エホバの証人の判断基準について

(10-07-00)


「兄弟への手紙」の元エホバの証人です。三度目のメールになります。
今回は、エホバの証人の判断基準について考察してみました。

 エホバの証人の方は、善悪を判断する時、ほとんどの方が判断基準を組織の教えに
します。しかし、これは誤りです。正しくは、神の言葉である聖書を基準に判断すべ
きなのです。これに対して、エホバの証人は、組織の教えも聖書の教えも同じだから
問題ないじゃないかと反論します。ところが、2つの教えは、合致しているどころか
相反している場合があります。1つの例で考えてみましょう。テーマは「裁き」につ
いてです。

ある兄弟が罪を犯したとしましょう。そして、その兄弟は正直に長老に打ち明けま
す。そして、3人の長老によって審理され、その兄弟に排斥の処分が下されます。
これに対して、エホバの証人のほとんどの方は、組織の教えに従って、正しい処分が
下されたと何の疑問も持たずに、その兄弟に対して、愛を示さない行動(今風に言え
ば、しかと状態)に変化する訳です。では、この事が、本当に聖書の教えに従ってい
るかどうか考えてみましょう。
 ヨハネ8章の3節から15節の部分から考察してみましょう。
ここでは、イエスを試すためにパリサイ人が姦淫した女を連れて来て、イエスにどの
ようにするか尋ねると、イエスは彼らにこう言われた「あなた方の中で罪のない人が
最初に石を投げなさい。」ところが、これを聞いた者たちは、年長者から順に出って
行って、最後にイエスとその女だけが残った。イエスは、その女に「わたしもあなた
を罪には定めません。行きなさい。今から、もう罪を習わしにしてはなりません。」
と言われた。そして、15節でイエスはこう言っています。
「あなた方は肉に従って裁きます。わたしは、誰をも裁きません。」

聖書では、「イエスは誰をも裁きません」と言っているのに、組織の教えは、人を平
気で裁くことが正しいとされています。

  組織の教えと聖書の教えは一致していましたか。一致しているどころか、相反して
いると思いませんか。

そして、もしパリサイ人の代わりにエホバの証人がいたとしたら、その女に対して石
を投げつけていたと考えられませんか。なぜなら、パリサイ人は、自分の罪を知って
その場を立ち去りましたが、エホバの証人は、自分の罪を知らないために、人を平気
で裁くことができるのです。(人間は、すべて罪人だということをエホバの証人は知
らないのでしょうか。)
  組織の教えは、人の教えです。間違いがあって当然です。しかし、聖書の教えは、
神の教えであって、間違いはありません。

 では、あなたは、どちらを基準に善悪を判断しますか。

《編集者より》
元エホバの証人として多分あなたはご存知と思いますが、あなたの上の議論についてはエホバの証人は答えを用意してあります。それは、ヨハネ7:53から8:11は古い原本にはなく、従って「偽の聖句が一つの段落ごと忍び込んだ箇所」(*** 塔82 6/15 24 神の言葉を忠節に擁護する ***)であると教えています。従ってエホバの証人の多くはこの部分の聖書の教えを真剣に受け止めません。ものみの塔はここでも、自分たちの教義にあうように聖書の一部を切り離そうとしていると私は思っています。従ってエホバの証人との議論は、この部分がそもそも聖書の教えなのかという所から始まります。そして一体聖書とは何か、何所までが聖書で、何所からが偽物なのか、という議論になります。聖書は時代とともに現在の形に成立してきたのですから、ここの時代まで書かれたものが聖書でこれ以降に書かれたものは聖書でないと断定することは、大いにその人の主観が入ってきます。典型的な議論は、聖書を成立させる過程で取り入れなかった福音書などのいわゆる外典をどう扱うかの問題です。この議論はまた込み入った長いものになりますので別の機会にしたいと思います。


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