「些細な事ではないと思います―神の容認する罪」

(5-12-03)

些細な事ではないと思いますー神の容認する罪

私もこの記述には納得出来ないのですが、私の場合は意見がちょっと違います。私がこの
記述で嫌いになったのは、「エホバ」ではなく、「ダビデ」です。正直いうと、もし、楽
園と名のつく「地獄」に行ったら、復活してきたダビデに、一言云ってやりたいと、ずっ
と思っていました。でも、バテシバは、それを望むかな?とか悩み、今に至っているので
す。
 では、何故、ダビデが嫌いなのかと言うと…。


ダビデの破廉恥さを考えてみる

 ダビデがバテシバを見初めたのは、バテシバの美しさという容姿が理由。人目ぼれとも
とれるけど、容姿だけで見初めるなんて、アイドルの追っかけじゃあるまいし、あまりに
も、幼稚。バテシバの人柄(人格)を見初めたわけじゃないから、人妻と言う相手の立場
(人権)をも無視出来たのでしょう。お昼のドラマ並の極めて破廉恥な恋ですね。


バテシバの立場から考えてみる

 美しすぎた容姿の所為で、強姦され、妊娠させられ、犯人の隠蔽工作で、最愛の夫を巧
妙な手口で殺され、強姦犯の妻にさせられる。強姦によって生まれた子供は死んでしまう。
普通の女性だったら、発狂します。


聖書記述のドラマ性を考えてみる

記述は終始、ダビデの側からの一方的な展開で、バテシバの言葉は、「わたくしは身ごも
りました」の一言だけ。それも、使いにやった第三者の口を通して語られており、バテシ
バ自身の、生の声も、気持ちも、全く触れられてない。
これでは、強姦なのか、合意なのか、文脈からは判断できず、再現ビデオ未満の出来ばえ。
臨場感というものが全くないので、小学生の作文よりもオソマツ。


ダビデの悪徳ぶりを考えてみる

綺麗な人だったから、家に呼んじゃおう! 家に来てくれたから、強姦しちゃおう!
妊娠しちゃったから、ばれないようにもみけそう! うまくもみけせなかったから、殺し
ちゃおう!
 好きになるのも短絡的なら、殺人も短絡的。犯罪史上まれに見る、極めて悪質で、短絡
的な犯行は、弁護の余地なく、文句なしで死刑ですな。


ダビデの狡猾さを考えてみる

犯行そのものは、短絡的に行っているのですが、隠蔽工作は、極めて入念に行っています。
先ず、夫を帰らせて寝させる。うまく行けば、自分(ダビデ)はおいしいとこ(強姦)だ
けいただいて、はいさようなら!です。が、失敗。
ここで、反省する事も出来たのに、さらに、手段を講じる。
夫を戦地で、戦死させる。なるほど、あくまでも、自分で直接手を下すのは、避けている
わけね。犯行がばれた時に、いくらでも言い逃れが出来るように、二重三重に、逃れ道を
作っているあたり、極めて卑怯で狡猾。


ダビデの傲慢さを考えてみる

さて、まんまと夫を殉職させたから、つじつまあわせに、自分の妻にする。
はあ? あんた、何考えてるの? あんたねぇ、「強姦犯」だっていう自分の立場、解っ
てんの? あんた、一体、何様のつもり?
「わしゃ、イスラエルの王様じゃい」
ああ、そうでっか…。


ダビデの邪悪さを考えてみる

神がナタンを遣わした時、ダビデは悔い改めて、一言
「わたしはエホバに対して罪を犯した」
(-_-メ)  もはや呆れて、何も言えません。でも、あえて、言わせてもらうなら、
バテシバに対して罪を犯したんだよ。
前途有望なウリヤの未来と幸福と生きる権利をもぎ取って、ウリヤに対して罪を犯したん
だよ。
あんたは、人の心が解らない、哀れな人だね。
そんなダビデを祝福する神が、私も、よく解りません。


ものみの塔協会の見解、及び「心の傷」の面から考えてみる

ものみの塔協会の「心の傷」に対する見かたは、「許すか忘れるか」です。
バテシバの「心の傷」については、聖書に全く触れられていない事からも、「心の傷」に
対する誤った見かたが両者とも、終始一貫して、感じられます。
ですが、「心の傷」に、時効はありません。
心理学的見地から言うなら、「心の傷」を癒すためには、憎むこと、怒る事、といった、
聖書的に「非」とされる感情を一通りやり終えてなければ、出来ない事です。
激しく憎んだ者だけがだけが、人を許す事が出来るのです。そして、忘れる事が出来るの
です。癒されるとは、そう言う事です。


神の見かたの面から考える

これだけダビデの悪徳傲慢ぶりを列挙したんだから、
それでも祝福した神なんて、大嫌いか。
というと、正直、なんとも、言えないのです。バテシバの気持ちを考えると、バテシバは
それを望んでるんだろうかって、思うからですね。
「楽園」と名のつく「地獄」に行く事があったら、バテシバにどうして欲しいか、たずね
てみたいです。


以上、概略だけおってみました。
過去のものみの塔には、難しい見解や、説明が多々あり、「ダビデの悔い改めも、真の悔
い改めだから云々」とありましたが、そんな難しい見解もとって着けたよな説明も、いり
ません。どれも、もったいぶった言い訳にしか、聞こえませんから。

もし、たった一言、ダビデに言えるなら、

“人の心の痛みが解る人になってください”

と、言いたいです。

《編集者より》
これは、5月5日の投書、「「些細なことですが」−神の容認する罪」に関係した発言です。その投書に対するコメントに、聖書、特にヘブライ聖書の教えは現代の人類に対する普遍の真理ではないと書きましたが、エホバの証人に限らず、聖書を文字通りに解釈することを神に従う道であると考えている全ての原理主義宗教に対する警鐘として、はっきり指摘する必要があると思います。このことは決して聖書を軽視しろとか、聖書は悪書であるとか言う意味ではありません。聖書には聖書の歴史的に特殊な性質があり、それを知って、ものみの塔協会がするような聖書の悪用を避けるべきだということです。

あなたが指摘したダビデの罪の他、私はサムエル第二の8章2節を指摘したいと思います。

そして[ダビデ]はまたモアブ人を討ち倒し、これを地に横たわらせて縄で測った。それは、縄二本分を測ってこれを殺し、一本の縄いっぱいに[測って]これを生かしておくためであった。こうしてモアブ人は貢ぎ物を携えるダビデの僕となった。
ここでダビデが行なったことは、征服した敵の人口の3分の2を無差別に虐殺していることです。これはまさに、無差別の大量虐殺です。現代で言えばヒットラーのユダヤ人の無差別虐殺、コソボにおけるアルバニア人の大量虐殺、サダムフセインによるクルド人の虐殺などに相当する、征服された民族を消滅あるいは弱体化するための無差別殺戮と全く同じことです。ヒットラーやサダムフセインがこれを行なえば、戦争裁判で人道的な犯罪として裁かれるのに、ダビデはこのような非人道的な極悪の犯罪を行ないながら、神に祝福される王でした。サムエル第一の27章9節に描かれるダビデの残虐ぶりは、現代のヒットラーも顔負けと言えるでしょう。
そして、ダビデはその地を討つと、男も女も生かしておかなかった。彼は羊、牛、ろば、らくだ、衣を取り、その後、アキシュのもとに帰って来た。
これはダビデの当時の神が、ユダヤの民族神に過ぎず、それ以外の民族に対する蛮行を最大限容認していたことを示しています。もちろん、もし今の「王」、それがユダヤ民族の「王」でも、クリスチャンの「王」でも、そんなことをすれば最悪の罪であることは間違いないでしょう。逆に言えば、ヒットラーもミロシェビッチ前大統領も、「ダビデだって間違っていたかもしれないが、いずれは神に祝福されたのだから」と言って、聖書の記述を文字通りに現代に当てはめることによって、自分たちの行なった同じ様な蛮行を言い逃れすることが出来るでしょう。いかに昔の神を現代にそのまま文字通りに当てはめるべきではないかを示す良い例であると思います。