「真実を求め続けたいエホバの証人」より−返事、統治体、思慮深い奴隷など

(5-4-01)

@ 真実を求め続けたいエホバの証人へを投書された兄弟へ(脱線も多いです)
 社会人一年生になられたそうですね。身の振り方は様々ですが、応援しています。
これからも時々近況を混ぜて投稿して下さい。
 エホバの証人は、“寄らば大樹の陰”という言葉どおり、巨大な組織をバックに
「勇気ある証言」をしますが、兄弟が面接でとった態度は、大樹なし、バックなし、
正真証明の「勇気ある告白」です。聖書が言っている「神に頼れ」という意味に近い
態度だと思いました。エホバの証人は、実質的に半身は神に頼り、半身は組織に頼っ
ています。組織がなくなったらどうしていいかわからないとか、自尊心を持って生き
ていけない人も多いですが、そのことは、キリストだけを唯一の仲介者として神と自
分との個人的関係を築いているのでなく、キリストと組織が仲介者となって神との関
係を築いていることの証拠にほかなりません(テモテ第一2:5)。だから最後の最
後まで、組織の都合の悪い部分はサタンのワナとして、決して見ようとしません。自
己崩壊してしまうからです。そういう教えこそが偏向的で大きなワナである可能性が
あることなども考えません。(考える力がなくなっているのかもしれません)。
 長年、考えることは統治体任せでよい、自分で考えることはサタンにすきを与える
こと、伝道活動に活発であるかどうかでエホバは人を評価する(と言っているのに等
しい態度)、トラブルは奉仕時間の多い者の勝ち、あるいは気の強い者の勝ち(不完
全だから神は許してくださるというわけ)、やられた方が許すべき、やられる方も完
全ではないから問題がある、それが聖書的解決方法という、いわば体力だけの人ほど
うまく渡れるエホバの証人社会でした。最近の言葉で「体育会系」というようです
が、それ以下でした。
 やっと最近、まともになってきていますが、会衆差が大きく苦労している人達は相
変わらずいるようですね。そういう会衆にいたら私もとっくに飛び出していたかもし
れません。世では下からの力で見過ごされないことも、“神権的”理由で世以上に放
置される面は否めません。どの宗教も同じようなことがあり、それが宗教嫌いを生じ
させている一つの要因になっていると思います。
 最近やたらに個人研究が力説されて、エホバの証人の知的レベルの低さは個人の責
任であるかのような印象を受けますが、知力と思考力を拘束して、統治体を超える頭
脳が育たないようにしてきた統治体や各支部の責任もあります。研究というと、読ん
だり、辞書引き(洞察や過去の出版物を調べること)しか連想できなくなっている人
も多いようで、学ぶことの意味さえわからなくされてしまっているんだなぁと感じま
す。人が考えてくれたことを発表するだけでよいのは、世では小学校までです。それ
らは考える材料でしかありません。材料を構築する力(思考力)をエホバは与えてく
ださっているのに、せっかくの神からの賜物を潰させて、「教えやすい人」づくりを
正当化するのは、神を恐れぬ大罪だと思います。
 キリストが古い皮袋の例えで示されたことを考えると、エホバの崇拝に関しては、
古い入れ物に新しいものを入れることはできず、新しい入れ物が必要となるわけです
から、変革は無理なのかもしれませんね。
 もう一点、誤解があったので解いておきます。編集者の方も同じ誤解をしてコメン
トしておられましたから、私の書き方が不十分だったのだと思います。「神の唯一の
組織」という看板は降ろした方がいいと思うと書いて、そのあと、「それでやめる人
は本当に感謝なんかしていなかったのです」と書きました。「それで」という語が、
日本語では「だから」という意味でも使われるので、そのように読むと誤解が生じ、
内容も支離滅裂になります。あの場合の「それで」は「これで、それで、あれで、ど
れで」という意味の「それで」で、「神の唯一の組織」という看板を降ろしたとき、
それでやめる人は(看板を降ろしたためにやめる人)看板に引き寄せられていただけ
であり、本当の意味で神に忠節だったり感謝していたわけではないことになる、とい
うことを言いたかったのです。「神の唯一の組織」という看板に加担できなくなって
やめた人たちのことではありません。まして、協会から、統治体流「背教者」(聖書
的背教者でなく)のレッテルを貼られて出された人たちのことを、感謝がない人なん
て思っていません。日本語は難しいですね。気をつけます。

A 統治体が、自分たちに従わない人に「背教者」の烙印を押す聖書的根拠として
「コラの反乱」事件を挙げることについて。
 コラと「名ある人々」250人はモーセとアロンに敵対し、全員エホバに滅ぼされ
てしまいました(民数記16章)。モーセとアロンは神に任命された人でした。それ
で、統治体は、その事件を根拠に、「神に任命されている統治体」に敵対すること
は、神に滅ぼされる結果になると、繰り返し強調してきました。頻繁に引用されてき
たので、エホバの証人の子供でもよく知っていることです。
 でも、その解釈は本当に聖書的でしょうか。
 モーセもアロンもキリストを予表しているのですから(申命記18:15、18、
19&ヘブライ2:17、4:15etc.)、コラ達は、神に任命されたイエス・
キリストを認めない人々を表しているのです。つまりギリシャ語聖書(新約聖書)で
も繰り返し述べられている「反キリスト」に適用されるものです。統治体への適用は
聖書的ではありません。「反キリスト」はあくまでも「反キリスト」であって、「反
統治体」ではありません。
 確かに、「主よ主よ」と言っても、神のご意志を行わない人は「反キリスト」に含
まれると思いますが(マタイ7:21〜27)、神のご意志とは何を指すのかが問題
です。
 神と人間の間に統治体が実質的に君臨することは、神のご意志でしょうか。統治体
を超えた構築(思考)は潰されるというのは、本当に神のご意志でしょうか。同労者
には「働け働け、それが神を喜ばせること(野外奉仕やRBCなど)」と無形のアメ
玉をサービスするばかりで生活保障ゼロ、自分たちは妻と共に衣食住&医療の生涯保
障付きというのは、神のご意志でしょうか。種痘やポリオワクチン等を禁じて(排斥
処置にするのは禁じていることにほかならない)犠牲者を過去に沢山出したことは、
神のご意志でしょうか。ただの試行錯誤をタッキングといって別のことであるかのよ
うに示し、神の名を使って正当化することは、神のご意志でしょうか。こりない年代
計算で多くの人を釣り続けてきたのは神のご意志でしょうか(ルカ21:8終わりの
日のしるしの一つ)。自分たちがしてきたことをごまかすのは神のご意志でしょう
か。最新のものでは、2001年3月1日号P.20の15節 「1919年に神の
イスラエルが解放されたのは、エホバの支えの証拠でした。神なしでは生じ得なかっ
たことです。」というのは、限りなく嘘に近いごまかしです。2000年10月1日
号P.26の経験の中で、はっきり、逮捕された8人は一人当たり1万ドルの保釈金
を納めて釈放されたと書かれています。(他でも同様の記事を見ましたがどの記事か
ちょっと忘れてしまいました。「ふれ告げる人々」だったかも?) 1万ドルという
のは以前の1ドル=360円で計算すると360万円、8人合計すると2880万
円、日本では貨幣の単位が変ってしまいよくわかりませんが、昭和30年代と比較し
ても今は10倍以上の価値がありますから(学卒サラリーマンの初任給が1万円未満
だったそうです)、少なくとも日本では現在3億円相当。アメリカでの貨幣価値がど
のくらい変ったのかわかりませんが、10倍とすると合計2億9千万円弱、5倍とす
ると1億5千万円弱、3倍とすると8千7百万円弱、2倍として6千万円弱です。資
本主義社会でインフレゼロの国はないでしょうから、低く見積もって今は3倍と見て
も、一人当たり1000万円以上、合計8000万円以上も使って釈放されたわけで
す。「神なしでは生じ得なかったことです。」というのは全くの欺瞞です。
 正直な記述をしたり、全く前言を無視して欺瞞的公言をしたり、これだけでなく最
近の協会の態度は一貫性に欠けていて混乱を感じます。輸血のことも、今まで以上に
煙に巻いてドロン的記述でしたし(長老も成員も意味がつかめていなかったと思いま
す。あのときの集会はどこの会衆もシーンとしていたようです)、今まで以上に何か
変です。各支部はいざという時のための、特定の人たち用の資金を隠し貯めていると
いうことはないでしょうね。去年だったと思いますが、株に関する記事の中で、協会
は「将来の必要に備えてやっている」という記述がありました。特定の人たち用の資
金隠しも「将来の必要」には違いないですから、心配になりました。
 協会が使う表現方法は、日本の政治家の言葉使いと同類です。はっきりとは言わ
ず、逃れ道のある表現を使い、言及されたら、不都合な場合は「そうは言っておりま
せん。そういう意味ではありません。そう言ったつもりはありません」と逃れ、都合
によっては、「○○と言ったはずです。うそはついておりません。」と言い、どちら
にも転べる表現を巧みに使うのです。
 過去にしてきた言動の言い逃れ、責任転嫁、どんでん返し、忍法煙巻き術を経験し
ていない新しい人には信じられないかもしれませんが、「事実は小説より奇なり」と
いうこともあるのですヨ。
 例えば、浮気をしながら妻に隠し通そうとする人は、必死で良い夫を演じます。言
うことも立派で、誰もが「まさか!」と思うほど、裏表を巧みに使い分けます。そう
しているうちに、自分は本当に立派な人間なんだと本気で思い込むようになり、ます
ます端目には立派な人に映ります。当然、語ることはますます立派になります。警察
でも、一番難しいのは虚言癖のある犯人で、本人自身が嘘と真実の区別ができなく
なっているので嘘発見器にもかからないと言います。協会も同類ではないことを祈り
ます。
 長い脱線をしました。
 言いたかったことは、エホバの証人は、伝道活動を熱心に行っているから神のご意
志を行っている唯一の組織と言いますが、果たして神の前にそう豪語できるのだろう
か。どこの組織も神のご意志を行っている面と行っていない面があり、諸教会は反キ
リスト、エホバの証人はそうでないという主張は、聖書的と言えないのではないかと
いうことです。
 しかも、ダビデ王の超重大な罪(姦淫と、善良で忠実なウリヤを密かにワナにかけ
殺したこと)や、マナセ王の背教と大量の流血の罪は、非常な大罪にもかかわらず真
の悔い改めをした時、それなりの許しが与えられました。それに対してサウル王は、
ダビデを公に追いかけまわしましたが、それはワナと異なり、相手にも逃げる機会を
与えましたし、他の罪も2人ほどの残酷さはありませんでした。でも、言い訳、ごま
かし、責任転嫁が人生態度の人だったゆえに、2人ほどの許しも与えられませんでし
た。これを考えると、諸教会が戦争に加担したことは事実であり大罪ですが、もし真
に悔い改めている教会があれば(少数かもしれませんが)、戦争に加担はしないけれ
ども、ごまかしや言い訳、責任転嫁を常套手段とする統治体よりも神の目によしとさ
れるのは明白かもしれません。罪の大きさ以上に事後の態度を神は重視されるので
す。

B 「忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか」。
 
 これが単数なので、何か一つのものを指していると考え、一つの組織を表している
と論じられています。でも、英語でも、複数を意味していても、それぞれ一人一人の
人、各人を表すときは単数形になります。例えばGood morning evryb
ody.は皆さん、おはようございますと訳すけれども、evrybodyは単数形
です。同じように、「忠実で思慮深い奴隷」も、単数だけれどもOnly one.を意
味しているのでなく、そのような各人はいったいだれでしょうか、という一人一人を
指して使っていると解釈できるのではないでしょうか。
 つまり、「神が任命した奴隷」は ONLYの組織や人ではなく、信者の人を誠実
に養い、時に応じて霊的食物を供給している人たち、各人のことを言っていたのであ
り、どこの組織を問わず、神の是認は個人個人に対するものということを意味してい
るというわけです。そして、忠実で思慮深い奴隷とみなされ、持ち物全てを司ること
になるのは(マタイ24:16)、1914年以降のことでなく、主人が裁きのため
に到来(到着)した時以降のことであり、その時、忠実に任務を果たしているとみな
された奴隷たちは、新秩序で主人の持ち物を全てをつかさどることになるのです。そ
して残念なことに、すべてが忠実と判断されるのでなく、任命されていたのに(マタ
イ24:45)任務を果たさず日々を過ごしたために、厳しく罰せられる(滅び)奴
隷もいることが示唆されています(マタイ24:48〜51)。任命されたのは、主
人であるイエスが地上から去られた西暦33年以降かもしれないし、1914年でも
いいですが、任命されたのはONLYな人や組織ではなく、各人で、裁きが執行されると
きの任務態度によって、是認か滅びかが決まるという警告の言葉だったと考えること
ができます。
 統治体は、忠実な奴隷は自分たち、よこしまな奴隷は他のキリスト教会と断定して
いますが、真実は、どちらの組織の中にも忠実な奴隷とよこしまな奴隷がいる可能性
があり、ハルマゲドンで神が裁かれるということではないでしょうか。
 祈りのうちに出た結論ですが、間違っている点や反論などありましたら、どなたで
も教えてください。

C 二つの級について
 
 統治体は、1935年以降現れた大群衆クラスと西暦33年以降現れた天へ行くク
ラスと言っていますが、聖書の中に、すでに二つの級が出ているのではないでしょう
か。
 コリント第一の手紙の冒頭には、「聖なる者となるために召されたあなたがた」と
「イエスの名を呼び求めているすべての人たち」が区別されて書かれています。エ
フェソス人への手紙の冒頭でも、「聖なる者たち」と「忠実な者たち」が区別されて
います。フィリピ人への手紙では、「聖なる者」と「監督たちと奉仕の僕たち」が区
別されています。コロサイ人への手紙でも、「聖なる者たち」と「忠実な兄弟たち」
が区別されています。
 どういう基準で区別されているのかはわかりませんが、「聖なる者」と「それ以外
の忠実な者」という二つのグループを示唆する表現がパウロの手紙にはあります。ヤ
コブやペテロやヨハネの手紙には明記されていません。もちろん区別されていても差
別されていなかったことは、手紙の雰囲気が明示していますが・・・・・・。
 ということで、2つのグループは1935年よりはるか昔の1世紀からあったので
はないかと思った次第です。

D 受け皿づくりの難しさ
 
 羊の群れに例えられているように、横の関係は必要だと思いますが、以前、編集者
の人のコメントにもありましたように、やめる人の理由も気持ちも千差万別なので非
常に難しいですね。いくつかのHPができていますが、ただ元エホバの証人だったと
いうだけでは、聖書で言っているような「群れ」にはなれません。(私の考えがおか
しいのかもしれません)。
 金沢文庫の最新版を書かれたのは金沢兄弟ではないのですか? 当時は通信技術の
関係で不発に終わったことでも、今は十分浸透していく可能性があります。HPを
作っていただけたら輪が広がっていくかもしれないと思うのですが……。でも宗教活
動をしておられないと書かれていましたので無理かもしれませんね。心境の変化は誰
にでもありますから、やめておられるならそっとしておいて差し上げたいと思います
が、最新版を読んだ時、少しの希望を持った次第です。語学もおできになるし、海外
とも輪が広がる可能性があり、新しい、より聖書的な輪が広がっていくかもしれない
と思いました。
 前述と重複しますが、古いものから新しいものが生まれるのは世の常というか、イ
エス・キリストも皮袋の例えで、古いものに新しいものは入らない、新しいものは新
しいものに入れなければならない、つまり古いものとは別に新しいものが作られるこ
とを示唆されました。統治体はもちろん、この言葉は1世紀のユダヤ教とキリスト教
のことを言っているというでしょうけれども、過去のことはヒナ型でもあるわけです
から、統治体や支部がパリサイ人化してきた時には、1世紀に起きたことと同類のこ
とが起こることもあり得ることになります。 

《編集者より》
まず、あなたが引き続き真摯に物事を見つめて、ただ組織の言うことを鵜呑みにするのでなく、「真実を求めつづけている」姿に敬意を表し、心から応援申し上げます。

あなたの最後の言葉は、私がいつも考えていることです。パリサイ化したユダヤ教の中からキリスト教が生まれたように、古くなって硬直化した体制の中にはいつも、新鮮で柔らかく、しかもエネルギーのある新しい芽が出てくることは歴史の中で繰り返されています。たとえば16世紀の硬直化したローマ教会の中からルターが新たな芽を生み出しました。しかし、その後ルターの追随者の中から時間の経過とともに、同じように古く硬直した体制が出てきました。そのような既存のカトリックやプロテスタントの組織だった宗教に対抗する形で、ラッセルも独立した「聖書研究」の会を作ったのかもしれません。ラッセルの初期の著作を読むと、彼が「組織」だった宗教に反対していたことがわかります。私はラッセルが最初にその運動を開始した時には、やはり新鮮な息吹を持って硬直した古い体制にとって変わることを目指していたと思います。しかし、一世紀経った今はどうでしょう。やはり歴史は繰り返され、ラッセルの追随者である現在のものみの塔協会は、自らが守り続けてきた古い硬直した皮袋にしがみついて、内部改革を必死で食い止めるのに手を焼いています。

私はこの歴史は繰り返されると思います。しかし現代に生きる私たちは、過去の過ちから学ぶことができます。硬直した組織に代わるのは、新しい組織を対抗して作り上げることではないと思います。歴史が雄弁に語るように、そのような新しい組織も、いずれまた硬直化してしまうことでしょう。また新しい人間の有力な指導者を祭り上げることでもありません。その指導者はいずれまた、古くなり硬直することでしょう。何が問題なのでしょう。それは組織でも個人の指導者でも、われわれは「人に頼りたい」という弱みがあるのです。この人間固有の弱みの故に、組織でも有力な指導者でも、次第にその価値と権威が増大し、追随者はその言いなりになり、結果は常に歴史上繰り返されてきた、「パリサイ化」となるのです。今のものみの塔協会はその典型ではないでしょうか。私は歴史が与えている教訓は、イエスが2000年前に教えた教訓そのものであると思います。人でなく、組織でなく、先ずイエスと一人一人とが関係を持つことでしょう。組織も他の人との関係も、その次に来る二次的なものであり、決してこれらが先行してはならないのです。イエスと個人との直接の関係が第一になれば、どの一人のリーダーもどの組織も特別な権威や価値を持ちません。「組織」があるとすれば、それは同意した者同士が集まって民主的に運営される「同好会」に過ぎず、そのような民主的な組織の改革は継続的に起こり、全ては時間と共に変化します。ものみの塔協会はこの正反対を行っているという点で、重要な教訓を教えてくれる「反面教師」であると、私は思うようになりました。

「真実を求め続けたいエホバの証人」からは他にも非公開のお便りを頂きました。一々お返事を差し上げる時間がなく申し訳なく思っておりますが、興味深く読ませていただいたことを感謝とともに付け加えさせていただきます。