「物事をありのままに考えるエホバの証人」より−6

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「鋼鉄の手」

レイモンド・フランズの「良心の危機」の第12章の冒頭で、「鋼鉄の手」について触れられている。こ
の第12章は「ものみの塔協会」組織の中枢部から、レイモンド・フランズ氏に加えられた「最終攻撃」
の一部始終が描かれている部分である。それは、まさに驚愕すべき内容である。

私たちエホバの証人は、一方的な意見だけを聞いて物事を判断することは避けなければならないと、常々
教えられてきた。それは賢明なことだと思う。そうした意味では、この書物に書かれている内容について
も、無条件にすべてを正しいと決め付けて受け入れることに、ある種の危険が伴うことは確かである。し
かし、エホバの証人の一人である私が、仮に、ここに書かれている事柄について、その真偽を確かめるた
めに、あるいは公平の立場から、もう一方の当事者である「協会」の意見を聞こうとして、統治体に事実
確認を求めることは、事実上不可能である。たとえば、「私は最近、『良心の危機』と題する元エホバの
証人の書いた本を読み、そこに書かれている事柄の真偽について確かめたく手紙を書いています。かくか
くしかじかの事柄について、教えていただければうれしく思います」と書いたとしても、返ってくる返事
は決っている。その本は、エホバの証人の組織から排斥された人物の書いた書物であり、そうした本を読
むこと自体、エホバの証人として勧められていないこと、従って、そうした本の内容に対して返答するこ
とはできない旨が伝えられるだろう。むしろ、そうした質問をしたこと自体、不健全であるとして、詰問
を受けることになりかねない。

従って、読み手である私たちは、この本だけから、そこに含まれている事柄の真偽を判断しなければなら
ない。もちろん、人には、ある種の直感というのが働いていて、真実なものとそうでないものとを区別す
ることは、必ずしも難しいことではない場合もある。「良心の危機」には、そうした「真実の響き」とい
うものが確かに感じられる。でも、そうした響きだけでは、他の人を説得するものとしては、根拠が希薄
であるとみなされかねない。

そこで生きてくるのは経験である。この組織で実際に経験した事柄と、書かれている事柄が一致している
ならば、その書かれた内容の信憑性は高くなる。一方、そうした事柄がまったく経験上ない事柄であるな
らば、書かれている事柄は、事実でないか、事実であったとしても、かなり特殊な事情かレアケースと判
断されることになろう。


結論から述べるなら、私が、これまで、この組織で経験してきた事柄と照らし合わせながら、「良心の危
機」で描かれている事柄をみてみると、残念ながら、そこに書かれている事柄の多くは、「納得」できる
事柄なのである。冒頭に「驚愕すべき内容」と書いたのは、「ものみの塔協会」の本部組織、しかも、統
治体という組織の最高中枢部でも、末端組織でたびたび経験するような次元の低い事柄が起きていたこと、
いや末端組織での出来事を上回る以上の貧しい事柄が行なわれていたことへの「驚き」である。従って、
私にとって「良心の危機」を読むという作業は、驚きと同時に納得をもたらすものであった。

これはつらい作業であった。「広島会衆事件」の金沢氏も、「支部の間違い」を是正してもらおうとして、
ブルックリン本部に掛け合ったはずである。それが1985年頃のことである。それよりも5年も前に、
すでに本部は腐っていた。いや、もしかすると、ずっと腐っていたのかもしれない。そう考えるとぞっと
するのである。


以下に示す事例は、だいぶ昔の話であるが、私がある事情で知り得たある事件の一端である。中には、聞
き伝えの部分もあるので、必ずしも正確無比ではないかもしれないが、大筋は間違っていないはずである。

実はこうした事柄が氷山の一角に過ぎないこともよく理解しているつもりであるが、少なくとも、エホバ
の証人の世界全体の特徴であるとは、これまで思っていなかった。悪い事柄は例外的な出来事であり、少
なくとも、健全な方向に向かうベクトルが、どこかにきちんと存在しており、それはエホバの証人の社会
の大多数が実践している事柄であり、まして、組織の中枢部である「協会」本部や統治体は、そうした健
全な方向を率先して実行していると楽観していた。そうしたベクトルが十分浸透して力を合わせれば、た
とえ、不健全な事柄が部分的に生じたとしても、それを正し、物事を健全な方向に進ませることができる
と信じていた。そうであればこそ、たとえ個々のひどい事件を経験したとしても、絶望することなく、前
向きな姿勢を崩すことなく歩むことができた。しかし、どうやら、私は、金沢氏と同じ過ちを犯していた
のかもしれない。時々生じる末端組織での破廉恥な事柄が、決して「例外」ではなかっとしたら、救いよ
うがない。その典型的な事例を以下に示すことにする。



ある人が、罪を犯した。不健全な事柄とは知っていたが、排斥に至りかねない「重大な悪行」という認識
はなかった。いつしか月日が流れ、かつて犯した罪が、実は「重大な悪行」であることを知るようになる。
深く心を打たれたその人は、やがて良心の呵責に耐えられなくなり、聖書で非とする悪行を自分がかつて
犯したことを、会衆の長老に近づいて告白する。

この時点で、この人が深く悔い改めていたことは、想像するに難くない。そうでないなら、自分以外知ら
ない、しかも遠い過去の過ちについて、あえて長老に近づいて告白することなどあろうはずがない。しか
し、この人は、そのようにしないわけにはいかなかった。エホバの前にあって、そうすることが必要だと
自ら感じたので、そうした行動に出たわけである。

エホバの証人の司法制度では時効というものはない。早速、地元の会衆で審理委員会が設けられ、事実関
係が確認されていった。遠い過去の事件であり、証人もいない。本人の告白のみが審理の対象である。こ
の世の司法制度では自白だけでは裁けない事が多いが、エホバの証人の司法制度では、本人の告白のみで
も十分証拠として採用されることになっている。やがて、審理委員会の決定が伝えられた。それは、本人
にとってまったく予想外のものであった。決定は、その人をクリスチャン会衆から排斥するというもので
あった。それは、その人にとって「霊的な死刑宣告」を意味する。「もう、あなたはエホバの恵みを受け
るに値しない人、罪を犯しても悔い改めず、会衆に存在しているなら、他の人を腐敗させかねない邪悪な
人」と断定されたのである。「永遠の死」であるゲヘナの裁きがふさわしい人物とみなされたのである。


当人はその決定を不服としてただちに上訴した。普通、上訴というのは、決定が排斥の場合、それが納得
できるものでない場合に、行なうことができる。エホバの証人の司法制度では審理を行なう委員が検察官
兼裁判官であるため、逆の上訴、つまり、無罪という決定になった場合に、「検察側」が有罪を主張して
上訴するということはありえない。上訴は常に有罪という決定に対して、自分は無罪であると主張する
「被告人」の側が起こすものなのである。

ところで、審理委員会は、何故、彼を有罪としたのか? 罪の事実認定が問題になったわけではなかった。
今回の場合、罪を犯した本人から、いわば「自首」してきたわけである。世の中の裁判でも、犯人が誰か
分からない段階で自首して場合には、罪が軽減されることが多い。犯人が判明している段階でも、自首す
ることは、普通、裁判の判決に有利に働くだろう。それは当人が反省している証拠とみなされるからに他
ならない。エホバの証人の司法制度の場合も同様である。長老たちの「教科書」でも、当人が否定できな
い証拠が積まれた後に、しぶしぶ罪を認めたか、それとも自ら進んで告白したかは、悔い改めの有無を判
断するにあたって重要な指標となるとしている。

では、何故、有罪となったのか? 審理委員会において、たった一つの質問に対して「イエス」と言わな
かったためである。審理委員会では、罪を犯したという事実によって有罪になるわけではなく、それに対
して、当人がどう思っているか、つまり、罪を悔い改めて、立ち返りたいと願っているか、そうでないか
によって、無罪になるか有罪になるかが分かれることになる。もちろん、これは、難しい判断である。人
は本心では悔い改めていなくても、悔い改めているふりを演じることができるし、逆に、実は精一杯悔い
改めているのに、他の人には、そう映らない場合もあろう。

問題になった一つの質問、それは、「謝りなさい」というものだった。当人は何故か「すみません」の一
言が言えなかった。自分から進んで罪を告白し、長老たちに近づいたという事実で十分ではないか、もう
すでに自分は悔い改め、そして出直そうとしているのに、「よく勇気を出して告白してくれましたね。こ
れからは正しい良心を抱いて歩むことができます。一緒にがんばってゆきましょう」といった慰めや励ま
しの言葉はなかった。ただ、「謝れ」の一点張りである。彼は、あまりにも機械的で兄弟の愛情すら感じ
られない審理委員会の対応に失望した。自分から進んで罪を告白したものの、「すみませんでした」の一
言が出てこなかった。そして、「悔い改め不十分」として有罪となり、クリスチャン会衆から排斥された。


当人が上訴した結果、やがて、上訴委員会が組織された。エホバの証人の司法制度では、ここで初めて、
「検察官」と「裁判官」がそろうことになる。有罪の決定を下した審理委員会が「検察官」である。上訴
した当人は引き続き「被告」の立場である。上訴委員会が「裁判官」の立場になる。

上訴委員会は、審理委員会と「被告人」の両者の言い分を聞いて、どちらの言い分か正しいか、あるいは
理にかなっているかを判断することになる。審理委員会の言い分は、「悔い改め不十分」というものであ
った。「謝罪」しようとしなかったというのが、その主な根拠である。一方、「被告人」は、「自分は
過去に過ちを犯した。でも、それが『重大な悪行』とは知らなかった。そのことについて知って苦しんだ。
しかし、良心の痛みに耐えられず告白した。自分は確かに排斥に値する罪を犯したが、それは過去のこと
である。今は悔い改めてやり直そうとしている。『悔い改めていない』という審理委員会の判断には重大
な誤認があり、排斥処置は納得できない」というものであった。

上訴委員会は、両者の言い分を注意深く聞き、検討した結果、審理委員会が下した排斥という決定は明ら
かに誤りであるとして、無罪を言い渡した。審理委員会の決定を覆したのである。そして、無罪判決を支
部に伝えた。一件落着かと思った。しかし、事件はそれで終わらなかった。審理委員会は上訴委員会の決
定に納得しなかった。そして、その旨を支部に知らせてきた。


ここで初めて、審理委員会の側の上訴という事態が発生した。こうした事例はきわめて稀であるため、長
老たちの「教科書」にも詳述されていないが、こうした場合、「協会」(この場合は支部の奉仕事務所)
は、審理委員会と上訴委員会の双方が納得する一致点に到達するまで話し合うことを勧めている。そして
できれば全員一致の結論に達することを求める。そこで、審理委員会と上訴委員会の間で、何回かの話し
合いが持たれることになった。

一人の人が罪を犯した。これは確かなことである。しかし、彼は心を刺され、いわば本心に立ち返った。
エホバとの関係を正しいものにしたいと願って、あえて長老たちに自分から近づき、誰も知らない罪を告
白し、許しを希ったわけである。そこに悔い改めの「実質」が伴っていることは明らかであった。審理委
員会が有罪としたのは、謝罪の言葉がなかったという「形式」上の事柄だけであった。その人の心の状態
全体を把握した結論ではなかった。

ルカ15章には、有名な「放蕩息子」のたとえ話が載せられている。放蕩の限りをつくした息子が、やが
て本心に立ち返って家に戻ってきた時、父親はどうしたであろうか。「彼がまだ遠くにいる間に、父親は
彼の姿を見て哀れに思い、走って行ってその首を抱き、優しく口づけしたのです。」(ルカ15:20)。
この点について、「協会」の出版物である「これまでに生存した最も偉大な人」の本は、次のように注解
している。

   *** 偉 86  86 いなくなった息子に関する物語 ***
   
   たぶん父親は息子の放とうの生活について聞いていたことでしょう。それでも,詳しい説明を待た
   ずに息子を家に喜んで迎えます。イエスにもこのように喜んで迎える精神があります。イエスは,
   例えの中の放とう息子によって表わされている罪人や収税人たちにご自分のほうから近づかれる
   のです。

   確かに,イエスの例えに出てくる識別力のある父親は,戻って来た息子の悲しげな,打ちしおれた顔
   つきを見て,息子が悔い改めていることを幾らか察知しているに違いありません。しかし息子は,父
   親が優しく接してくれるので,自分の罪を打ち明けやすくなります。イエスはこう言われます。
   「その時,息子は言いました,『父上,わたしは天に対しても,あなたに対しても罪をおかしました。
   わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてくださ
   い』」。

ここで登場してくる父親は、帰ってきた息子に対して、「謝れ」とは言わなかった。その様子から、悔い
改めていることが良く分かったので、何も言わずに、やさしく息子を受け入れたのである。そうして受け
入れられて安堵した息子は、自分の本心を吐露することができたのである。この父親の態度に見倣うこと
は、それほど難しいことだろうか。


しかし、議論は平行線をたどった。審理委員会は自分たちの主張を頑なに降ろそうとしなかった。上訴委
員会も、自分たちの良心に照らして、明らかに排斥に値しない悔い改めた人を、会衆から追放するという
決定を支持することはできなかった。月日だけが容赦なく流れていった。

やがて、支部は、問題の結論がなかなか出ないことに苛立ち始め、暗に上訴委員会に審理委員会の決定を
支持するよう圧力をかけてきた。


ここで、審理委員会の構成について触れておこう。審理委員会というのは既述のように、検察官兼裁判官
の複数(通常3人)の審理委員に対して、罪を犯した人が一人で対峙することになっている。普通のエホ
バの証人なら、めったにそうした場面に直面することはない。普通は初めての経験である。一方、審理委
員を務める長老たちは、最近ではかなり日常的に、こうした審理問題を扱うことが多くなっているので、
そうしたことに未経験ということはあまりない。仮に、そうした経験の浅い長老がいたとしても、3人の
審理委員のうち、全員が初心者ということはまずない。従って、心理的に緊張し、圧力を感じるのは、通
常「被告人」の方であり、そうした面で被告人にとって不利な裁判であることは間違いない。それでもよ
しとしているのは、3人の霊的に円熟した兄弟たちが合議して物事を決定するなら、正しい決定をくだせ
るはずだという暗黙の「信頼関係」が、この司法制度を支えている。そして、審理委員会というのは、裁
きの場であると同時に、教える場でもあると長老たちは教えられている。愛情深い長老たちが、罪を犯し
た人を立ち直らせる場というわけである。同じクリスチャン兄弟仲間、しかも、愛情深く円熟した長老が、
道を踏み外してしまった罪人を、聖書の教えを通して悔い改めに導き、正しく整える場でもあるわけであ
る。従って、審理委員会に出頭するまでは悔い改めということを十分意識していなかった人が、数時間に
およぶ長老たちの説得で改心し、真の悔い改めを示して出直すことができたという事例も多くある。

それでも、どんな制度でも完璧ということはないので、決定に不服がある場合には、上訴の機会が設けら
れている。そして設けられた上訴委員会では、主張の異なる双方の意見が聴取される。一方は長老3人か
ら成る審理委員会のメンバーであり、一方は一人の「罪人」ある。通常なら、長老たちの意見を尊重しが
ちになる。それでも、上訴委員会を務めるほどの兄弟たちであるなら、一層円熟した兄弟たちが携わるは
ずであるから、公正さを保つよう精一杯、両者の言い分を予断なく聞くことに努めるはずである。そして
得られた結論が無罪なら、それはやはり無罪とすべきなのだろう。もし疑わしとしても、それは、通常の
場合、罪のありなしではないケースが多い。つまり、罪の有り無しではなく、当人が悔い改めているかど
うかが争点になるケースが圧倒的に多いのである。可能であるなら、心を切開して調べてみたいが、もし、
疑わしいとしても、それは「疑わしきは罰せず」でよいのではないだろうか。そうした時こそ、エホバを
待つ態度を示すべき時である。当人が会衆に存在すると、他の人に重大な悪影響を及ぼす恐れがない限り、
そのくらいの寛容さを示してもよいのではないだろうか。


さて、話を戻すことにする。上訴委員会は、粘り強く物事を進めてゆき、たとえ上位の権威である支部の
圧力といえども、それに安易に屈することはしなかった。彼らは自分たちの良心にかけて、悔い改めてい
ることが明らかと思える人を会衆から追放するという決定に、心から同意することはできなかった。それ
は、レイモンド・フランズ氏と同様、良心の問題であった。別にどうでもいいことだと考えて、支部の言い
なりになることは、簡単であった。しかし、彼らの良心はそれを許さなかった。

さて、悔い改めに関してであるが、仮に100歩譲って、もし悔い改めが不十分であるとしても、かなり
過去の事件に対して、そこまで過酷な処分をする必要性があるとは、上訴委員会にとって到底思えなかっ
た。こんなことも考えたようだ。仮に排斥処分が妥当だとして誤って無罪にすることによって受ける会衆
の不利益と、仮に排斥処分が不適切であるにもかかわらず誤って有罪とすることによって受ける本人の不
利益とを比較考量した場合に、果たしてどちらの方が重大であろうかという点である。上訴委員たちは、
後者の方が重大であると感じた。

しかし、あまりにも長い間、この問題に結論が出せないことはますます支部を苛立たせていた。審理委員
たちも、上訴委員たちも、この案件だけを扱っていればよいわけではない。他のやるべき事柄は山のよう
にあった。早く、面倒な仕事から解放されたかった。しかし、一人の兄弟の「霊的な命」が関係していた。
いいかげんに済ませることはできなかった。相当な時間が経過しても、審理委員会の意見は変わらず、上
訴委員会の意見も変わらなかった。

ついに、最終決定が支部に委ねられることになった。そして支部が下した最終決定は、審理委員会の下し
た有罪判決を支持するものであった。遠い過去に犯した自らの罪を進んで告白してきた人は、「邪悪な人」
として会衆から追放された。そもそも会衆の他の人たちは、その人が何故排斥されたのか知らされないの
である。そして、無条件に、排斥者とは交わらないように、挨拶をしてもいけないと教えられているので
ある。長老たちが下した決定に疑問をさしはさんだりしてもいけないと教えられているのである。その決
定が会衆に発表された瞬間に、当人は、会衆との交友関係をすべて完璧に絶たれてしまうのである。


これは、会衆という末端組織で起きた、不幸にして極めて例外的な事件であると、これまで思っていた。
いや、そう思うように努めてきた。いろいろな会衆にはいろいろな人たちがいる。いろいろな長老たちも
いる。「でも、3人の長老が下す決定なのだから間違うということはめったにないのではないか?」と思
われる方がいるかもしれない。しかし、3人の長老といっても、審理委員会を構成する委員たちは、普段、
同じ会衆で活動している人たちである。その中に「有力者」として振舞っている長老がいるとすれば、他
の2人の長老は、自分の判断ではなく、その「有力な長老」の意見に従うよう暗黙の圧力を感じることは
十分に考えられる。そして、事実上、一人の長老の意見で裁いてしまうということが十分起こり得るので
ある。


それにしても、エホバの証人の司法制度はどうなっているのだろうか? きちんと機能していないのでは
ないか。仮に、審理委員会が間違った決定を下しても、上訴委員会という仕組みが健全に機能していれば、
そこで誤りを正せるはずである。しかし、せっかく、上訴委員会が審理委員会の間違いを指摘したとして
も、一度下された決定は、容易には覆らなかった。支部は公正さを貫くことよりも、まるで、事務処理の
滞りはまずいと言わんばかりに、「さっさと済ませよ」という態度であった。これも、「良心の危機」に
一貫して見られる本部の態度とそっくりである。そして、容易に妥協が得られない雰囲気を察知すると、
「疑わしきは罰せず」ではなく、「権威を保つ」ことを優先させた。

後で知ったことであるが、審理委員会のメンバーの一人は、逐一送られてくる協会の手紙のレターヘッド
の暗号のような記号から、その筆記者を割り出し、自分たちの決定を支持するよう、支部の有力者に頼み
込んでいたのである。そこまでして彼が守りたかったものは、一体何だったのか?



以上が、ある事件の事例である。これまで、数多くの審理問題をみてきたが、普通、地元会衆の長老たち
が行なう審理委員会の多くは、概ね公正に扱われていると、今でも信じている。しかも、万が一誤った判
断を下しても、それを救済する手段が設けられていると考えていた。しかし、上訴委員会の仕組みは、実
際にはかなり不十分なものであることが。今回の事例で判明した。そして、そうした仕組みに熟知した審
理委員が裏工作を行なえば、自分たちの思い通りの結論を導くように支部を動かすことさえ可能なのだ。

これも後で知ったことであるが、「上訴委員会は、審理委員会において手順の誤りがなければ、その決定
を追認すべきである」というのが、この組織中枢の基本的な考えのようである。手順の誤りとは、そもそ
も罪に実質がない(つまり、排斥に値するような罪が犯されていない)場合、審理委員会の開催手順が間
違っている場合、証拠が不十分である(本人が罪を否定しており、2人以上の証人がいないような)場合
などを指している。そうした基本的なミスがない限り、審理委員会の決定を追認して、上訴した本人を
「納得」させるのが、上訴委員会の「本来」の役割として期待されているということである。上訴委員会
は正義を追及し、正しい決定を導く場ではなく、審理委員会の決定を形式的に追認し、「罪人」にあきら
めさせる、あるいは、「エホバの証人は、上訴という場を設けて、公正な裁判を保証していますよ」とい
う形ばかりの公正さを整える飾り物というわけである。この点も、あまりにも「良心の危機」に描かれて
いる事柄との似ている。


こうした情報は、にわかには信じがたいものがあるかもしれない。しかし、事実である。しかも、「良心
の危機」で分かったことは、こうした事柄が一会衆あるいは一支部だけの問題ではないことである。本部
組織までがそうだとしたら、救いようがない。むしろ、末端会衆組織で演じられている大半の審理委員会
の方が、全体としてはよほど公正さを追求している。一生懸命公正な裁きを行なおうと日夜奮闘している
会衆の兄弟たちがたくさんいることを、私は知っている。時にはそうした人たちも過ちを犯すかもしれな
いが、それは一部分である。しかし、その一部分の過ちが正される可能性は極めて少ない。

これは、何を意味するかというと、一度、地元の長老に睨まれた一般のエホバの証人は、注意した方がい
いということである。特に審理問題に係わったら、不利な判決を覚悟した方がいい。上訴してもその決定
が覆る可能性は極めて薄い。紹介した事例の審理委員会のメンバーの一人は、後ほど、こんなことも言っ
ていた。「上訴するのは分かっていたよ。排斥の決定を伝えた時に、俺をすごい形相で睨んでいたからね。
でも、これでアイツも俺たちに逆らえばどうなるか思い知っただろう。」


この組織のすべての人が、上から下まで、こうした「鋼鉄の手」をした人で構成されているわけではない
だろう。しかし、もし「鋼鉄の手」が、この組織の主だった特徴であるなら、あるいは、いつでも主要な
特徴ではないとしても、ここぞという重要な場面では、「鋼鉄の手」が剥き出しになるとしたら、やはり、
「鋼鉄の手」は、この組織の本質的な部分であるということになる。確かに、普段は、「柔らかい手袋」
をしていて、その下に「鋼鉄の手」が隠されていることは感じさせないかもしれないが、「鋼鉄の手」が
プラスチックの手に変身することは期待できない。まして、あたたかい血の通う人間の手になることは、
決してないのである。



2001年4月23日

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ナンセンスな「群れの書籍研究」

「ナンセンス=nonsense」とは、辞書によると、「無意味な言葉、たわごと、ばかげたこと、途方もない
こと、でたらめ」などとある。まあ、「でたらめ」とまでは言わないまでも、「無意味な言葉、たわごと、
ばかげたこと」、このくらいの表現を使っても、言い過ぎではないだろう。現在、エホバの証人が、毎週
「群れの書籍研究」で行なっている事柄に関してである。

その書籍研究で使っているテキスト「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」の本(以下「創造
者」の本と略称)は、1998年夏の地域大会で新しい書籍として発表されたものである。エホバの証人
の会衆の毎週の「群れの書籍研究」で、今年の2月からテキストとして用いられている。この本を用いた
書籍研究は、今年の7月いっぱいまで続けられる予定になっている。

すでに半ば近く程度まで研究が進んだ現段階において、多くのエホバの証人は、この本の研究に相当嫌気
がさしているように見受けられる。

  「ぜんぜん分かんな〜い。」
  「でも、一番分かっていないのは司会者の○○兄弟みたいよ!」
  「いったいどうなっているの? もう、勘弁してよ!」

といった声がおおっぴらに聞こえてくる。これはエホバの証人の社会にあっては、かなり珍しい現象とい
える。かく言う私自身も、嫌気がさしている一人である。


何故、そうした状況になっているのか? 理由はいくつか挙げられると思う。例えば、

  ●内容が非常に専門的である(書かれている内容を本当に理解するには大学の専門教育を経験した人
   でないと多分無理だと思われる)
  ●説明が難しい(たとえ難しい内容の事柄であっても、それをやさしく噛み砕いて解説することは可
   能である。これは大学の専門教育ではなく、小学生や中学生、主婦、お年寄りなど幅広い層の人た
   ちが参加している宗教教育なのだから、なおさらそうすべきである。しかし、この本はそうした努
   力をほとんど放棄しているように思える。ただ、筆者の自己満足のためだけに著したのではないか
   と思えるほどぞんざいな説明に終始している。あるいは故意にそうしているのかもしれない。それ
   は、読者に正しい理解を与えるためではなく、別の目的・意図で書かれた可能性を示唆している)
  ●普段あまり考えたことがないことが書かれているので、内容に容易になじめない
  ●司会者さえよく分かっていない状況があるようであり、書籍研究としての本来の役割である「教え
   る」ということが果たされていない(理解していない者同士が集まって論じ合っても、時間の無駄
   である)
   
などの点が挙げられる。私は、こうした「書籍研究」の現状を憂い、そこに存在する問題点を指摘してみ
たいと思う。


【この本はどういう本か】

まず、この書籍がどのようなものなのか、概略を理解しておく必要があるだろう。「王国宣教」1999
年4月号には、次のような記事が載っている。

   *** 宣 99/4 7  「創造者」の本を提供できますか ***

   昨年,わたしたちすべては,「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」という本を受け取っ
   て大いに喜びました。この本は,一般的な教育を十分に受けていても,神の存在を信じていない人々
   を特に対象として準備されました。

   実際的な理由から,月々の提供文書には幅広い層の人々に訴えるものが選ばれます。では,「創造者」
   の本を提供するのを控えたほうがよいでしょうか。そのようなことは決してありません。この本は,
   神を信じていないものの,この本から益を受けそうな人に,一年を通じていつでも提供できます。ま
   たこの本は,神を信じている人でも,神とはだれか,どのような特質の方で,どのような目的を持って
   おられるかに関して,はっきりした概念を抱いていない人にも提供できます。それで,ぜひ証言かば
   んに配布用として1冊入れておき,この本に興味を持ちそうな人に渡せるようにしておくのがよいで
   しょう。「創造者」の本に加え,「崇拝」,『永遠に生きる』,『啓示の書の最高潮』の本も,それか
   ら益を得られると思える研究生や区域の人々に積極的に提供できるでしょう。

ここで明らかなことは、この本の対象者がはっきりと明言されていることである。「一般的な教育を十分
に受けていても、神の存在を信じていない人々」が対象となっている。つまり、いわゆる高等教育を受け
た人を主な対象としているというわけである。


また、「目ざめよ!」誌の1999年6月22日号の裏表紙には、次のように書かれている。

   *** 目99 6/22 32  宇宙に対する洞察 ***

   「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」と題する新しい本の,「宇宙はどのようにして
   生じたか―創世をめぐる論議」という章から得られるのは,まさにこの宇宙に対する洞察です。し
   かし,それだけではありません。生命がどのように始まったのか―偶然か,それとも創造か―という
   問題も取り上げています。

   米国のある物理学教授は次のように述べています。「この本は,宇宙物理学,分子生物学,そして人
   体解剖学において,単なる偶然では説明のつかないひときわ重要な謎の幾つかを取り上げている。
   技術的な側面に過度にとらわれることなく,問題となる点をはっきりと説明している。この本は読
   者と共に推論しながら,第一線の科学者たちの言葉を多く引用している。科学者でも普通の人でも,
   宇宙や生命の起源に関心のある人にとって,これは『必読の書』である」。

お分かりのように、この本では、ある種の専門的な事柄が扱われており、それは、主に次の3つ

  ●宇宙の起源
  ●生命の起源
  ●人間の脳

である。この本は、こうした分野の最近の科学的成果を踏まえつつ、聖書や創造者の概念とのかかわりを
説明しようとしているものらしい。


どうやら着想はよかったようだ。科学的な内容についても、とりあえず、昔発行された「生命どのように
して存在するようになったか〜進化かそれとも創造か」(「生命」の本と略称)よりは、陳腐な表現が減
っている。多少ましになった部分が確かにある。しかし、全体的な説明やその合理性、その緻密さ程度と
いうことになると、まったくひどいものである。とりわけ、問題なのは、そこで扱われている科学的事実
はともかく、そこで展開される論理と導き出される結論がめちゃくちゃであるということである。以下順
を追って説明してみることにしよう。


【宇宙の起源】

宇宙の起源については、主に、この本の2章で扱われている。まず、宇宙に「始まりがあった証拠」が取
り上げられる。よく知られている膨張宇宙説である。この点に関する科学的な説明は概ね正しいものと思
われる。「思われる」というのは、私自身天文学者ではないので、厳密な判断ができないからであるが、
理解できる範囲では、事実と大きく矛盾する事柄はないように思われる。

問題は、「では、何故、膨張宇宙なのか」という点に議論が進んだ時に起きてくる。例えば、本文の12
ページ1節(この本には節の番号は付されていないが、便宜的に同じページにある複数の段落について、
新たに段落がスタートしている順番に1節、2節、・・・と呼ぶことにする)では、『何らかのものがそ
の過程を始動させたはずであり、それは、全宇宙の測り難いほどの引力に打ち勝つだけの強力な力です』
と説明している(この本の本文中からの引用は二重括弧で示すことにする)。

もともと、この3次元(時間軸は除外する)宇宙空間の住人である人間は、この宇宙に関しては、ほんの
幼児にも至らない存在である。まさに聖書が述べる通り「塵のような存在」である。その人間が得ている
科学的知識でようやく宇宙の成り立ちの概略、入り口の扉のかすかな光の痕跡がぼんやりと説明できるよ
うになった段階である。まだ、地球のことも、太陽系のことも、もちろん、銀河系のことも、宇宙全体の
ことも、人間には分からないことだらけである。まして、宇宙の始まりというとてつもない高エネルギー
状態、つまり特異点状態の解明は、困難を極める事柄である。宇宙の始まりに近づけば近づくほど、現在
人間が理解している物理法則が成立しなくなる世界である。まして、宇宙空間の住人である人間は、その
宇宙空間の外で起きている(あるいは起きた)事柄については、本質的に知る術がない。この宇宙空間の
中で起きている事柄については、物理学で理解することができる。現在の物理学で理解できないとしても、
いずれ、理解の域に到達することができるかもしれない。しかし、宇宙空間の外で起きている事柄につい
ては、私たちは本質的に不可知なのである。従って、『何らかのものがその過程を始動させたはずであり、
それは、全宇宙の測り難いほどの引力に打ち勝つだけの強力な力です』という説明は、まったくのナンセ
ンスということになる。宇宙空間外の事柄を、自分たちの宇宙空間内だけに通用する既存の概念で、説明
しようとしているからである。既存の概念が通用しない世界があることを、私たちは認めなければならな
い。まして、宇宙創世については、まったく未知の事柄が山積みされているのである。軽軽に『何らかの
ものが、その過程を始動させたはずである』などと断定することは、とてもできないのである。

もっとも、この本は科学の教科書ではなく、宗教の本である。しかし、宗教の本だから、科学的に道理に
合わない事柄や大幅な論理の飛躍を自由に行なってかまわないという訳ではない。もちろん、表現の自由
は存在するが、そうした「表現の自由」は厳しい批判にさらされることになる。特に、この本のように、
素材として科学を中心的な主題として取り上げて、それに宗教的な考察を加えてゆこうという場合は、な
おさらである。


13ページ1節では、こんなことも述べられている。『これは、単なるエネルギーの源以上のものを暗示
しています。先見と知恵も必要なのです。膨張の割合がきわめて微妙に調整されていることがうかがえる
からです』。確かに、宇宙の膨張の割合は、ある意味で非常に微妙なものとなっていることは確かである。
宇宙の膨張が今後どうなるのか、膨張がやがて宇宙空間内のすべての物質の重力によってとまり、逆の方
向、つまりビッグクランチに向かって、反転する時が訪れるのか、それとも、このまま永久に膨張を続け
てゆくのか、という重要な問題が横たわっている。現在までの科学者による観測では、この点でのはっき
りした結論がまだ出ていない。そのくらい微妙な問題である。そうであるからこそ、宇宙は長い期間存続
して、その間に、星が誕生し、生命が育まれる環境が出現した。これは、確かに素晴らしいことである。
でも、そこに、『先見と知恵』が働いていたかどうかは、まったく分からない。「人間主義」の立場に立
てば、「人間が誕生したからこそ、人間が誕生可能な絶妙な宇宙を観察することができて、そうした事柄
を考察することができるようになった。逆に絶妙なバランスが保たれていなかったら、人間のような生命
が生まれなかったので、絶妙な宇宙について考えることもなかった。結局、絶妙な宇宙のバランスとそれ
を観測する人間の存在は1:1に対応する事柄、表裏一体の事柄なのである」。これが「人間主義」の主
な考え方である。これは物理学者を魅了する考え方のようである。そして、この考え方を否定することは
論理的にむずかしい。

少なくとも、『先見と知恵が必要』という議論は、飛躍し過ぎていてついてゆくことができない。勝手に
そう信じたいというなら、「どうぞご自由に!」ということになるが、それを振りかざして、「どうだ、
まいったか」とやられると、簡単にはやられたくない気持ちになってしまう。

ついでに述べるなら、この本の筆者は、現在の宇宙の膨張が将来どうなると予想しているのだろうか。い
つまでも、膨張が永遠に続くというだろうか。それなら、後ほど取り上げられる「エントロピー増大の法
則」によって、宇宙は限りなく均質化してゆき、最終的には星も輝かない死の世界となることを、どのよ
うに説明するのだろうか。そのときは「全能の神がよきに取り計らう」と期待するのだろうか。あるいは、
いつか現在の膨張が止まり、収縮に転じると考えているのだろうか。それなら、いつか再び、灼熱の宇宙
創世時に逆戻りすることになる。その時、すべての物質は崩壊することをどのように防ぐのだろうか。そ
れも、「神がよきに取り計らう」ことになるというのだろうか。あるいは、神は、これ以上膨張すること
もなく、収縮することもない第三の道、つまり「定常的な安定状態」を保つとでも考えているのだろうか。
それは、一昔前の科学者が論じていた「定常宇宙論」とどのような違いがあるのだろうか。あるいは、そ
うしたことすべては、現在の人間が考えるべきことではないと言うのだろうか。それなら、『先見と知恵』
について、現在の「幼稚な科学」を尺度にして論じることもやめてもらいたい。


14ページからの『始まりについて説明する試み』という副見出しからの部分では、現代の科学が、宇宙
の起源について十分に説明できない現状を紹介した後に、16ページの1節で、『わたしたちは、どこか
ほかの所に説明を求めるべきではないでしょうか』と述べている。これは、きわめて短絡的な結論である。
既述のように、この深遠な宇宙の中でも最も難問の一つが簡単に説明できないからといって、「では、科
学は失格、次は宗教の出番ですよ」という論理は、説得力がまるでない。


続く、17ページからの『微妙な調和』という副見出しでは、宇宙の「4つの力」についての考察がなさ
れている。それにしても何とも高級な事柄を取り扱うものである。何故、4つの力なのか、本当にこうし
た事例が、この本の意図している事柄の説明に欠かせないものなのかどうか、それとも、兄弟・姉妹たち
が、普段聞いたこともない事柄を持ち出して、もっともらしく「解き明かす」ことによって、「協会は何
でも知っている→こんな科学的の最先端の事柄でさえ、聖書的解釈を加えることができる。やはり真理の
力はすばらしい」。そうした感想を抱くかもしれない演出効果を狙っているのだろうか。そうだとしたら、
残念ながら、この本の著者はあまり成功していない。4つの力についてわずか数ページで解説しても、9
9%以上のエホバの証人は理解できない。それに基づいたどんな議論も、たとえ、読者を一時的に感銘さ
せることができたとしても、それは一時的なことでしかない。まして、他の人にこうした事柄を用いて、
説得することなど望みようもない。


実際、深遠な聖書の奥深い事柄を、日常的に生じる身近な簡単なたとえで納得しやすいように説明したの
は、他ならぬイエス・キリストであった。「ものみの塔協会」もそのことはよく知っているはずではない
か。一例を示すだけで十分であろう。

   *** 塔99 3/15 19-20  洞察力と説得力のある教え方をしなさい ***
   
   16 例えは,人々の生活に関連したものであれば最も効果的です。ナタンの語った,ほふられた子羊の
   例えがダビデ王の心を動かしたのは,若いころに羊飼いだったダビデが,羊に愛着を抱いていたから
   です。(サムエル第一 16:11-13。サムエル第二 12:1-7)もしその例えで雄牛を挙げていたなら,同
   じほどの効果は得られなかったでしょう。同様に,科学現象や,歴史上のなじみの薄い出来事に基づ
   いた例えは,聴き手にとってほとんど意味を持たないでしょう。イエスは,日常生活の事柄を例えの
   題材にされました。ともしび,天の鳥,野のゆりなど,ごくありふれた事柄について語ったのです。
   (マタイ 5:15,16; 6:26,28)イエスの話を聞いた人は,そうした事柄を容易に思い浮かべることが
   できました。


24ページからの『法則と秩序』の副見出しでは、さらにひどいことになる。25ページの1節で、いき
なり『エントロピー』という言葉が、何の説明もなしに出てくる。この本の筆者は、神権宣教学校をやり
直した方がよいのではないだろうか。「神権宣教学校案内書」の研究35「野外宣教に適応させた資料」
の項目では、以下のような提案が記されている。

   *** 神権宣教学校案内書 P173***

   私たちは、聖書を理解することによって、一般にはあまり知られていない語彙を持っています。
   「残れる者」、「他の羊」その他の言葉を用います。しかし、野外宣教で会う人々と話すさい、
   そうした表現を用いたのでは、それは普通、なんら意味を伝えません。そうした表現を理解させ
   るには、適当な同意語の表現または説明を加えて意味を明らかにしなければなりません。

こうしたことを教えているなら、自分たちが、仲間の信者を教える際にも、こうした原則を適用したらい
かがであろうか。『エントロピー』という言葉を持ち出すなら、それなりの説明を加えるべきだし、説明
を加えるのが面倒であるというなら、そうした語彙は持ち出さないことである。持ち出したって、何の意
味もないからである。せいぜい、司会者を困らせるか、聞いている成員を困惑させるか、「何か分からな
いがずいぶん難しいことを知っているな」と畏敬の念をかもし出す程度の効果が関の山である。そんなこ
とをしてうれしいなら、もっと専門用語をどんどん使えばよい。しかし、「聖書教育を行なっています」
という看板は下ろした方がいい。


【生命の起源】

第3章は、「生命はどのようにして始まったか」という主題である。文字通り、生命の発生に関する科学
的な事実との調和を試みた章となっている。

では、出来栄えをみてみたい。31〜34ページにかけて、本書は、生命の自然発生説を批判したパスツ
ールの微生物に関する発見について言及し、そこから論理を展開している。これは、エホバの証人が好ん
で用いる事例であり、公開講演などでも、よく耳にするおなじみの論理である。どのような論理かという
と、概略、以下のようなものである。

  @腐った肉にウジが「わく」のは、そこにハエがタマゴを産みつけたからであり、自然に発生したの
   ではない
  A同様に、微生物も自然には発生しない(例えば、滅菌処理した水の中にはバクテリアなどの微生物
   は発生しない)ことをパスツールは証明した
  Bこれまで、どんな実験によっても、無性の物質から生命が造り出されたことはない
  C従って、人間が考え出した生命誕生のシナリオは空想の産物であり、仮説上のドラマに過ぎない。
   それはフィクションである

この議論は、論理的で筋道の通ったものだろうか。検証してみよう。@は事実として正しい。Aも事実と
して正しい。パスツールの発見に異議を唱える人は今日ほとんどいない。Bも正しいように思える。こん
なことを達成したらノーベル賞間違いなしである。

では、上記の論理に問題はないのか。とんでもない。問題は大いにある。こうした事実の羅列をどのよう
に結び付け関連づけるかが問題なのである。@やAは、「ウジがわく」という言葉にも名残があるように、
人間の見た目には分からない事柄が、目に見えない小さなタマゴや微生物の仕業であるということを証明
しているに過ぎない。目には見えなくても、タマゴがあれば、「わく」ようにしてウジが発生する。しか
し、それは、人間の目に見えないタマゴや微生物の存在を示したに過ぎず、無性の物質から生命が造りだ
される可能性を否定したというわけではない。まして、無性の物質から生命が造りだされる証拠が現段階
において十分存在しないことを持ち出して、初期地球における生命の誕生まで否定してしまうというのは、
明らかに論理の飛躍である。「シャーレーを滅菌して、栄養素を与え、十分な時間放置したが、何も発生
しなかった。従って、古代地球において、生命が発生したというのは間違いである」と述べているわけで
ある。「動物園で朝から晩までサルの挙動を観察してみたが、結局、人間にはならなかった。1週間観察
しても同じだった。1年間観察しても同じだった。従って、サルが人間に進化したというのは間違いであ
る」などと言ったら、人にばかにされるのがオチだ。でも、ほぼそれと似たような議論が、ここでは展開
されているわけである。


34〜35ページの論議からは、有名なスタンレー・ミラーのアミノ酸合成実験に対するケチつけである。
これは、原始大気として水素、アンモニア、メタン、水蒸気などを想定し、フラスコの中で放電を起こし
たら、グリシン、アラニン、バリン、アスパラギン酸という4種類のアミノ酸が合成されたことについて
触れたものである。これらはアミノ酸の中では比較的低分子の化合物であるが、それでも、たんぱく質の
元となる20種類の必須アミノ酸のうちの4種類が実験的に造りだされたわけである。これは率直に画期
的なことと認めなければならない。条件設定が好都合に設定されていたにしてもである。とにかく、そう
したたんぱく質の原料が合成され得るということを確かめたということは重要なことといえる。それに対
する「ものみの塔協会」の論理は、かつて「生命」の本の中で、述べられているが、お世辞にも誉められ
たものではない。

   *** 創 40  4 生命は偶然に生じるか ***
   
   8 1953年,スタンレー・ミラーは,水素,メタン,アンモニア,水蒸気から成る「大気」の中に電気火花
   を通しました。それは,広く存在し,タンパク質の構成材料となる多くのアミノ酸のうちの幾つかを
   生じさせました。しかし彼は,生命が存在するために必要な20種類のアミノ酸のうちの四つを得ただ
   けです。その30年以上のちにも,科学者たちは,もっともと思われる条件下で,必要な20種類のアミノ
   酸すべてを実験的に造り出すことはまだできていません。

「必要なアミノ酸20種類のうち、わずか4種類しか造りだしていないからたいしたことはない」という
ここでの論議は、いかにも苦し紛れである。赤面ものである。

今回の「創造者」の本では、この論理はさすがに恥ずかしいとみえて引っ込め、もっと科学的な論理を展
開しようと試みている。原始の大気が還元性のものであったという仮定が根拠が薄いと攻撃している。こ
れは、確かに、最近の科学で論じられている事柄である。しかし、原始大気については、まだ仮説の域を
出ない段階であり、いろいろな意見が自由になされてよいのではないだろうか。そうした中で、少なくと
も、ある種の条件下ではアミノ酸が合成され得るというスタンレー・ミラーの成果を、もっと素朴に評価
してもよいのではないだろうか。神が同じような合成手段を用いなかったという証拠はないのだし。


【人間の脳】

第4章「人間はきわめて特異な存在!」の部分に移ることにしよう。

50〜52ページにかけて、脳が現在人間の手にしているコンピュータに比べて、けた違いに優れている
ことが繰り返し述べられている。確かに、脳は現在の人間が理解しがたい複雑さや神秘さを秘めている。
でも、それを現在のコンピュータと比較して、どうこう論じること自体ナンセンスな話である。

コンピュータでさえ、ここ数十年の進歩は驚異的なものがある。初歩的なトランジスタを用いたコンピュ
ータと現在のパソコンを比べると、格段の進歩が見られることには、多くの人が認めるところである。人
間の神経組織を真似たニューロコンピュータ、あいまいな概念を理解したり、処理できるコンピュータの
出現、また、最近では、自己修復機能をもったコンピュータの開発にIBMが乗り出したというニュース
もある。これから、10年後、50年後、100年後のコンピュータが、どの程度のレベルに達している
のか、想像することすらむずかしい。「2001年宇宙の旅」に登場してくるコンピュータ「HALL」
がおよびもつかない事柄を可能にしていることが有り得るのである。では、脳とコンピュータを早計に比
較して、コンピュータは脳にはるかに及ばないといって喜んで何がうれしいのか。それは、現時点では確
かに事実だが、本質的にコンピュータが脳に及ばないことの証明には、何ら貢献しない。


62ページからの「記憶装置、いや、それ以上のもの!」という副見出しの部分では、人間の脳の優れた
能力に言及されている。とりわけ、人間が意識をもつこと、ものごとの分析、創造、評価、愛する能力な
どに注目し、そうした能力が動物と人間を決定的に異ならせるものであると論じている。『犬や猫や小鳥
は、鏡の中をのぞいても、同類の別のものを見ているように反応します。しかし、あなたは、鏡を見ると
き、ここで述べたような能力を備えたものとして自分自身を意識します』とある。

でも、最近の霊長類研究の進歩において、必ずしも、そうではないことが証明されつつあるようだ。ゴリ
ラが、自分のために与えられたペットの子猫の死を悲しんで泣いたり、鏡を使って、飼い主である人間を
からかったりする事例が報告されている。もちろん、すべてのゴリラではない。人間とゴリラの違いも歴
然である。しかし、人間の脳がいかに優れていても、それは、進化とか創造とかという点を判別するうえ
で、何の証明にもならないということである。


66ページからは芸術に関して、68ページからは道徳的価値観について触れられている。確かに、そう
した点で、人間が特異な存在であることに異論はない。でも、それは、進化論者も認めていることではな
いか。だから人間は神によって創造されたというのは、一方的な思い込みに過ぎない。


【おまけ】

第5章では、2〜4章の総括編として、何らかの結論を導き出そうとしている。「造り出されたもの―そ
の背後にあるものは何か」という表題がついている。

この章で、一番「傑作」なのは、78ページで展開されている論理である。

  @宇宙に始まりがあったかどうか
  A始まりがあったのなら、その原因となるものがあったのかどうか
  B原因となるものがあったのなら、それは、とこしえの存在物が存在者か

という論理で、最終的に、「とこしえの存在者が宇宙を創造した」という結論を導きだしている。

こうしたあまりにストレートな議論にはとまどってしまう。@とAはよしとしよう。でも、どうして、存
在物か存在者かという疑問に、すぐに答えが出せるのだろうか。「私は存在者がいて欲しいと思う」とい
うのならまだ分かる。「どうぞお好きなように!」と答えるだけである。でも、「存在者がいることが道
理にかなった結論である」と言われると、「何故?」と考えてしまう。筆者の頭は、宗教と科学がごちゃ
混ぜになって、カオス状態となってしまったのではないか。神を信じる者なら、存在者がいてよいわけで
あるが、それを科学を道具にして論証したようにみせかけるのはやめて欲しい。


【結論】

結論は明らかである。やはり、この「創造」の本は、冒頭の定義に従って、ナンセンスそのものである。
その本を用いた「群れの書籍研究」もナンセンスそのものである。7月まで続けるのがつらいと感じてい
る司会者も多いことであろう。それは、単に内容がなじめないというだけではないはずである。

「進化か創造か」、この問題は、深遠な問題である。進化論も創造説も仮説の域を出ないのであるならば、
どちらを選ぶのかは、かなりの程度、好みの問題ともいえる。少なくとも、証拠の点から、創造説を証明
することは困難である。それを無理やり行なおうとすると、こうした陳腐な本が出来上がってしまうとい
う典型的な例を示している。逆に、創造説の根拠の希薄さを裏付けてしまう結果になりかねない。

聖書は神が人間を創ったと述べている。宇宙も神が創ったと述べている。その宇宙が長い期間を経て、人
間という生き物をこの宇宙に生み出したのなら、それは、やはり神が人間を造ったことになるのではない
だろうか。「ものみの塔協会」では、「進化の過程を通して造ったとは聖書は述べていない」と論じてい
る(「論じる」P234〜235)が、聖書はそうしたことを必ずしも否定しているわけでもない。創世
記の既述は、「最初の人間を塵から造った」と述べているが、聖書が科学の本ではないといっておきなが
ら、何故、この部分だけは文字通りでないといけないのか。象徴的な表現と受け止めていけない理由があ
るなら、それを是非示して欲しいものである。


硬直的な説明は、結局、理解を遠ざけるだけである。真理をつかんでいる、あるいは、さらに真理を得た
いと願う人の集まりなら、真理を取り扱うにふさわしい立派な見識を示すべきであろう。



2001年4月29日

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ハルマゲドンとマインド・コントロール

【ハルマゲドン考】

エホバの証人が、ハルマゲドンの到来を警告していることは広く知られている。来たるべき大患難の最高
潮であるハルマゲドンで、神に従う者は救われ、そうでない者は滅ぼされるというわけである。ここで神
に従う者とは、端的に言えば「エホバの証人」自身を指している。この点については、「エホバの証人だ
けが救われるというのはいかにも独善的である。エホバの証人の組織に入っているかどうかで、永遠の命
か永遠の滅びかというきわめて重大な事柄が決定されてしまうというのは聖書的な教えではない」という
批判があるのは当然であろう。

さまざまな出版物で明らかにされている「ハルマゲドンの裁き」に関する「ものみの塔協会」の考え方は、
以下の通りである。

  @ハルマゲドンの際に、すべての人は従順な「羊」か不従順な「山羊」に分けられる。
  Aエホバの証人は「羊」として分けられ、永遠の命をいただける。
  B誰が「羊」か「山羊」かは、エホバの証人が伝える音信に対して好意的に応じるかそうでないかで
   決る。もちろん、単に一時的に好意を示すだけでは不十分で、最終的にはバプテスマを受けてエホ
   バの証人になって神に熱心に仕えなければならない。
  Cハルマゲドンの滅びが公正なものとなるためには、すべての人に十分な音信が届けられなければな
   らない。そのことがどのように最終的に達成されるかは定かではない(現在の家から家に宣べ伝え
   る方法では、すべての人に音信が届き切らないことは「ものみの塔協会」も認めているようだ)が、
   神は人間が想像もできない方法で成し遂げるかもしれない(「ものみの塔」誌1966年30ページ「読
   者から質問」参照)。しかし、マタイ10:23によると、最終的にすべての人に音信が届くというこ
   とはない(「ものみの塔」誌1962年383ページ「読者からの質問」参照)可能性も示唆されている。
   そうした人たちが最終的にどうなるかは、公正の神が判断されることであるが、「ものみの塔」誌
   1966年30ページ「読者から質問」では、『中共その他、どこの国にいても、「山羊」に相当する人
   々は、「のろわれた者」と宣告され、「最後」を生き残って神の新しい秩序にはいる事を許されま
   せん』と断言している。その後、「ものみの塔協会」の見解は多少修正され、そうした人たちが滅ぼ
   されると断定せずに、神の公正な裁きに委ねる態度を示唆している。音信を聞かなかった人たちが
   どうなるかは定かではないにしろ、公正な神が良きに計らうということになっている(「ものみの
   塔」誌1998年8月15日号20ページ18節参照)。
  D近年ではない過去の長い人類史で大勢いたであろう不義者は永遠の滅びではなく、いずれ復活する
   (使徒24:15)。

ここで、いくつかの問題点が提起される。

  @エホバの証人だけが救われるというのは、本当に聖書的な教えであり義にかなったことなのか?
  Aその他の人たちが永遠の滅びと断罪されるのは、本当に義にかなったことなのか?
  B仮に上記のようにならないとしたら、ハルマゲドンそのものの価値が失われないのか?

現代は終わりの日=裁きの日であり、「ものみの塔協会」の考え方に従うと、約600万人のエホバの証
人を除く約60億人の現存する民のほとんど(約59億9400万人)は滅ぼされてしまうことになる。
一方、過去に生き、そして、死んでいった大勢の人たち(統計処理によるとおよそ150〜200億人程
度とされている)は、義者であろうが、不義者であろうが、ほとんどの人たちが復活するとされている。
そして、生きていた時に犯した罪は、すべてキャンセルされ、復活後に地上の楽園で受ける新しい神の教
育に対する態度で裁かれることになると、「ものみの塔協会」では教えている(「あなたは地上の楽園で永
遠に生きられます」の本21章など参照)。
  
そうすると、過去において、どんな悪行をした人も、そうでない人も、等しく、復活といういわば「敗者
復活戦」の権利が与えられるのに対して、現代のハルマゲドンの裁きでは、容赦なく、復活のない最終的
な裁きが言い渡されることになる。大変酷な話のように感じられる。そこに十分納得できるプロセスが働
いているなら問題ないが、もしそうでないとするならば、公正の神の取り決めとは思えない過酷な判決と
なろう。まして、ハルマゲドンは最終的なジャッジである。それによって、神の正しさが立証されるとい
うわけである。そうであるならば、一層、厳密な公正さが求められるのではないだろうか。

たとえ、エホバの証人を通して音信を聞いていたとしても、それが本当に、その人の「永遠の命」を決定
づけるほど「十分」なものであるかどうかは、はなはだ疑わしいといえる。だからこそ、エホバの証人は、
「命」に対する責任から、熱心に述べ伝えようと、その業に拍車をかけているのであるが、それでも、そ
の業が、内容はさておいても、究極の域に達していない以上(論理的にいって、今後も達することはない
だろう)、これで十分であるということはないだろう。まして、音信の内容にまで踏み込んだら、とても、
最後の審判をするに足る十分な証拠を提出したと、果たして言えるのだろうか。大変疑問である。

そうなると、ややこしいことになってくる。

  ●過去においては、極悪人もそうでない人も等しく復活のチャンスが与えられる。
  ●現代においては、決して十分とはいえないエホバの証人の伝道活動に対する反応(と、それ以後の
   態度)という点だけで、最終的な裁きが言い渡され、「敗者復活戦」の機会はない。
  ●現代においては、エホバの証人の音信を十分聞いて、エホバの証人にならなかった人は滅ぼされる。
  ●現代においては、エホバの証人の音信を十分聞いていない人は、神の公正の観点から、救われる可
   能性が残されている。

そうすると、救われるかそうでないかを分ける規準は、本当にその人が神に向いているかどうかという心
の状態ではなく、主に、「生きていた時代」と「生きていた地域」に依存することにならないだろうか。
もちろん、心の状態は無関係ではないが、むしろ、「時代」や「地域」の方が重要なポイントになってく
る。過去に生きていた人は、無条件に、義者であろうが、不義者であろうが復活することになる。復活す
れば、「楽園」という理想的な環境で神の義を学ぶことになるので、神の取り決めについても受け入れや
すいことは間違いない。

現代に生きる人は、エホバの証人の多い地域に暮らしていて、たびたび聞く機会がありながら、例えば、
忙しさにかまけて音信を退けるなら、永遠の滅びに値すると断定される。逆に、エホバの証人の少ない地
域に暮らしていて、エホバの証人の音信を十分に聞いていない人なら、神の温情があるかもしれない。例
えば、エホバの証人のまったくいない北朝鮮などに暮らしている人は、エホバの証人の音信に触れる機会
がまったくないのだから、もし、今ただちにハルマゲドンが到来しても、無条件に滅ぼされるということ
は神の公正の観点から考えにくい。実際、ある統治体の兄弟が何かの集まりでそうした趣旨の発言をして
いる。

逆に、エホバの証人が活発に述べ伝えている先進国に住んでいる人は、忙しさにかまけて、まじめにエホ
バの証人の音信に耳を傾けないと、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。

これは、明らかにおかしい。救いが別の事柄とリンクしている。公正の神が意図していることとは思えな
いし、まして、そんなことでハルマゲドンを引き起こして、神の最終戦争といってみたところで、とんだ
茶番を演じていることになってしまいかねない。

何よりも、エホバの証人と接触しない方が生き残る確率が高いとしたら、エホバの証人はとんでもないこ
とをしていることになる。つまり、ハルマゲドンを生き残りたかったら、エホバの証人の音信が届かない
ところにいた方がよいことになってしまう。エホバの証人はハルマゲドンに直面する人にとっては、幸福
をもたらす福音宣明者ではなく、まるで不幸をもたらす厄病神である。どうせなら、来て欲しくないとい
うことになってしまう。エホバの証人が訪問するがゆえに、裁きの根拠を与えてしまうことになってしま
うからである。

このあたりの矛盾は、次のように考えると、一層はっきりする。もし、過去に生きていた人たち(復活が
ほぼ約束されている)が、仮に、現代に生きていたとしたら、すべての人がエホバの証人の音信を受け入
れるだろうか。恐らく、そうはならないだろう。現代人と同様、音信を退ける人の方がたぶん多いことだ
ろう。では、逆に現代の人が、もっと昔に生きていたら、その人たちの心の状態とはまったく係わりなく、
「復活組」になるのである。これは明らかにおかしい事柄である。公正の神が、そのようなことを意図し
ているとは考えられない。そのようなことで、「最終戦争で宇宙論争に決着」と叫んでみたところで、何
も決着していないことは明らかである。神が介入する戦争で全能の力を持つ神が勝つのはあたりまえの話
だから、勝敗は最初から分かっている。論争は何も決着していないのである。それでは、わざわざハルマ
ゲドンを起こす意味がない。

でも、エホバの証人の社会にどっぷりとつかり、その論理だけで思考していると、こんな単純なことにも
気が付かなくなってしまう。そうだとすれば、これこそマインド・コントロールの恐ろしさであろう。


【マインド・コントロール考】

前の項目の最後でマインド・コントロールに言及したついでに、マインド・コントロール、あるいはカル
トということについても考えてみたい。

まずは、「ものみの塔協会」の考え方をみてみよう。カルトあるいはマインド・コントロールについての
「ものみの塔協会」の考え方が最初に系統的に表明されたのは1994年の2月15日号の記事だったと思う。
そこではまずカルトについての定義から始まっているので紹介しよう。


   *** 塔94 2/15 3-4  カルト教団とは何ですか ***

   (中略)

   カルト教団とは何か

   多くの人は「カルト教団」という語を,意味が十分に分からないまま不正確に用いています。神学
   者の中には,混乱を防ぐ目的で,この語の使用を実際に避けている人もいます。

   ワールドブック百科事典は,「伝統的には,カルトという語は,あらゆる形式の崇拝や儀式を指して
   いた」と説明しています。その基準からすれば,すべての宗教組織はカルト教団の部類に入ること
   になるでしょう。しかし今日の一般的な用法では,“カルト”という言葉には別の意味があります。
   同百科事典は,「1900年代の半ば以来,カルトが知れ渡って,この語の意味は変わった。今日この語
   は,新しい,非正統的な教義や慣行を推進する生きた指導者に従うグループを指す」と述べています。

   ニューズウィーク誌(英文)はこの語の一般的な用法を取って,カルト教団は「普通は小さな非主
   流派のグループで,その信者は自己意識や目的を一人のカリスマ的な人物から得る」と説明してい
   ます。アジアウィーク誌も同じように,「[カルト]という語自体はあいまいだが,それは普通,一人
   のカリスマ的な指導者を中心に作り上げられる新しい宗派を指す。その指導者は大抵,自分は神の
   化身であると主張する」と述べています。

   米国メリーランド州の第100回議会の合同決議で用いられた言葉も,カルトという語に軽べつ的な意
   味があることを伝えています。その決議は,「カルト教団とは,ある人物や考えに対して極端な献身
   を示し,その指導者の目的を推進するために,非倫理的で巧妙な説得と支配の手法を使うグループや
   運動である」と述べています。

   明らかにカルト教団は,正常な社会行動として今日受容されているものに反した,急進的な見方や慣
   行を有する宗教グループであると一般に理解されています。普通,彼らは宗教活動を秘密裏に行な
   います。こうしたカルト教団のグループの多くは共同社会を作り上げて,実際に外の世界から孤立
   しています。自称指導者に対する献身は,無条件で排他的であるかもしれません。多くの場合そう
   した指導者は,自分は神から選ばれたとか,あるいは自分は神の性質を持つとさえ言ってはばかりま
   せん。

   反カルト組織やマスコミが,エホバの証人はカルト教団であると述べることが時折あります。最近,
   多くの新聞記事の中でエホバの証人は,疑わしい慣行で知られる宗教グループと一緒くたにされて
   います。しかし,エホバの証人は非主流派の小さな宗教グループの一つであるというのは正確でし
   ょうか。大抵カルト教団の信者は,友人や家族,また一般社会からさえ孤立します。エホバの証人の
   場合もそうですか。エホバの証人は信者を得るために,詐欺的で非倫理的な手法を用いていますか。

   カルト教団の指導者は,追随者に対してマインド・コントロールを行なうためにごまかしの手段を用
   いることで知られています。エホバの証人がそのようにしているという証拠がありますか。エホバ
   の証人は秘密裏に崇拝を行なっていますか。人間の指導者に従い,人間の指導者を崇敬しています
   か。端的に言って,エホバの証人はカルト教団ですか。


ここでの主張をまとめると、カルトとは以下のようなものということになる。

  ●カルトとは、広い意味では、あらゆる形式の崇拝や儀式を指しており、その意味では、すべての宗
   教組織はカルトと呼ばれても仕方がない。
  ●カルトとは、最近の定義によれば、新しい非正統的な教義や慣行を推進する生きた指導者に従うグ
   ループを指す。それで、「カルト教団とは、ある人物や考えに対して極端な献身を示し、その指導
   者の目的を推進するために、非倫理的で巧妙な説得と支配の手法を使うグループや運動である」と
   いった説明が、なされるようになってきている。
  ●従って、カルトは、正常な社会行動として今日受容されているものに反した、急進的な見方や慣行
   を有する宗教グループであると、一般に理解されている。
  ●反カルト組織やマスコミが、エホバの証人はカルト教団であると述べることが時折ある。
  ●カルト教団の指導者は、追随者に対してマインド・コントロールを行なうためにごまかしの手段を用
   いることで知られている。エホバの証人はそうしたことを行なっていないのでカルトではない。ま
   た、エホバの証人は人間の指導者に従わないので、やはりカルトではない。

続く記事では、こうした点がさらに詳細に展開されている。やや長くなるので、記事を紹介しながら、論
評を加えることにしよう。


   *** 塔94 2/15 5-7  エホバの証人はカルト教団ですか ***

   (中略)

   よく知られた宗教

   エホバの証人は非主流派の小さな宗教グループだと言うのは公平ですか。ある意味では,一部の宗
   教に比べると,エホバの証人の人数は多くありません。しかし,「命に至る門は狭く,その道は狭め
   られており,それを見いだす人は少ないのです」というイエスの言葉を思い出してください。―マ
   タイ 7:13,14。

   いずれにしても,エホバの証人は非主流派の小さなカルト教団などではありません。1993年の春に
   は1,100万以上の人が,エホバの証人の祝うキリストの死の記念式に出席しました。しかし数よりも
   重要なのは,エホバの証人の道徳性と模範的な振る舞いです。この点でエホバの証人は世界中で称
   賛されています。エホバの証人がいろいろな国で,よく知られた真実の宗教として公認された要因
   がそこにあったことは疑えません。

   ヨーロッパ人権裁判所が最近下した判決はその顕著な例です。それによれば,エホバの証人には思
   想,良心,宗教の自由があり,他の人に自分たちの信仰について話し,それを教える権利があります。
   もしエホバの証人が,信者を得るために詐欺的で非倫理的な手法を用いることで知られていたり,追
   随者に対してマインド・コントロールを行なうためにごまかしの手段を用いているならば,そのよう
   な判決は下されなかったはずです。

   世界中の非常に多くの人がエホバの証人をよく知っています。今エホバの証人と聖書を研究してい
   る,あるいは以前に研究したことのある,エホバの証人ではない何百万もの方々にお尋ねします。あ
   なたを洗脳しようとする何らかの試みがなされたでしょうか。エホバの証人はあなたに対してマイ
   ンド・コントロールの手法を使ったでしょうか。あなたの率直な答えは,「ノー」であるに違いあり
   ません。もしそのような方法が用いられてきたのであれば,エホバの証人を支持するどんな論議に
   も反ばくする圧倒的な数の犠牲者がいることでしょう。


カルトはマイナーな宗教グループであるという指摘があるが、そうした点でエホバの証人はカルトには当
てはまらないという反論である。しかし、マタイ7:13、14を引用しているところをみると、メジャ
ーであると主張することもできないとは理解しているようだ。確かに、カルトの定義からすれば、1世紀
のイエス・キリストは、当時の宗教体制からみればカルトであったかもしれない。そのことと主張の正当
性とは別問題である。

記念式の出席者が多いから、カルトではないという主張は、どちらが正しいかという議論は別として、例
えば、一般の人々がキリスト教の伝統的な行事としてのクリスマスを祝う人数からすれば、やはり少数派
ということになろう。

ヨーロッパ人権委員会での判決は、輸血に関して別の問題点があり、カルト反論の証拠としては、きわめ
て不十分である。

世界中の人々がエホバの証人のことを知っているという点では、確かに、表面的に知っている人は少なく
ないかもしれないが、その「実態」を本当に知っている人はかなり限定されてしまう。後ほど示すが、信
者自身が知らないこともかなり多い宗教組織であり、エホバの証人は決して開かれた宗教組織ではない。
そうした点で、カルトの要素は十分持っているといえる。


   「人々を援助することに没頭している」

   カルト教団の信者は多くの場合,家族や友人,また一般社会からさえ孤立します。エホバの証人の場
   合もそうでしょうか。チェコ共和国のある報道関係者は,「私はエホバの証人に属しているわけで
   はない」と断わったうえで次のように言いました。「彼ら[エホバの証人]がすさまじいほどの道徳
   的強さを持っていることは明白である。……証人たちは政府の権威を認めるが,彼らの信条によれ
   ば,神の王国だけが人間の抱えるすべての問題を解決できるのである。でも,誤解しないように。証
   人たちは狂信者ではない。彼らは人々を援助することに没頭している」。

   また,エホバの証人は共同社会に住んで親族や他の人から孤立するようなこともしません。エホバ
   の証人は,家族を愛し,家族の世話をすることを聖書的責任と心得ています。あらゆる人種や宗教の
   人々の間で生活し,共に働きます。災害が起きれば直ちに救援物資を送るなどして人々を援助しま
   す。

   さらに重要なのは,エホバの証人は他とは比較にならないほど大規模な教育計画を実施していると
   いうことです。地域社会に住んでいる個々の人を個人的に訪問するためのシステムを持つ宗教がど
   れほどあるでしょうか。エホバの証人は200以上の国や地域で,200以上の言語を使ってそのことを
   行なっているのです。明らかに,エホバの証人は「人々を援助することに没頭して」います。


現実のエホバの証人は、まらに社会、家族、友人から孤立しており、こうした点ではカルトであるという
証拠がすでに山のように積まれている。伝道する時は、良識ある市民として振舞うが、日常生活では、世
の人との親しい接触は限定されている。そうした点が批判されていることを「ものみの塔協会」も意識し
ており、最近の「ものみの塔」誌や王国宣教では、広く市民生活に溶け込むような指導がなされるように
なっている。しかし、長年染み付いた生活様式は簡単には取り除けないために、一般信者は、今更の感が
する指導部の豹変ぶりに困惑しているのである。

「エホバの証人が道徳的に優れている」などの証言を積みあげようとしても、カルト的な体質がが相殺さ
れるわけではない。これまでエホバの証人の社会で採用されてきた、社会、家族、友人などから孤立する
教えの数々の一端を列挙してみれば一目瞭然である。例えば、今はその教えが正しいか間違っているかは、
とりあえず棚上げするとして、以下のような点を、すぐに挙げることができる。

  ●エホバの証人は誕生日を祝わない
  ●エホバの証人は武道を行なわない
  ●エホバの証人は選挙を行なわない
  ●エホバの証人は輸血を受け入れない
  ●エホバの証人は学校行事に極力参加しない
  ●エホバの証人は部活動を極力行なわない
  ●エホバの証人は高等教育を勧めない
  ●エホバの証人はフリータになることを推奨している
  ●エホバの証人は葬式で崇拝行為を行なわない
  ●エホバの証人は祝日を祝わない

ロバート・リフトンが指摘するカルトの特徴である「純粋性の要求」がここには見事に当てはまる。教義
の純化によって、世とは異なったコロニーとしてのエホバの証人社会が形成されてゆくわけである。カル
トの有力な特徴の一つである。


   聖書に固く付き従う

   エホバの証人の教えは教会の教えとは確かに異なります。エホバの証人は,エホバは全能の神であ
   り,イエスは神のみ子であって,三位一体の神の一部ではないと信じています。エホバの証人の信仰
   は,神の王国のみが苦しむ人類に救いをもたらし得るという信念にしっかりつながれています。エ
   ホバの証人は,この腐敗した事物の体制の滅びが差し迫っていることを人々に警告しています。従
   順な人類のための地上の楽園に関する神の約束について宣べ伝えています。エホバの証人は十字架
   をあがめません。クリスマスを祝いません。魂は死すべきものであり,地獄の火は存在しないと信
   じています。血を食べませんし,輸血も受け入れません。政治に関与したり,戦争に参加したりしま
   せん。あなたは,なぜエホバの証人の教えが他の宗教の教えとそれほど異なっているのか,尋ねてみ
   たことがおありですか。
 
   (中略)


エホバの証人は聖書に基づいた真実を実践していると主張し、そして、成員は本当にそう思い込んでいる
が、このこと自身が反カルトの主張にはならない。問題なのは、自分たちがどう考えるかではなく、社会
一般がどう考えるかという点にある。「真のクリスチャンは、サタンの邪悪な世からどう思われようと気
にする必要はない」などと考えるとすれば、そうした思考そのものが、すでにカルト的といわれてしまう。

エホバの証人社会では、「世から離れていないとクリスチャンとして正しい道を歩めない、正しい道を歩
めないと来るべきハルマゲドンで滅ぼされてしまう」という一種の「恐怖発生メカニズム」が成員の行動
を支配している。これは、カルトが用いるマインド・コントロールの常套手段である。
 
日本で「地下鉄サリン事件」を引き起こしたカルト集団の一つ「オウム教」は、インテリ信者たちを次々
と殺人者に仕立て上げていった。普通に「人を殺せ」と命令しても従わないが、マインド・コントロール
によって別のものがインプットされていると、実際に人を殺してしまうから恐ろしい。ナチも、他のテロ
リズムも似たような論理で突き進んだり進んでいるのではないだろうか。当事者には犯罪意識が希薄なの
である。

そして、現在は、良い市民として行動しているエホバの証人も、ひとたび、「ハルマゲドンが起きた」と
思った時に、指導部のいかなる指示にも従順に従う集団として行動することは容易に想像できる。それは、
まさにカルトの姿に他ならない。


この点で、この随筆集のNo.2「情報の閉鎖性と公開性について」で取り上げた点が問題となる。つまり、
情報がオープンでないことである。「聖書について学んでいます、聖書に固く付き従っています」と主張
する一方で、実際に学んでいる情報は閉鎖的である。例えば、輸血に関する協会の最近の一連の動きは、
まさにその好例といえる。

「ものみの塔」誌2000年6月15日号と10月15日号で血に関する一歩踏み込んだ見解が表明された。そして、
それによく精通しておくことが信者全員に勧められた。そして、3月に輸血拒否のための新しい証書つく
りが会衆でなされた。しかし、本随筆集のNo.21「速報:『ものみの塔協会』は輸血拒否の教理を変更す
る方向で静かに準備を開始した!?」でも指摘しているように、成員は、6月15日号と10月15日号での変
更の要点をまったく説明されないままであった。だいたい、巡回監督クラスでさえ、解説なしには理解で
きない変更点なのである。私は、当然、3月の証書つくりまでの間に、何らの説明が加えられるものと期
待していた。私個人は、友人の医療委員からの手紙で、協会の変更点をある程度知らされていたが、その
他の成員や長老たちは、まったく、理解しないまま、当日を迎えたのである。説明する側の長老すら知ら
ないのだからひどいものである。だから、いまだに、多くの会衆の成員は長老たちも含めて、ヘモグロビ
ンが解禁されたことすら知らないのである。

これは、非常に重要な問題である。エホバの証人がまさにカルト集団であることを証明する顕著なエピソ
ードといえる。

命にかかわる重大な決定を信者に強要しながら、十分な情報を開示しないやり方はファッショ的でさえあ
る。実際に、病気になってから、あるいは交通事故に遭遇してから、やってくる医療委員がおもむろに
「あなたには、ヘモグロビンを成分輸血する方法があります。これは、協会によって正式に承認されてい
る方法です。ですから、おやりなさい」とでもなるのだろうか。それで命が助かれば、患者はおおいに協
会に感謝するという算段でも目論んでいるのだろうか。

もっとも、実際には、日本の厚生省は、現在、牛に由来する医薬品の認可を認めていない。つまり、これ
は、クロイツフェルト・ヤコブ病という難病が存在しており、ヨーロッパなどで騒がれている狂牛病の原
因物質とされているプリオンが人間に感染することによって生じるという疑いが発生しており、日本の厚
生省では、かつての「薬害エイズ」の教訓から、「疑わしきは排除する」という方針で、牛に由来する医
薬品の使用を認めていない。ヘモグロビンも牛由来のものは使用できないことになる。

話は脱線してしまったが、こうした情報操作をしていること自体、エホバの証人がマインド・コントロー
ルされたカルト集団であることを如実に証明している。


   指導者はだれか

   人間の指導者をあがめ,偶像視することが,今日のカルト教団の大きな特徴をなしていますが,エホ
   バの証人の間にそれが見られないのは,このように聖書の教えに固く付き従っているからにほかな
   りません。エホバの証人は僧職者と平信徒を区別する考えを退けます。「宗教百科事典」はエホバ
   の証人について正確に,「聖職者階級や独特な称号は禁じられている」と述べています。

   エホバの証人は,指導者またクリスチャン会衆の頭としてイエス・キリストに従います。イエスは次
   のように言われました。「あなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人
   であり,あなた方はみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方
   の父はただ一人,天におられる方だからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方
   の指導者はキリスト一人だからです」―マタイ 23:8-12。

   エホバの証人がカルト教団ではないことは,イエスが酒にふける者,食い意地の張った者でなかった
   のと同じほど明らかです。確かに,イエスと弟子たちに関する偽りのうわさに影響された人がすべ
   て,イエスを中傷するというわなに陥ったわけではありません。間違ったことを聞かされただけの
   人もいたでしょう。もしあなたが,エホバの証人とその信条について疑問をお持ちであれば,エホバ
   の証人をもっとよく知るようにされるのはどうでしょうか。王国会館のドアは,真理を求める人す
   べてに対して大きく開かれています。

   あなたも,聖書の正確な知識を丹念に求めるエホバの証人から益を得ることができますし,「真の崇
   拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来ようとしています。それは今なのです。実際,父は,ご
   自分をそのように崇拝する者たちを求めておられるのです」というイエスの言葉に調和して神を崇
   拝する方法も学ぶことができます。―ヨハネ 4:23。


エホバの証人の社会において個人崇拝は確かに目立っていないようにみえる。最近、高齢を迎えた統治体
の成員が相次いで亡くなっているが、末端会衆にいる多くの人は、それほど悲しんだりしない。実際、名
前も知らない人のことだから、無理もないことである。

これが北朝鮮だったら、だいぶ話が違ってこよう。例えば、北朝鮮の指導者が死亡したりすれば、北朝鮮
の国民は身を打ちたたいて、悲しみを表現することだろう。しかし、そうした極端な個人崇拝は少ないと
しても、「統治体」崇拝、組織崇拝は歴然として存在している。存在しているどころか、まるで組織崇拝
の塊である。こうした点でもカルトの要件を満たしている。

カルトにあるのは絶対的な組織服従である。そうした組織服従の中で、自由を奪われているのだが、本人
にはそうした自覚がまったくないのも一つの特徴である。毎週日曜日に行なわれている「ものみの塔」研
究が、そのよい例である。自分では、自分の信じていることを自発的に注解していると錯覚しているが、
実際には、組織の見解と反することは、世界中一つの会衆といえでも存在しないのである。それは不気味
としかいえない光景である。ロバート・リフトンが指摘するカルトの特徴である「仕組まれた自発性」が
見事に当てはまる事例である。


【結論】

  ●「ものみの塔協会」のハルマゲドンの解釈は非聖書的で公平な裁きとはいえない。
  ●「ものみの塔協会」はハルマゲドンの恐怖をマインド・コントロールに利用した典型的なカルトで
   ある。
  ●その他にも、「ものみの塔協会」の教えや習慣などには、マインド・コントロールを駆使して信者
   を束縛する典型的なカルト的要素がある。

という結論しか導けないのである。



2001年6月3日
「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

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