしょうか。
 
そうした人たちへの畏敬が育つのとは対照的に、聖書の生ける神への畏敬は、人々の「神」
という概念が分散化しているため、まるで神々の一人でしかないような扱いになってきて
います。
エホバとかヤーウェとか呼ばれてきた存在は、キリスト教の神とは違うとまで言い切る人
もあり、まったく取るに足りない存在と化していることさえあります。
 
外国ではどうだか知りませんが日本では、大会社の重役クラスの方々や医療従事者、著名
人らが、異星人(プレアデス星人とか)のメッセージだなどと本気で信じている御時世で
す。しかも彼らは、彼らにとって清いことをメッセージしてくる存在を、身近な存在とし
て、まるで友人のように感じています。媒体として伝えるときもずいぶん尊大なのです。
あまりにも多い宗教や、オカルトチックな各・精神世界に親しむ愛好家が居すぎるため、
それぞれの聖なる者がバアル神や他の神々のようにもてはやされているように思えます。
ものみの塔の言っていることもなかなかに軽視できない実情になって来ていると私は思い
ます。
これら新しい"神々"にも相性の善し悪しがあるでしょうから、各指導者の力関係のバラン
スこそが重要であるとか、敵と味方が仲良くしなくちゃとか、平和の知恵がカギだとか、
叫ばれることになってしまうのだというふうに感じられてくるのです。
 
個人(組織)崇拝はやはり危険だし、難しい問題を抱えることになると思います。
ギリシャ神話の神々なんて私にはただの芸能人としか思えず、聖書の中の人物は現代でい
えば偉人・有名人としか映りません。
だんだん私もエホバ支持になってきており、この組織に入ることがないのはわかっている
ゆえに複雑な心境です。
 
このあいだ聞いたことですが、会衆内でもうつ病というのはやはり多いそうです。別の病
気で飲んでいる薬の副作用ということもあるらしいです。それで精神的に不安定になって
いる兄弟・姉妹がいるというので、とても心配になってきました。
伝道奉仕は単なる肉体労働ではありません。精神的な関わりが強い行動です。もっと温か
く見守ってあげられるような考え方になっていかないと、人格破綻してしまいます。
神の王国をふれ告げる御足は美しいと思っています。でも、病を押して参加することや、
数字の報告義務には何ら正当性がないと思います。
聖書から進言したいのはこういうことです。 「疲れた人を休養させよ」「何時間働いて
も神からいただく賃金は同じである」
業(わざ)が誰かに知られてしまったら、報いはその場で得られています。報告された時
間数で呼称を変えるなどして自己犠牲の度合いを測ってしまえば、報いはすでに仲間から
得られているのです。
統治体に望む改善案件は次のとおりです。
 
1.奉仕時間の報告義務を廃止すること。
2.子どもをムチでたたかないこと。
3.疲労者を生気戻るまで十分に休養させること。              
  (自己申告では足りない)
4.障害者を視野にいれた建築設計および改修をすること。
 
私はこれらについてものみの塔風に調整するつもりはありません。

《編集者より》
色々な話題に触れておられますが、私の感じたことを一言。マリーアントワネットやクレオパトラの話、プレイアデス星人の話、そして聖書からギリシャ神話まで、これはあなたの発言の趣旨とは関係がないかもしれませんが、共通するのは神話や伝説の発祥とその発展の問題です。神話や伝説の起源については、私の最近出版した「神の神経学」にも書いたことですが、人間集団の深層心理が原動力にあります。それは話の対象になっている事柄(例えばマリーアントワネットやクレオパトラ)が事実に則していることが大事なのではなく、むしろその話(神話、伝承)を発生させた人々の心が大事だということです。つまり、神話や伝承を読む時、その当時の信者や熱心な大衆がどのような心の状態で、どのような視点を持ってそのような話を発展させていったかに注目すると、これらの話の大きな意義が見えて来るのです。聖書の内容を文字通りに信じることが唯一の「真理」だと信じきっているエホバの証人のような方々にとっては、到底受け入れられない視点ですが、神話としての聖書を書いた人々の、心の中(それは脳の中になりますが)を読み取ることは、より深い「真理」をわれわれに教えてくれるかも知れないと、私は思っています。


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