「物事をありのままに考えるエホバの証人」より−7

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物足りなさの美学

少し前のことになるが、テレビのチャンネルを回していたら、いきなり、あのジャック・ルーシェが、ビバルディの「四 季」をピアノトリオで演奏している場面が、目に飛び込んできて、ちょっとびっくりした。ジャック・ルーシェといえば、 かつて「プレイバッハ」として一世を風靡したジャズマンである。クラッシックに挑戦しても何の不思議もないが、もう 60歳に手が届こうという(あるいは超えているかもしれない)白髪の老人が、普通はオーケストラで演奏するようなボ リュームの「四季」を、たった3人のピアノトリオで演奏しているのである。音楽の世界には疎い私でも、ちょっと目を 疑ってしまうような光景である。しかも、また、演奏が半端でなく素晴らしい。ビバルディの単なる模倣ではない彼独自 の世界をつくりだしているのである。 早速CDを探して購入し、家に持ち帰った。もう何回聴いただろうか。コピーを車にもつんでいるから、おそらくもう、 50回ぐらいは聴いたかもしれない。それにしても、我ながらよく飽きないものだと思う。こんなに聴いても飽きないの は何故だろう。この魅力は一体何なのだろう。そんなことを考えていたら、ふと思いついたのが、今回の表題の「物足り なさの美学」であった。 言葉では説明しにくいが、この演奏には、すべてを発散しつくした開放感というものがない。すべてを出し尽くしたあと に残るものは、満腹感と虚脱感の入り混じったものに似ているが、この音楽には、まだ、もう少し先が聴きたいという、 やり残したような感覚が余韻として残る。 恐ろしく技巧を必要とするのに適度に抑制の効いた演奏で貫かれている。圧巻的な場面も随所にあるが、そのすぐ後に、 にくいほどのさりげなさで演奏が続いてゆく。これでもか、これでもか、という押し付けがましさがない。ここで盛り上 がるかなという手前で、じょうずにはぐらかされることもある。しかも、絶妙のタイミングで。 これこそ「物足りなさの美学」だと思う。もともと、私は、そういうジャズが好きだ。私にとって、「物足りなさの美学」 の筆頭にいるのは、かのマイルス・デイビスである。彼が、かつて、東京コンサートで披露した「マイ・ファニー・バレ ンタイン」で、今にも闇の中に消え入りそうなトランペットの音色は、情けないほど弱々しいが、切ないほどに心を打た れる。「こんなしみったれたトランペットはトランペットじゃない」なんて悪口も、当時はずいぶんと聞かれたものだが、 私は、彼のナイーブなトランペットがこの上なく好きだった。 さて、今回は音楽エッセイかと、いぶかられた方もおられようが、そうではなくて、実は、今の「ものみの塔」に欠けて いるもの、それこそ、この「物足りなさの美学」なのだと、私は最近になって思っているのである。 聖書は多面体のダイヤモンドのようなものである。一面的ではなく、いろいろな角度から眺めることによって、いろいろ な輝きを放つ。非常に奥行きの深いものである。とおり一遍に、薄っぺらに解釈することは、是非とも避けなければなら ないだろう。一通りの解釈だけが可能とも限らない。少なくとも、現在の私たちが、真理の究極に到達できている可能性 はそれほど高くないだろう。しかし、「ものみの塔」では、すべてを、現時点で、整然と説明しようとする。その努力は 敬服に値するものだが、「過ぎたるは及ばざるが如し」とは、よく言ったものである。この格言は、この世界にも当ては まる。聖書のすべてを解き明かそうという意欲は認めるが、あまり無理をしすぎると、つい筆が過ぎる結果になりかねな い。 最近でも、「ダニエル書」の預言を解き明かした書籍が扱われたが、やはり、かなり無理が目立つ。ノストラダムス級と いうのは少々言い過ぎかもしれないが、それと50歩100歩という気がしないでもない(今回は内容の詳細はカットし ます)。かつて出版された「啓示の書」に関する本も、啓示のすべての節を説明しようと試みた意欲作であることは認め るが、「まゆつば解釈」部分がかなりあることも確かである。。そして、もうすぐ始まる「イザヤの預言 第T巻」も、 まだ詳細に分析していないが、たぶん同じ範疇のような気がする。そして、おそらく今年の地域大会で発表されるであろ う「イザヤの預言 第U巻」のことを考えると、ややうんざりしてしまう。あの森総理大臣が首相候補に決まった時に、 ある自民党の中堅幹部は、「気が遠くなるな」と思わずつぶやいたそうであるが、それと似た感覚が、今の私にはある。 したがって、今年の地域大会は、やや気が重い。 物足りなくてもいい。だから、本当に確かなことだけを論議したいものである。不確かなことについて、研究を重ね追及 することも、もちろん立派なことであり必要なこともあるだろう。しかし、それを、さも確実な解釈であるかのような断 定的な説明を行ない、(仲間の信者も含め)他の人に、それを押し付けることは、もうやめてもらいたい。 そう。もうたくさんなのだ。預言の解釈が重要ではないとはいわないが、あまりにも瑣末な事柄にこだわって、大局を見 失うことがあってはならないだろう。どうして、「全部」を解釈しないと気がすまないのだろうか。ここは現段階では意 味が不明である。あるいは、こういう意味かもしれないし、そうでないかもしれない。という風に通り過ぎることは、い けないことなのだろうか。「分かりません」と発言するのは恥ずかしいことなのだろうか。それでは「物足りない」のだ ろうか。たとえ、物足りなくても、私は、その正直さは貴重であると思う。 確かに、私も、かつては、何でも説明する「ものみの塔」方式に、感銘を受けた時期があったことは確かである。しかし、 どうも、最近では、そういうものではないのではないかという気が強くしてきている。 レイモンド・フランズの「良心の危機」の91ページに興味深いくだりがある。からしの種粒とパン種のたとえについて、 イエスが述べたマタイ13章の記述に関する事柄である。それを、「ものみの塔」誌では、神の王国ではなく、サタンの 偽の王国のことを述べたものであると説明しているが、統治体の成員の多くが、その点について納得していないこと、こ のことはフレデリック・フランズの独断的な意見が、そのまま掲載されてしまったものであることが暴露されている。 からしの種粒とパン種が偽の王国を表わしているという「ものみの塔」誌の説明は、私も聖書の文脈などを考慮しても、 どうしても理解できない点の一つであった。「なあんだ、こんなカラクリがあったのか、本気で考えて損しちゃった」と いうわけである。私たち一般信者の多くは、「統治体の円熟した兄弟たちが、熟慮に熟慮を重ねて到達した結論なのだか ら、きっと、それは真理に違いない。私たちが十分に理解できないとしても、それは、理解力の乏しい私たちの問題なの だ」と言い聞かせてきた。それが、こんなお粗末な顛末が隠されていたとは、とんだお笑いである。 そして、そうした教えに対して、私たち一般信者は、何一つ意見を述べることができないのである。それならば、もうち ょっと責任のとり方というものがあるのではないだろうか。まったく、罪作りな話であるが、まあ、これなどはたいして 重要な事柄ではないので、被害は小さいと思う。でも、これだって、まだ正式には、修正されていないのである。始末が ついていないのである。こんな調子でいいかげんに教理を決められて、そのまま、おかしいと分かりつつも放置されてい る教理は、これだけではないのではないだろうか。 例えば、    ●創世記の1日=7000年説    ●ヨハネ5:28,29で示されている裁きの根拠になるのは、復活後に行なう事柄である などは、最近の書物(「創造」の本、「知識」の本)などからは、それぞれ姿を消している。理由は定かではないが、ち ょっと、うまく説明できなくなったから、しばらく黙っていれば、信者たちは忘れてしまうだろうとでも思っているのだ ろうか。もしそうだとしたら、無責任の極みである。 そして、これも、分からないことを分かったふりをして、「十分に」説明しようとした報いである。たとえ「物足りない」 としても、分相応な解釈で済ましていれば、よかったものをと思う。  「物足りなさの美学」で満足することは容易ではない。特に、地球上、唯一真理を標榜している「ものみの塔」としては、 どの宗教組織よりも、深い洞察を得ている証拠がどうしても必要不可欠なのだろう。そのことに心地よさを感じられる時 はよいが、ひとたび亀裂が生じたら、すべては簡単に瓦解するということも確かである。そして、そのことを恐れるあま り、すでに論理的に破綻した教理にしがみつかなければならないとしたら、それは悲劇としかいいようがない。導く方も 導かれる方もである。 2001年7月21日 目次に戻る

時事問題

エホバの証人にはいくつかのタブーがあるが、その一つが「政治」である。「政治的に中立」ということが、今のエホバの証人の一つ の重要な信条となっている。今回は、このタブーに挑戦してみたい。といっても、「政治的な中立は無意味だから捨てよう」と勧めて いるわけではない。この社会で営まれている今の日本の政治活動に、深く首を突っ込むほどの価値は、到底見出せないからである。で も、この社会に住んで、日常的にさまざまな政治的、そして経済的活動を営む市民の一人として、たまには、政治についても、多少な りとも発言してみたいと思うだけである。この程度のことを掟破りとして厳しく断罪する必然性はないだろう。 実際、「ものみの塔協会」発行の「王国宣教」1997年7月号でも、次のように書かれている。    *** 宣 97/7 4 野外宣教で紹介の言葉を工夫する ***    9 知力を用い,身近な話題を取り上げる: イエスは,知力を働かせ,多彩な知識と教養を培っておられたゆえに,魅力的で身近な話    題を自由自在に用いることができました。例えば,イエスは時事問題に精通しておられました。(ルカ 13:1-5)また,生物学や農    業に関する豊富な知識と話題を駆使して人々を教えられました。(マタ 6:26,28; 13:31,32)パウロも,人々を教えるために知力    を十分に働かせた人の一人で,アレオパゴスで話をした際,ストア派の哲学者の言葉を引用し,証言に説得力を加えました。(使徒    17:28)また,パウロは1世紀当時の兵士の装備やローマの凱旋行列に精通していたので,それらを例えに用い,人々を効果的に教え    ました。―エフェ 6:14-17。コリ二 2:14-16。    10 わたしたちもイエスやパウロの模範に倣う必要があります。人口の28人に一人がエホバの証人となっているグアドループのあ    る会衆の奉仕監督は,「私たちのほうに興味深い話題さえあれば,人々はいつでも聴いてくれます」と述べています。(鑑95166ペ    ージ)宗教的な事柄に興味を示さない人でも,経済や環境問題,近所付き合いや人間関係,仕事や家族の問題などについては関心を    示し,喜んで会話に応じる場合が少なくありません。ですから,人々の生活や人そのものにもっと関心を持ち,感性をぜひ磨いてく    ださい。また,豊富な話題の持ち主となり,それらを臨機応変に用いることを目標にしましょう。 なるほど、確かに、「イエスは、多彩な知識と教養を培っておられ、時事問題にも精通していた」に違いない。それなら、イエスの追 随者であることを願うエホバの証人だって、道理にかなった範囲で、時事問題に多少なりとも精通していたとして、何の問題もないは ずである。 でも、実際のところ、多くのエホバの証人は、ほとんど時事問題に通じていない。だから、聖書の伝道で、他の人の家を訪ねても、そ うしたことを話題にすることがあまり上手ではない。せいぜい、「今、選挙で騒がしいですが、こんな政治で、将来が不安にならない でしょうか? もうすぐ到来する王国では、すべての問題が解決します」、あるいは、「今、経済がとても大変な時期で、多くの人が 不安を持っておられると思います。でも、安心してください。来るべき王国では、すべての人にやりがいのある仕事が十分にあると保 障されています」。こんな調子で話されたとしても、「なるほど、王国というものが、そんなにすばらしいものなら、ぜひもっと詳し い話を聞かせてもらおう」とは、まずならない。「ちょっと、頭のネジがゆるんだ人が、訳の分からないことを言っているようだ。関 わるのはやめておこう」となる程度であろう。こうして、時事問題の表面をなぞるだけで、説得力のある説明を行なおうとしないエホ バの証人を、ほとんどの人がまともに相手にしないのは、しごく当然である。それでもって、「世の人々は、聖書の音信を退けている。 彼らがハルマゲドンで滅びてしまうのは仕方がない」というのは、ちょっとあんまりではないかと思う。 もちろん、聖書の伝道者は、特定の政治信条を持っている政治家ではないので、自分の説に支持を得るかのような仕方で、政治的な事 柄について詳細を論じる必要はないと思うが、それでも、ある程度は、時事問題に通じていて、そのことに関連した聖書的な音信に触 れるのと、世の中で起きている事柄の本質について、まったく理解しまいまま、形式的に触れるだけでは、やはり説得力というか、迫 力が違ってくるのではないだろうか。 少なくとも、イエスは、「魅力的で身近な話題を自由自在に用いることができ、時事問題に精通しておられ、また、生物学や農業に関 する豊富な知識と話題を駆使して人々を教えられ」たわけである。私たちも、現在、世の中で問題になっている政治的な事柄に、道理 にかなった範囲で、精通しておくのは無駄ではないはずだ。 今の日本の政治は極めて危うい状況にある。その指導の下に遂行される経済政策は、この10年間ことごとく失敗してきた。この日本 の政治的・経済的閉塞状況は、かつてなかったほどの危機的なものである。日本社会は、羅針盤を失った船のごとく揺れている。「も のみの塔協会」が言うように、「人類の海はひどく動揺している」と、高みの見物では済まないのである。何故なら、こうした経済は 私たちの台所を直撃するからである。では、日本の政治、とりわけ経済政策に関して、私の「独断と偏見」に、しばしお付き合いいた だくことにしよう。 多くのエホバの証人は、投票には行かないし、「小泉内閣を支持していますか」と尋ねられれば、ほぼ100%「ノー」と答えるだろ う。でも、心の片隅では、今度の首相は、これまでとはちょっと違うみたいだ。多少格好いいし、少しはましなことを行なってくれる かもしれないなどとひそかに期待している人も、中にはいるかもしれない。でも、残念ながら、彼の「改革」は、まず失敗するだろう。 でも、正しい処方箋を施せば、何とか踏みとどまる可能性が残されていないわけではない。 実際、小泉氏が自民党の総裁選挙に立候補するに当たって述べたことは、分かりやすく言ってしまえば、「私は改革をやります」と、 声を張り上げただけだった。まあ、細かいことを言えば、それ以外にもないわけではないが、結局、彼が評価されたのは、その点であ った。これには経済改革、政治改革、さまざまな事柄が含まれているが、今は、経済改革だけに論議の的を絞ることにする。 結局、日本経済がそうした切羽詰った状況に追い込まれたのは、10年前のバブル崩壊以後、日本経済の浮上が、これまでの努力もむ なしく、いっこうに目だった成果が上がらないからである。それどころか、今では、密接な関連をもって動いているグローバル経済の 中でアルゼンチン、トルコ、などと並んで、日本は世界でもっとも弱い鎖の一つに数え上げえられている始末である。どうしてそうな ってしまったのか? 少し歴代内閣の歩みを振返ってみたい。 まず、颯爽と登場した橋本内閣は、当初、景気浮揚のために財政出動を積極的に進めた。その効果は比較的すぐに表われたため、彼は 楽観的になりすぎ、多少中立的な経済運営が許される余地が出たところを、誤って、引き締めに転じてしまった。財政健全化を急ぎす ぎたのである。そうした政策をとっても、日本経済は自立再生の道を歩み始めると、たかをくくったのである。加速しながら離陸体制 に入った航空機にブレーキをかけるとどうなるか、どこだったか航空会社名は忘れたが、最近の航空機事故で証明済みである。つまり、 徐々に加速をしながら、巡航速度に達しようというしていた日本経済に、突然、急ブレーキを踏んだものだから、当然のことであるが、 皆ずっこけてしまった。これまでの財政出動はすべて水の泡となり、平成大不況を招く結果になった。 続いて登場した小渕内閣は、橋本政権の教訓を学んで、とにかく、金に糸目はつけない大判振る舞いの政策に転換した。財政出動が必 要だと唱えられれば、湯水のごとく金をばら撒いた。そして、多くのエコノミストたちも、それを支持した。今、小泉内閣の経済政策 の要の位置にある竹中平蔵氏も、当時、そうした主張をマスコミなどで展開していたはずだ。財政出動は、一種のカンフル剤である。 それを打てば、ある程度、元気を取り戻し、病気そのものも順調に回復しているかに見える時もあった。しかし、それは、あくまでも 対症療法に過ぎず、病気の根本的な治療とはほど遠いものであった。おかげで、借金は雪ダルマ式に増えたが、景気回復は本物ではな く、一時的な蜃気楼に過ぎないことが明らかになっていった。 ここにきて、ようやく、政府も、日本がおかされている病気の深刻さに気がつき始めたようだ。それは、間違いなく進行性のガン(不 良債権)におかされている。しかも、それだけではなく、適切な治療をこれまで怠ってきたために、糖尿病やら感染症やら、いろいろ なやっかいな病気が悪化してしまった。進行性のガンは、放っておけば命取りになる。これに手を付けざるを得ないことが、今では明 白になりつつある。あちこちに「転移」してしまったら、取り返しがつかない。実は、こうした内実は、一部の政府関係者の間では、 認知されていたのだが、彼らは、自分の都合のよい読みをしていた。 ガンにかかっているのは確かだが、今はすぐに手術して取り除くよりも、しばらく少し様子をみながら、糖尿病やら何やらの病気の治 療に専念して、できるだけ体力をつけておけば、ガンもなかなか暴れられないだろう。うまくゆけば、体力が回復し、強い免疫力で、 がん細胞を無力化することができるかもしれないなどと、甘い夢を見た。つまり、景気回復によって、かつてのような土地価格の高騰 を生み出し、不良債権を生み出す温床となっている土地の担保価値を上げることをもくろみ、それを優先したのである。小渕内閣は、 この方針のもと、ある程度の景気回復に成功したが、結局、借金の山を築いてしまった。 しかし、読みが甘かった。土地神話は戻ってこなかった。私も、王国会館の土地探しで、いろいろとめぼしい土地をあさった経験があ るが、ある程度見込みのある土地が見つかると、まずは法務局に行って、その土地の権利関係を洗うことになる。ほとんどの土地に担 保がついているのは予想されたことであるが、その金額には驚いた。どうみても、2000万円か3000万円程度の価値しかない土 地を担保に、2億円とかひどい場合には5億円近い金が貸し付けられているのである。これじゃ、債務者は借金など返すわけがない。 「その代わりどうぞ土地をお取りください」といってみたところで、銀行にしても、損を顕在化させるような処理はできない。かくし て不良債権の山が積み上げられてゆくことになる。日本の不良債権発生のメカニズムの一端を見た思いである。 続いて登場した森内閣は、ほとんど政策らしいことは何も行なわなかった。時間だけが無駄に過ぎていった。 そして、このたび登場したのが小泉内閣である。この内閣は、これまでの教訓を、ある程度学んでいるようにみえる。橋本内閣の失敗 の原因をよく知っている。小渕内閣の失敗の原因も知っている。それで、小泉内閣では、とにかく、進行性のガンを外科手術で一刻も 早く取り除くことを優先課題とした。その選択は概ね正しいと思われる。しかし、ガン(不良債権)はかなり進行し、それに感染症 (景気)もかなり深刻な状況になっている。糖尿用(デフレスパイラス)も静かに進行している。こんな状態で負担の大きい手術を強 行したら、確かにガンの病巣はメスによって取り除けるかもしれないが、患者は体力がもたなくて死んでしまうかもしれない。患者を 生かすための手術で、患者を死なせてしまっては、元も子もないのである。 では、患者を生かしながら、この難しい手術を、小泉内閣は行なえるのか? 現在のところ、明るい展望は描けない。掛け声だけは勇 ましいが、もう内閣発足後半年近くが経過しようとしているのに、途中参議院選挙をはさんだとはいえ、まだ、なんら具体的な処方箋 が描けない有様である。靖国神社の参拝などで物議をかもす暇などないのに、のんきなものである。 小泉内閣が唯一言っているのは、次の点である。   @来年度予算における国債の発行額を30兆円以内に抑える   A不良債権の処理は今後2年間程度で目処をつける   Bそのために、企業の倒産が増える可能性があるが、国民もある程度の痛みには耐えてほしい @は、小泉氏が総裁選挙のときから、大々的にぶち上げてきた政策であるが、今年度予算における国債発行額が28兆円だから、まあ、 ほとんど横ばいで維持するという程度のものであり、サプライズのある政策とは到底いえない。Aはまず不可能である。最近の試算で も、   ・民間銀行の不良債権額              約 43兆円   ・将来不良債権になる可能性のある要注意先の債権  約100兆円 となっている。これは民間レベルの話であるが、これ以外に公的な不良債権が存在する。その金額については皆目分からない。でも、 郵便局の簡易保険でも数兆円はあるとされているので、恐らく、100兆円は下回らないだろう。石原行革大臣もその程度は覚悟して いると発言している。いずれ、これも秋頃には公表されるだろう。   いずれにしても、やはり重要なのは、民間銀行の不良債権を一刻も早く処理しないといけないということである。この処理が目の前に ぶら下がっているため、銀行は企業に金を貸さなくなっている。実際のところ貸したくても貸せないのである。したがって、いくら日 銀が金融緩和して、マネーサプライを増やそうとしても、マネーは日銀と民間銀行との間を往復しているだけで、市中には出回らない のである。さきほど不良債権を進行性のガンに例えたが、症状としては動脈硬化に近い。経済の血液たるマネーが天下を回らないので ある。 さて、この民間銀行の不良債権処理を2年間程度で断行するというのは、ほとんど奇跡に近い。中国並みの高成長を遂げたとしても、 まず無理である。だいたい、不良債権処理というけれど、その原資は一体どこから持ってくるんですかと問いたくなる。答えは誰も言 わない。知らないのか、分からないのか、はたまたとぼけているのか? 銀行にその原資がないことは一目瞭然である。だいたい、昨 年度の全銀行の不良債権処理金額はせいぜい数兆円である。その間にも、景気後退や株式市場の低迷で、同程度の不良債権が積み増さ れている。昨年度の増減はほとんどプラスマイナスゼロである。こんな調子でどうやって、あと2年で不良債権問題に決着をつけると いうのだろうか? 小泉内閣には、ほとんどそのためのプロセスが明らかになっていない。首相も、経済担当大臣も何も語らない。そ れで、80%の高支持率とは、やはり国民の目は節穴か? では、どうしたらいいのだろうか? 結論から述べよう! 莫大な公的資金の投入、これが唯一の解決方法である。恐らく、整理回収 機構(RCC)の権限を強化して、そこに、大量の資金(税金)を投入し、ダメなところには退場してもらうしかない。単に退場願う だけでは、金融パニックを起こすので、受け皿としてのRCCに大量の公的資金を投入する必要がある。恐らく、数十兆円規模の投入 が必要だろう。こうした政策は、衆議院の財政金融委員会のメンバーである自民党の渡辺喜美なども提唱しているが、これが、政府の 中枢にまで果たして届くかどうか。しかも、こうした政策は迅速性が必要である。後手後手の対策では効果が半減してしまう。サプラ イズを伴って、こうした政策を断行できるかどうか。これこそ本当の甘受しなければならない「痛み」なのに、今の内閣は、見当違い のところに、それを求めている。 もちろん、国民の側からすれば、散々、放漫な経営を続けてきた銀行、それを座して見過ごしてきた無能な政府、その尻拭いを何故、 国民の血税を使って行なわなければならないのかという不満が噴出すに違いない。それは、同じく納税者の一人である私も感じること である。しかし、今、ここで、これを行なわないと、国民は、日本と運命共同体的な沈没を経験することになる。ハルマゲドンが来る 前に「地獄」をみることになるだろう。 だいたい、バブルが崩壊しても、個人試算2000兆円が無傷だから、日本は大丈夫などと極楽トンボのような意見を述べている人が、 今だにいるのだから驚きである。バブルの後始末のために、企業のバランスシートだけが痛んで、個人が無傷ということはありえない のである。当座はごまかしても、いつか、清算しないといけないことになる。それが今なのである。 こんな案はどうだろうか。個人資産2000兆円のうち、60歳以上の人が保有している資産は、全体の約6割の1200兆円である。 失礼ながら、今60歳以上の方々の大半は、この1200兆円を使い切らずに、近いうちに寿命に至るであろう。もちろん、将来何が 起きるか分からないので、万一のために貯蓄は必要であろう。でも、結局、資産の大半は使い果たさずに終わるだろう。そして、それ を墓に持ってゆくことはできない。子孫に譲れる分も限られている。いずれ、相続税という形で国庫に納められることになるのだ。そ れなら、今、生きている間に、少しだけ活用してみるのは、いかがであろうか。しかも、今は、国家存亡の危機なのである。もし60 歳以上の人たちが全員が自分の金融資産の10%を、不良債権処理のために提供してくれれば、この問題はたちどころに大団円となる。 まあ、これはあまりにも理想主義的で実現性の見込みがほとんどないが、いずれにしても、そのくらいの思い切った政策を断行しない と、この手術は成功がおぼつかない。今の内閣に、それだけの読みと覚悟があるのか、はなはだ疑わしい。 上記のような政策は不可能としても、とにかく、税金をかき集めて、RCCのような権限をもった組織に潤沢な資金を持たせて処理を 行なってゆくことが、最低限必要である。政府からこうした声が聞こえてこない状況では、先行きの見通しは暗い。そろそろ、日本脱 出の準備を本気で検討した方がよいかもしれない。 ある情報では、政府内部では、1997年の韓国の経済危機と、1976年の英国の経済危機について、極秘裏にシミュレーション研 究が進められているようだ。この二つの危機は、両方とも、最終的にIMFの援助を求めて何とか乗り切ることができた。でも、その 痛みはひどいものだった。日本もそうした経験をしないと教訓を学べないとしたら悲しいことである。 もし、私がヘッジファンドのマネージャーで、日本をつぶすように画策するとしたら、やることは一つ、国債を売って売って売りまく ることである。国債が暴落すれば、借金王国の日本は、金利負担に耐えかねて、すぐに息の根がとまってしまう。現実のヘッジファン ドは、当然、そんなことは先刻承知であり、日本は、もうすでに彼らに乗っ取られたに等しい。 また、今、金融当局の間で、発動が検討されているのが「預金保険法第102条」である。これによると、「内閣総理大臣は、信用秩 序の維持に極めて重大な支障が生じる恐れがある場合には、金融危機対応会議を招集することができる」とされている。「金融危機対 応会議」とは、いわば、金融非常事態に対処する戒厳令本部である。こんなものが発動されないことを願っているが、金融当局では、 着々と最悪のシナリオに基づいた準備を始めているようだ。 こうした事態が、幻に終わってくれればと思う。しかし、今、目の前の危機に対して、本当の危機意識をもって臨まなければ、日本は 確実にメルトダウンするだろう。そして、危機の連鎖は世界をあっという間に席巻し、ほとんどの国に深刻な影響を及ぼし、いくつか の国を、奈落の底に突き落とすことになるに違いない。 エホバの証人にとって、本当に怖いのはハルマゲドンだけかもしれないが、その前に、この世の「地獄」を経験するのだけは、勘弁し てもらいたいものだ。 2001年8月14日 目次に戻る

ファクシミリ

静まり返った会場に1000台以上のファクシミリが勢ぞろいして、カタカタと無機質な音だけ響いている光景を思い浮かべるのは、ちょ っと不気味な感じがする。しかし、2001年12月半ばから2002年1月半ばにかけて、日本全国で長老と奉仕の僕を対象に開かれたセミナ ーは、まさにそうした光景を彷彿させるものであった。 このセミナー(エホバの証人の世界では「王国宣教学校」と呼ばれている)では、長老と奉仕の僕が別々にそれぞれ約12時間と8時間 の講義を受けた。その全体をここで紹介することはできないが、今回はそのうちの一つ、長老たちのセミナーの中で血に対する問題が 扱われたので、主にその点に絞って触れたいと思う。 長老たちには、このセミナーが開かれる前にあらかじめ持参する資料が知らされており、その中に、血に関する読者からの質問を取り 扱った「ものみの塔」誌2000年6月15日号と2000年10月15日号が含まれていたので、長老たちは、血に関する問題が今回のセミナーで 扱われると推測することができたはずである。それで、セミナー開催前であったが、ある長老は、血の問題に関する詳細な情報が知ら されることを期待していたようで、「この読者からの質問って、よく分かんないんだよね。HLCの委員に質問しても、『地元の長老 たちは、そこまで理解する必要はありません』だって。そんなこといったって成員から質問されたら困っちゃうよ! 今回のセミナー でしっかり教えてもらえるとありがたい」と期待を表明していたのである。つまり、今回のセミナーで、「ものみの塔」誌の記事の背 景や真意など、詳細な情報あるいは説明が聞けると期待していたようである。 実際、セミナーの1日目に「血を避けるよう他の人を助ける」というタイトルで、この問題が45分間にわたって支部の代表者によっ て扱われた。セミナーに参加した大勢の長老たちは、血の問題に対して、何か、特別なあるいは新しい注意を要する問題が扱われるも のと思い、注意して見守った人もいるに違いない。しかし、実際には、驚くべきことに、そこでは、血の問題に関して、その内容を深 めるような見解は一切示されなかったのである。それどころか、何と、支部の代表者は、「これから記事の該当部分を読み上げるので、 そこに下線あるいはマーカーでしっかりしるしをつけるように」と述べ、記事の中の鍵となる部分を強調していっただけなのである。 会場に集まった長老たちは、さほど思考力を働かせる必要もなく、ただ演壇から指摘される部分に、黙々と下線を引いていったのであ る。 「おいおい、僕たちを小学生扱いするのかい。どこが重要かそうでないかぐらい、読めばだいたい分かるよ。国語の勉強をするために、 はるばる遠くから朝早く起きて、この会場に集まったんじゃないよ!」 そう叫びたいような、何とも情けない、半ばあきれた気分に、 私は沈んでいったのである。他の長老たちの心の中は知る術もないが、皆、カタカタと無機質な音を立てながら、黙々と下線を引いて いた。そう、冒頭で述べたファクシミリよろしく、そうしていたのである。 問題となっている「ものみの塔」誌の2000年6月15日号と10月15日号は、共に、血の問題を扱っており、前者は血液成分によって、絶 対避けなければならないものと、個々のクリスチャンの良心で決定できるものがあることを明らかにしている。一方、後者の「ものみ の塔」誌では、自己血輸血について論じられている。本エッセイ(No.15 「ものみの塔」誌2000年6月15日号「読者からの質 問」の矛盾、No.21 速報:「ものみの塔協会」は輸血拒否の教理を変更する方向で静かに準備を開始した!?)でも、すでに取り扱 ったように、この「ものみの塔」誌は共に、一読した限りでは、これまでの「協会」の見解を変更するものとはみなせないものの、周 辺情報をあわせて考えると、大きな変更がなされていることが明らかになってきている。しかし、「協会」は公式には、会衆に対して、 そうした変更点を際立つ形では扱っておらず、実質的に大きな変更が加えられたということについては、会衆の一般成員はもとより、 長老たちもほとんど知らされていないというのが現状である。したがって、今、こうして長老たちが一堂に会したセミナーで「協会」 が行なうべき事柄は唯一つ、そう、2つの記事の「読者からの質問」欄の真の意味を分かりやすく納得のゆく形で説明する義務がある ということである。当然そうであろうと期待するのが普通である。しかし、驚くべきことに、実際には、上記の通りだったのである。 さらに言うならば、この機会に、「ものみの塔協会」の血に対する総括的な見解を、改めて明らかにすることも意義深いことであった に違いない。ぜひ、そうして欲しかった。つまり、統治体が2000年の一連の「ものみの塔」誌の記事で、こうした問題を改めて扱う必 要があったのか、何故、全血や4種類の主要成分は絶対に受け入れてはならず、主要成分から派生した血液分画については個人で決定 しても構わないのか、そうした点の深い聖書的な洞察に裏付けられた議論乃至は背景となった事柄を知りたいと、多くの長老たちも思 っているのではないだろうか。赤鉛筆で下線を引くためだけに集ったわけではない。断じて。それだったら、はじめから下線でも何で もつけておけばいいし、後で気がついたのであるなら、手紙か何かで知らせてもらえれば十分ではないだろうか。 しかも、重大なことには、この記事には、血に対する「協会」の見解の大きな軌道修正が含まれているのである。その一つが、「ヘモ グロビンの使用解禁」である。 実際、この記事が出版される数年前には、赤血球の主要要素であるヘモグロビンについては、エホバの証人は一切受け入れることがで きないというのが「ものみの塔」の公式見解であった。この記事では、ヘモグロビンについては一切言及されていないが、複数のHL Cの委員からの情報によれば、この記事によって、血液分画すべてが良心の決定という範疇に入ることになり、必然的な帰結として、 赤血球の主要成分ではあるものの、血液分画というカテゴリー分類上、ヘモグロビンについても、絶対禁止成分から良心的に受け入れ 可能な成分への変更が、発生しているというわけである。ヘモグロビンがいくら血液の中で重要かつ主要な役割を担っていようと、血 液分画という範疇に入るために、使用することには「協会」は意義をはさまないというわけである。しかし、こうした点は、「ものみ の塔」誌の記事を読んだだけでは、十分に読み取れるものではないし(実際、巡回監督クラスでもすぐには理解できない人がいた)、 実際、多くの長老たちはそこまでは読み取っていないのである。そうであるならば、こうしたセミナーの機会に、詳細な点をつまびら かにすることには大いに意義があるのではないだろうか。単に下線を引かせて十分強調したので、賢い長老たちは「協会」の意図を正 しく読み取ったとみなすとしたら、それは非常に不親切なやり方である。 実際、この記事を読んで、その紙背から重大な決定がそこに潜んでいることを読み取れる人はまずいないのではないだろうか。それで、 「協会」は、昨年の医療カードの署名の際にも、ご丁寧に、「ものみの塔」誌の「読者からの質問」の記事を復習するように勧めたり、 また、今回のセミナーで、要点を確認したりしているわけである。「十分説明して理解を得た」という形式を整えようというのであろ うか。何故、「『協会』かくかくしかじかの理由で、今回ヘモグロビンを解禁することに決定しました」と明確に表明しないのであろ うか。それは、信者たちを納得させられる説明が十分できないからであろうか。しかし、血の問題は命に直結した極めて重要な決定で ある。そうした重要な問題をオープンにしないで、説明義務をはたしたとみなすとしたら、無責任といわざるを得ない。 そうしたきわめて重要な事実が、これまで1年半にわたって意図的に隠蔽されてきたこと自体、重大な問題であるが、こうしたのセミ ナーの機会に、そうした点が明らかに示されるならば、遅ればせながらも、長老たちも、そして、会衆の一般信者たちも、「協会」と 同じ情報を共有し、物事に対処できるようになるわけだが、そうした事情が示されなかったため、まったく従来と同じ状態が引き続き 続くことなったわけである。すでに、ヘモグロビンは、他の血液分画と同様、個々の成員の良心で判断できる多くの分画の一つとして、 「ものみの塔」によって認知されているにもかかわらず、多くの長老たちを含め、一般信者はそうした事実すら十分知らされていない という不正常な状態は、今もって解消されないままなのである。 万一そうした事実が、HLCの委員を通して口コミで伝わったり、インターネット情報を通して、成員が知るところとなり、その点を 指摘されたとしても、「ものみの塔誌2000年6月15日号で明らかにしていたではないか。そして、その後開かれたセミナーで、さらに 詳細な点を示したではないか」と居直ることができる「アリバイつくり」を、今回のセミナーで整えたとでもいうのだろうか。 でも、「ここが鍵となる部分です。下線を引いておきましょう」だけで、説明義務を果たしたと考えているとしたら、統治体もあんま りではないだろうか。長老たちもなめられたものである。長老というのは、ただ、統治体−支部−会衆−一般成員を結ぶネットワーク の中で、上から流れてきた情報を誤りなく伝える単なるファクシミリ機能とした考えていないことを、今回ほど思い知らされたことは なかった。もっとも、そんなことはとっくの昔に分かっていたことではあるが、命にかかわるこうした問題において、こうした手法が 取られていることには、ショックを通り越して、憤りを禁じえない。 今回のプログラムは45分間であったので、もちろん、単に下線を引く部分を示すだけではなく、「ものみの塔協会」の意図もある程 度解説がされている。もっとも、そこに新しい見解を見出すことはできず、従来の見解の繰り返しであるが、ここで、ついでに、今回、 「協会」によって示された血に関する見解について、改めて検証してみたいと思う。特に、成分輸血に関する2000年6月15日号について 考えてみたい。 この点での「協会」の見解をまとめると、要点は以下の通りである。   (1)全血と4つの主要成分については、聖書で明確に禁じられており、それを受け入れることは至上の神の律法に背く行為である ので、議論の余地なくクリスチャンは受け入れることができない   (2)それ以外の分画については、聖書は細かなことを述べていないので、それを受け入れるか受け入れないかは、個々のクリスチ     ャンが良心で決定しなければならない   (3)血液分画を受け入れる人は、ある種の血液分画が母体と胎児の間など、自然の営みの中で個体間を移動することが知られてい     ることを根拠とするかもしれない こうして、あるものは議論の余地なく絶対禁止、あるものは良心で決定という曖昧な線引きが発生した理由については、以下のような 点が示された。「輸血という医療行為が出現した20世紀半ばに、エホバの証人の指導部は、輸血は聖書に書かれている事柄に反する と判断した。しかし、その後の医療技術の進歩は目覚しく、血液も種々さまざまな形態となって、私たちの身の回りに存在するように なった。輸血についても、全血ではなく成分輸血という形態で行なわれることが多くなってきたため、聖書的な判断をくだすのが一層 難しくなってきている。したがって、細かな点は個々のクリスチャンで決めていただきたい」という趣旨になっている。 この「協会」の主張する要点を、もう少しブレークダウンして、ストーリを追って考えてみたいと思う。「協会」の展開するストーリ ーは以下の通りである。   1)聖書は血を避けるようにと明確に述べている   2)したがって、クリスチャンはいかなる場合においても、血を避けていなければならない   3)現代医学が行なう輸血は「血を避けていなさい」という聖書の律法に反する   4)全血および4つの主要成分の輸血は、聖書の述べる「血を避ける」に該当する   5)その他の成分については、個体間を移動する事実などとも照らし合わせると、「血を避ける」ことに該当するかどうか微妙な     ので、個々のクリスチャンの良心で判断する というストーリーである。 結論から述べるならば、「協会」のこうした論議の展開は、全体としてはなはだしく説得力に欠けるものといえる。理由を以下に示し たいと思う。   @全血と4つの主要成分を議論の余地なく禁止し、その他を良心で決定できるとした根拠が乏しい   A4つの主要成分とは何かという点を、どのような基準で決めたのかという理由がまったく示されていない   B個体間を自然の営みで移動するということを判断基準とするなら、別の見解にたどり着く可能性がある こうした理由を挙げることができる。 「協会」では、20世紀の半ばに輸血という医療技術が導入された時点では、輸血は「血を避けるように」という神の律法に反する事 柄と判断し、輸血を禁止してきたと述べている。その時点では、輸血という医療行為に対する聖書の見解は不明確であり、個々のクリ スチャンの良心で決定すべき事柄であるという意見があったかどうかは十分分からないが、いずれにせよ、そうした意見は採用されな かったわけである。しかし、近年のさらなる医療技術の進歩によって、血液がさまざまな成分に分画されることによって、問題は複雑 化し、もはや聖書に基づいて決定することが難しくなってきたため、個々のクリスチャンの良心で決定すべき領域に達したと判断して いるわけである。 まず、@の点について、考えてみたいと思う。 「協会」の論理によれば、輸血という医療行為の登場は、聖書の解釈において議論の余地なく明確であり、それをクリスチャンは受け 入れることができないものとしている。一方、血液成分ということになった途端に、その判断は曖昧となり、個々のクリスチャンの良 心的判断に任せる問題になってしまうというのである。これは、はなはだおかしな議論である。 つまり、輸血なしの医療 → 輸血医療(全血) → 輸血医療(成分輸血)という医療の進歩における最初の段階は、聖書の禁止令 に抵触し、2番目の段階は聖書の禁止令に必ずしも抵触しないというわけである。しかし、もし、医療技術の進歩を云々するならば、 輸血という医療行為が出現したこと自体の方が、はるかに大きな医療技術の革新的な進歩であり、もはやその時点で、輸血という医療 が存在しなかった時代に書かれた聖書の教えは、十分通用しない、あるいは、どの程度まで通用するのか判断が難しくなったので、個 々のクリスチャンの良心に判断を任せるという考え方が、十分できるのではないだろうか。それを「議論の余地なく」禁止事項である としてしまうことはできない。むしろ、大いに議論すべき点ではないだろうか。最初の段階の医療進歩においては、聖書が絶対的基準 として依然として通用し、次の段階の医療進歩は、聖書の基準を適用するべきかどうか微妙になるというのは、まったく根拠に乏しい 屁理屈であるといわざるを得ない。むしろ、全血 → 成分輸血の進歩を医療技術の大きな進歩とみなして、そこで聖書的な適用を絶 対禁止 → 良心で決定に切り替えるとするならば、輸血行為が知られていなかった時代 → 輸血行為が医療行為として認められる ようになった時代への転換の方が、むしろドラスチックな展開であり、その時点で、もはや聖書に書かれている事柄との整合性を取る ことが容易ではなく、したがって、そうした微妙な問題は、個々のクリスチャン自身で判断してくださいという方が自然な展開なので はないだろうか。この点の説明なくして、「協会」の方針を理解することは不可能であるが、「協会」は、こうした点について、決し て信者たちには説明しようとしないのである。 次にAの点について考えたい。 この点はすでに本HPでの「AJWRB」の資料などで詳しく述べられているし、私自身、このエッセイ欄(No.15 「ものみの塔」 誌2000年6月15日号「読者からの質問」の矛盾) でも触れてきたので、ここでは、簡単に述べるにとどめておきたいと思う。 何が聖書で禁じられている主要成分で、何がそうでないかというのは、輸血という医療行為が存在しなかった時代に書かれた聖書に は、当然のことながら具体的に言及されているわけではないので、そうした点を聖書的に決めることはほとんど不可能としかいいよ うがない。それをあえて行なっているのは「協会」の独善である。 もし、聖書の中に基準がないとすれば、そうした基準を制定しているのは、「ものみの塔協会」の指導部である。決して聖書ではない。 だからこそ、ヘモグロビンについても、禁止したり解禁したりという変更が生じることになるわけである。それをあたかも聖書に基づ いているかのように装うのは欺瞞である。だから、説明したくても、実際には説明不可能なのであろう。実際、医療委員の兄弟と話し ても、「4つの成分は主要成分だから、血そのものであり、当然、輸血はできないに決まっているでしょう」となってしまうのである。 本当にこの人は理解して医療委員として活動しているのだろうかと心配になってしまうのである。こうした発言では、2つの点が見逃 されている。つまり、主要成分が何かというのは、どのような基準で決めるのかということであり、さらに、主要成分は聖書で禁じら れている「血」で、主要成分でないものは聖書で禁じられている「血」ではないと、どのような基準で線引きしたのかという点である。 おそらく、「ものみの塔協会」の誰一人として、この点を十分に納得できる説明のできる人はいないのではないだろうか。もし、そう した根拠をもっていれば、そして、それが説得力のあるものであるならば、堂々と、それを開示して信者全員に納得させた方がずっと よいわけで、そうしたことをしないというのは、根拠を持っていない証拠と指摘されても、反論できないであろう。 最後にBの点を考えたい。 これも、すでに本HPでいろいろと示されていることである。また、これまでの私のエッセイ(No.15 「ものみの塔」誌2000年 6月15日号「読者からの質問」の矛盾)でも触れたことがある。もし、個体間を移動することを根拠に輸血可能とするならば、皮肉 なことに、輸血を拒否する根拠はほとんどなくなってしまうのである。「協会」が禁止している主要成分も個体間を移動するという事 実は、現代の医学では常識であり、多くの医学文献で指摘されているからである。 結局、今の時代において、聖書に照らして、近代医学に基づく医療技術の一種である輸血の是非をうんぬんすることには、はなから無 理があるのである。無理があるので、「良心で決定」とするならば、全血、主要成分、血液分画などと、訳の分からない区別などせず に、それこそ、血のすべてについて、個々のクリスチャンの判断に任せるのが一番いいのではないだろうか。もともと聖書に、輸血云 々ということが一切触れられていないのであるならば、「協会」は聖書の上に自分たちの見解を立てるのではなく、聖書に従って、こ の問題に介入するのをやめるべきである。そうするのが一番自然で無理のない態度ではないだろうか。 もっとも、一度、「輸血拒否」という看板を打ち出してしまった「ものみの塔協会」としては、この「輸血拒否」というブランドを簡 単に降ろすわけにはいかないのかもしれない。トレードマークを失ってしまえば、「大いなるバビロン」であるその他の宗教との違い が曖昧になってしまいかねない。「輸血拒否」ということを貫いているのがエホバの証人のトレードマークであるなら、それを一つの 政策として続ける価値があるのかもしれない。 また、協会にとっては、「輸血拒否」の看板を降ろすとやっかいなのは、これまで輸血を拒否したために重大な結果を招いた事例にお いて、当事者から法廷に訴えられかねないという危惧が常につきまとうことである。それなら、「輸血拒否」の看板は当面降ろさずに、 実質的には、「輸血拒否」によって信者が死亡するという世間を騒がすことはできるだけ避けるような「実際的な政策」を掲げること には意味があるのかもしれない。何しろ、今、そんなことでマスコミを騒がせてしまっては、「カルト」という烙印を押されかねない からである。 いずれにしても、「輸血拒否」の看板は、私たち末端のエホバの証人が命をかけて守るべきものではない。それは聖書に明確に基づい た禁止令ではないからである。ヘモグロビンの場合がそうであったように、明日になれば、「協会」の気まぐれで、   ●血漿はほとんどの成分が水だから、体に注入するのはまったく問題ない   ●白血球は色が赤くないから輸血しても問題ない   ●赤血球は、母体と胎児の間を移動するから輸血しても問題ない こんな具合に、いとも簡単に解禁になる可能性が十分ありえるからである。そもそも、今回のヘモグロビンなどは、数年前までは絶対 禁止で、ヘモグロビンを注入して悔い改めなければ、排斥になりかねない重大な悪行とみなされていたのである。そして、今は、その 解禁の理由さえ明示されないまま、なし崩し的に解禁されているのである。どうして、「私は、絶対に輸血は困ります」といって、命 をかける必要などあろうか。明日は全面解禁になるかもしれないのにである。まして、聖書には、輸血をしてはいけないとは一言も書 かれていないのである。 「協会」は、長老たちにファクシミリに徹することを求めている。それが、この組織の掟である。そうした事例は、この輸血問題だけ に限られない。すべての分野において貫かれている。 最近気がついたことであるが、「ものみの塔」誌や大会の話などで、「父なるエホバ」と「母なる地上の組織」という対比表現が、や たらと増えてきていることを感じている人も多いと思う。確かに、父親は母親よりも偉いかもしれない。でも、「エホバは父親だから、 やはり一番偉いのだ。問題ないだろう」とはならない。「子供」にとって、父親と母親はほぼ同様に尊敬されるべきものである。全能 の神と、地上の不完全で誤り多い単なる組織とが父親と母親という形で、ほぼ並列的に論じられるということがあってよいのだろうか。 いつから、地上の組織はそんなに格上げされたのであろうか。 統治体のゲリト・レッシュ兄弟が、ギリアデ宣教学校の卒業式で、そうした類の事柄を述べたことがあったが、統治体の成員自身が、 自分たちの組織を高めるのは十分ありえる話である。でも、大会などで話を扱う長老たちは、「父なるエホバと母なる組織に従って参 りましょう!」などと話していて、何も感じないのであろうか。そして、それを聞く聴衆は思考力が停止してしまったのであろうか。 ファクシミリに徹しなければ、この組織において、高い地位を目指すことは難しいかもしれないが、もともと、そうした地位などの関 係ない、平和で愛にあふれる兄弟関係を望んで、この組織に入ってきたのではないだろうか。その人が、どうして自己を殺して、ファ クシミリに徹する必要があろうか。 英国のジョージ・オーウエルが書いた「動物農場」という小説では、人間の支配を逃れて解放された動物たちが、やがて、自分たちの 中で支配階級と被支配階級に分断されてゆくさまが皮肉っぽく描かれている。人々を解放することを約束したスターリンの共産主義を 痛烈に批判したものとされている。 エホバの証人の世界も、さながらこの「動物農場」と同じ状況をかもし出しつつある。この世の圧制や、苦しみや憎しみに満ちた人間 関係から逃れて、霊的パラダイスの宿る社会に入ってきたと思ったら、やはり、そこにも、この世と同じ人間の営みが脈々と引き継が れていたのである。出世やねたみ、そねみ、わなに陥れることや、ごまかし、詐欺、だまし討ち、分裂・分派、多くの人たちが、嫌気 がさして逃れてきたはずのこの世の霊を、そこに認めることができる。 9月11日のテロ事件以来、米国のブッシュ大統領は、世界に向かって、「テロリストの側に付くのか、我々の側に付くのか」という 二元論を展開している。決してテロリストを擁護するわけではないが、こうした点にみられる米国のやり方にも同調することはできな い。そこには、ソ連邦の崩壊以後、唯一のスーパーパワーとなった米国の驕りと傲慢さがちらついている。エホバの証人の世界も、 「神の側につくのか、それともサタンの側につくのか」という二元論を展開して、神の側、つまりエホバの証人の組織に入らなければ、 救いはないと訴えている。その点ではブッシュ大統領と何ら変わりない。 そうした訴えを行なう組織は、やはり一枚岩でないといけないのだろう。そのためには、常に決定はトップダウンで行なわれ、末端の 人間にはファクシミリに徹することが求められるのである。「川上」から流れてきた情報を、忠実に「川下」に流す機能こそ、こうし た組織では、重視されるのである。そして、ファクシミリに徹することができない人は、やがて、この組織からスピンアウトしてゆく か、あるいは、片隅で静かに生きてゆくしかないのである。 2002年1月13日 目次に戻る

「楽園」は本当に本質的な解決策か?―「楽園」的解決法の是非について

4月1日付け「読者の広場」の投稿「思ふ事」に対する、村本氏のコメントを大変興味深く読ませていただいた。私も、そのご 意見に触発されて、最近遠ざかり気味の筆を取ることにした。 「エホバの証人」の世界観、いやここでは「ものみの塔協会」が唱える世界観ということにしておきたい。個々のエホバの証人 が必ずしも、「ものみの塔協会」と同一の世界観を共有しているかどうかは、必ずしも保証の限りではないと思われるので。そ の「ものみの塔協会」の世界観は、簡単に述べるなら以下のようになる。   ●現在の社会体制はサタンの支配下にあり、邪悪な事柄で満ちている   ●人間自身の力では、たとえ誠実な努力を傾けたとしても、この体制を良い方向へ導くことは不可能である   ●現在存在するすべての「悪」は、来るべき神の大いなる戦争である「ハルマゲドン」で滅ぼされ完全に取り除かれること    になる   ●ハルマゲドン後の「楽園」では、すべての「悪」が消滅し、「悪」の反対=「善」だけが存在する「パラダイス」となる ごくごく簡単に述べてしまえば、こういうことになるのだろう。「楽園」では、すべての「悪」が消滅し、「善」だけが存在す る理想郷となるのである。もっとも、それは完全に空想上のものではなく、そもそも、そうした「楽園」の状態こそ、神が人間 に賜った本来の環境であって、現在は、最初の人間であるアダムの不従順によって発生した予定外の状況に陥っているというわ けである。従って、「悪」が存在する現世は、そもそも存在する必要のなかったもの、不要なものであり、そうした状況に身を 置く羽目になったクリスチャンは、本来の居場所である「楽園」での生活を夢見て、この世は、いわば一時的な居留地とみなし、 仮の住まいのようなものとみなすべきであると説く。この世では、決して人間本来の目的は達成不可能な状態に陥っているので、 そうした無駄な努力は潔くあきらめて、つまり、当面の目的の実現は、とりあえずペンディングして、むしろ、「楽園」での実 現を楽しみに待つ姿勢が賢明である、これこそ、この世に暮らすクリスチャンの正しい態度であり、人間の可能性が花開く「パ ラダイス」では、現在の不遇を補って余りある幸福が待っている、というわけである。こうした「ものみの塔協会」が推奨する 認識は、村本氏の認識とは真っ向から対立することになるわけであるが、この「ものみの塔協会」の考え方について、今回は検 証してみることにしたい。主な論点は以下の通りとなる。   1)現代の世界はサタンの支配下にあり、邪悪な事柄に満ちているのか?   2)人間自身の力では、物事を良い方向に持ってゆくことは本当にできないのか?   3)「悪」はハルマゲドンですべて滅ぼされるのか?   4)ハルマゲドン後の社会は、本当に理想郷となるのか? 以下、順を追って考えてみたい。 1)現代の世界はサタンの支配下にあり、邪悪な事柄に満ちているのか? 聖書の中には以下のような聖句があるので、現代の世界がサタンの支配下にあるという「ものみの塔協会」の考え方は、聖書を 文字通り解釈すれば、妥当なものといえるだろう。 (ヨハネ第一 5:19) [また,]わたしたちが神から出ており,全世界が邪悪な者[の配下]にあることを知っています。 (コリント第二 4:4) その人たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについ            ての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです。 では、実際のこととして、この世は邪悪な事柄で満ちているのか? 確かに、毎日のニュースは、良い事や楽しい事や建設的な 事よりも、不安、不満、不公正、不正直、不合理なことの方が、より多く存在しているように思える。そうしたニュースが多い のは確かである。しかし、そもそもメディアというものが、本来、そうした事柄にニュース性を求めていることは確かである。 日本では電車の中で人をなぐったりすれば立派なニュースになるが、親切な行為をしてもあまりニュースにはならないのが普通 である。災害、事件、スキャンダルなど、非日常的な事柄、あるいは人々が興味をそそられる事柄に、ニュースが集中するのは 当然で、そうしたニュースが多い事は、すなわちそうした事柄だけが、私たちの日常生活を取り巻いていることを必ずしも意味 しているわけではない。つまり、邪悪でない事柄もたくさん存在することが事実であることは、改めて言うまでもないし、邪悪 な事柄だけが、私たちの社会生活を形作っているわけではない。でも、そんなことは、エホバの証人であろうとそうでなかろう と、常識として十分納得していることではないだろうか。 世の中にも、良い事柄、立派な事柄、立派な人、立派な仕事などが存在しており、単純化してバッサリを切り捨てることは、や や単純すぎるし、危険な考え方でもある。以前、ブッシュ米国大統領が「テロに味方をするか、米国に味方するかどちらか2つ に1つである」という単純な2元論を政治の世界に持ち込んだことの愚かさを指摘したことがあるが、実は、大変よく似た事柄 を「ものみの塔協会」は信者に強要しているわけである。 とりわけ問題なのは、そうした社会認識から発生する行動パターンが極端に画一化されることによる弊害である。「この世は邪 悪である」と訴えるのはある意味では勝手だが、そうした命題が一人歩きして、信者の社会生活を含めてすべてを律することに なると弊害は甚大である。例えば、次のような議論や思考パターンが発生したりすることになる。   ●サタンの支配する邪悪な世で出世してどうする?   ●サタンの支配する邪悪な世で出世するために、高等教育を受けてどうする?   ●サタンの支配する邪悪な世が提供するさまざまな行事に出席するために、クリスチャンの予定(集会、研究、野外奉仕な    ど)が影響されることがあってよいだろうか? こうした事柄が、エホバの証人の一般社会生活における不適応性、高等教育拒否へとつながっているわけである。挙句の果ては、 行く着くところまで行ってしまう。   ●サタンの支配する邪悪な世で、命を永らえてどうする? 輸血拒否という極端な教理は、通常の常識で考えれば行き着きにくい話であるが、上記のような背景があると、比較的簡単に納 得させられてしまうのが恐ろしいところである。 以前から感じていることであるが、クリスチャンの若者の中には、「早く楽園が来ないかなあ症候群」が蔓延しているようだ。 開拓奉仕によって、現実社会からいわばスピンアウトしたような生活を強いられており、生活力というものが乏しいために結婚 もできない、社会に出てもほとんど役に立たない、昨今の人々の無関心からクリスチャンの野外奉仕にも喜びが見出せない、と いう三重苦が襲うわけである。それで、悟りを開いたわけでもないのに、現世での成功を早々とあきらめて、すべてを「楽園頼 み」に転化するわけである。そうしたことをぼやく若者たちに出会うと、私は次のように言うことにしている。「楽園に望みを かけるのもいいが、今の生活をもう少し充実させることにも、少しは気を回したまえ!」 主婦の姉妹たちの中には、もっとたくましい人たちが大勢いる。正確に表現するなら、「かつてはいた」と言うべきだろうか。 バイタリティの塊みたいな人たちであるが、最近はそうした人たちも随分減って、最近は、やたらと精神科のお世話を必要とす る人たちが増えている(誤解のないようにしておきたいが、精神の病を患う人を決して非難しているわけではない。ただ、事実 として指摘しているだけである)。前者の姉妹たちの生き方を短い言葉で表現するなら、次のようなものである。「ハルマゲド ンがいつ来るかなんて関係ないのよ。私たちは神に仕えているんだし、そのことに日々喜びと満足を見出しているのよ。たとえ、 ハルマゲドンが期待通り来なくても、それはそれで仕方がないわ」。見上げた心がけである。 でも、そうした達観した考え方のできる人は少数派であり、最近はそうした人たちもめっきりと減っているようだ。たとえ、 「現代の世界はサタンの支配下にあり、邪悪な事柄に満ちている」としても、そうした世の中に生れ落ちた者として、少しでも たくましく生きていって欲しいものである。 2)人間自身の力では、物事を良い方向に持ってゆくことはできないのか? 5月5日にフランスの大統領選挙の決戦投票があった。現職の大統領に対して、極右政党の候補者が決選投票で挑んだが、結果 は現職大統領が圧倒的大差で再選された。マスコミ報道によると、「フランスの民主主義が守られた」というコメントを述べる フランス国民の声が紹介されていた。右派どうしの決戦投票になったため、左翼系支持の有権者などが、極右政党の勝利を警戒 して現職大統領の支持にまわったためである。 私の知り合いのエホバの証人の間でも、この選挙に関する関心は比較的高かったようだ。最近、フランスではエホバの証人に対 する課税問題が大きな関心を引き起こしており、今回、万一、極右政党が大統領選挙で勝利するようなことになれば、エホバの 証人に対する風当たりがますます強まることになりかねないと心配していた人もいた。そうした人たちは、結果的に極右政党が 大統領選挙で勝利することがなくて一安心だったようだ。 でも、実は、これは「ものみの塔協会」の指導には反している。つまり、エホバの証人は選挙をしてはならないという指導がさ れているが、実際に、「ものみの塔協会」では、文字通り投票行動をするか否かだけが問題なのではなく、心の中でも特定の勢 力を支持することは、中立の観点からふさわしくないと指導している。まあ、それはそれで一貫しているといえよう。世の中に は、政治的なメッセージをこめて、投票をボイコットするという人たちもいるが、エホバの証人の場合には、世とのかかわりを 持たない、政治的に中立を保つことを信条としているので投票しないわけであり、投票を放棄するということによって、その結 果にも、責任はおろか関心も持たないというわけである。 従って、フランス大統領選挙の結果に安堵するエホバの証人の信者の態度は、「協会」の教えからすると「正しい」ものとは言 えないことになるわけだが、本当にそれでよいのだろうか。それがキリスト教の精神なのであろうか。 もし、仮に、極右政党の候補者が宗教弾圧をほのめかすようなことを公約に掲げていたとしても、エホバの証人は、一切、政治 にかかわることができないので、投票したり、投票結果に関心を持ってはいけないのだろうか。第二次世界大戦中、エホバの証 人はナチスからの厳しい迫害に遭遇したが、それに対して命をかけて抵抗したのではなかっただろうか。もし、そうした事態が 前もって十分予想されるとしたら、それを合法的な手段で阻止することが聖書的でないといって排除されるとは、正直言って考 えにくい。でも、現在の「ものみの塔協会」の指導では、政治投票に関しては、そうした指導がなされているわけである。 こうしたことを考えると、サタンに支配されている世の事柄にかかわるのはふさわしくないという「ものみの塔協会」の主張も、 この世に生活して、政治的な影響を多少とも被ることが避けられない国民の一人として、納得しにくい事柄の一つとなっている。 大河の流れをせき止めることが容易でないように、世の中の流れも、一種の運命論的な力に支配されており、人間の努力はむな しく終わるという達観も、実際に、自分たちに直結する利害か関係している場合には、説得力に欠ける議論となってしまうので ある。 また、一方で、「ものみの塔協会」は、税金はしっかりと正直に納める事を、信者に厳しく要求する。こうした点で正直に行動 することはほめられるべき事柄であるが、国民の義務である納税はしっかりと指導し、権利である投票は抑制するという方針に は、首尾一貫性が欠けているという指摘を免れないだろう。 さて、少し話しは変わるが、本来、人間自身の力で何かを成し遂げるというのは、私は素晴らしいことであると思っている。N HKのTV番組に「プロジェクトX」というのがある。私もファンの一人で、欠かさず見るようにしている。知らない人のため に、内容を概観するとこうである。 たいがいのストーリーは、世の中にあって比較的陽のあたらない人や団体にスポットが当てられることが多い。敗戦の中ですべ てをなくした戦闘機の設計者、会社の窓際族、はみ出しものたちなどなどが主人公である。でも、その中には、実は、世の中を あっと言わせるような、アイデアを持っていたり、心のうちに秘めている闘志がある。あるいは、要請は思いがけず外部から持 ち込まれることもある。いずれにしても、その時、男あるいは女は立ちあがる。プロジェクトはスタートする。でも、物事は順 調には進まない。必ず大きな障害が立ちはだかることになる。しかも、容易なことでは解決しそうにない難問である。しかし、 絶望のように思えたその時に、逆転の発想が生まれる。秘策をこめた最後のチャレンジに賭ける。そして見事に道が開かれる。 まあ、おおよそこんなサクセスストーリーが毎週展開することになる。 だいたいが昭和の高度成長時代の物語である。当時の主人公たちが、今はもういい加減いいお年を召したゲストとしてスタジオ に招かれ、物語を振り返りながら、当時の苦労話を披露する。涙、涙の感動物語である。こうした物語は見る人に確かに感動を 与える。そこに人間のひたむきな姿があるからである。そこには、人間の底知れぬ可能性が感じられる。 もちろん、「ものみの塔協会」も、そうした人間本体に秘められた可能性を否定しているわけではないだろう。そうした可能性 がより大きく花開く「楽園」での活動に、主に目が向いていると解釈することもできる。でも、実態は、先に紹介した「早く楽 園が来ないかなあ症候群」の多発である。そして、世の中のさまざまな人間活動の営み、その中には非常に有益な活動も数多く 存在すると思われるが、そうしたものをサタンの世の営みとして一刀両断に切り捨ててしまう無謀さがあるのである。まあ、一 人一人のエホバの証人は、そうした「協会」の方針に教条主義的に従うのではなく、それぞれがうまく対処しているケースもあ るだろうが、中には、適応力が不足しているケースも数多くみられるわけである。 最近は、「協会」自身も、これまでのやり方を多少反省して「道理に適った範囲で今の社会とつきあってゆく」という方針に、 軌道修正されてきているようである。   ●高等教育の解禁   ●開拓者も人並みの生活が送れるように努力・工夫することの奨励(関連する「ものみの塔」誌の記事の中で、例えば、開    拓者もどんな職業に付くことができるかという事例紹介で、公認会計士が挙げられていたのにはびっくりした。公認会計    士なんて、普通、高等教育なしにできる仕事ではないと思われるが、高等教育解禁間もない時に出た記事なので、これま    での方針転換を棚に上げて、なんとまあ虫のいい話だろうかと、唖然としてしまった記憶がある)   ●一般社会とのつきあいである自治会活動の重視   ●学校行事の相対的な重視(例えば、これまで運動会とクリスチャンの集会がぶつかった場合に、エホバの証人の父兄は例    外なく集会に出席することが優先されたが、最近は家族として一緒に活動することの重要性に比重を移して、父兄は集会    を休んで運動会に参加することが、会衆でも公認されるようになってきており、運動会で集会を休んでも長老は何も言わ    なくなっている) まあ、常識から判断すれば、こんなことはしごく当たり前のことであるが、こうした当たり前のことが、これまでないがしろに されていたところにこそ問題がある。そうした点を、全く総括することなく、いとも簡単に、まるでずっと昔からそうした方針 であったかのように振舞うことができるのは、いつもながら「ものみの塔協会」の指導部の不誠実なところである。 私自身は、今私たちが住んでいる社会を少しでもよくすることにもっと力を入れることをおろそかにすべきではないという気が しているし、そうしたことは、将来に希望を託することと決して矛盾することではないと思うのだがいかがなものであろうか。 3)「悪」はハルマゲドンですべて滅ぼされるのか? 2001年9月11日の米国におけるテロ事件で、エホバの証人も10数名が犠牲となっている。米国におけるエホバの証人の 人口比率から考えると納得がいく数字である。当然のことであるが、エホバの証人もマンハッタンのビジネス街で働いているわ けである。 テロはむごい、テロは卑劣であるという声がある。確かにその通りである。現在の世界におけるテロは無差別攻撃が多いので、 エホバの証人であろうとなかろうと、あるいは、善人であろうと悪人であろうとテロに巻き込まれる可能性がある。そうした 悲劇を「ものみの塔協会」も憎むべきものとみなしている。 では、ハルマゲドンはどうだろうか? これは、神の戦争であり、神とそれに敵する者たちとの戦いである。神に味方する者で あるエホバの証人は一人として滅ぼされることなく、生き残るとされている。 でも、だからといってハルマゲドンは神の行なうことだからむごくないのであろうか。現在、エホバの証人は約600万人であ るから、世界人口の約0.1%である。つまり、ハルマゲドンで人口の99.9%は死に、0.1%は助かる。一方、テロが無 差別攻撃であるとすると、その中には人口比率から想定して平均的には0.1%のエホバの証人が含まれる可能性がある。 エホバの証人が含まれるから、テロは憎むべきものであり、エホバの証人が含まれないから、ハルマゲドンは喜ばしいものとい うことになるのだろうか。おそらく、「ものみの塔協会」のさまざまな書籍や冊子に描かれているハルマゲドンの想像図は、9 ・11テロに勝るとも劣らない凄惨な状況描写が描かれている。 犠牲になる人々のタイプはほぼ同じである。わずか0.1%のエホバの証人が含まれているか否かだけが違いといえば違いであ る。わずか0.1%のエホバの証人が含まれているかどうかだけの違いで、含まれているかもしれない現在のテロは非難され、 含まれていないハルマゲドンは歓迎されるというのは、よくよく考えてみるといかにも非人間的なことで、想像した自分自身が ぞっとしてしまう。それは、まったく独りよがりな妄想ではないだろうか。自分も、これまで長年、こうしたことを信じて、そ れが正義だと信じていたなんて、恐ろしいことである。 ハルマゲドンには神の宇宙論争が関係している正義の戦争なのだからいいのだ、という議論がある。そんなに大切な宇宙論争は もっと穏やかな形で決着することは、本当にできないのであろうか。限りない知恵のある神にはもっと賢い選択肢はないのであ ろうか。 4)ハルマゲドン後の社会は、本当に理想郷となるのか? さて、いずれにしても、エホバの予定表が進展すれば、やがて、ハルマゲドンが訪れ、、ハルマゲドンの後には、「悪」のない 待望の「楽園」の誕生である。でも、その「楽園」は、本当に理想を実現する場になるのであろうか? 私は、こうした何かドラスチックな変化や変革が生じようとする時には、ふと、ジョージ・オーウエルの「動物農園」を思い出 してしまう。この「動物農園」というのは、人間に飼育されている馬や豚や他の家畜たちが、人間の支配に抵抗して、自分たち で自主管理する「動物農園」を樹立するものの、やがて、気が付いてみると、新たな支配者として豚が君臨しており、被支配層 であるその他の動物たちにとって、事態は本質的に何も変わっていなかった、いや、むしろ、悪くなっていたというものである。 オーウエルは、この寓話小説によって、当時、人間を解放することを標榜して建設されていたソ連のスターリン社会主義国家が、 結局、人間を解放するのではなく、抑圧を強める結果になっていることを強烈に批判したかったようである。 「現在の聖書は、ハルマゲドン通過のための手引書である」というのが、「ものみの塔協会」の見解である。その根拠として引 き合いに出される聖句は次のようなものである。 (ローマ 15:4) 以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの         慰めとによって希望を持つためです。 それで、ハルマゲドン前にいる私たちは、かつて、エジプトを脱出し、「約束の地」を目前にした古代イスラエルの民と類似し ているとみなされている。彼らは、エジプトでは非常な窮境にあり、厳しい奴隷労働を強いられていた。救出を求める民の叫び がやがて神の元に届き、モーセという救出者が起こされて、何百万というイスラエルの民をエジプトにおける隷属状態から解放 されることになる。 かねてからの念願がやっとかない、「乳と蜜の流れる地」に神によって導かれることになるわけだから、イスラエルの民の将来 は、洋々たる前途が横たわっていたわけである。彼らは幸せの絶頂にあり、我を忘れて狂喜したのもうなずける。しかし、彼ら の喜びは長続きしなかった。出エジプト記の記録によれば、彼らはすぐに神に反逆し、その代償として、約束の地へ入るまで、 40年間不毛の荒野をさまよわなければならなかった。民の悲嘆はいかばかりであったことであろう。 「ものみの塔協会」の解説によれば、だから、今、「約束の地」である「楽園」を目前にして、信仰を失うことがないように注 意しなさいということになるのだが、私は、楽園に行っても、やはり、私たちはイスラエル人と同じ運命を辿るのではないかと 強く危惧しているのである。結局、「動物農園」と同じことになるのではないかと危惧しているわけである。その理由として、 人間はたとえ「完全」になっても反逆する生物であると、私は考えている。実際に、1000年後にサタンが解き放たれた時にも、 大勢の反逆者が出現することになっている。 (啓示 20:7-9) さて,千年が終わると,サタンはすぐにその獄から解き放される。8 彼は出て行って,地の四隅の諸国民,ゴグと         マゴグを惑わし,彼らを戦争のために集めるであろう。それらの者の数は海の砂のようである。9 そして,彼ら         は地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下っ         て彼らをむさぼり食った。 この聖句をよく考えてみていただきたい。千年統治の最終段階において、サタンが解き放たれたとたんに、「海の砂」のように 数多くの人たちが、神に反逆して滅ぼされるのである。このことは、ハルマゲドンが最終戦争ではないことを物語っている。こ の後のことについては、聖書は言及していないが、そもそも自由意志を持つものとして創造された人間は、100%永久に忠実を 保つなんてことは不可能なのであろう。 はるか昔の宇宙誕生前に創造された「完全な」み使いたちも、150億年以上も忠実を保っていたのに、人間が出現したとたんに、 魅惑的な女性に引き寄せられて、多くが反逆してしたったとされている。その前に、サタンがエバに近づいた時に、反逆は始ま っていたのであるが。それにしても、150億年以上も忠実を保っていたみ使いがである。 わずか、70年か80年の人生で忠実な歩みをしたからといって、人間であるクリスチャンが永遠に生きるに値する者として、神に 証印を押されるというのもマンガチックなできごとである。 そもそも、「完全」な人間と「不完全」な人間というものの違いが、私には未だに分からない。イエス・キリストは完全な人間 として地上にやってきたので、罪を犯さなかったとされている。そして、そのことに対して不公平だという非難は聞こえてこな い。それなら、すべての人間を、はじめからそのようなものとして創造できなかったのか。アダムとエバはそのような者として 創造されたのだ、と反論する人がおられるだろう。確かに、そうかもしれない。でも、アダムとエバは、サタンの誘惑に遭って あえなく撃沈してしまい、それ以降の人間はすべて罪人に陥ってしまったということである。では、もし、アダムとエバが忠実 を保っていたらどうなっていたのであろうか。仮に、そうだとしても、そのすべての子孫が一人残らず忠実を保つという保証は ない。多くの「完全」なみ使いが反逆したように、「完全」な人間も、神を支持する側と支持しない側で争うような事態になら ないとは保証できない。実際、それと似たような事態が、1000年間の「楽園」の後に生じると聖書に書かれているのである。 「ものみの塔協会」の議論の中に、人間が反逆するのは、創造者である神が欠陥品を作ったということではなく、人間自らが墓 穴を掘ったのであるというものがあるが、神が人間を創造したのであれば、やはり、最終的な責任は神にないとはいえないよう な気がする。そのような人間を設計した設計者(神)には、本当に「製造者」責任がないのであろうか。そんなことを言うと、 「ものみの塔協会」は、神はロボットのように決められたことしかできないものとして人間を創造されなかった、と言うかも知 れない。私は、どんな言い方をしても、被創造物である人間は、結局は神の「ロボット」であることに変わりはないと考えてい る。別に、自由意志を行使しようとしまいと、お釈迦様の手のひらならぬエホバの手のひらで踊る人間の姿しか映ってこない。 これは、程度問題はあっても、やはり一種の「ロボット」なのではないだろうか。別に、「ロボット」だからといって、悲しい わけではなく、創造されたのだとしたら、創造者に対して依存関係にあるという意味で、やはり一種の「ロボット」なのである。 話が込み入ってしまって申し訳ないが、結論はこうである。出エジプトしたイスラエル人の喜びが長続きしなかったように、ハ ルマゲドン後においても、「楽園」は必ずしも「楽園」にはならない可能性は十分あるといえる。一つの欲望が満足されても、 必ず次なる欲望が生まれてくるのが人間の性である。それは、環境がどんなによくなっても、そのよくなった環境に順応して、 必ず新たな欲望が生まれてくるものである。そうした本質を持つものとして、神が人間を創造した限り、そうした葛藤は続くの である。かくして、「楽園」は終着駅にあらず、と結論せざるを得ない。 さて、4つの論点を考えてみることができた。世界は急速に変化している。エレクトロニクスの進歩は人間社会のあり方を根底 から変革しようとしている。バイオテクノロジーの進歩は、人間をデザインするという「神の領域」に、人間を徐々に近づける ことになるかもしれない。宇宙の探求は、私たちの世界観を根底から変えてしまいかねない。かつて、ジョルダーノ・ブルーノ は、地球が宇宙の中心であるという旧来の考え方に異論を唱えたが、時の権力者である教会によって異端の烙印を押され、処刑 されてしまった。大宇宙の中に数千億個もあるとされている銀河の中の一つである天の川に属する太陽系の第三惑星の地球の上 にうごめいている「塵」のような人間だけが、本当に宇宙の創造者である神との接点を持っているというのは、通常では考えに くいことである。そうした世界観が認識されていなかった時代には、自分たちが住んでいる地面だけが世界のすべてであったか ら、神という存在がイメージできたのであろうが、私は、大宇宙の創造者でありながら、極小な人間にひとかたならぬ関心を寄 せる神というものが、だんだん理解できなくなってきているのである。それは、聖書に対する信仰が揺らいでいるということで はなく、「ものみの塔協会」によって教えられた聖書理解が揺らいでいるということであると考えている。 そして、そのように聖書を矮小化した解釈を押し付け、自分たちの都合で勝手に変更しているのが「ものみの塔協会」の指導部 である。そうした決定権を独占している「ものみの塔協会」指導部は、まさに、ジョルダーノ・ブルーノを処刑した中世の教会 とほとんど変わるところがないと思う。むしろ、聖書に対するもっと自由で闊達なな議論を行なうことによってのみ、私たちは 真の理解を得ることができるのではないだろうかと思う。マインドコントロールされた「理解」は、盲従以外の何も生み出さず、 そうした盲従は、私たちを決して理想郷たる「楽園」には導かないのである。 2002年5月16日 「物事をありのままに考えるエホバの証人」より