「物事をありのままに考えるエホバの証人」より−4

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「ものみの塔」誌2000年6月15日号「読者からの質問」の矛盾

「ものみの塔」誌2000年6月15日号の「読者からの質問」欄は、血液に関する質問を扱っており、
それに対する答えという形で「ものみの塔協会」(以下「協会」と略称)の見解を明らかにしています。
以下、その内容を紹介しながら、そこに含まれている問題点について考えてみたいと思います。一見もっ
ともらしい論理を駆使しながら、しかし、協会の意図した方向に信者を誘導するという点で非常に巧みで
あるために、マインドコントロール下にある人には、なかなか真実の姿が見えてこないかもしれませんが、
この記事の中に含まれている事柄を扱うことによって、その点が浮き彫りになってくるのではないかと考
えています。

では、早速、問題の「読者からの質問」を考慮してみたいと思います。これから考慮する質問は以下のよ
うなものです。

  質問:エホバの証人は、血液に由来する医薬品を受け入れますか。

ここで、質問は、「血液に由来する医薬品」が受け入れられるかどうかという点に、注目しています。し
かし、実際には、これからみてゆくと明らかなように、ここでは「ものみの塔協会」の血に対する考え方
をかなり包括的に振り返っていますので、参考にすることができます。「答え」をみてみましょう。

  答え:基本的には、エホバの証人は血を受け入れないというのが答えです。わたしたちは次のことを
     固く信じています。すなわち、血に関する神の律法は、移り変わる意見に合うように改変でき
     るものではない、ということです。しかし、今では血液を処理して、四つの主要成分や、成分
     中のさらに細かな分画に分けることができるため、新たな問題が生じています。クリスチャン
     は、そのようなものを受け入れるかどうか決める際、生じ得る医療上の益や危険だけでなく、
     それ以上の事柄を考慮するべきです。聖書が何と述べているか、また自分と全能の神との関係
     にどんな影響が及びかねないか、ということを気にかけるべきです。

ここで、注目できるのは、「血に関する神の律法は、移り変わる意見に合うように改変できるものではな
い」と断言している点です。ところが、そのすぐ後で、「しかし、今では血液を処理して、四つの主要成
分や、成分中のさらに細かな分画に分けることができるため、新たな問題が生じています」と続いていま
す。これは、少々理解しにくい点です。血に関する協会の立場が明確であり、それが聖書に基づくもので
あるならば、何も医学の進歩によって、影響を受けることはないのではないでしょうか。医学の進歩は日
進月歩であり、それに追従して判断が異なってくるならば、それは本当に聖書に基づいた教義といえるの
でしょうか。そして、続く言葉はこうなっています。「クリスチャンは、そのようなものを受け入れるか
どうか決める際、生じ得る医療上の益や危険だけでなく、それ以上の事柄を考慮するべきです。聖書が何
と述べているか、また自分と全能の神との関係にどんな影響が及びかねないか、ということを気にかける
べきです」。少々込み入っていますので、協会の意見を分かりやすくまとめると、こうなります。

  @エホバの証人は血を受け入れない。血に関する神の律法は、移り変わる意見によって改変できるよ
   うなものではない。
  Aしかし、医学の進歩によって、血液を処理して主要な成分に分けたり、成分をさらに細かい分画に
   分けることができるようになっているので新たな問題が生じている。
  Bクリスチャンはそうしたものを受け入れるかどうかを判断する際に、医療上の事柄だけでなく、聖
   書が述べていることを考慮すべきである。

これは、はっきり言って、明らかに矛盾ではないでしょうか。血に関する律法は改変できないという立場
は分かります。それを貫くなら、医学の進歩によって、あるものを受け入れたり、受け入れなかったり、
ある時期には受け入れていなかったものを、別の時期には受け入れたりということはないはずです。それ
こそ、まさに「移り変わる意見に合うように改変」していることにならないでしょうか。そして、最後に
再び、聖書が述べている事柄を気にかけるように強調してみても、やはり、医療上の事柄を考慮すること
に変わりはないのです。実際、医学が発達していなかった当時に書かれた聖書が、今日の医学上の様々な
問題に、確かな答えを提出していないことは容易に想像できることです。ですから、「移り変わる意見」
に惑わされるなと言っておきながら、それを無視できないという現実があることを無視することができな
いのです。このたった1節を見ただけでも、協会はすでに大いなる自己矛盾に陥っていることが明らかと
なっているのです。

おそらく動機は悪いものではないと思います。当初、この輸血禁止の方針を協会が取り入れた時には、
「血を取り入れない」という方針が聖書に基づくものであるという確信を抱いていたことでしょう。しか
し、医学の進歩に応じて、あるものを受け入れるなら命が助かることが明らかな場合、何とかそれを使用
することが可能ではないかと思案を巡らして頭をひねるのは悪いことではないと思います。命こそかけが
えのない大切なものだからです。しかし、それによって、教義そのものが矛盾してくることが明らかな場
合には、教義の根本的な見直しが避けられないのではないでしょうか。続く節をみてみましょう。

     かぎとなる点はきわめて簡明です。なぜそう言えるのかを理解するために、聖書的、歴史的、
     医学的な背景を考えてみましょう。

かぎとなる点が簡明ではないので、多くの人が様々な意見を持ち、協会も何度も「読者からの質問」欄を
用いて、説明を繰り返さなければならないのではないでしょうか。このような言葉によって圧力を加え、
少しでも疑問をさしはさむ余地をなくそうという努力は強圧的な印象を与えます。実際、エホバの証人の
社会において、バプテスマを受けて何年も経った人が、「ところで聖書は本当に輸血を禁じているのでし
ょうか?」などと口走ったら、どんな目で見られるか容易に想像することができます。バプテスマを受け
る頃は、熱意の固まりのような時期ですから、そうした疑問も片隅に追いやられてしまう可能性がありま
すが、落ち着いてクリスチャンとしてある程度円熟した時期にこそ、そうした問題をじっくり考えてみる
ことが必要なのではないでしょうか。

     エホバ神は、人類共通の先祖であるノアに、血は特別なものとして扱わなければならないとお
     告げになりました。(創世記9:3、4)後に、イスラエルに対する神の律法の中でも、血の
     神聖さが示され、「だれでもイスラエルの家の者あるいは・・・・・外人居留者で、いかなる
     ものであれ血を食べる者がいれば、わたしは必ず自分の顔を、血を食べているその魂に敵して
     向け(る)」と述べられています。イスラエル人は、神の律法を退けるなら、他の人々を汚す
     可能性がありました。そのため、神は、「その者を民の中からまさに断つ」と言われました。
     (レビ記17:10)後に、使徒や年長者たちはエルサレムで会合を開いた時、『血を避ける』
     べきであるという布告を出しました。血を避けることは、性の不道徳や偶像礼拝を避けること
     と同じほど重要です。―使徒15:28、29。

創世記9:3、4は以下のようになっています。

  (創世記 9:3-4) 生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場
   合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。4 ただし,その魂つまりその血を伴う肉を
   食べてはならない。

ここで述べられている事柄は、単に「血を伴う肉を食べてはならない」ということであり、ここから「血
を特別なものとして扱わなければならない」という結論を導くことはできません。少なくとも、普通に先
入観を抱かずに読んだ場合には、そうではないでしょうか。

レビ記17:10はどうでしょうか。

  (レビ記 17:10) 「『だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでい
   る外人居留者で,いかなるものであれ血を食べる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べて
   いるその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう。

ここでも、協会は聖書に書いていない事柄を付け加えています。ここでは、単に「血を食べてはならない」
と述べられているに過ぎず、協会の言うように、「血の神聖さが示され」ということまで読み取ることは
できません。

そして、3つ目の聖句、使徒15:28、29はどうでしょうか。

  (使徒 15:28-29) というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのう
   え何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。29 すなわち,偶像に犠牲としてささげられた
   物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守ってい
   れば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。

協会の説明によると、「血を避けることは、性の不道徳や偶像礼拝を避けることと同じほど重要です」と
いう結論になってしまいます。これも一見正しそうでいて、巧妙に誇張されていることにお気づきでしょ
うか。実際、性的不道徳=淫行について触れられている箇所は、聖書の中で118箇所程度ありますし、
偶像礼拝について触れられている箇所も112箇所ほどあります。それは聖書が明確に禁じている事柄で
す。しかし、「血を避ける」ようにという布告は、使徒15章のこの箇所と、同様の趣旨で述べられてい
る使徒21:25だけなのです。確かに、ここではそうした事柄が並列的に挙げられていることは確かで
すが、それだけで、「同じほど重要です」と決め付けることはできません。

一例を挙げましょう。レビ記3:17にはこうあります。

  (レビ記 3:17) 「『これはあなた方の住むすべての所で代々定めのない時に至る法令となる。すな
   わち,あなた方は脂肪も血もいっさい食べてはならない』」。

お分かりのように、この聖句によれば、イスラエル人は、脂肪も血も食べてはなりませんでした。その理
由は、「ものみの塔」誌1984年3月15日号24ページによれば、「脂肪を食べてはならないとする
禁令により、最良のものはエホバに属するということをイスラエル人は銘記させられた」ということにな
ります。しかし、やがて、この禁令は解かれることになり、現在のクリスチャンはそうした制約のもとに
はいません。こうして脂肪と血が同列に置かれているからといって、必ずしもそれは同等であることを意
味していないのは明らかです。では、「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行」
を避けているようにという命令が並列で述べられているとしても、それがすべて同等という根拠にはなり
ません。

     『避ける』ということは、その当時、何を意味していたでしょうか。クリスチャンは、新鮮血
     か凝固血かにかかわらず血は摂取しませんでしたし、血が抜かれていない動物の肉は食べませ
     んでした。また、血を混ぜて作ったソーセージなど、血を加えた食品も受け入れませんでした。
     どんな形にせよそのようにして血を取り入れることは、神の律法に背く行為だったのです。―
     サムエル第一14:32、33。

ここで、「どんな形にせよ・・・・・血を取り入れることは、神の律法に背く行為だった」と述べられて
おり、サムエル第一14:32、33が参照されていますので、この聖句も調べてみましょう。

  (サムエル第一 14:32-33) そこで民は貪欲にも分捕り物に飛び掛かって,羊や牛や子牛を取り,それ
   を地の上にほふりはじめ,民は血のままで食べだした。33 それで,人々はサウルに告げて言った,
   「ご覧なさい。民は血のままで食べて,エホバに対して罪をおかしています」。そこで彼は言った,
   「あなた方は不実なことをした。何よりもまず,わたしのもとに大きな石を転がして来なさい」。

この聖句では、適正に血抜きされなかった肉を貪り食った兵士たちの事柄が述べられています。彼らは、
確かに律法違反者として処罰されましたが、それは、どの程度のものだったでしょうか。そして、それに
対する協会の見解はどのようなものでしょうか。

   *** 塔94 4/15 31  読者からの質問 ***

   血の入ったままの肉を食べたサウルの兵士たちが,神の律法の中で定められた処罰にしたがって死
   刑にされなかったのはなぜですか。

    確かにそれらの男子は,血に関する神の律法に違犯しました。しかし,血に対する敬意を払うようも
      っと真剣に努力するべきだったとはいえ,そのような敬意を持っていなかったわけではないので憐
   れみを示されたのかもしれません。

つまり、ここの説明によれば、兵士たちは神の律法には敬意を持っており、どうにか従おうと努力したが、
あまりにも空腹であったため、十分血抜きができないまま食べてしまったということです。それで憐れみ
を示されたということです。では、ある人が淫行を犯した場合、神の律法には敬意を持っていたが、誘惑
に抵抗できずに神の律法を踏み越えた場合にはどうなるのでしょうか。動機は悪いものではなかったから
大目に見ようということには決してなりません。現在のエホバの証人の社会では間違いなく審理委員会と
いう裁判にかけられることになります。血の律法を犯した場合と同じです。ということは、上記の事柄は、
本当に血抜きされていない肉を食べることがどれほど重い罪なのかという点で疑問を抱かせるエピソード
となっているわけです。本文の続きに移りましょう。

     古代のほとんどの人々は、血の摂取を良くないこととは思っていませんでした。その点は、テ
     ルトゥリアヌス(西暦2世紀から3世紀にかけての人物)の書いた物から分かります。テルト
     ゥリアヌスは、クリスチャンが血を摂取しているという偽りの避難に反論し、血を少し飲むこ
     とによって盟約を結ぶやからに言及しました。また、「闘技場での出し物の際、貪欲な渇望を
     抱く[者たち]は、・・・・・有罪とされた者の鮮血をてんかんの治療薬としてすくい取った」
     とも述べています。

     そうした慣行は(健康のために行なったローマ人もいたにせよ)クリスチャンから見れば間違
     ったことでした。「わたしたちは普通の食物に動物の血をさえ含めていない」とテルトゥリア
     ヌスは書いています。ローマ人は、真のクリスチャンの忠誠を試すために、血を含んだ食物を
     用いました。テルトゥリアヌスはさらにこう述べています。「今、あなた方に尋ねる。あなた
     方は[クリスチャンが]動物の血を見ればぞっとして顔をそむけることをよく知っていながら、
     彼らが人間の血を貪欲に求めるなどと考えるが、これはどういうことか」。

     今日、血を取り入れることを医師から勧められた場合に、全能の神の律法が問題になる、と考
     える人はほとんどいないでしょう。エホバの証人は、生きつづけることを真剣に望むと同時に、
     血に関するエホバの律法に従うよう最大の努力を払っています。これは、今の医療上の慣行と
     照らし合わせて考えると、どういうことを意味するでしょうか。

     第二次世界大戦後に全血の輸血が普通に行なわれるようになったとき、エホバの証人は、それ
     が神の律法に反していることを理解しました。今でもそう考えています。しかし、時と共に医
     療は変化してきました。今日、ほとんどの輸血は、全血ではなく、血の主要成分の一つを用い
     て行なわれます。主要成分とは、(1)赤血球、(2)白血球、(3)血小板、そして(4)
     血漿と呼ばれる液体成分のことです。医師は患者の容体に応じて、赤血球、白血球、血小板、
     あるいは血漿を投与する場合があります。それら主な成分を注入することにより、血液1単位
     をより多くの患者に分配できるようになります。エホバの証人は、全血を受け入れることも、
     それら四つの主要成分のいずれかを受け入れることも、神の律法に背く行為であるとみなしま
     す。注目できる点ですが、聖書に基づくこの立場を固く守る証人たちは、血液を介して感染す
     る肝炎やエイズなどの病気をはじめ、多くの危険から保護されてきました。

     しかし、血液のそれら主要な成分はさらに細かく処理できるため、主要な血液成分に由来する
     分画について質問が生じます。そのような分画はどのように用いられるのでしょうか。クリス
     チャンは、それらについて決定を下す際、どんな点を考慮すべきでしょうか。

全血や主要成分の輸血は断固として神の律法に反すると決めつけるのに、何故、血液の成分をさらに分画
したものについては、異なった見解に到達することができるのでしょう。当然のことながら、聖書時代に
はそうした医学は発達していませんでしたから、聖書がこうした事柄について述べていないのは明らかで
す。しかし、神の言葉が不変のものであるならば、血液のうち全血も、ある種の成分も、さらにその成分
分画も同じように聖書が非としていることになるのではないでしょうか。何故、医学が進歩して分画され
るようになったものについて悩む必要があるのでしょうか。その聖書的な根拠はどこにあるのでしょうか。
そうした分画を用いれば、様々な病気で命を長らえることのできるケースがあるために、抜け道を見出し
ているだけなのではないでしょうか。それは、最初の部分でこの読者からの質問の執筆者が述べている
「血に関する神の律法は、移り変わる意見に合うように改変できるものではない」という原則と、明らか
に矛盾するのではないでしょうか。

     血液は複雑です。90%が水である血漿にさえ、多種多様なホルモン、無機塩類、酵素、また
     ミネラルや糖などの栄養素が含まれています。さらに血漿には、アルブミン、凝固因子、疫病
     と闘う抗体など、種々のたんぱく質も含まれています。専門家は幾種類もの血漿たんぱくを分
     離して用いています。例えば、凝固因子[因子は、出血を起こしやすい血友病患者に投与され
     てきました。また、ある種の病気に感染した人に、医師は、すでに免疫のある人の血漿から抽
     出したガンマグロブリンを注射するよう指示する場合もあります。医療に用いられる血漿たん
     ぱくはほかにもありますが、上記の例は、一つの主要な血液成分(血漿)を処理すれば何種類
     かの分画が得られるということを示しています。

     血漿から様々な分画を取り出せるのと同じように、他の主要成分(赤血球、白血球、血小板)
     も、処理すれば、さらに細かい要素を分離することができます。例えば、白血球細胞からは、
     ある種のウイルス感染やがんの治療に用いるインターフェロンやインターロイキンを取り出せ
     ます。血小板は、処理すれば、傷をいやす因子が抽出されます。また、血液成分からの抽出物
     を(少なくとも最初は)含む薬も登場しようとしています。そのような療法は、血液の主要成
     分を注入するものではありません。たいていは、主要成分の要素もしくは分画が関係したもの
     です。クリスチャンは治療を受ける際、それらの分画を受け入れてもよいでしょうか。はっき
     りしたことは言えません。聖書は細かなことを述べていないので、クリスチャンは神のみ前で
     自分の良心に従って決定しなければなりません。

どうして「はっきりしたことが言えない」のでしょうか。別に私は血液成分の分画の輸血に反対している
わけではありませんが、上記の論議は納得することが難しいように思います。続く論議をみてゆきたいと
思います。

     中には、血から取ったものは一切(一時的な受動免疫を与えるための分画でさえ)拒否する人
     もいることでしょう。『血を避けなさい』という神のおきてをそのように理解しているのです。
     また、イスラエルに与えられた神の律法では、動物から抜いた血は「地面に注ぎ出す」ことが
     要求されていた、という点を考慮します。(申命記12:22−24)その要求が関係するの
     はなぜでしょうか。なぜなら、ガンマグロブリン、血液由来の凝固因子などを準備するには、
     血液を集めて処理しなければならないからです。そのため、クリスチャンの中には、全血や四
     つの主要成分の輸血を拒絶するのと同様に、そのような製品を拒絶する人もいます。そうした、
     良心に従った誠実な見方は尊重されるべきです。

     一方、それとは異なった決定をするクリスチャンもいます。その人たちも、全血、赤血球、白
     血球、血小板、血漿の輸血は拒否します。しかし、主要成分から抽出した分画用いた治療なら
     受け入れるかもしれません。もっとも、この場合でも、決定は異なる可能性があります。ある
     クリスチャンは、ガンマグロブリンの注射は受け入れても、赤血球や白血球からの抽出物を含
     む注射には同意しないかもしれません。しかし、包括的に見て、血液分画は受け入れてもよい
     という結論をくだすクリスチャンがいるのはなぜでしょうか。

まず、ここで、「中には・・・・・する人もいることでしょう」という表現は、大変欺瞞的なものと言わ
ざるを得ません。誰もそんなことは言っていないのです。協会がこうした点での見解を発表する前に、
「自分は良心的にこう考えるから、この分画は受け入れる」などと自主的に決定して、そうした医療を受
けることを決めるような人は恐らく皆無でしょう。その人は審理委員会の前に引っ張り出される危険に直
面することになります。協会が、「これこれの事柄は聖書的には不明なので良心で決定してよろしい」と
いうお墨付きをいただかないで、エホバの証人の組織に忠実に歩もうとしている人が、どうして自分勝手
に解釈することができるでしょうか。そういう意味で、「中には・・・・・する人もいることでしょう」
という表現は、将来見解を変更する時のための逃れ道を設ける卑怯なやり方と勘ぐられても仕方がないと
思います。

     「ものみの塔」誌、1990年6月1日号の「読者からの質問」は、血漿たんぱく(分画)が
     妊婦の血流から、独立した胎児の循環系へ移動することに注目しました。母親はそのようにし
     免疫グロブリンを自分の子に渡し、貴重な免疫を与えるのです。一方、胎児の赤血球が通常の
     寿命を全うすると、それに含まれる、酸素を運ぶ部分は処理されます。その一部はビリルビン
     となり、それは胎盤を通過して母体に入り、母体の老廃物と共に排せつされます。それで、ク
     リスチャンの中には、血液分画はこうした自然の営みの中で別の人間へ移動するのだから、血
     漿や血液細胞に由来する血液分画は受け入れることができる、と結論する人もいることでしょ
     う。

さて、協会が、血漿たんぱく(分画)を個々のクリスチャンが良心的に決定してよいという理由が、ここ
で明らかになっています。それは、妊婦の血液分画が独立した胎児の循環系へ移動するということに基づ
くようです。つまり、神が個体間の移動を許しているものを、人間が禁止することは僭越であるという理
解によるものであると言えます。しかし、この点でも、この執筆者は大きな過ちを犯してしまいました。
最初の大前提をここでも破っているのです。つまり、「血に関する神の律法は、移り変わる意見に合うよ
うに改変できるものではない」という大前提です。医学の進歩は日々続いており、協会の執筆者が知らな
いのか、それとも意図的に無視しているのか分かりませんが、母体と胎児の間の血液あるいはその成分、
あるいはその分画の移動というものの実態は、日々変化しているのです。その現状はどうなっているので
しょうか。

その前に、参考にしている1990年6月1日号の「読者からの質問」では、さらに詳細な記述があるの
で、みてみることにしましょう。

   *** 塔90 6/1 30-1  読者からの質問 ***

   ■ エホバの証人は,免疫グロブリンやアルブミンなど,血液分画の注射を受けますか。

   受ける人もいます。それらの人は,聖書は血液から抽出された微小な分画もしくは成分の注射を受
   けることを明確には禁じていない,と考えています。

   妊婦の循環系と胎児の循環系とが別々になっているのは重要なことです。母と子の血液型は違う
   場合が多いからです。母親の血液は胎児の中へ流れ込みません。母親の血液の有形成分(細胞)も
   血漿自体も,胎盤という障壁を越えて胎児の血液の中へ入ることはありません。事実,もし何らかの
   損傷によって母親の血液と胎児の血液が混ざると,後に健康上の問題(Rh因子もしくはABO不適合)
   が生じかねません。しかし,血漿中のある種の物質は胎児の循環系に入ります。免疫グロブリンや
   アルブミンなどの血漿たんぱくは入るのでしょうか。確かに,入るものもあります。

   妊婦には活発な機構があり,それによって母親の血液から幾らかの免疫グロブリンが胎児の血液へ
   移動します。種々の抗体が胎児の中へ入るこの自然な作用は妊娠期間中常に生じているので,新生
   児は特定の感染症を防ぐある程度の免疫性をもって生まれます。

   アルブミンについても同様です。医師は,ショック状態や他の特定の状態の治療法としてアルブミ
   ンを処方することがあります。 研究者たちは,血漿中のアルブミンも,効率は低いものの,母親から
   胎盤を通過して胎児に伝わることを証明しました。

   血漿中の幾らかのたんぱく分画が別の人(胎児)の血液系の中へ現に自然に移動するということは,
   クリスチャンが免疫グロブリン,アルブミン,あるいは同様の血漿分画の注入を受け入れるかどうか
   を決める際に考慮できる,いま一つの要素となるかもしれません。正しい良心を抱いてそれができ
   ると考える人もいれば,できないと結論する人もいるでしょう。これは各自が神のみ前で個人的に
   決定しなければならない問題です。

ここでは、血液や赤血球、白血球などの有形成分(細胞)や血漿は、胎盤という障壁を越えて母親から胎
児へ移動することはないが、免疫グロブリンやアルブミンなどの血漿たんぱくは、母親から胎児の循環系
へ移動することがあると述べています。それが、血漿分画を受け入れることのできる一つの根拠になって
いることが分かります。それにしても、血漿は移動しないが、血漿たんぱくは移動するというのは科学的
に相当矛盾することだと思いますが、そうした矛盾には目をつぶるのでしょうか。

今回の「読者からの質問」における趣旨も、基本的にこの1990年の「読者からの質問」の線に沿った
形で展開されています。そして、さらに付加的付加的な情報として、赤血球がその寿命をまっとうしてビ
リルビンに分解されるとやはり胎盤を通過することから、「血漿や血液細胞に由来する血液分画も受け入
れることができる」というのが、今回の「読者からの質問」の最大のポイントになっている点です。最初
の質問「エホバの証人は、血液に由来する医薬品を受け入れますか」の答えの輪郭がここで明らかになり
つつあります。

この「読者からの質問」では、これ以上詳細な事柄についての言及は避けており、血液製剤の中で何が受
け入れらてゆくのかは、具体的には述べられていません。しかし、その後、協会からHLCへ宛てられた
手紙では、2年前に協会が学会で発表し、エホバの証人が受け入れないことを明確に言明したヘモグロビ
ンについて、当時の資料を破棄するようにとの指示が出されています。つまり、まだ一般信者には公開さ
れていませんが、ヘモグロビンはエホバの証人が受け入れることのできるリストに加えられたことになり
ます。しかし、考えてみれば、これは驚きです。

ヘモグロビンとは、赤血球の中に多く含まれている成分で「血色素」とも呼ばれています。ヘモグロビン
はヘムという鉄分とアミノ酸からなるグロビンが結合した蛋白質であり、血液中のヘモグロビンの主な働
きは、肺で酸素と結びつき末梢の組織へ運搬すること、また組織から二酸化炭素と水素イオンを受け取り
肺へ運搬するという非常に重要な役割を担っています。まさに「命を支える」働きをしています。赤血球
は文字通り赤い細胞ですが、これは赤血球の内部に含まれるヘモグロビンが赤い色をしているからです。
こうしてヘモグロビンは、まさに赤血球の中心的存在であることは確かです。

そのようなヘモグロビンを単に血液分画であるということで取り入れることを許し、一方で、赤血球は何
が何でもダメという論理は到底理解しがたいものです。エホバの証人の組織の中では、こうした決定に従
順に従う人がほとんどかもしれませんが、実際の医療現場において、つまり一人一人の証人が医師と対面
して、自分には輸血をして欲しくないとお願いする場合に、「全血や赤血球などの主要成分は受け入れら
れませんが、ヘモグロビンなどの分画は受け入れます」という主張は、果たして医師に理解してもらえる
ものなのでしょうか。到底困難であると予想されます。「一体、あなたがたは、何に基づいて血を取り入
れないのですか?」と不信に思われるのは目に見えています。もちろん、エホバの証人は医師の理解を得
るために方針を調整するわけではないにしても、今回の見解の変化は、あまりにも聖書的な根拠に乏しく、
説得性に欠けることを否めません。


さて、ここで、先ほど保留した疑問に戻ることにしましょう。血漿たんぱくや血液細胞に由来する血液分
画が胎盤を通過して個体の間を移動するということから、それを受け入れるかどうかを良心的に決定して
よいとする協会の見解に従えば、もし、血球細胞のようなものでも、胎盤を通過するならば、良心的に受
け入れるかどうか判断する対象として認めるのでしょうか。そのことは、この記事の中では明言していま
せんが、理屈からゆけば、良心による判断に委ねられる対象としてもよいことになるでしょう。

そこで、事実はどうなのか調べてみることにしましょう。医学的な常識では、次のようになっているよう
です。専門家の意見を聞いてまとめてみたのが以下のコメントです。

  ●胎盤関門を通過する物質は、基本的には分子量の小さいものに限られています。例えば、ブドウ糖、
   低分子蛋白、γグロブリンの中ではIgGなどが通過することが知られています。赤血球や白血球
   のような血液細胞は原則として通過しません。しかし、ごく少数ながら白血球や赤血球が母親から
   胎児へ、あるいは胎児から母親へ移行していることは確かにあるようです。

  ●一般的には、お母さんから赤ちゃんへは、たんぱく質の中のIgMぐらいの大きさのものは通らない
   ようですが、IgGぐらいの大きさのものは通ると言われています。しかし,赤ちゃんからお母さん
   へは(逆もある程度あると思われているが)、赤ちゃんの血液の成分のほとんど全てのものが移行
   しています。もちろん白血球も赤血球も移行しています。従って、通過するものがアルブミンのよ
   うな血漿たんぱくだけということはあり得ません。実際に,ある大学の研究室では、妊娠中のお母
   さんから血液を採り、その中に含まれている胎児由来の血球を使って出生前診断ができないか研究
   しているところもあります。

  ●「胎盤関門を決して通過しないという物質はない」というのが現代医学の常識となっています。す
   べての血球はわずかですが通過しています。特に分娩時には無視できないほどの血液が母体へ流入
   するのは当たり前で、これが原因で次回の妊娠に悪影響を与えることもかなり前からわかっていま
   す。これは血液型不適合妊娠と呼ばれています。また、例えば、お母さんの血液中にはごく少量の
   赤ちゃんの赤血球が混在するために、RH(-)の血液型のお母さんがRH(+)の赤ちゃんを身ごもっ
   た時などにも、問題が生じることが分かっています。

  ●基本的には、胎盤において母体血と胎児血は混じり合わないので、血球成分は胎盤を通過しないこ
   とになっています。しかし、ごく微量の胎児血が母体に移行することは、かなり一般的に起こって
   いると理解されています。胎児血の移行量が微量であれば臨床上問題になることはあまりありませ
   ん。

  ●母体血中に胎児の細胞が存在するということを示した論文として
 
    "Practical and theoretical implications of fetal/maternal lymphocyte transfer.
     Patricia-A, Jacobs. The Lancet, 1969; vol2: 745."
 
    "Prenatal diagnosis using fetal cells in the maternal circulation. 
     Jane Chueh, Mitchell S Golbus. Seminars in perinatology, Vol14; No6:1990; 471-482."
   
   などがあります。医学的には当たり前の話なので、こうした文献は探せばいっぱいあります。

以上まとめてみますと、血液成分の移動は、母親から胎児への移動も、胎児から母親への移動も、共に起
きており、特に稀なことではない。胎盤関門を通過する物質は、細胞の大きさに依存するため、サイズの
大きい血球細胞などは比較的通りにくいことはあるようですが、全く移動しないということはなく、間違
いなく血球細胞の移動は起きているということになります。これが、現在の医学の到達点のようです。

では、どうなるのでしょうか。協会の見解では、血漿たんぱくや血球由来成分などが胎盤を通過すること
を主な理由として、それを受け入れるかどうか、良心的に決定できるとしているわけですから、血球その
ものが胎盤を通過しているという医学的事実に基づいて、それを良心的に決定できるという判断は当然の
帰結ではないでしょうか。それとも、このたびは、「血に関する神の律法は、移り変わる意見に合うよう
に改変できるものではない」といって退けるのでしょうか。

     人によって意見も、良心に基づく決定も異なるのであれば、これは取るに足りない問題なので
     しょうか。それではありません。重大な問題です。とはいえ、根本的な点は簡単明瞭です。上
     記の資料が示しているように、エホバの証人は全血や主要な血液成分の輸血を拒否します。聖
     書はクリスチャンに、「偶像に犠牲としてささげられた物と血と・・・・・淫行を避け(る)」
     よう命じています。(使徒15:29)それより細かな事柄、つまり主要成分のどれにせよ、
     それから取った分画については、各々のクリスチャンが、祈りながら注意深く熟考した後に良
     心に従って自分で決定しなければなりません。

     多くの人は、血液製剤を用いる場合のように、周知の健康上の危険をはらんだ療法であっても、
     当面の益になると思える療法なら何でも喜んで受け入れることでしょう。誠実なクリスチャン
     は、身体的な面にとどまらず、より広い、より平衡の取れた見方をするよう努めます。エホバ
     の証人は、どんな治療法にせよ、それに伴う危険と益の割合を比較考量します。しかし、血液
     から抽出された製品に関しては、神の述べておられる事柄を、また命の与え主と自分との個人
     的な関係を注意深く考量します。―詩編36:9。

     クリスチャンが次のような確信を抱けるのは、何という祝福でしょう。詩編作者はこう書いて
     います。「神エホバは太陽、また、盾であり、恵みと栄光をお与えにな(りま)す。エホバは、
     とがなく歩む者に良いものを何も差し控えられません。・・・・・エホバよ、あなたに依り頼
     んでいる人は幸いです」。―詩編84:11,12

全血や主要な血液成分は有無を言わさず禁止し、他の成分や血液から抽出された製剤については、個々の
クリスチャンが決定できるという現在の協会の輸血拒否教義は、聖書的根拠も医学的な面での説得性もな
く、もはや崩壊の瀬戸際に追い込まれていると言えるでしょう。協会に残された道は、
 
  @全ての輸血を禁止する
  A現在の教義を継続する
  B全ての輸血を解禁する

の3つの選択肢しかないように思えます。@は時代に逆行するものですし、否定的影響が大きすぎるため
に現実的な選択肢としてはほとんど可能性がありません。当面Aの現状維持を続けながら、何とか、ソフ
トランディングを試みるのでしょうが、果たして、協会に残された名誉ある解決策は見出せるのでしょう
か。

2000年6月20日

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短編オムニバス集−その1

【誕生日】

先日、「市川北教会」のHPを見ていましたら、

   (エホバの証人の件で悩んでいる方々へ)
   (エホバの証人また研究生の方々へ)
          S.A. 

という体験記事が目にとまりました。それは、元エホバの証人の研究生だったS.A.さんが体験した
「保護・救出」のいきさつを簡単にまとめたものでした。その内容について、ここでは取り上げませんが、
その中で私の興味を引いたのは、彼女が「エホバの証人の教えの間違い」に気付いた一例としてヨブ記1
:4と3:1−3を挙げており、その聖句によれば、ヨブが誕生日を祝っていたという内容でした。

恥ずかしながら、このことは私にとっては初耳でした。そこで、早速、その聖句を調べて見ることに致し
ました。

   (ヨブ 1:1-5) ウツの地にヨブという名の人がいた。その人はとがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪
   から離れていた。2 そして,彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。3 それに,その畜類は羊七千
   頭,らくだ三千頭,牛五百対,雌ろば五百頭で,それと共に非常に大勢の僕の一団を持っていた。それ
   で,この人はすべての東洋人のうちで最も大いなる者であった。 4 そして,その息子たちは行って,
   自分の日に各々の家で宴会を催し,人をやって,その三人の姉妹をも招いて一緒に食べたり飲んだり
   した。5 そして,宴会の日が一回り巡ると,ヨブは人をやって彼らを神聖なものとするのであった。
   彼は朝早く起きて,彼らすべての数にしたがって焼燔の犠牲をささげた。これは,ヨブが,「もしか
   すると,わたしの息子たちは罪をおかし,その心の中で神をのろったかもしれない」と言ったからで
   ある。ヨブはいつもこのようにするのであった。

   (ヨブ 3:1-4) ヨブが口を開いて自分の日に災いを呼び求めたのは,その後のことであった。2 さ
   てヨブは答えて言った,  3 「わたしの生まれた日は滅びうせるように。 また,『強健な者が宿さ
   れた!』と,だれかの言ったその夜も。  4 その日は,闇となるように。 神も上からそれを顧みら
   れないように。 また,昼の光もその上を照らさないように。

確かに、普通に読みますと、これは誕生日のことに言及しているように読めますね。そして、ヨブ3:1
の相互参照聖句として、エレミヤ20:14−16が挙げられていますので、その聖句もみてみましょう。

   (エレミヤ 20:14-16) わたしの生まれた日はのろわれよ! わたしの母がわたしを産んだ日は祝
   福されるな! 15 わたしの父に良い知らせをもたらし,「あなたに息子が生まれました,男の子です
   !」と言った者はのろわれよ。その人は確かに彼を歓ばせたのだ。16 そしてその人は必ず,エホバ
   が覆して少しも悔やまれなかった都市のようになる。そして朝には叫びを,真昼の時には警報を必
   ず聞くのである。

確かに、ここでは、「わたしのは母がわたしを産んだ日」と述べられています。「わたしの生まれた日」
と明確に記述してあるヨブ記3:3の相互参照ではなく、単に「自分の日」と書かれているヨブ記3:1
の相互参照がこうなっているのは興味深い点です。

では、こうした点について、「ものみの塔協会」は、何と述べているのでしょうか? 何も述べていない
ということはたぶんないはずです。調べてみますとありました。最近では、「ものみの塔」誌などで取り
上げた形跡はありませんが、「聖書に対する洞察」の「誕生日」の項目の中で、以下のように触れられて
いました。

   ヨブの息子たちは『自分の日に各々の家で宴会を催した』時,自分たちの誕生日を祝っていたのだ
   と考えるべきではありません。(ヨブ 1:4)この節の「日」は,ヘブライ語ヨームを訳したもので,
   日の出から日没までの時間帯を指しています。一方,「誕生日」は,ヨーム(日)とフッレデトとい
   う二つのヘブライ語から成る複合語です。「日」と人の誕生日とが区別されていることは,その両
   方の表現が出て来る創世記 40章20節で認められるでしょう。そこには,「さて,三日[ヨーム]目は
   ファラオの誕生日[字義,「ファラオの誕生(フッレデト)の日(ヨーム)」]であった」とありま
   す。それで,創世記 40章20節の場合に疑いなくそうであるように,ヨブ 1章4節が誕生日のことを述
   べていないのは確かです。どうやらヨブの7人の息子たちは家族の集まり(春の祭りまたは収穫の
   祭りかもしれない)を催し,その宴が1週間で一巡する際,各々の息子が「自分の日に」自分の家で
   宴会の主人役を務めたものと思われます。

さすが「ものみの塔」! ちゃんと反論を用意してありました。半年前の私でしたら、ここで、一見落着
となるわけですが、今は違います。やはり自分で確かめないとだめですね。本当に正しいことを述べてい
るのか否か確認しないわけには済まなくなりました。これは悲しむべきことなのでしょうか、それとも、
喜ぶべきことなのでしょうか。

ここでは、ヘブライ語が登場してきますので、少しじっくり調べる必要があるようです。私にはヘブライ
語の知識がありません。従って、今回は結論を保留したいと思います。読者の皆さんも、時間と意欲のあ
る方は調べてみてはいかがですか。


【MTS】

MTSとは宣教訓練学校(Ministerial Training School)の略語です。1987年からスタートしたこ
の学校は、誰でも入れるわけではなく、一定の入校資格が必要となっています。1987年6月1日号の
「ものみの塔」誌29ページでは、その点がこう書かれています。「入校する人たちは、一定の霊的な資
格を満たしていなければなりません。最初に訓練を受けるのは、健康な独身の長老や奉仕の僕たちです。
できるなら開拓者であることが望まれます。学校に招待される人は、世界の畑に必要の大きい所があれば
どんな所でも、訓練された通りに進んで仕えなければなりません。」

エホバの証人の社会では、もともと世界中どこでも行く用意がある宣教者を養成するため学校として「ギ
レアデ聖書学校」という制度があり、今でも、世界中に宣教者を派遣していますが、現在は、この学校は
主に夫婦の開拓者が招待されているようです。宣教訓練学校はギレアデの分校のようなものですが、独身
の長老か奉仕の僕という制約があるわけです。従って、宣教者という面の訓練だけではなく、牧者として
の訓練も受けるようです。訓練期間は2ヶ月となっています。

やがて、この学校は日本でも開かれるようになり、多いときは、日本中いくつもの会場で、年に何クラス
も開かれていた時期がありました。こうしたMTSの卒業生は、卒業後、世界中の必要の大きな会衆へと
派遣されることになります。もっとも、日本人の場合には、言語面での制約が多いので、通常は国内の会
衆に派遣されることが多いですが、海外へ派遣される人も少数ですがいます。

では、こうして巣立ってゆくMTS卒業生は、エホバの証人の社会において、訓練に見合った効果的な役
割を果たしているのでしょうか。ここが一番大事なところです。

結論から述べるなら、残念ながら、MTSという制度はあまりうまく機能しているようには思われません。
少なくとも、この日本においてはそう言えます。全ての状況を把握しているわけではありませんが、私が
身近に観察するMTS卒業生を見ている限りでは、そうなります。MTS制度は会衆に仕える人ではなく、
エホバの証人の社会のエリート養成機関となっているという点に最大の問題点があると思います。

例えば、MTS以前の模範的なエホバの証人の若者たちの歩む典型的なコースはどのようなものでしょう
か。多少の違いはありますが、だいたい以下のようにみて大きな間違いはないと思います。

  ●高校を卒業と同時に開拓奉仕を始める
  ●20歳前後になると奉仕の僕に任命される(これは長老たちの推薦が必要なので自分が望むだけで
   は実現しませんが)
  ●30歳前後に長老に任命される(これも長老たちの推薦が必要)
  ●長老として円熟し、能力があれば、やがて巡回区などで話し手として用いられるようになる

もちろん、この間に、必要の大きな会衆に移動したり、結婚したり、特別開拓者になったり、ベテルに入
ったりと、人によりさまざまだと思いますが、典型的なコースは上記の通りです。それが、MTSを卒業
すると、以下のように様変わりになります。

  ●高校を卒業と同時に開拓奉仕を始める
  ●20歳前後になると奉仕の僕に任命される(ここまでは上と同じです)
  ●25歳前後でMTSに招待される
  ●卒業と同時に必要の大きな会衆へ派遣される
  ●やがてほどなくして長老として任命される
  ●年齢や経験に関係なく、巡回区などで話し手として用いられてゆく

長老として任命されるのがいつ頃になるかは、その人の資質にもよりますが、そんなに遅くない時期に任
命されているのが普通のようです。MTS以前は20台半ばで長老に任命されるのは特別に優れた資質が
ないとまず無理でしたが、MTS卒業生はいとも簡単に20台半ばでどんどん長老として任命されていま
す。もっとも、そうした特別に優れた資質を持っていると判断されたので、MTSに招待されたというこ
とになるのでしょうが。それにしてもわずか2ヶ月のエリート教育だけでそう簡単に人間が変わるもので
しょうか。

そして、巡回区などでも、「話し手などとして重用するように」という支部からの指示を受けて、巡回監
督は、MTS卒業生を積極的に用いてゆくことになります。まあ、一種のキャリア官僚のようなものです
ね。一度、MTS卒業生というお墨付きをいただいてしまえば、あとは怖いもの無しです。

MTSの授業では、謙遜に会衆の成員に仕えることを、生徒たちに強調して教えているようです。実際、
卒業生にMTSの感想を聞くと、異口同音に「謙遜さの大切さを学ばされた」ということを言います。し
かし、この謙遜さも、彼らにとっては、単なる知識の断片あるいはエリートクリスチャンとして必要な
「衣」のようなものに過ぎないようで、自分が実際に実践するものではないようです。実際、本当に謙遜
さを身につけたMTS卒業生を見出すのは至難の業となっているからです。

MTSは、20代の若者にとっては、いわば、エホバの証人社会における出世街道を歩む約束手形のよう
なものですが、その他の人々にとっては、頭でっかちな「キャリア証人」の育成機関以外の何ものでもな
いです。

最近になって、こうした現状に、ようやく協会も気がつき始めたようで、MTSの開催数は、現在では、
1年間で日本全国で1箇所1クラスが開催されるというスローペースなものになっています。でも、支部
から巡回監督への「MTS卒業生を重用するように」という指示は引き続き継続されているようで、今後
も、彼らは大きな顔をしてエホバの証人の社会を闊歩し続けることでしょう。


【RBC】

RBCとは、エホバの証人が崇拝の場所としている「王国会館」を建設するために組織した建設のプロ集
団の事です。全国を幾つかのブロックに分けて組織されており、正式名称を「地区建設委員会 Regional
Building Committee」といいます。彼らの働きは王国会館の必要に迫られている会衆を援助する上で、
大いに感謝されています。

王国会館の建設が決まると、建設プロジェクトが組まれますが、実際に建設奉仕を行なうのは、さまざま
会衆に所属している、いろいろな専門技能を持っている兄弟・姉妹たちです。彼らは、通常はそれぞれ会
衆に所属していますが、いざ建設となると、四方八方から集まってきて、あっという間に小奇麗な王国会
館を建ててしまいます。そして、その奉仕は大変楽しいもののようです。会衆で野外奉仕をするよりもず
っと楽しいようです。ですから、建設プロジェクトに参加するようにという招待がRBCから差し伸べら
れると、彼ら建設奉仕者はそうした招待をまず断りません。それに参加することが非常に楽しいからです。
そして開拓者の場合には、建設奉仕に費やした時間は、開拓奉仕の要求時間から差し引かれるので、実質
的に、野外で奉仕したことと同じになるのです。野外で冷たい反応しか示さない人に伝道するよりも、み
んなで楽しく建設する方がどれほど楽しいかわかりません。というわけで、RBCによる王国会館の速成
建設プロジェクトは、多くのエホバの証人のストレスのはけ口としても、大変有効な役割を果たしている
と言えるでしょう。

そして、何よりも、建設が無事終了して味わうアルコールの味は格別です。時には多少ハメをはずして騒
いだとしても、地元会衆の口うるさい長老たちの目を気にする必要はありません。無礼講が許されるとこ
ろがエホバの証人の社会にまだ残っていたとは、何と素晴らしいことなのでしょう。

こうしたことを考えるなら、その費用総額が多少一般業者に依頼するより高かったとしても、不必要な測
量を執拗に繰り返して(もちろん依頼先はエホバの証人の兄弟が経営する測量会社)、本来は不要な費用
が多少多く発生したとしても、必要以上に大勢の兄弟たちが非効率に働くために、宿舎や食事の世話で地
元の会衆に大きな負担が生じたとしても、それらは皆、概ね目をつぶって許容できる範囲にあるようです。

何しろ、エホバの証人はお祭りが大好きなのです。RBCはこれからも王国会館建設という陽気なお祭り
を取り仕切るべく活躍してゆくことでしょう。


【HLC】

MTS、RBCと取り上げてきて、HLCを取り上げないとしたら片手落ちとなってしまうでしょう。こ
れは、輸血拒否の教義を持つエホバの証人が、この問題で、医師と良い関係を確立し、緊急事態にも対応
することを目的として設立されたものです。正式には「医療機関連絡委員会 Hospital Liaison
Committee」と言います。

ブルックリン本部や各国の支部には、ホスピタル・インフォメーション・サービス(HIS)という機関
が設けられており、これが各地に設けられたHLCに直接指示を与えます。

HLCの果たしている積極的な面は多くあります。1993年11月22日号によりますと、その時点で
65の国に850のHLCが機能しており、日夜、無輸血手術に協力的な医師を探すために奔走していま
す。その甲斐あって、輸血の件でエホバの証人の立場に進んで協力する医師が3万人あまりに達している
ということです。

HLCは緊急事態において、エホバの証人と医師との間の無用なトラブルを防ぐという意味で、大きな役
割を果たしてきたことは間違いありません。1985年の有名な川崎における小学5年生の輸血拒否死亡
事件では、輸血するしないをめぐる議論に時間を奪われて治療が遅れたことも、結果に無関係ではないこ
とでしょう。もし、当時、HLCが機能していたなら、もっと違う対応がなされていたかもしれません。
無輸血でも治療してくれる協力的な病院に搬送して、もっとはやく処置ができ、命が助かったということ
があるかもしれません。

こうして有益な目的のために活躍しているHLCですが、そのHLCにも色々と問題がないわけではあり
ません。最大の問題点は、輸血をめぐる問題が個々のエホバの証人の信仰の問題ではなくなってしまって
いるケースが見受けられるという点です。分かりやすく飲み込んでいただくために、以下のような事例を
想定してみてください。

ある姉妹は、病気で手術が必要となりました。手術は簡単なものではなく、長時間におよぶことが予想さ
れました。早速、姉妹は、主治医に対して、「自分はエホバの証人なので無輸血で手術を行なって欲しい」
旨をお願いします。主治医は難色を示します。ここでHLCの登場となります。医師と患者の間に介入し
て、エホバの証人の立場をより明解に説明したり、必要なら医学的な助言もします。つまり、無輸血では
手術が困難であると訴える医師に、「○○病院では、こうした場合、こうした方法で無輸血の手術に成功
しています」といった具合に専門的なアドバイスをすることもあるようです。それでも無輸血の手術に同
意してもらえない場合には、無用な論争は避けて、すばやく他の病院に転院する手はずを整えます。近隣
の協力的な医師のリストに基づいて受け入れてもらえる病院を探します。そして、OKしてくれる病院が
見つかると、そこに転院します。

無輸血手術に同意してもらい、いよいよ明日手術という時に、しかし、突然問題が生じます。この手術で
は、「術中血液回収装置」が用いられることになっていました。これは、手術中に患者から出血した血液
を回収して再び患者に戻すための装置です。事前の確認では、この装置はエホバの証人として問題ないも
のだと思われたのですが、HLCの委員が最終的な確認をしたところ、その回路には問題があることが判
明しました。それで、以下のような問答がHLCの委員と医師の間でなされます。

  HLC:「ここの回路をこちらにつないでいただかないと、私たちはOKできません。」
  医師 :「そんなこと言ったって、手術は明日だよ。改造している時間なんかないよ。」
  HLC:「でも、この回路ではOKできません。」
  医師 :「勝手にしろ。」

こうして、この病院でも手術が不可能になり、また他の病院を探すことになります。

ここには、時間の浪費以上の大きな問題点が含まれています。それは、このHLCの委員と医師とのやり
取りが、患者本人の信仰とは全く関係のないところでやりとりされていることです。もともと、「術中血
液回収法」は少なからず血液の貯蔵を伴うので、本当は限りなく「灰色」の方法なのですが、HLCでは、
これは「シロ」、これは「クロ」、これは「灰色」と区別して、医師との折衝を行なっているのです。

「この方法では私たちはOKできません」と言っっていますが、残念ながら、この「私たち」の中に、患
者は含まれていません。実際、こうした基準は、一般信者にはほとんど知らされていません。それなのに、
いざ手術となって、HLCの委員が絡んでくると、この方法は「シロ」だからOK、この方法は「クロ」
だからダメ、この方法は「灰色」だから、本人の良心で決めてくださいという具合である。しかし、そう
した専門知識の面で十分な知識や認識のない一般信者が、良心で決めることなどできるわけがありません。
それで、結局、手術の方法は、患者本人の意志ではなく、HLCの委員たちの良心や判断で、決まってし
まうことになるのです。何という本末転倒なのでしょう。

確かに、HLCの兄弟の奔走で手術が成功した例も数多くありますが、「HLCの委員さえ出てこなけれ
ば問題なく済んだのに」という事例も枚挙に暇がないのです。


【知識の本】

この本を、1995年の夏の地域大会で受け取った時の率直な感想は、「これで本当に使い物になるのだ
ろうか心配だ」というものでした。事実、その後、日本をはじめ先進国の研究生は減少の一途をたどるこ
とになります。さらにひどかったのは、この本を用いた研究の仕方についての指示でした。それは、要約
すると、

  ●この本1冊で研究を終える(以前は1冊目の本が終了しても、2冊目の本を用いた研究が続いた)
  ●研究期間のタイムリミットを半年とする(以前はタイムリミットのようなものはなかった)

というものでしたが、野外での実情を無視した、ほとんど唖然とする内容でした。しかし、当然のことな
がら、誰も、面と向かって、「これはひどい決定だ」と言う勇気のある人はいませんでした。

現場の会衆は混乱していました。恐らく、支部には、全国各地の兄弟・姉妹たちから、山のような問い合
わせの手紙が殺到したものと推測されます。しかし、支部からの反応は、後に私たちが出席した特別一日
大会における、支部からの訪問講演者による「この決定は、神の聖霊によるものです。私たちが気が付い
ていない奥深い意味があるのかもしれません。ですから、それに従うことが必要です」という発言にみら
れるように、著しく柔軟性に欠けたものでした。巡回訪問でも、巡回監督は同様の事柄を繰り返していま
した。

確かに、「知識」の本は、主に、爆発的な勢いで勢力拡大を遂げている旧共産諸国向けの本としては、有
用なものでしょう。この時期に統治体がそうした本を出したことは意義があるかもしれません。しかし、
日本の現在の実情に合わせるには無理がありました。それで、日本支部の聡明な兄弟たちが、そのことを
汲んで統治体と交渉し、しかるべき適切な方針、日本の実情に合った方針を示してくれるものと期待して
いました。

そうした期待はなかなか実現しないまま時が過ぎてゆき、研究生の減少に拍車がかかってゆきます。しか
し、とうとう1998年1月になって開催された「王国宣教学校」(注:長老たちを対象に支部が開く不
定期のセミナー)で、「知識」の本を用いた研究方法は軌道修正され、多少使いやすくなりました。しか
し、支部の方針では、統治体の提案は何ら変化はなく、その言い回しの微妙な部分を取り上げて、何とか
別の解釈を試みる非常に苦しいものでした。日本の憲法第9条の解釈のようなものです。

まるでペルシャ時代の法令のように、統治体の決定とは決して覆せないものなのでしょうか。少なくとも、
統治体以外の人間にはそうした権威が与えられていないので、決して覆せないのでしょう。それほどまで
に統治体に気をつかう支部の姿勢は、不自然なほど卑屈なものと言わざるを得ません。

そして、ついに、2000年6月の王国宣教「だれかが手引きしてくれなければ・・・・・どうして分か
るでしょう」という記事で、やっと、晴れて元の状態、つまり、

  ●研究に用いる書籍は1冊に限定しない(2冊目もOK)
  ●研究期間にタイムリミットは設けない(むしろ期間を気にして内容をおろそかにするなと強調され
   ている)

という方針に戻ったのでした。やれやれ、お疲れ様でした。

しかし、こうした修復に何と5年に近い歳月を要するとは、一体この情報時代に何ということでしょう。
「ものみの塔協会」は、臨機応変な対応が不可能になってしまうほど肥大化してしまったようです。それ
は、まるで滅亡前の恐竜を彷彿させるものとなっていて不気味でさえあります。

2000年6月24日

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エコロジー的考察:この地球は200億人の人類を養えるか?

先週と今週の日曜日(8月27日、9月3日)に行なわれた、会衆の集会における「ものみの塔」研究で、
2週間にわたって「復活」について扱われました。「復活」そのものは、聖書の教理の一つですが、その
「復活」がどのようなものであるか(例えば、いつ、だれが、どこに復活するかなど)については、もの
みの塔協会の教えはかなり独特のもののようです。14万4000人の油そそがれた者は天に復活し、そ
の他の人々は、地上に復活することになっています。

そこで、時々問題になるのは、「大量に復活してくる人々を、この地上は受け入れることができるのだろ
うか」という点です。ですから、エホバの証人が時々取り上げる話題の一つとして、「この地上に復活す
る無数の人には、十分な土地があるか」といった事柄があります。そこでこうした点についての検証を試
みてみることにしました。


1)ものみの塔協会は何と述べているか

まず、この点についての、ものみの塔協会の公式見解は、どのようなものなのか確認しておきたいと思い
ます。ものみの塔協会の見解では、将来、「ハルマゲドン」が到来し、地球上から「悪」が除き去られ、
「楽園」が到来した時に、かつて地上に生存したことのある大勢の人たちが、「清められた地上」に復活
してくるとされています。

その時に、地球は、「復活してきた人たち」を、十分に受け入れることができるのかという点が心配にな
るところです。実際のところ、現在、地球は、60億人あまりの人口を養うだけでも四苦八苦しているわ
けですし、今後、開発途上国を中心にさらに人口爆発が続くならば、さまざまな社会問題が発生すること
が懸念されている状況ですから、そうした心配ももっともなことと言えるでしょう。

この点で、1986年に発行された「真の平和と安全〜どのように見いだせるか」という書籍(以後、
「平和と安全」と略称)の105ページには、こう書かれています。

   ***「平和と安全」 P105-6  9章 全地球的な平和と安全―信頼できる希望 ***
   
   地球はそれほどの人口を収容できるか

   25 惑星であるこの地球は,死者の復活によって生じる多くの数の人々に快い居住空間を提供できる
   でしょうか。地球の人口が1800年代の初めに10億人に達するまでに5,000年以上かかりました。今
   日,それはほぼ50億に達しています。

   26 したがって,今日生きている人は,これまでに生存した人々全体の中のかなりの部分を占めてい
   ます。人類史の全期間の総人口をおよそ150億人と推定している人たちもいます。地球の陸地面積
   は150億ヘクタール以上あります。これは一人に1ヘクタール以上という計算になるでしょう。そこ
   には,食糧生産のための場所だけでなく,森林や山,その他の景勝地もあり,その楽園が過度に込み合
   うようなことはないはずです。そしてまた聖書は,今日生きている人すべてが生き残って新秩序で
   生活するわけではないことも示しています。事実,イエスは,「狭い門を通って入りなさい。滅びに
   至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多い」と言われました。また,世界の滅びが到
   来する時,エホバのご意志を行なっていない者たちが「去って永遠の切断に」入ることにも注意を
   促されました。―マタイ 7:13; 25:46。

   27 しかし,地球はそれほど大勢の人々のための食糧を十分に生産できるのでしょうか。科学者は,
   現在の状態のままでさえそれが可能であるとしています。トロント・スター紙は次のように伝えま
   した。「国連食糧農業機関(FAO)によると,地球全体では,地上のすべての人に一日3,000カロリー
   の食物を与えるだけの穀物がすでに栽培されており,これは……最低許容レベルを約50パーセント
   も上回っている」。56 将来について見ると,今日の状態のもとでさえ,現在の世界人口の2倍の人々
   の必要を満足させるだけの食糧を生産することができると,同紙は説明しています。また,エホバが
   ご自分の民を導いて,地球の農業潜在力が正しく活用されるようになるという点も忘れてはなりま
   せん。詩編 72編16節は,『地には穀物が豊かに実り,山々の頂であふれんばかりに実る』と保証し
   ているからです。

   28 わたしたちは,最初の人間夫婦に対して初めに述べられた神の目的が何であったかを銘記してい
   るべきです。彼らは,エデンの境界を地の隅々に広げ,『地に満ちて,それを従わせるように』と告
   げられました。(創世記 1:28)明らかにこれは,地球を人であふれさせてしまうことではなく,心
   地よい程度まで満たすことを意味しています。そのようにしても,『従えられた』地は,園のような
   人間の最初の住まいに匹敵する全地球的な公園となるだけの余地を持つことでしょう。ですから,
   神のこの命令は,神の定めの時に,神の定めの方法で人口の増加が制御されることを示唆しています。

また、1994年に出版された「聖書に対する洞察」の第2巻681〜682ページには、こうあります。

   ***「聖書に対する洞察」-2巻 P681-2  復活 ***
   
   1,000年間の復活
  
    これまで地上に生存した人間の数は,非常に大ざっぱに見積もって200億人です。この問題を研究
   している人の中には,これまでに生存した人の数はとてもそこまでは行かないと考える人が多くい
   ます。上記の論議に示されているとおり,そのうちのすべてが復活を受けるわけではありませんが,
   そのすべてが復活すると仮定しても,彼らの住居のスペースや食物に関する問題は生じないでしょ
   う。現在のところ,地球の陸地の面積は約1億4,800万平方`,つまり148億fです。その半分を他の
   用途のために取り分けるとしても,一人当たり3分の1f以上の土地があります。地球の食糧生産の
   可能性に関して言えば,3分の1fあれば,特に,神がイスラエル国民に対して実証してこられたよう
   に,神の祝福の結果として豊富な食物があるならば,実際に一人の人に備えられる食物は十分過ぎる
   ほどの量になるでしょう。―王一 4:20; エゼ 34:27。

   国連食糧農業機関は地球の食糧生産力の問題について,地球は農耕の方法を適度に改善するだけで,
   発展途上にある地域においてさえ,科学者たちが西暦2000年の人口として見積もっている数の9倍も
   の人間を容易に養うことができると主張しています。―「土地,食物,人々」,ローマ,1984年,16,17
   ページ。

さて、これら2つの書籍で述べられている内容は、一部重複したり、発行年のズレからか数字が若干異な
っている部分もありますが、概ね以下のようにまとめられるでしょう。

   @ 人類史の全期間の総人口について、200億人程度と推測することができる。これが将来、
     「新しい地」に復活する人を含め、「新しい地」に生活する可能性のある最大数とみなせる。現
     在生きている人の多くは、来るべき「世界の滅び」で「永遠の切断」に入るので、実際には、
     「新しい地」に生活する人の数はもっと少なくなると考えられる。

   A 地球上の陸地面積は約148億ヘクタールである。そのうち半分を他の目的のために取り分け
     たとしても、「新しい地」に生活する人のために、「楽園」では、一人あたり0.37ヘクタ
     ール程度の土地が存在することになる。

   B これだけ大勢の人たちがいても十分な食糧を得るという点で心配する必要はない。その理由と
     して、
      イ)国連での分析やトロント・スター紙の論説によれば、地球は十分な食糧生産が可能。
      ロ)エホバが地球の農業潜在力を正しく活用されるようにしてくださる。
      ハ)詩編72:16の保証の言葉がある。

   C 創世記1:28によれば、地球は人間にとってほどよい状態に保たれるという約束がある。神
     の定めの時に神の定めの方法で、人口の増加が制御されるので、際限なく地上に人が増えると
     いうことはなく、ほどよい状態が維持されることになる。


さて、こうしたものみの塔協会の見解は、妥当なものなのでしょうか。

   @ 統計処理によると、だいたいそうなるのは間違いないようです。

   A 地球の陸地面積は、確かに約150億ヘクタール程度です。従って単純な計算上では、上記の
     計算が成り立ちますが、「新しい地」における森林や農地などを、どの程度に見積もるかによ
     って、一人あたり必要な土地の目安は変わってくると思います。ものみの塔協会の見解につい
     ては、この点で、もう少し詳細な分析を加える必要があると考えます。

   B 「新しい地」で生活する人類にとって十分な食糧が得られるかどうか、これが最大の問題の一
     つになると思います。

   C 200億人の人間が「新しい地」に生活するとして、さらに、これらの人たちが、子供を産む
     ことも十分予想されるわけです。人口がどの程度の水準で、ほどよく調節されるのか分かりま
     せんが、少なくとも、「1000年統治」の期間の終りまでは、当初復活した人口より多い数
     字で維持されることになるわけで、こうした事が果たして本当に可能なのかどうか、検証が必
     要だと思います。

さて、では、上記のうち、A、B、Cの点について、詳しく検討してみたいと思いますが、便宜上、C、
B、Aの順番で行ないたいと思います。何故なら、Cで、実際のところ、一体どのくらいの人間が「新し
い地」に生活するのかを大まかに把握しておかないと、次の議論に進みにくいからです。そして、Bでは
食糧問題について、Aでは生活スペースなどを含めて他の種々の問題等についても考えてみたいと思いま
す。


2)「新しい地」に生活する人類はどのくらいになるのか

まず、「新しい地」に生活する人類の数を、ざっと算出してみたいと思います。

   ●基本となる数字:復活する見込のある人=約200億人。この点はこれ以上深く追求しないこと
            にします。このまま認めることにしましょう。
   ●マイナス要因:上記の数に対して、マイナス要因として、近い将来予想されるハルマゲドンで滅
           ぼされる人の数を減ずる必要があります。その数はものみの塔協会の見解では、
           現存する人口とほぼ同数近くに達するはずですが、その数字を具体的に述べるの
           はやや不謹慎なので、あまり強調してしていませんが、多分そう考えていると思
           います。
   ●プラス要因:「新しい地」で新たに生まれる人をプラス要因として考慮する必要があるでしょう。
          聖書はこの点について定かなことは述べていませんが、既述の「平和と安全」の
          28節によると、「神の定めの時に、神の定めの方法で人口の増加が制御される」
          という表現から、逆に、「新しい地」でも多少の「人口増加」があることを示唆し
          ていると考えられます。そして、それは、しかるべき時期に「制御」されることに
          なると述べられています。どの程度の人口増加があるか算定は不可能ですが、仮に、
          200億人の男女のうち60%の男女がペアリングして子孫を1人もうけたとする
          と、60億人程度の増加ということになります。
   ●結論:結局、基本となる数字に対して、マイナス要因とプラス要因の両方があり、その影響力は
       大雑把にみてほぼ同程度とみなせるので、「新しい地」に生きることになる人類の数は、
       おおよそ200億人と見積って、次の議論に進んでゆきたいと思います。

   
3)地球は200億人のための食糧を産出できるか

3−1)食糧問題の現状とその背景

では、上記のように算定した「新しい地」に生きる200億人の人類は、果たして快適な生活を送ること
が可能なのでしょうか? まず、食糧問題について考えみましょう。

200億人が健康に生活するために必要な食糧が、どの程度なのか算定することも、大変難しい作業です。
通常、エコロジストの算定は、現在の生活水準を維持することを前提にする場合が多いようです。生活水
準を大幅に引き下げることは、通常好ましことではないからです。それでは、人々の命を支える食糧に関
して、検討してみることに致しましょう。


ここに一つのデータがあります。総務庁統計局による1950年と1992年の世界の農業生産状況の比
較を以下に示します。
 
                  1950年       1992年       倍率

   ●人口:         25億5400万人   54億6900万人    2.1倍
   ●穀物総生産量:      6億3100万t   17億5540万t    2.8倍
   ●一人あたり穀物生産量:     247kg       318kg    1.3倍
   ●農地総面積:       5億9300万ヘクタール   6億9500万ヘクタール   1.2倍  
   ●一人あたり農地面積:     0.23ヘクタール      0.13ヘクタール    0.6倍
   
また、別のデータによると、穀物の作付け面積は、1961年から現在までほぼ一定であるが、1ヘクタ
ールあたりの穀物の収量は1.4トンから3.0トンへと、約2倍以上に増えています。これがいわゆる
「緑の革命」と呼ばれるものであり、
   @ 小麦・米・トウモロコシなどの穀物の品種改良の進展
   A 化学肥料とりわけ、窒素固定化技術による窒素肥料の進歩
などに負うところが大きいとされています。

上記の事柄から、ここ40〜50年の農業に関する進歩の具合は、だいたい以下のようにまとめれられる
ことになります。

   ●人口は約2倍に増加している。
   ●穀物生産量はほぼ3倍近くに達している。
   ●従って、一人あたりの穀物生産量は30%程度増加している。
   ●農地の総面積はそれほど大きな変化はなく、2割程度の増加にとどまっている。
   ●従って、一人あたりの農地は約半分程度に減少している。
   ●1ヘクタールあたりの収量は約2倍程度と大幅に増加している。

さらに、これに、次のような最近の事態の変化を考え併せる必要があるでしょう。

   ●一人あたりの穀物生産量がこのままのペースで伸びてゆくならば未来は明るいことになるが、最
    近の約10年間程度のデータをみると、そのペースは急速に鈍ってきている。FAO(国連食糧
    農業機関)によれば、その数値は、1980年以降、ほとんど横這い状態となっている。

上記の点について、その理由として様々な解釈がありますが、例えば、ワールド・ウオッチ研究所のレス
ター・ブラウン博士に代表される意見によりますと、「世界の穀物生産は、環境の制約により、ほぼ飽和
状態に至った」としています。また、「これは、過剰生産による穀物価格の低下が、穀物輸出国の生産を
抑制しただけで、一時的な現象に過ぎない」という世界の主要エコノミスト達の見解があります。どちら
の見解がより正しいのかは、現時点ではまだ結論が出ていません。


また、米国農務省の見解によると、2050年の世界人口はおよそ102億人と推定されています。結局、
人口増加の勢いは、今後21世紀も衰えをみせず、一方で、人口一人あたりの穀物生産量は伸び悩んでい
るわけです。それでも、単位農地あたりの収量が増えてきているために、人口の増加によっても、食糧が
足りないという状況は、世界的には招かないで済んでいます。しかし、こうした状況をうまく継続してゆ
くためには、人口が増加し、農地がそれほど増えないという状況では、農地の収量を引き続き継続的に向
上させる必要があることは明白です。実際、エコロジストの中には、

  「1998年の3トン/ヘクタールという収量を、5トン/ヘクタールにまで飛躍的にアップさせる
   ことができるかどうかが、21世紀の人類の食糧問題の鍵を握っている」

と述べる人もいます。そうした事柄が実現できる見通しは、今のところ立っていません。収量をアップさ
せるということは、それほど大変なことなのです。それには幾つかの要因があるようです。例えば、以下
のような指摘がされています。

   ●農業先進国では、バイオテクノロジーや農薬の進歩、灌漑農業の発展で収量を飛躍的に伸ばして
    きており、すでに現在の技術ではほぼ限界に達している。
   ●農業後進国では、天候不順などの要因で、むしろ収量がマイナスになっており、森林の破壊、砂
    漠化の進行などの要因などを加味すると、今後、収量を向上させてゆくことは、至難の業である。

前者の点について、もう少し詳しく述べますと、現在でも、農業先進国である米国やフランスなどでは、
6.0〜7.4トン/ヘクタール程度の収量があり、これは、世界平均の2倍以上の水準になっています。
つまり、開発途上国の収量の低さが、全体平均を下げているという現実があります。これは、逆に考えま
すと、開発途上国の農業には改善すべき余地がまだ多くあり、そうした事柄が達成できれば、事態はそれ
ほど悲観することはないという意見にもつながることになります。しかし、すべての国でそのような収量
アップが可能かどうかは、やはり大変困難な問題とならざるを得ないでしょう。

さらに、憂慮すべき点として、世界の中でも先進的な食糧生産を達成できている地域は、実は比較的乾燥
した地域が多く、さらに、食糧の生産余力があるといわれるのは、せいぜいアメリカ中西部とか東欧のあ
たりに限定されているという点です。特にアメリカ中西部は大規模灌漑農業によって飛躍的に収量を高め、
これまで世界の食糧供給基地としての役割を果たしてきましたが、現在、その水源が急速に枯渇しつつあ
るという不気味な報告もあります。また、現在着実に進行しつつある地球温暖化によって、一番打撃を受
けるところも、実はそうした地域なのです。地球温暖化は、農業大国でもあるアメリカ農業に、計り知れ
ない大きな打撃を与える可能性があり、そうした要因によって、21世紀の食糧事情は激変する可能性を
含んでいると考える科学者は大勢います。


3−2)食糧問題の将来展望

先ほど検討した農業データを21世紀を展望して推測するとどうなるでしょうか。やや乱暴なやり方です
が、1950年と1992年の実測値を、そのまま1992年と2034年の関係に機械的にあてはめた
と仮定すると、以下のようになります。

                  1992年       2034年       倍率

   ●人口:         54億6900万人     114億人      2.1倍
   ●穀物総生産量:     17億5540万t      49億t      2.8倍
   ●一人あたり穀物生産量:     318kg     413kg      1.3倍
   ●農地総面積:       6億9500万ヘクタール      8億ヘクタール     1.2倍  
   ●一人あたり農地面積:     0.13ヘクタール    0.08ヘクタール      0.6倍

114億人という人口は他の統計資料と比較しますとやや大目ですが、まあ遠からずというところでしょ
う。穀物生産はかなり楽観的な見通しの人なら、上の数字を許容するでしょう。実際、収量は5.9トン
/ヘクタール程度で、現在の世界平均の2倍程度ですが、それでも、現状のアメリカの水準を上回るまで
には至っていません。農地面積の拡大は森林面積の減少、都市空間の増加、人々の生活空間の増加などを
考慮するとかなり難しいと見られますが、これも許容範囲とみなすことができないわけではありません。

ところで、今関心があるのは、200億人という人口を養うことは、果たして可能かどうかという点です。
人口200億人という数字を外挿すると、これもラフな議論ですが、ちょうど西暦2068年頃に相当す
るとみなすことができます。では、2068年の農業事情はどうなっているでしょうか。200億人の人
口を養うという点のイメージをより具体的につかむために、2068年の農業事情を予想してみました。
架空の論議でそうした点の詳細を明らかにするのは少し乱暴な話ですが、他にデータがない状況では、仕
方がないでしょう。上記の数字を外挿してみると、以下のようになります。

                  2034年       2068年       倍率

   ●人口:           114億人       200億人      1.7倍
   ●穀物総生産量:        49億t       113億t      2.3倍
   ●一人あたり穀物生産量:   413kg       454kg      1.1倍
   ●農地総面積:          8億ヘクタール        8億ヘクタール     1.0倍  
   ●一人あたり農地面積:   0.08ヘクタール      0.04ヘクタール      0.5倍

人口200億人を養うということは、上記のような農業環境になることを意味します。

結論から述べるなら、上記の数字は、かなり実現することが難しい数字を示していると判断できます。地
球の生産可能な食糧生産の限界点をはるかに超えてしまっているように思えます。例えば、人口が114
億人から200億人に増えても、農地面積を増やすことは困難であるため、横這いとなっています。従っ
て、人口一人あたりの農地面積は、現在の1/3にとどまっています。そして、農地の単位面積あたりの
収量は、約14トン/ヘクタールということになります。これは、現在の実に4.7倍という水準に相当
することになります。これは平均値ですから、農業生産性の異なる地域では、恐らく現在の10倍以上の
収量を要求される地域もあることでしょう。どの農業専門家、エコロジスト、経済学者などに聞いてみて
も、この数字は「実現不可能」なものであると答えるに違いありません。


「平和と安全」の中で、トロント・スター紙がFAOの意見として紹介していましたが、それは、次のよ
うなものでした。

  「国連食糧農業機関(FAO)によると,地球全体では,地上のすべての人に一日3,000カロリーの食物を
   与えるだけの穀物がすでに栽培されており,これは……最低許容レベルを約50パーセントも上回っ
   ている」。

こうした見方が正しければ、上記のような状況を許すかもしれません。確かに、農業先進国と言われる国
では、今でも世界平均よりも格段に高い収量をあげることができ、理想論としては、そうした状況を世界
的な規模で現出させることが不可能であるとは断定できませんが、現実問題としては、これまで述べてき
たように、相当に困難であると結論せざるを得ないでしょう。


また、「聖書に対する洞察」の中でも、やはりFAOの意見が紹介されています。次のようなものでした。

  「地球は農耕の方法を適度に改善するだけで、発展途上にある地域においてさえ、科学者たちが西暦
   2000年の人口として見積もっている数の9倍もの人間を容易に養うことができると主張しています。
   ―「土地,食物,人々」,ローマ,1984年,16,17ページ。

これは1984年の論文からの引用ですが、これについて検証できませんでしたが、2000年の人口を
約60億人と見積もると、その9倍である540億人の人口を養うことが可能という、かなりとてつもな
い意見になります。現在のFAOの見解は、「食料生産は世界的には人口増加を上回る伸びを示してきた
が、このことは、すべての国に該当しない。多くの国が増加する食料輸入額に耐える能力がほとんどない」
というかなり現実的な見方を採用していることだけを、付け加えておきたいと思います。

実際、アフリカ、中南米、オーストラリア、南ヨーロッパなどでは、一人当たり食料生産の年平均増加率
はマイナスとなっており、北米、東ヨーロッパ、アジアなどの世界の一部の地域の食糧生産が、世界の人
々を養っているという現在の姿を垣間見ることができます。

そうしたアンバランスを乗り越えて、上記1984年の論文が指摘するような状況を生み出すということ
は、まさに空想の産物であり、何かとてつもない前提の上に立脚した机上の理想論ではないかと考えざる
を得ません。


しかし、ここで、まだ奥の手が残されていました。「平和と安全」が述べているのがその点です。「エホ
バがご自分の民を導いて、地球の農業潜在力が正しく活用されるようになる」ので、何も心配する必要は
ないという説明です。これは、もはや科学的に反論する余地がありません。「全能の神が良きに計らって
くださる」というのを、一介の人間が、「全能の神にはそうした能力がない」とか、あるいは「神は、ご
自分の力をそうした事柄には用いない」と断言することは到底できません。

でも、ちょっと考えてみてください。地球はすでに「神の傑作」の産物としてある程度その機能を発揮し
てきたのではないでしょうか。少し前になりますが、米国の資産家が科学的好奇心から、できるだけ自然
の生態系を再現した人工的な環境をつくって、そこに生活するという実験を行なったことがありました。
「バイオスフィアU」と名づけられた巨大なガラスハウスをアリゾナ州につくり、そこに、自然の生態系
を模して、人工的な山、海、湖、川、砂漠、畑などをつくったのです。そして、科学者6名がそのガラス
ハウスに実際に居住し、様々なデータ測定なども行なったようです。しかし、計画はあえなく頓挫してし
ましました。わずか数週間も経たないうちに異常なガスが発生し、生活を続けることが困難になってしま
ったのです。つまり、それほど自然の生態系は複雑でうまくできており、そのバランスや制御は絶妙に保
たれているものなのです。決して、人が簡単に作り出したり、制御できるものではないようです。

ですから、すでに人類は、神が整えてくださった「地球の農業潜在力」を正しく活用できるように努力し
てきた結果として、現在の農業の到達点があるとみることもできます。もちろん、これ以上の「正しい活
用」は不可能であると断定することは僭越なことですが、でも、「神が何でも良きに計らってくださる」
という考え方は、ちょっといやな感じがつきまといます。つまり、

   ●何でも、神の後ろ盾を持ち出すことにより、事実上、人間にとって不可能な事柄は皆無になって
    しまう。
   ●こうした「何でもあり」の解決方法は、結局、人間を、ある意味で「神のロボット」にしてしま
    うことになりはしないだろうか。それは、ものみの塔協会が嫌うことでもあるはずです。

こうした不安が持ち上がるのですが、いかがなものでしょうか。適切な比較ではないかもしれませんが、
ある動物園の飼育係が、次のように自慢していたのを、テレビで見たことがありました。「うちの動物た
ちは自然環境のもとにいる時よりも約2倍も長生きするので幸せである」ということでした。確かに、エ
サの心配はないし、病気になれば面倒みてくれるかもしれません。野生生活のような身の危険も少ないこ
とでしょう。結果、寿命が長くなることは十分予想できることです。しかし、これは、人間からみた一方
的な「幸せ」の押し付けであって、本当に動物たちが、狭い檻の中での時間的に2倍になった一生を「幸
せ」と考えるかどうかは分かりません。むしろ、単に人間のエゴで、そう思っているだけなのではないで
しょうか。翻って、自然環境と折り合いをつけながら、たとえ効率は悪くてもささやかな農業を営むこと
と、神の奇跡のみ手のもとに飛躍的な収量をあげることを神頼みすることを比較して、後者の方が素晴ら
しいと本当に言えるのでしょうか。そこまでして、200億人の人間を養うことが、本当に神のご意志な
のでしょうか。


でも、神は、聖書の中で、「地が産出的になることを預言している」と言われる方がおられるかもしれま
せん。前述の「聖書に対する洞察」でも、次の聖句が参照されていました。

  (列王第一 4:20) ユダとイスラエルは,おびただしさの点で海辺にある砂粒のように多くて,食べた
   り飲んだりして,歓んでいた。

  (エゼキエル 34:27) そして野の木は必ずその実りを出し,その地も収穫を与え,彼らはその土地に
   安らかにいるであろう。そして,わたしが彼らのくびき棒を折り,彼らを奴隷として使っていた者た
   ちの手から彼らを救い出したとき,彼らはわたしがエホバであることを知らなければならなくなる。

そこでは、こうした聖句を根拠に、「神の祝福の結果として、豊富な食物があるならば、実際に一人の人
に備えられる食物は十分過ぎるほどの量になるでしょう」と説明されています。しかし、これらの聖句は、
単にユダとイスラエルが繁栄する様子を描いたものであり、将来のより大規模な預言を含んでいるとする
のはいいとしても、明らかに、将来の地上で200億人に十分な食糧が保証されることにまで具体的に言
及しているものではありません。


3−3)食糧問題の結論

食糧問題についての結論としては、将来、「新しい地」で200億人を十分養うことは、現在および現在か
ら予想される将来の地球の農業生産性などを展望すると、かなり厳しい状況となることが予想されるとい
うことになります。言うまでもなく、人間には及びもつかない神の奇跡の手が差し伸べられるならば、実
現不可能とは断定できないまでも、それは、かなり不自然な状況を作り出すと考えるのですが、いかがな
ものでしょうか。


4)地球は200億人分の生活スペースを確保できるか

次に、200億人が狭い地球上に生活するとなると、スペースを含めて種々の問題が想定されますが、2
00億人の人類が、この地上に快適な生活空間を本当に確保することができるのか考えてみたいと思いま
す。


4−1)陸地面積

まず、陸地面積についてですが、既述のように約150億ヘクタールとなっていますが、もう少し詳しく
みてみますと、主要大陸別のおおよその面積は以下のようになっています。

   ●アジア大陸    : 44億ヘクタール
   ●アフリカ大陸   : 30億ヘクタール
   ●北アメリカ大陸  : 24億ヘクタール
   ●南アメリカ大陸  : 18億ヘクタール
   ●南極大陸     : 13億ヘクタール
   ●ヨーロッパ大陸  : 10億ヘクタール
   ●オーストラリア大陸:  7億ヘクタール
   ●その他の島々   :  6億ヘクタール
      合計     :152億ヘクタール

その他の島々の1/3を占めているのが巨大なグリーンランドであり、上記のうち、少なくとも南極大陸
やグリーンランドは生活にはあまり適さないので除外してもよいでしょう。すると陸地面積は137億ヘ
クタール程度になります。今後、この数字を陸地面積のベースとして考えてゆきたいと思います。


4−2)森林とその働き

1995年時点における世界の森林面積は、およそ34億5400万ヘクタールで、総陸地面積の約4分
の1程度に相当します。でも、この森林面積のうち約3分の1は、木がまばらにしか生えていない「疎林」
と呼ばれるもので、私たちが普通、「森林」と聞いて思い浮かべるような、木が密生して生えている密林
は約27億ヘクタール程度で、総陸地面積の約5分の1程度となっています。 

世界の森林面積は、先進国ではほぼ横ばいで推移していますが、開発途上国では年々減少しています。F
AOによると、1990年から1995年の5年間で5630万ヘクタールの森林が消失しているとされ
ています。年間では1130万ヘクタールの減少ということになります。

1973年以降に、ランドサット衛星が撮影した一連のアマゾンの写真は、世界に衝撃を与えました。最
初は、まるで緑のカーペットのようなアマゾンの原生林の中を一本の茶色の線がスーと抜けていただけで
した。それは人間が作った道路でした。3年後に同じ場所を撮った写真は、この道が拡幅され、魚の骨の
ように道が左右に枝分かれしている様を示していました。さらに、その数年後の同じ写真は、森林だった
部分の一帯が失われ、農地や他のものに変わっている様をはっきりと写し出していました。

ストックホルム環境研究所の1998年の報告によりますと、仮に、年間約1200万ヘクタール程度の
ペースで、今後も森林の減少が続くとすると、1995年から2050年の間には、約6億ヘクタールの
森林が失われることになります。それは、現在の森林面積の17%に相当するものとなります。


森林には、様々な働きがあり、人類が地上で快適に生活するためになくてはならないものですが、因みに、
こうした森林の働きを貨幣価値に換算しますと、以下のようになるそうです。少し古い資料ですが、19
72年に日本の林野庁が試算したデータを以下に示します。
 
   ●酸素供給・大気浄化…18兆4,200億円
   ●土砂流出防止………… 7兆9,800億円    
   ●保健休養……………… 7兆6,700億円    
   ●水資源涵養…………… 4兆2,600億円
   ●野生鳥獣保護…………  6,900億円
   ●土砂崩壊防止…………  1,800億円     
     合計…………………39兆2,000億円 

ですから、森林は、すこぶる大切な役割を果たしているのですが、ここで一目瞭然で飛び抜けているのは、
酸素供給能力です。そこで、森林のこの機能について、特に注目してみたいと思います。


4−3)二酸化炭素

言うまでもなく、樹木は光合成によって、二酸化炭素を消費し、酸素を排出しています。どのくらいの酸
素製造能力があるかというと、その能力は木の種類や大きさによって千差万別ですが、「エコシステム研
究会」の試算によると、例えば、高さ1.5mの位置における直径が30cmのけやきの木の場合、1年
間で、二酸化炭素を1万5000リットル取り入れて、酸素を1万5000リットル吐き出す能力がある
そうです。

これを森林に当てはめてみると、例えば、「地球温暖化がわかる本」によると、1ヘクタール当たりの森
の二酸化炭素吸収力(=酸素製造能力)は、年間約10〜50トンということです。世界の森林を中心と
する陸上植物群全体が年間に吸収する二酸化炭素量は、年間約135億トン程度と推定されています。

これに対して、化石燃料の消費による世界の二酸化炭素の排出量は、米国オークリッジ国立研究所の試算
によると、1996年時点で、年間約62億5100万トンとなっています。実際には、森が枯れたり、
伐採されたりして、何らかの理由で森林が消失することによって、二酸化炭素は常に大量に大気中に放出
されています。例えば、先ほど触れたアマゾンにおいて、熱帯雨林が消失することに伴う二酸化炭素の増
加量は年間6億トンにも達すると言われています。IPCC(INTERGOVERNMENTAL  PANEL  ON  CLIMATE
CHANGE)の調査によると、世界全体の森林破壊による二酸化炭素の大気中への放出量は、およそ15億ト
ンと見積られています。こうして、今日では、二酸化炭素の強力な吸収源である森林が、逆に大きな排出
源になっているという皮肉な現象があるのです。


さらに産業活動等の結果として、現在、地球は二酸化炭素の増加傾向が続いており、地球規模の温暖化と
いう危機的な状況に直面することになりました。日本エネルギー経済研究所の資料によれば、二酸化炭素
の排出量と大気中の二酸化炭素濃度は、ほぼ以下のように推移してきたということです。
   
   ●1850年:   0.5億トン/年   250ppm
   ●1900年:  10          280
   ●1950年:  20          320
   ●2000年: 100          370
   ●2050年: 500          550
   ●2100年:1000         2000

現在、地球は確実に温暖化の方向に向かっており、科学者たちが温暖化の安定化レベルであるしている
「西暦2100年時点で550ppm」にとどめるためには、21世紀を通して、炭酸ガスの排出量の年
間平均を、現在の年間平均に抑えるだけでは不十分であると指摘されています。開発途上国が排出する二
酸化炭素の量が2桁の伸びを示しているからです。そこで、少なくとも、先進国では、1990年の排出
量を下回る必要があるとされています。


4−4)200億人の社会経済活動と二酸化炭素

さて、こうした二酸化炭素をめぐる現状把握を前提に、地球に200億人の人間がいたらどうなるかを考
えてみたいと思います。
 
東京消防庁の資料によると、大気中の二酸化炭素濃度が500ppmを越えると、労働衛生上の許容限度
となり、1日8時間労働が困難になるとされています。1800ppmを超えると、部屋の換気を常時5
0%に増加する必要があるといい、これが3000ppmになると、頭痛、吐き気、視覚減退、血圧や脈
拍の上昇が起こり、最終的には呼吸困難に陥るとされています。こうしたことを考えますと、現状の36
0ppmというのは、ほとんど許容限界に近く、科学者たちが温暖化の安定化レベルであるしている「西
暦2100年時点で550ppm」というのは、やや甘いものであることが分かります。その甘い目標で
さえ、現状では達成が極めて困難であるとされているのです。そして、仮にその目標を達成できたとして
も、それで問題が終わるわけではなく、せいぜい、温暖化による破局を100年延長するに過ぎないと、
IPCCでは報告しています。

実際、IPCCの報告書では、大気中の二酸化炭素を現状濃度で安定させるためには、二酸化炭素排出量
の60%以上を、ただちに削減する必要があるとしています。しかし、現実には、そのような削減が不可
能であることは明白です。そこで、現在では、2100年までに現状の二酸化炭素排出量の60%程度の
削減を実現することを目標としています。この目標を達成した場合、2100年時点の二酸化炭素濃度は
現在の1.5倍程度、つまり550ppm程度で安定することが予想されるとしています。


ここで、先ほど3−1)で取り上げた1950年と1992年の世界の経済社会の拡大状況を示した数字
の比較を再び取り上げて、今度は農業以外の部分を比較してみたいと思います。以下同様に、2034年
と2068年の予想値を外挿から得てみたいと思います。

              1950年        1992年          倍率

   ●人口:     25億5400万人    54億6900万人       2.1倍
   ●総生産:     3兆8000億ドル   18兆9000億ドル      5.0倍
   ●石油生産:      1040万バレル      5880万バレル     5.7倍  
   ●鉄鋼生産:    1億9000万t     7億1400万t       3.8倍
   ●紙生産:       4600万t     2億4600万t       5.3倍
   ●自動車生産:      800万台       3500万台       4.4倍
   ●大気中CO2:      316ppm       356ppm      1.1倍


              1992年        2034年          倍率
  
   ●人口:     54億6900万人      114億人         2.1倍
   ●総生産:    18兆9000億ドル      94兆ドル        5.0倍
   ●石油生産:      5880万バレル       3億万バレル      5.7倍  
   ●鉄鋼生産:    7億1400万t       27億万t        3.8倍
   ●紙生産:     2億4600万t       13億万t        5.3倍
   ●自動車生産:     3500万台      1.5億台         4.4倍
   ●大気中CO2:      356ppm     391ppm        1.1倍


              2034年        2068年          倍率
  
   ●人口:       114億人        200億人         1.7倍
   ●総生産:       94兆ドル       376兆ドル        4.0倍
   ●石油生産:       3億バレル        14億バレル       4.6倍  
   ●鉄鋼生産:      27億万t        84億万t        3.1倍
   ●紙生産:       13億t         56億万t        4.3倍
   ●自動車生産:    1.5億台          5億台         3.6倍
   ●大気中CO2:    391ppm       430ppm        1.1倍

200億人を養うための社会経済活動は驚くべき水準に達することが理解できます。1992年と206
8年を比べてみると、概ね以下のようになります。

   ●総生産:     20倍
   ●石油生産:    24倍
   ●鉄鋼生産:    12倍
   ●紙生産:     23倍
   ●自動車生産:   14倍
   ●大気中CO2:  1.2倍

もちろん、こうした推測は、相当荒っぽいものであることは確かですが、ほぼこの程度の推移が予想され
ても、それほど奇異ではないでしょう。鉄鋼生産、紙生産、自動車生産なども、概ね妥当な数字ではない
かと思われます。こうしたことの結果、大気中の二酸化炭素濃度は430ppmという水準に維持される
ことが予想されます。

これだけ社会経済活動が増加しても、二酸化炭素濃度の増加はかなりスローペースのように思われるかも
しれませんが、地球の誕生が約46億年前とすると、大気中の二酸化炭素濃度は、数億年という非常に長
い時間の単位で形成されてきたものと考えられています。そして、それは、大気、海洋、大地の間を移動
しながら、きわめて安定した状態を保ってきたのです。それをわずか数万年の人類の経済活動、しかも実
際には、ここ100〜150年程度の産業革命以後の経済活動によって、狂わされようとしているのです
から驚きです。

いずれにしても、上記のような社会経済活動の発展は気の遠くなる拡大ぶりで、とても環境との調和を図
りながら実現することは不可能であると直感的に認めざるを得ません。しかし、残念ながら、その点につ
いての科学的根拠を示すことはかなり困難であると言えます。何故なら、こうした社会経済活動が可能な
のかどうかを判断する確かなデータ蓄積がないためです。それはデータを有効な方法で関連づけることの
できる科学的手法が確立されていないと言い換えることもできます。

仮に上記のような社会経済活動が可能であるとしても、二酸化炭素濃度の上昇による社会の様々な面にお
ける破壊的な影響は避けられそうにありません。「地球環境白書97−98」は、この点について次のよ
うな警告を発しています。

  「地球の気候は、自然の変動率がむこう数十年間に10倍のペースで変動すると予想される。この急
   速な気候変動は、おそらく今後不安定で、攪乱的で、予知しがたいものになるだろう。」

実際、二酸化炭素によってもたらされる平均気温の上昇は、IPCCによると、2100年時点での二酸
化炭素濃度を500ppm程度とした場合2℃程度とされています。これもたいしたことがないと考える
人がいるかもしれませんが、今から1万3000年ほど前に、地球の気温が急激に下がったヤンガードラ
イアス寒冷期以降、ここ1万年程度、地球は奇跡的に安定した気候を謳歌してきたと言われています。つ
まり、ここ1万年の平均気温は摂氏15±0℃にぴったりと収まっているということなのです。過去の地
球の気温を調査したダンスガードらの研究によれば、それは過去20万年間にかつて一度もなかったきわ
めて稀な安定期と言えるそうです。それを、産業革命以降というわずか100年程度の人類の経済活動が
木っ端微塵に壊そうとしているわけです。


4−4)200億人の生活スペース

人口200億人に分配されるスペースについて、もう一度整理してみましょう。当然ですが、陸地面積全
体は変わりがありません。

農地は、気候の変動や砂漠化によって減少の危機にさらされることになるとみられますが、食糧の危機は
直接すぐに生存に響くので、何とか確保するよう必死の努力を行なうことが予想されること、そして、す
でに検討したように、収量の飛躍的な向上に依存することによって、ほぼ現状を維持するものと予想しま
す。

森林面積は、現状のスピードで熱帯雨林の消失が続くものと考えると、

   ●1995年:34億ヘクタール
   ●2050年:28億ヘクタール
   ●2068年:26億ヘクタール

程度で推移するものと予想されます。

砂漠の面積については、これまで触れてきませんでしたが、UNEP(国連環境計画)の試算によります
と、現在の地上の砂漠面積は、約9億ヘクタールとなっています。また、約52億ヘクタールは乾燥地帯
ですが、砂漠になっているわけではありません。しかし、そのうちの約70%にあたる36億ヘクタール
はすでに砂漠化の影響を受け始めている考えられています。これらの大部分は、将来の潜在的な砂漠化の
脅威にさらされていることになります。2068年に外挿した200億人の地上では、そのほとんどが砂
漠化している可能性が高いと考えても不思議ではありません。

その他として、草地・牧場の部分なども取り分けておく必要があります。FAOによると1990年のそ
うした面積は33億ヘクタールであり、これについては推移データがないので、200億人体制でも大き
く変化しないものと仮定することにします。また、道路など生活に必要な共用スペースも確保する必要が
あるでしょう。

   ●草地・牧場:33億ヘクタール
   ●道路その他の共用スペース:7億ヘクタール


ここまでの結果をまとめてみたいと思います。地球人口200億人で想定される状況を考えますと、以下
のようになります。

   ●陸地面積 :137億ヘクタール
   ●森林面積 : 26億ヘクタール
   ●農地面積 :  8億ヘクタール
   ●砂漠面積 : 45億ヘクタール
   ●草地・牧場: 33億ヘクタール
   ●その他  :  7億ヘクタール
 
大雑把にみて、陸地面積から森林面積、農地面積、砂漠面積、草地・牧場、その他を減じたものが200
億人に分配される生活スペースとなります。すると、以下のようになります。

   ●生活スペース:18億ヘクタール 

こうして確保された生活スペースを機械的に200億人に分配したとすると、一人あたり9アールの土地
を利用することができるものとみなせます。9アールというのは、だいたい縦30メートル×横3
0メートル程度のスペースです。270坪あまりということになるでしょうか。皆さんはこのスペースで
1000年間十分満足したゆとりの生活が送れると思いますか。


5)地球のエネルギーバランスからみた適正人口

地球は閉鎖系なので、エネルギーの収支バランスが崩れれば、いずれ破局を避けることはできません。あ
るスレッシオレベルまでは一定期間許容状態が継続されたとしても、そのレベルを超えた時、必ず破局が
訪れることになります。そこで、地球のエネルギー収支バランスの面から、持続可能な地球環境が維持さ
れるために許容できる人類集団の大きさを逆に推計してみると、以下のようになります。

まず、前提条件として、地球生物にとって快適な平均気温を15±0.2℃程度とすると、現状の経済活
動を続ける限り、2010年程度にはこれを突き破る事態が生じる可能性が高いと考えられています。振
り子の原理で、行過ぎた温度上昇は、ある程度、慣性の法則で急には止まらないので、そのまま上昇傾向
が続くことになるとみられています。そこで、事前にこの上昇を抑える必要があります。

そこで、1990年以前の二酸化炭素濃度に戻す必要があると考えるのは道理にかなっています。二酸化
炭素濃度を1990年以前に戻すということは、つまり、人口を1990年以前に戻すことを意味してい
ます。つまり、地球の適正人口は、少なくとも現在の危機的な状況に気付き始めた頃よりも少なくないと
いけないことになります。

現在、エネルギー消費は総量でみるだけでは実態が掴めません。人口の少ない先進国で、世界全体のエネ
ルギー消費の4分の3を消費しているからです。例えば、日本のエネルギー消費は世界の約10分の1で
すが、人口が日本の約10倍である中国のエネルギー消費の総量は日本のわずか10分の1です。この中
国の人々が、日本人と同じ生活レベルを望み実行するならば、それだけで、現在世界中で消費されている
のと同じ量のエネルギーが余分に必要になりますが、これは、物理的に不可能なことであることが、直感
的に理解できるでしょう。

エコロジストの中には、再生可能な地球の適正人口を10〜40億人程度と見積もっている人がいますが、
それほど外れていないかもしれません。


少し付加的な情報を加えておきます。例えば、人類にとってなくてはならないもののひとつに「水」があ
りますが、WMO(世界気象機関)によりますと、現在の人口増加がこのまま続くと、2025年の水需
要量は1995年の1.4倍に達するものとみられています。その時、約20億人が安全な水の供給を得
られなくなるとしています。

また、UNICEF(国連児童基金)の「世界子供白書1995年」は、世界に衝撃を与えました。それ
によりますと、世界の将来について、人類の前には、次の2つのビジョンが提示されており、その決定因
子の最大のものは、まさに「人口」であるということでした。

   ●ビジョンT:世界人口が120億人を超えてさらに増加を続ける。
          人口増加、貧困、環境悪化が悪循環を繰り返し、人類は破局を迎える。

   ●ビジョンU:世界人口が80億人程度でピークを打ち、徐々に減少に転じる。
          国際協力が成立すれば、健康、栄養、教育、軍事、環境などの面で、より良い道を
          見出せるかもしれない。

ここで、現在の60億人という人口があり、増加スピードに慣性の法則が働くことを考慮すれば、その増
加スピードを容易には変えられないのは明らかなので、80億人を許容レベルにするのは避けられないと
して、その増加を放置すれば、破局が待ち受けていることは間違いないということを人類が理解しつつあ
るということです。そして、何とかうまい方法を考えて、人口増加にブレーキがかかったとしても、それ
は一つの前提条件が変わったに過ぎず、さらに別の面で対応を誤れば、すぐに奈落の底に落ちかねないと
いうことです。人類は今まさに危機の瀬戸際にいるのです。200億人という人口は、閉鎖生態システム
としての地球の許容レベルをはるかに逸脱するものであることは明白であると断定せざるを得ません。


6)結論

「新しい地」は、人類は200億人を養うことはできるのかという問いから始った考察をここまで行なって
きました。データの羅列のようになったりして、ややまとまりに欠けてしまったことをお詫びしたいと思
います。しかし、何とか紆余曲折を経ながらも、結論らしきものがやっと出てきたように思います。

そうです。現在の地球のシステムは、200億人を養うことは到底不可能であると結論せざるを得ません。
これは、「人類社会の明るい未来は、・・・・・地球環境を消耗することと引き換えに物質的な繁栄を追
及する現代文明の単純な延長線上には見つからない」(環境白書2000年)という帰結と一致するもの
です。

しかし、「地球環境を消耗することと引き換えに物質的な繁栄を追及する現代文明」とは異なった文明を
築くならばどうでしょうか。それは、一見可能なような気がします。実際、ものみの塔協会が書籍などの
イラストとして描く「地上の楽園」の様子は、押しなべて、きれいな大自然を背景に、人々がにこやかに
地の産物を手にしながら、働いたり、くつろいだりしている場面が描かれています。肉食動物たちもおと
なしく寝そべったりしているのが普通です。一方、車やジェット機などの文明の利器は見当たりません。

つまり、ものみの塔協会でも、「地球環境を消耗することと引き換えに物質的な繁栄を追及する現代文明」
のあり方が、「新しい地」で継続するとは、当然考えていないようです。それなら、いつ頃の時代まで時計
を逆回しにするのでしょうか。江戸時代でしょうか。平安時代でしょうか。それとも・・・・・。いずれ
にしても、それは産業革命以前の時代であることは確かでしょう。では、そうした状態に戻った時に、教
育や知識や生産すべてを逆に戻すのでしょうか。それとも知識は20世紀のままなのでしょうか。工業面
での生産性は逆に戻すのでしょうか。農業収率はどうなのでしょうか。200億人を養うために、時間を
逆回しにしたとしても、農業生産性だけは、現在の5倍程度の奇跡的水準を維持しなければならないので
す。疑問は次から次と湧きあがってきます。そもそも、そうした事柄を自分の好みで調節することが可能
なのでしょうか。それとも、すべて神のみ手におまかせするのでしょうか。

   ●でも、200億人を養うのは1000年だけで、千年統治の終りには、神による最後の「大粛清」
    があるので(啓示20:7−10)、人口はもっと少ないところで落ち着くことになる。
   ●でも、それまでガイア(J.E.ラブロックによる提唱)が我慢してくれるだろうか。
   ●でも、エホバはガイアよりも強いはずだ。

こんなたわいもない事柄が頭を駆け巡ってしまいます。


環境への負荷については、200億人が生存できるレベルに落とし、社会活動の効率だけは、現在の水準
を維持するという虫の良い話はたぶん無理だと思いますし、きわめて不合理であると考えざるを得ません。
ものみの塔協会は、「これが神のご意志であり、君たちは、そうなることをひたすら信じていればよいの
だ。聖書の預言は間違いなく実現する」と言うかも知れません。聖書がそう述べているのなら、それを信
じることもできるでしょう。でも、実は、これらの事柄は、ものみの塔協会が聖書を解釈して述べている
事柄に過ぎないのであって、いわば聖書解釈の一つに過ぎません。残念ながら、聖書そのものには200
億人が地球に暮らすと述べている箇所はありませんし、まして人口として適正であるという具体的な言及
はありません。それで、どの程度の人口が適切であるかを、人間が、あたかも聖書がそうした事柄を約束
しているかのように述べることは慎むべきであると考えるのですが、いかがなものでしょうか。聖書その
ものが語っていることだけを、率直に読み取るならば、別の見方ができるかもしれないからです。


さて、冒頭に述べたように、9月3日の日曜日の「ものみの塔」研究では、「ものみの塔」誌2000年
7月15日号の第2研究記事「復活の希望には力がある」が各会衆で討議されたことと思います。主に、
コリント第一15章の1〜58節が検討され、復活の力に希望を託すようにという趣旨が強調されました。

しかし、大変奇妙なことに、このコリント第一15章は、そのほとんどの部分が「天への復活」について
言及している箇所です。しかし、ものみの塔協会では、天への復活は14万4000人だけに当てはまり、
残りの約200億人は地上への復活が待っていると教えます。14万4000人という数字と200億人
という数字を単純に比較しますと、14万4000人は200億人の実に0.00072%に過ぎません。
たとえ14万4000人は特別に重要な仕事を果たしてくれるにしても、そんなに少数の人々のことしか
聖書には書いてないのは何故なのでしょうか。そして、逆に約14万倍の200億人の復活については、
まとまって言及されている箇所がほとんどなく、詩編やヨブ記などに散見されるだけなのは本当に不思議
です。


「200億人の地上への復活」は、これまでの検証の結果、理不尽であり、通常の見方では実現不可能で
あることが明白となりました。そして、この点は今回詳しく触れませんでしたが、聖書そのもののに語ら
せるならば、「200億人の地上への復活」は、必ずしもそうならなくてもよいかもしれません。聖書の
述べる事柄が著しく私たちの常識とかけ離れている場合、それを「信仰」をもって信じるという道もある
かもしれませんが、別の解釈を試みるという道があることも考えておくべきでしょう。



2000年9月5日
「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

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