良心の危機を読み終えて/「真実を求め続けたい証人」へ

(3-1-01)

今“良心の危機”を読み終えました。晩秋の青空を仰ぎ見るような深い感情に浸っています。私は
今ではもう集会には交わっていませんが、真にものみの塔組織から解放されているとは言えません
。何か不安な気持ちに苛まれているのです。子供の頃からの人間関係から完全に切り離される恐怖
だけではない、と思います。私は人付き合いはもともと苦手な方で、友人も限られた範囲だったか
らです。友人は一般によく目立つ、「快活で活発な」人、「それゆえ模範的な人」とは違う、それ
とは反対の異なるタイプの人ばかりです。しかし決していいかげんな人たちではありませんでした
。私のプライドにかけて言えます。ある人はとても考え深く、聖書の洞察でも長老たちよりも深い
人です。そのために煙たがられています。でもその人はほんとうに気持ちのよい人です。目立ちた
がりで説教好きの中年姉妹からねちねちしたいやみを言われても、言い返したりしないで、じっと
やり過ごしています。そして私といっしょになるとすぐに雰囲気を切り替えて、接してくれます。
こういう人こそ長老にふさわしい人物なのにまだ若い、開拓者じ
ゃないとかいう理由で遠ざけられています。要するに偉い人たちのねたみを買ったのです。とにか
く、私はそのように会衆内のよく目立つ方ではありませんでしたから、エホバの証人との付き合い
が失われることで不安に思っているのではない、と思います。むしろ私が不安に思うのは、きっと
彼のように悪い言い方のレッテルを自分に貼られてしまうことだと思っています。聖書の個人研究
が不足しているために霊的に弱ってしまったとか、不平不満ばかり持つ人とか言われるだろうなと
思うと本当に悔しいのです。

レイモンド・フランズ兄弟とエドワード・ダンラップ兄弟もきっと彼と似たような反感を買ったの
だろうと思います。硬直した思考の人たちはレイ・フランズ兄弟の前では、自分たちの聖書理解の
低さを思い知らされたんだと思います。ものすごい聖書の知識と理解と心の寛容さのレイ・フラン
ズ兄弟とエドワード・ダンラップ兄弟にはもう追いつけないという焦り、そして自分たちが信じて
いたい教理、自分たちのプライドの基礎である教理を守らなければという気持ちが、あのような事
態を生みだしたんだと思います。フランズ兄弟が「良心の危機」を著わされたのも、思い上がりか
ら背教に至ったとか淫行だとかいう、それこそ正真正銘の中傷に耐えかねたからだそうです。私は
その気持ちが分かります。ものみの塔協会のやり方は下々まで行き渡っていて、協会にであれ地元
の長老にであれ、指導者の面子に挑戦する輩をやっつけるためには必ず誹謗、中傷という手段にで
ます。悪いのは「権威」に逆らう方の連中だということにされるのです。みんなはその言い分のほ
うに味方します。ほんとに悔しい限りです。

しかしレイ・フランズ兄弟自身は、エホバの証人は(上層部であれ、一般の人々であれ)「組織」
という概念の犠牲者であると感想を述べておられます。ものみの塔組織をよく把握しているからで
はなく、ものみの塔組織が漠然としたよく分からない存在であるために、しかも神に選ばれた唯一
の組織であると信じなければ侮辱的なレッテルを貼られるゆえに、組織というものについて実際以
上にイメージして受けとめている、それで組織に無条件に心酔していると観察されています。五、
六百万という証人の人口、徹底した人事管理、頻繁に行われる訪問活動、支部と世界本部の偉観、
どこに行っても存在する王国会館、巨大な出版活動、大きな大会から受ける印象などから、ものみ
の塔組織がとてつもなく偉大なものに思えるので、まず服従する心構えが出来上がるということで
す。疑問や不快な印象は覚えても、得体の知れない巨大な組織に精神的に圧倒されてしまっている
ので、組織の方を正当化する方向で自分に理由付けを行ってしまうという意味のことを述べておら
れました。また何らかの組織に所属していなければ神から与えら
れた活動は行えないのではないかという感覚も一般信者にはあります。このことを読んだとき、私
の脳裏には「生き返った野獣に感服して人々は野獣を崇拝するようになる」という啓示の書の13
章の言葉がよぎりました。それからこの組織の内部での人付き合いで、現時点で満足してしまって
いるということもあります。そういう人は自分に火の粉が振りかからない限りはごたごたを嫌いま
す。ですから現状維持のため、自分で考えることをせずに、早く面倒を終了させるために自動的に
組織に従います。誠実な人が犠牲にされることなど関知していられないという訳です。ところで、
こういう精神は一般信者の方で自然に持つようになったのでしょうか。それともものみの塔協会の
指導によって、そういう精神態度が奨励されて来たのでしょうか。レイ・フランズ兄弟はものみの
塔の研究で組織への隷属を訓練されていると述べました。明らかにものみの塔の指導はマインド・
コントロールなのです。思考を止めて判断を指導者たちに任せる習慣を信者に植え付けるやり方が
行き渡っている以上、私はそう結論しました。

現にこのHPに出会う前までは私も教理や方針が統治体でどのように決定されるのかを知りません
でしたし、協会が都合のよい情報しか公開してこなかったことなど、全く想像すら及びませんでし
た。情報の操作によって人を服従させるというのは明らかにマインド・コントロールです。そして
またこのコーナーで訴えられてきたいろんな出来事を聞いて知っても、ほとんどの証人は抗議もせ
ず、離脱もしないというのはレイ・フランズ兄弟の言われることが正しいことを証拠立てていると
思います。私たちは組織への忠誠という感覚が心の奥深く、もっとも基本的な土台のような部分に
刷り込まれているのです。これは間違っている、このような不公正な事態が起きているのは指導者
たちが間違っているからだと分かっていても、抗議すらできない、それどころか何とかこの事態を
上手に説明しようとして嘘を信じようとします。あるいはいつかは事が正されるに違いないと信じ
て、自分は遠くに離れて立ちます。これは神が最終的に責任を持たれる組織だと思いこんでいるか
らです。私たちは組織に対しては人間ではなく、犬になったので
す。深く詮索することは謙遜でなく、反抗的とみなされます。私たちに要求されているのは犬のよ
うに忠実であることでした。私たちはマインド・コントロールされて、考える能力を破壊されたの
です。

私たちが人間性というものを回復させるには、単に不活発になって遠ざかるだけではだめです。現
に私はいまでも心に重いものがのしかかっているからです。また多くの「元」証人の人たちの手記
を見ても、心に残された傷は決してすぐに忘れられるものでないことはよく分かります。私たちは
ものみの塔のコントロールと闘わなければならないのです。それにはまず辛いことかもしれません
が、自分がマインド・コントロールされている人間であることを認めなければならないと思います
。私たちは自分の意思で判断し行動しているのではなく、ものみの塔組織に与する方向でしか思考
が働かないのです。批判はでき、また実際批判しますが、しかし行動を起こせない人間でしかあり
ません。これは私たちの精神がまったく催眠状態に置かれているという意味ばかりではありません
。「良心の危機」でエドワード・ダンラップ兄弟のコメントが書かれています。彼は排斥にされる
以前、べテルに残るかどうか考えていたようですが、結局残ることにされたようです。それはもう
とうに老境に入っていた彼は、今さらべテルを出ても生計を立て
てゆけないからです。また十分の医療サービスも必要です。そのことを考えるとつらい仕打ちはあ
っても妻のためにもべテルに残るのがふさわしい判断だという訳です。つまり私たちはものみの塔
組織を離れると、自分の生計も自分で立てられない無能人間になってしまうのです。私はそこを読
んでいたとき、ふと「野獣のしるしを受けなければ売り買いできないようにされる」という啓示の
書の13章の記述を思い浮かべました。もちろん正しい適用だというのではありませんが。これも
マインド・コントロールの手法であると私は思います。

それだけではありません。「良心の危機」の指摘は画一化の及ぼす効果も挙げています。私たちが
ものみの塔研究で頻繁に見る表現に、疑問を持つこと、批判することは霊的に弱っている、エホバ
を待つという謙虚な精神に欠けている、個人研究が不足しているというような書き方、表現の仕方
と、それを受けとめる方法が決められているということ、そのことが私たちの自由な思考を阻んで
います。私はいまだに自分で考えた事に十分な自信が持てません。子供の頃からものみの塔協会の
出版物を最終判断のための基準としてきたからかもしれません。みんなと同じ見解に至らないとど
こかで自分の方が間違ったのではないかという不安に駆られるのです。幸い、今はこのHPのおか
げで間違っていたのはものみの塔の方だということが分かって、幾らか自信は持てるようにはなり
ましたが。開拓奉仕を勧める記事でも同じでした。開拓に入れない要素として老齢、困難な病気、
親の世話などがものみの塔に書いてあると、それ以外の理由は認められないのです。ものみの塔の
記事で挙げられていない事情で、開拓に入らないと、認識が欠け
ているとか信仰が不足している、自己中心的な生き方に魅力を覚えているという見方をされます。
記事の受け止め方、物事の判断の仕方が画一的なのです。協会によって示された方法でしか物事を
評価できないのです。それはそのように教育されているからです。出版物の「研究」を通して。こ
れもマインド・コントロールの手法であると思いませんか。

この本を読んで、私はものみの塔協会が使うマインド・コントロールの手法のうち三つを考えさせ
られました。一つは組織というものについて、それが実際より美化され、実際より威厳を大きく見
せかけて、神への従順とは組織に服することというすり替えを行うこと。二つ目は組織から離れて
は暮らしてゆけないように信者の生活を追い込むこと。三つ目に思考の画一化です。
古いものですが、「尼僧物語」という映画がありました。その主人公の尼僧が還俗する前にこう言
います。「結局私は尼僧として基本的なことができなかった。それは疑問を抱かずに服従するとい
うことです」。組織の指導部の判断、方針を正しいか否かを調べようとするのは本当に神に逆らう
ことなのでしょうか。神が行われることに人間が口をさしはさむのは確かに出過ぎたことです。し
かし組織の指導者は神ではない、ただの人間です。彼ら自身が認める通り、人間はどれほど経験を
積んでも過ちを犯すものです。その過ちが取り返しのつかないものとならないように慎重であるよ
うにするのは、クリスチャンとしてふさわしい振舞い方だと思うのですが。彼らが判断し、指導と
して提示する方針は理由を明らかにしなければならないはずです。事を秘すのは神の特権であるが
、人間の王の栄光は事を明らかにすることだと箴言25章1節には書いてあります。その方針はど
んな根拠に基づいているか、どんな利点があり、リスクはどれほどか、その方針によって何を目指
すのかなどきちんと明らかにするべきではないでしょうか。人間
である以上、判断を誤ると負いきれない責任を負うことになるかもしれないからです。取り返しの
つかない事態に「愛する仲間」を追い込んでしまった場合、どうするのでしょうか。根拠をちゃん
と説明できず、責任を逃れようとするから「事を明らかに」できないのです。しかし詩編82編に
は裁き人たちが「神だ」と言われている、と言うのでしょうか。そこでは裁きを神への恐れをもっ
て公正に行うようにという意味で書かれています。裁き人は神のご意思を正確に反映する仕方で裁
きを行う責任があるのです。私は聖書を読み違えているでしょうか。正しく聖書を適用していない
でしょうか。1975年の予言が外れた時の反応は興味深いものがあります。実務方面の責任者た
ちは間違いをきちんと認めて再出発するべきと主張しましたが、統治体はその必要はないと突っぱ
ねました。伝道の書10章5,6節にこんなことが書いてあります。「わたしが日の下で見た災い
となることがある。それは権力ある者のゆえに間違いが出て行くときのようである。愚かさは多く
の高い地位に置かれたが、富んだ者たちが(文章の意味からする
とおそらく人品、知恵という観点で富んでいると読んでいいように思う)ただ低い状態の下に住み
つづける」。エホバの証人の宗教は元々、聖書を正しく解釈しない人によって始められた宗教で、
自分勝手に解釈する人によって継続してきた宗教だったんだなぁとつくづく思いました。

それから最後になって恐縮ですが、「真実を求め続けたい証人」様、私は「草の根」を書いた者で
す。私のような者の書いた感情的で拙いことを読んで真剣に考えてくださってありがとうございま
す。自分の意見にまじめに耳を傾けてくださる人がいると思うと、すごくうれしいです。あなた様
の洞察は正しいです。私は2*才です。でも自分では「年若い」と言われることにいつもは不満を
感じていました。でも今は違います。この3月から私は親元を離れ、一人暮らしを始めます。就職
しました。生まれて初めて「会社」という組織の中で生きることになります。不安でいっぱいです
。面接のとき、今まで就職せず、何をしていたのかと聞かれたときは本当につらく、心苦しかった
です。でも嘘はつきませんでした。正直に言いました。心臓はもう破裂するかと思うほどドキドキ
していました。2*才で社会人一年生です。正直いってそのことでかなりの気後れがあります。会
衆のみんなからいくつになっても「年若い」と言われていて悔しいと思っていましたが、実際それ
は経験が少ないので自信が持てない気持ちをずばりつかれたから
だと思います。そしてそのことはそのままものみの塔協会にも当てはまります。協会がやたら権威
や排斥を振りかざして、強圧的に振舞ってきたのは実は痛いところをつかれたからです。そこをつ
かれて痛いと思うのは、それが図星だからです。
でも一つだけ意見させてください。「それで離れる人は本当は感謝なんかしていないのです。“楽
園行きの組織”という看板に引き寄せられ、それに感謝していただけのことです。」とお書きにな
っておられます。エホバの証人の現実として、組織に留まっていたいのに、留まれなくなった人が
います。エドワード・ダンラップ兄弟は強制的に排斥処分にされました。兄弟はエホバに感謝しな
い方ではなかったようです。「異邦人の時の再考」を著わされたカール・オロフ・ジョンソン兄弟
も統治体に挑戦しようとしたのではなかったようです。だからこそ真っ先に統治体にレポートを提
出されたのだと思います。排斥という処置がなくても集会に来なくなった人はどうでしょうか。「
ジェイソン」さんの投稿にあるように、べテルの兄弟より英語の上手な成員で不活発になったのは
べテル兄弟が「いじめを決行した」からです。この場合のいじめがどんなものかはおよそ見当がつ
くのではないでしょうか。公開講演を割り当てなかったり、神権宣教学校でも、第一の割り当てや
聖書朗読の目だった点の割り当てではなく、第二や第四の割り当
てをさせて、しかも辛辣な助言をして、当人の自信を失わせるという方法などが行われたに違いあ
りません。そうなると会衆の人たちも当人たちを遠ざけるようになります。会衆の人々は自分では
気づいていないが、エホバを崇拝しているつもりでも、実は組織を崇拝しているので、べテル兄弟
の方針を支持します。こうして当人が会衆の中で浮いてしまうよう仕向けたに違いありません。そ
うなると当人も気持ちがささくれ立ちます。そこで日頃の言動などを細かにチェックして、何か理
由を付けて長老や僕という立場を外すということに至ったのでしょう。誰でもこんな状況に置かれ
たら苦しいのではないでしょうか。忍耐するのはたいへんだと思います。そういう仕方で集会に来
なくなった人を責めることはできないと思います。責めるべきなのは「ジェイソン」さんの会衆の
場合はべテル兄弟の方です。
私はどうでしょうか。私はたしかに「感謝がない」と言われてもしょうがないです。私はもともと
自分でこの道を選んだわけではありません。両親がエホバの証人だったのでこうなっただけです。
それに私にはあの年代の予言というのがどうも本気で信じられませんでした。年代の予言は私にと
って、心霊写真(あの、白い丸の中の顔が背後霊だとかいうあの手の写真)と同じ程度のものとし
か思えませんでした。あんなことを本気で信じている両親の気持ちが理解できなかったのです。私
はオカルトというものを全く信じられないのです。もちろんエホバの証人の教理がみなオカルトだ
とは考えておりません。でもあの年代や2520年の計算はどうもいただけないです。意見なんか
してしまってすいません。
最後にいやな話で締めくくります。父は長老です。私が集会へ行かなくなってかなり荒れました。
家庭でですが。でも最近は平常になりました。どうしてだかお分かりですか。私が集会へ来なくな
ったとはいえ、父は長老を降りなくてもよくなったからのようです。私がどれほど怒りを覚えてい
るかを察して頂けるでしょうか。
ともあれ、「真実を求め続けたい証人」様は会衆内で真実の良心として「太陽のように明るく輝い
て」いて欲しいです。

《編集者より》
これは「編集者様、私たち一般の証人は全ての情報を知らされていません」の投稿者からです。最初は公表をためらっていられましたが、非常に重要な内容の投稿であり、無理にお願いして公表させていただきました。ご希望により、あなたの年齢を分からないように変えてあります。

あなたの特徴付けられた「ものみの塔協会が使うマインド・コントロールの三つの手法」は実に的を得たもので、エホバの証人の実態を見事に、また端的にまとめたものと思います。すなわち、「一つは組織というものについて、それが実際より美化され、実際より威厳を大きく見せかけて、神への従順とは組織に服することというすり替えを行うこと。二つ目は組織から離れては暮らしてゆけないように信者の生活を追い込むこと。三つ目に思考の画一化です。」

確かにそれでも自分ではっきりと納得して、全ての事実を知らされた上でエホバの証人になった人々は、自分自身の選択の自由と責任があると言えるかもしれません。しかしあなたのようにエホバの証人の両親に育てられ、「自分でこの道を選んだわけではない」人々は、このようなマインド・コントロールの最大の被害者となるのだと思います。今後もエホバの証人二世の「声なき声」を代弁して、発言してくださることを希望いたします。