「些細なことですが」−神の容認する罪

(5-5-03)

小学生のころからいわゆる2世として育ったもので今は奉仕活動にも一切携わっていない、一社会人です。
多くの方たちはなんとも思っていないことかもしれませんがとても自分自身とても大きな転換点となったこ
とが聖書中にあります。。。
 
会衆にとても忠節でまじめな成員がいました。
そして、その人にはとても美しい妻がいました。
その会衆にはとても有名な名の知られた長老がいました。その長老はそのキャラクターや存在感
とても魅力的な講演の仕方などから出張講演の以来が引く手あまたでした。
しかし、そのとても有名な長老はその忠節な成員の妻を見初めました。そして何とか接触したいと考え、
あるとき巧妙な理由をつけて何とかその妻に接触することに成功しました。そしてその余りの魅力に
その長老はその妻と関係を持ってしまいました。そして、その妻は身ごもってしまいました。
その長老は困惑しました。どうしよう。。そうだ。あの成員と関係を持たせて隠匿することにしよう。
そして、その長老は忠節な成員を巧みに招待して、飲酒をさせ、家に帰ってその妻を愛するようにと言いました。
しかし、とても律儀なその成員はそんなことは出来ない。と言いました。
もう自分の罪を隠し切れなくなったその長老は、自分の腹心の奉仕の僕にその忠節な成員の車のブレーキに
細工をするように命じ、、。
その成員は(見かけ上の)交通事故で死亡し、その妻はその長老の妻となりました。
これを読んでどう思われますか。もっとも、今と当時とではかなり時代背景が異なっていますが道徳的な側
面はなんら変わっていないと思います。
しかし、このまさに同じことがイスラエルの王ダビデによってなされたのです。
この忠節な成員の神への忠誠心はいったいなんだったのでしょうか。その忠誠心を知っていて、この神はこ
の成員を見殺しにしたのです。ダビデが巧妙に罪を隠そうとして隠匿行為に及ぼうとしたときにこの成員(ウ
リヤ)は今は神聖な戦いが行われている最中なのでそのようなことは出来ないといったのです。この忠誠心
を神は踏みにじったのではないでしょうか。この部分で私はエホバと言う神が大嫌いになりました。
一般のキリスト教の方はこの部分をどう解釈しているのでしょうか。もしよろしければ教えてください。

《編集者より》
私は「一般のキリスト教の方」の範疇には入りませんが、私自身は次の様に考えています。聖書の特に前半部(ヘブライ語聖書、旧約)はイスラエル民族の守護神としての神が描かれており、その為に現在の価値観、道徳観から見ればとんでもない事が平気で行なわれ、それを神(エホバ)は許し、時には祝福してきました。あなたの例に見られるような公の淫行、一夫多妻、近親相姦、略奪、果ては残虐な大量殺戮まで、神は容認してきました。聖書を全て「真理」と取るのであれば、これらの悪行を神と聖書とを理由に正当化しても当然でしょう。私はこの矛盾は、聖書の神がイスラエル民族の守護神であり、その目的はイスラエルと契約を結んであくまでその民族を守護することであったため、その蛮行も例外として赦されたことによるのだと思います。逆に言えば、聖書(ヘブライ)の内容は、その価値をそのような歴史的な文脈の中で解釈して初めて意味をなすのであって、世界人類普遍の真理と考える所に、ものみの塔を始めとする現代の原理主義的宗教の問題が起こるのであろうと考えています。私は神も「進化」して来たと思います。新約のイエスの神は別の性格をもち、その倫理観も狭いイスラエルの殻を脱出してより普遍的になりました。しかし、イエスの時代にも女性差別、民族差別、奴隷制の容認など、今から見ればとんでもない事がやはり「真理」でした。やはり全ての事柄と同じように、「神」も時代に応じて進化しなければならないし、聖書自体がそのことをはっきりと示しています。