「終わりの日のしるし」−戦争の歴史

「国民は国民に敵対して立ち上がる」
「地から平和が取り去られる」。

ものみの塔1998年9月15日号6頁には次のように書かれている。

今世紀行われた二つの世界大戦や幾十もの紛争は、地から平和を取り去りました。歴史家のジョン・キーガンはこう書いています。「第一次−そして第二次−世界大戦は、それ以前のどの戦争とも異なるものになった。規模、激しさ、範囲、物的・人的損害において異なっていた……。二つの世界大戦は、以前のどの戦争よりも多くの人を殺し、多くの富を消費し、より広範囲にわたって多くの人をひどく苦しめた」。

「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の150頁には次のように書かれている。

「しるし」のこの部分は1914年以来成就してきていて、あなたも確かに見てこられました。第一次世界大戦はこの年に始りました。それは史上例のない恐ろしい戦争で、まさに全面戦争でした。第一次世界大戦は、1914年までの2,400年間に行われた大きな戦争を全部一緒にしたよりも、ずっと大規模なものでした。

1914年は本当に歴史の「転換点」であったか

ものみの塔協会はその出版物の中で、一貫して1914年に起こった第一次世界大戦が、それまでに歴史になかった規模で世界を変えたことを繰り返し強調し、それによって1914年がイエスの予告した「終わりの日」の始まりであるという教義を正当化しようとしてきた。そのため、協会は何度も「歴史家」たちを引用し、1914年が歴史上の「転換点」であったことを強調してきた。

たとえば1981年に発行された「王国が来ますように」の115頁には次のように書かれている。

「第一次世界大戦は歴史の大異変の一つであった」−バーバラ・タッチマン著、「ガンズ・オブ・オーガスト」、1962年

しかし、この歴史家、バーバラ・タッチマンの著書を実際に見てみると、ものみの塔協会の引用したのは、その文章の後半の部分だけであることがわかる。実際の原典の文章全体は、次のようになっている。

フランス革命と同様に、第一次世界大戦は歴史の大異変の一つであった。

それでは何故、ものみの塔協会はこの「フランス革命と同様に」という句を切り取って引用したのだろうか。当然の事ながら、もしこの歴史家が第一次世界大戦をフランス革命と同列の重要性を持つ事件と考えていた事実が読者に知られれば、1914年が他に類を見ない「転換点」であったという、ものみの塔協会の主張は弱められるからだった。

同じく「王国が来ますように」の115頁には次の引用が見られる。

「1914年に世界は結合力を失い、以後それを取り戻すことに成功していない。…この時代は国境の内外において著しい無秩序と暴力の時代になった」−エコノミスト(ロンドン)、1979年8月4日号

しかしこの引用には、ものみの塔協会が読者に隠して見せない重要な前後関係がある。このエコノミスト誌の編集者はこの文の中で、1914年以後の世界と1789年から1848年にかけての世界とを比較して論じているのだ。そして1914年以後と1789年以後との間には、戦争、無秩序、暴力などに多くの共通点があることを論じている。そしてこの編集者は、歴史は一定の周期で繰り返されること、1914年以後の世界の状況は、それまでに起こった周期的な歴史現象と一致していると結論している。この結論は、ものみの塔協会の、1914年は「歴史に類を見ない転換点」という主張とは、真っ向から対立するものだった。

このようにものみの塔協会は前後関係を無視して「権威者」を瀕回に引用するが、この例でわかるように、実際に引用している原著では著者が、協会の結論と全く反対の結論を出していることがよくある。もちろん、ものみの塔協会はナイーブな読者にはこのような事実を隠し続けるが、一般的にものみの塔出版物を読む時の、記事の信憑性への疑問として記憶に留める必要がる。

確かに多くの歴史家は、1914年と第一次世界大戦は、歴史の転換点の一つ(one of the turning points in history)であったことを論じている。すなわち、人類の歴史の中には幾つかの「転換点」があったが、その内の一つである、という意味でる。しかし、これをものみの塔協会が行うように前後関係を切り離して引用すると、あたかも1914年と第一次世界大戦が、唯一最大の歴史の転換点であるかのような印象を与えてしまう。もし、ものみの塔協会が歴史家の言葉を引用して1914年を「歴史の転換点」と結論するなら、他の様々な歴史上の出来事も同じように「転換点」とすることができる。幾つかの例を見てみよう。

西暦5世紀のローマ帝国の衰退について:

この時期は世界の歴史の重要な転換点の一つであった。(Dupuy & Dupuy 1970, p166)

18世紀の終わりに始った産業革命について:

どのような計算に基づいたとしても、これ(産業革命)は農耕と都市の形成以来、世界の歴史の中で多分最も重要な出来事であった。(E.J.Hobsbawm, The Age of Revolution (London 1962), p29)

1789年から1799年のフランス革命について:

フランス革命は近代ヨーロッパの生活の中で最も重要な出来事であった。…今日、20世紀の半ばにおいて、それほど老齢でないわれわれの生きている時代に経験した全てのことにもかかわらず、またここアメリカでも、あるいは昔の支配的地位を失ったヨーロッパの国々を含む他の世界でも、18世紀の終わりに起きたフランス革命は、近代文明の偉大な転換点であったと言うことができるのである。(George Lefebvre, The Coming of the French Revolution (New York: Vintage, 1947), 著名な歴史家R.R. Palmerによる序文から)

1904年から1905年の日露戦争について:

心理的にも政治的にも、この戦争における日本の勝利は、世界の歴史において転換点を記したのであった。(Dupuy & Dupuy 1970, pp926,1014)

1945年の広島の原爆投下について:

この時期の終結の時点で、兵器の新しい時代、歴史の新しい時代がもたらされた。1945年8月6日の広島への最初の原爆投下は、核時代の開始を告げた。(Dupuy & Dupuy 1970, pp926,1014)

このように、歴史家は多くの歴史上の重要な出来事を「歴史の転換点」、「新しい時代の始り」ととらえている。1914年と第一次世界大戦が、そのような数ある「歴史の転換点」の中の一つであったことは、誰も否定できないであろう。しかしそれでは、1914年と第一次世界大戦が、ものみの塔協会の主張するように、他の転換点とは異なる、歴史に類を見ない特異な転換点であったのだろうか。

1914年から1918年の第一次世界大戦は、
突然に地球から平和を取り去ったのか?

ものみの塔協会は、1914年に始った戦争が、聖書の預言の成就であるという自分たちの教義を正当化するため、啓示6:4を引用し、火のような色の馬に乗った者が「人々がむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去る」ように、1914年の戦争がそれまでの世界の平和を、突然、予期せずに取り去ったと主張する。例えば、1981年5月8日の「目ざめよ!」誌の6頁には、第一次世界大戦が始った当時15才であったエホバの証人、ジョージ・ハナンの言葉として、次のような引用がある。

「誰も第一次世界大戦は予想していませんでした。…人々は世界は文明化してしまって戦争は起こらないと言っていました。しかし戦争は突然来ました、まるで青空から雷が落ちるように」。

しかし、これは歴史的に見て、第一次世界大戦前の世界を正確に描写する言葉であろうか、それとも老人特有の「昔はよかった」という懐古趣味に基づく感情的な発言に過ぎないのだろうか。この記事ではジョージ・ハナンが一生忠実なエホバの証人であり、その発言が当然ものみの塔協会の教義と一致するはずであることは全く触れられていない。

しかし、「誰も第一次世界大戦は予想していませんでした」というこのエホバの証人の発言を、この宗教の創始者であるチャールズ・ラッセルが1892年に書いた、ものみの塔誌の次の記事と比較してみれば、いかにこの発言が矛盾したものであるかが分かるであろう。

…新聞も、週刊誌も、月刊誌も、宗教関係、世俗関係を問わず、ヨーロッパにおける戦争の予想を、常に論じている。彼らは様々な国の不満と野望を指摘し、戦争は近い将来において避けられないと予想している。彼らの予想によれば、戦争は幾つかの主要列強の間で何時でも始る可能性があり、その戦争は結局、全ての国を巻き込むであろう。(ものみの塔1892年1月15日、19頁)

実際、歴史は1914年の戦争が、それまでの長年の列強の軋轢と、兵力の蓄積の結果であり、多くの人々の予想していたことであることを示している。著名な歴史家R.R. PalmerとJ. Coltonは次のように書いている。

二十世紀の初頭には、それまで見たこともないような平和時における大量の兵器の蓄積が、ヨーロッパの国々で行われていた。…戦争を望む者は少なかったし、少数のセンセーショナルな記者を除いては、ほとんど全ての人々はヨーロッパの平和を望んでいた。しかし、全ての人々が、戦争がいつかは避けられないことであることを、当然のことと考えていた。1914年の直前になると、遅かれ早かれ戦争が勃発するという予想は、多分幾つかの国の政治家をして、戦争を開始しやすくしたであろう。(R.R. Palmer and Joel Colton, A History of the Modern World Since 1815, fifth edition (New York, 1978), pp. 654, 655)

上に引用したように、この宗教の創始者、ラッセルは1914年よりも前に戦争が開始され、1914年にはアルマゲドンの最高潮になると予想していた。

第一次世界大戦は最初の「世界戦争」か?

ものみの塔協会が挙げる、第一次世界大戦が前代未聞の歴史の転換点であるという理由の一つに、第一次世界大戦が最初の「世界戦争」であったことが挙げられている。1981年5月8日の「目ざめよ!」誌は、「歴史家たちは、第一次世界大戦が最初の地球規模の戦争であったという点で広く一致しています」と述べている。

しかし、歴史家たちは、本当にこの点で一致しているのだろうか。そもそも、第一次世界大戦という呼び名自体が、最初の世界戦争という意味で付けられた名前ではないのだ。実は1914年の戦争は当時、単に「大戦」と呼ばれていた。第一次世界大戦という名前は、1939年に次の世界戦争が起きた時に、それと区別するために、初めて用いられるようになったに過ぎない。

歴史家たちは、これらの世界規模の戦争が18世紀の初めから開始されたことを指摘している。

  1. スペイン継承戦争(1702-1713)

    この戦争は、スペインの王の継承をめぐって、イギリス、オランダ、ドイツが連合し、フランス、スペインと戦った戦争であるが、戦いは北米大陸に及ぶ複数の大陸に及ぶものになった。歴史家、Palmerによれば、「これは最初の「世界戦争」と呼ぶことの出来る戦争だった。というのは、この戦争はヨーロッパの列強諸国だけでなく、海外の世界をも巻き込んだからだった」(R.R. Palmer & Joel Colton, A History of the Modern World to 1815, fifth edition (New York, 1978), p184)

  2. 七年戦争(1756-1763)

    この戦争は、18世紀の二回目の世界戦争であった。北米とインドの支配権をめぐって、プロイセン、オーストリア、イギリス、フランス、ロシア、スペイン、スウェーデン、ドイツが参加し、アメリカ、アジアを含む四大陸を巻き込む戦いとなった。興味あることに、ものみの塔協会自体、1970年12月8日の「目ざめよ!」誌21頁で、七年戦争について言及し、「ほとんどすべてのヨーロッパの国を巻き込み、インド、北アメリカ、ドイツ、そして海の上で世界規模で戦われた」と書いている。

  3. アメリカ独立戦争(1775-1783)

    アメリカのイギリスに対する独立の戦いとして始ったこの戦争は、1778年のサラトガの戦いでイギリスが敗北して以来、内戦から世界戦争へと拡大した。歴史家Piers Mackesyは「サラトガにおける敗北は、世界中で戦われた全面戦争のきっかけとなった」と書いている(Piers Mackesy, The War for America 1775-1783 (London, 1964), p147)。フランスとスペインの艦隊は英国海峡、西インド諸島、ジブラルタルなどでイギリス艦隊と戦い、スペインは西インド諸島を占領した。また、ロシア、デンマーク、スウェーデン、プロイセンはフランスとスペインを助けて参戦し、イギリスは、フランスとアメリカを助けていたオランダに宣戦した。

  4. ナポレオン戦争(1792-1815)

    フランス革命に続いて起きたこの戦争も、すべてのヨーロッパの国々を巻き込んだだけでなく、その戦争は他の四大陸にも波及した。歴史家Cyrill Fallsはこう書いている。

    これらのどの戦争も、しかしながら、19世紀の最初の15年間(1801−1815のナポレオン戦争)に匹敵する世界戦争ではない。この戦争(ナポレオン戦争)ではすべてのヨーロッパの国が参戦しただけでなく、多かれ少なかれ、世界のすべての大陸が戦争に巻き込まれたのだ。

このように見てくると、ものみの塔協会が主張する、第一次世界大戦が「最初の世界規模の戦争」という主張は全く根拠のないものであることがわかる。彼らが言うように、歴史家がこの点で一致しているなどということはないのである。

しかし、ものみの塔はそれでも、第一次世界大戦はそれまでの戦争よりも、より広範で、より世界規模であったと主張するかもしれない。実際、ものみの塔誌1984年5月1日号、4頁(日本語版9月1日号20頁)には次のように書かれている。

第一次世界大戦は、その規模とその破壊的な結果の点で、人間がそれまでに行ったどんな戦いをもはるかにしのぐものでした。

しかし、この点でも歴史家の見方は一致していない。というのは、第一次世界大戦の戦いの大部分はヨーロッパに限られていたからだ。第一次、第二次世界大戦に参加し、重要な役割をになったモンゴメリー元帥は次のように説明している。

しかしながら、全てを考慮すると、ヨーロッパの外での戦いは、戦略的な重要性は少ししかなかったと言える。1914−1918年の戦争は、本質的にはヨーロッパ戦争であった。これは後に「世界大戦」と呼ばれるようになったが、その理由は、大英帝国の多くの植民地が参加したこと、1917年にアメリカ合衆国が協商国として参加したことによる。しかし、実際には海軍の役割はおおむね受け身的であり、この戦争は、それ以前の幾つかの戦争、たとえば七年戦争と比較すると、「世界戦争」の度合いはより少ないと言える。…1914−1918年の戦争は世界戦争と呼ぶことはほとんど不可能だが、1939年にヒトラーによって開始された戦争に関しては、このような問題は全くない。(Viscount Montgomery, A History of Warfare, Collins (London 1968) p. 470)。

第一次世界大戦は最初の「総力戦争」か?

ものみの塔協会のもう一つの論点は、第一次世界大戦が最初の「総力戦争」であったという主張だ。「永遠の命に導く知識」(1995年)の100頁には次のように書かれている。

「試練を受ける世界−1914−1919」と題する本はこう述べています。この戦争は「新たな規模の戦争、人類が経験した初の総力戦となった。その期間の長さや激しさ、規模などは、以前に知られていた、あるいは一般に予想されていた戦いを凌いだ」。

そもそも「総力戦」とは何か。それは、単に軍隊だけでなく、国の経済、産業、国民生活まで全てが犠牲にされる戦争と定義されている。それでは第一次世界大戦は本当に歴史上最初のそのような戦争であったろうか。軍事歴史家のR.E. DupuyとT.N. Dupuyはアメリカ南北戦争(1861−1865)が歴史上最初の総力戦であったとしている。しかしより多くの歴史家は、ナポレオン戦争が史上最初の総力戦となったと考えている。著名な歴史家Cyril Fallsは、第二次世界大戦を論じながら次のように述べている。

政治の側では、この戦争は更に「総力戦」へと進んでいった。この「総力戦」の概念はナポレオン戦争の時に始ったと考えられている。

このように、ものみの塔が主張するように、総力戦か否かで、第一次世界大戦をそれまでの戦争と全く異なるものとする根拠はないのである。

第一次世界大戦は実際どれだけ「大規模」だったのか?

最初に引用したように、ものみの塔協会はその「永遠に生きる」の本の中で、「第一次世界大戦は、1914年までの2,400年間に行われた大きな戦争を全部一緒にしたよりも、ずっと大規模なものでした」と主張する。1975年10月15日号のものみの塔誌633頁では、「ある研究によれば、第一次世界大戦はそれまでの2400年間に戦われた901の主な戦争を七倍したよりも大きかったと言われています−コリエズ1945年9月29日号」と書かれている。それではこの主張は、何かそれを裏付ける証拠に基づいているのだろうか。

残念ながらすべての戦争にあてはまる、戦争の規模を正確に客観的に計る尺度はない。従って、参加国の数、犠牲者の数、兵員の数などが適当に使われ、その数も研究の方法によってしばしば大きく異なっている。最もセンセーショナルな数を一部の出版物、コラムや政治家の発言から寄せ集めれば、実際とかけ離れた、とんでもない規模の戦争の話を作り上げることは困難ではない。ものみの塔協会が行ったのは、まさにこの手法なのだ。

たとえば、第一次世界大戦で死亡した人間の数をとってみると、1961年2月22日の「目ざめよ!」誌6頁では三千七百五十万八千六百八十六人が死んだとして、その出典を1946年の世界年鑑にしている。しかし、ここでものみの塔協会が明らかにしなかったのは、この三千七百万以上の数には、戦争に直接関係せずに死んだ人、例えば飢饉やスペイン風邪などの病気で死んだ人の数が含まれていることだ。従って、1983年10月8日の「目ざめよ!」誌12頁では、この数はほとんど半分に減らされて、死者の数は約二千百万人(兵士九百万、市民千二百万)としている。また1971年10月8日の「目ざめよ!」誌16頁では、死者の数約千四百万人(兵士九百万、市民五百万)としている。

現在最も正確な統計は、第一次世界大戦の兵士の死者の数を八百から八百五十万人の間と推定している。(Dupuy & Dupuy 1970, p990)市民の死者の数を正確に知ることは非常に困難である。Dupuy & Dupuyは六百六十四万二千六百三十三人という数字を挙げてはいるが、これには特定できない数の、病気や栄養失調で死んだ人間の数が含まれていると述べている。忘れてはならないのは、第一次世界大戦の最中の1918年にスペイン風邪が流行し、大量の死者が出たことである。これらのことを計算に入れると、第一次世界大戦での兵士と市民の死者の総数は一千万人から一千四百万人の間と推定するのが妥当であろうと考えられる。

それではこの数字は、ものみの塔協会が主張するように、それまでの2400年間のすべての戦争を七倍したよりも大きい数であろうか。もしものみの塔協会の主張に少しでも真実があるとすれば、2700年間に起こった901の主要な戦争の死者の合計は150万近くに過ぎなくなる。仮に第一次世界大戦の死者の数としてものみの塔協会が1961年に使用した、他の死因による死者を合わせて膨れ上がった三千七百万という数字を使っても、それまでの戦争の死者の総数は五百万人に過ぎなくなる。これは歴史の知見と一致するだろうか。

当然のことながら、歴史が古くなればなるほど、戦争による死者の数を正確に知ることは困難になる。それでも兵士の死者の数は、軍事史料として保存されていることが多いが、市民の死者については正確な史料を入手することは困難を極める。しかしこのような困難にもかかわらず、ものみの塔の、2400年間の戦争の犠牲者の総数が五百万人に過ぎないという主張に、少しでも信憑性があるかどうかは、比較的容易に証明することが出来る。

  1. 三十年戦争(1618−1648)

    これはヨーロッパの10ヶ国を巻き込む国際戦争であったが、兵士の死者の数は二百から三百万人の間と推定されている。しかしながら、この戦争はドイツ全体にひどい飢饉と疫病をもたらした。今日の歴史家は、当時のドイツ国民の30−40パーセントに当たる七百から八百万人の市民が死亡したと考えられている。この数字は、ドイツという国を考えれば第一次世界大戦より遥かに多くの死者を出したことになる。

  2. 清による中国平定(15世紀)

    中国東北部に14世紀後半に建国された清の国は、15世紀に入ると南下して、明の国が支配していた中国を北から南にかけて征服していく。この過程で、清は容赦ない大量殺戮を行ったと言われ、死者の総数は約二千五百万人と推定されている。

  3. ナポレオン戦争(1792−1815)

    この戦争では、ほぼ第一次世界大戦と同じ数の国が参戦したが、フランスだけで死者の数は約二百万人と推定されており、23年にわたった戦争全体の死者は五百から六百万人と推定されている。

  4. 太平天国の戦乱(1850−1864)

    これは19世紀の清が支配する中国に起こった、満州人支配に反発する中国農民の大規模な内戦であった。歴史家はこの戦乱を「19世紀全体の歴史の中で最も破壊的な戦争」と位置づけており、その死者の総数は二千万人から三千万人と推定されている。非常に興味あることには、1982年3月22日の「目ざめよ!」誌の7頁では、宗教が戦争を起こしてきた歴史を論じる中で、この太平天国の戦乱がその例として取り上げられていることだ。確かにこの運動の創始者、洪秀全は上帝会という宗教団体を作り、その力で反乱を起こしたことは歴史の知る所だ。(ちなみに洪秀全は「上帝」を「エホバ」としていた。)この「目ざめよ!」誌の記事ではこの運動による死者を「多分四千万人に上る」と書いている。何と、このものみの塔の出版物自体が認める死者の数だけをとっても、第一次世界大戦の死者の総数の四倍近くになってしまう。ものみの塔の出版物が読者の感情を煽る勢いで数字を誇張する結果、二つの数字(第一次世界大戦と太平天国の死者の数)が見事に矛盾してしまったよい例である。

  5. ロペツ戦争(1864−1870)

    南米で起きた19世紀の大戦争で、パラグアイが、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルの連合軍と戦ったもので、パラグアイの人口の80パーセント以上が殺されたと言われ、死者の総数は二百万人を越えると推定されている。

    これまでに紹介した主な戦争の死者を総計しただけでも、ものみの塔協会が使う第一次世界大戦の最大推定死者数の三千七百万人という数をはるかに上回ってしまう。2700年間の901の主な戦争を集計すればその結果がいかに不正確であろうとも、ものみの塔協会の主張するような第一次世界大戦の死者の総数の七分の一ということは有り得ないのだ。

    1914年から1918年の戦争は、主にヨーロッパを中心とした戦争であり、主要な参戦国は当時存在していた国の数の約四分の一に過ぎない。規模から言えば、23年間続いたナポレオン戦争の方が、当時存在していた国の数の約半分が参戦した(絶対数で言えばほぼ同じ数)という点で、より大きな規模と言えよう。死者の数からしても、この戦争はそれまでにあった戦争と近い規模であり、幾つかの戦争(清の中国侵攻や太平天国)と比較すれば、死者の数は少ないと言える。兵器にしても特にそれまでの戦争と際立って異なったことはなかった。飛行機の使用はそれ以前に起こったバルカン戦争が最初と言われており、第一次世界大戦でも使用は限られていた。

    このように、どのような尺度で比べてみても、第一次世界大戦が、ものみの塔協会の主張するように、他の戦争と際立って異なる大規模な戦争であったという証拠はどこにもないのである。人類の歴史の中で、「それまでに例を見ない戦争」という点で誰もが一致するのは、1939年から1945年の第二次世界大戦である。そこでは、それまでになかったような規模の破壊と殺戮が起こり、核兵器と言うそれまでにない兵器まで使われた点で、確かに例を見ない戦争ではあった。この第二次世界大戦に比較すれば、1914年の第一次世界大戦は、それまでに繰り返されたいわゆる「世界戦争」の一つに過ぎなかったのである。

    1914年以降戦争は増えているか?

    軍事歴史家であるSingerとSmallは、「戦争」を千人以上の戦死者を出した国際紛争に限って統計を出している。それによれば、1816年から1965年までの間に、93の戦争がこの定義にあっていた。このうち、35の戦争が1816年から1864年の間に起こり、33の戦争が1864年から1913年の間に起こり、25の戦争が1914年から1965年の間に起こっている。この統計は、国内戦を含めても同じような減少傾向を示している。

    しかし多くの人々は、直感的に、近年の戦争はより大規模でより破壊的になっていると感じていることは確かかもしれない。しかし、このような統計で常に忘れてならないことは、近年同時に起こっている爆発的な人口増加と、国の数の増加である。20世紀には、これらの数は何回も倍増してきた。このような事自体が歴史に今までなかったことである以上、それに関係した人間の活動に顕著な変化が起きているように見えるのも不思議ではない。従って戦争が増え、その破壊力が増えたと主張する時には、それが地球上の人口と国の数の増加にただ比例して増えているのか、それとも死者の数でも人口に比べた比率で増加しているのか、が最も重要な疑問である。

    確かに、最近のニュースは世界のどこかで戦火が上がっていることを報じている。しかしこのことは、最近の戦争の増加を示すのだろうか、それともものような「戦争のしらせ」は何時の時代にも変わらずあったのだろうか。興味あることに、1983年4月1日のものみの塔誌3頁(日本語版7月1日号3頁)には次のような文が見られる。

    ノルウェーの科学アカデミーが1969年に計算したところによると、西暦前3600年以降世界が平和であった年はわずか292年にすぎませんでしたが、戦争は1万4,531回生じています。

    実はこの数字の元をたどると、この計算はノルウェー科学アカデミーが行ったものではなく、アメリカのジャーナリスト、Norman Cousinsが1953年12月13日のSt. Louis Post-Dispatch紙に書いた記事が元になっていることが分かる。彼はこの数字について、あくまで推測に過ぎないことを強調してはいたが、なぜかその後、瀕回にに引用されるにつれ、科学的な報告として引用されるようになった。しかし、この数字は、軍事歴史家Francis Beerの推定したものとよく似ており、それほど間違っているとも考えられない。

    Beerの研究によれば、1480年から1965年の間に、戦争のなかった年は52年間しかなかった。これは、平均百年に9年の割合になる。この52年のうち、8年間が1914年以降の50年間に起きている。従ってこの割合から見ても、決して戦争の無かった年が1914年以降減ったとは言えない。むしろ平和な期間は増えているのだ。Beerはこの統計の結論として、「平和がより広がり、戦争がより集中するという一般的傾向は、今日、戦争はより少なく平和はより多く、過去は、戦争がより多く平和がより少ない、ことを意味する」と述べている。

    第二次世界大戦が終わって半世紀以上がたった現在、ヨーロッパ、北アメリカの先進国や日本では、国土が戦火に包まれたことはこの半世紀以上皆無である。これらの諸国では、確実に平和な期間の記録が更新されており、戦争を経験した人口は消え去りつつある。

    軍事歴史家、SingerとSmallは、戦争の歴史を研究した成果に基づいて、次のように述べている。

    われわれの時代の多くの学者や一般人が信じる傾向にあるように、戦争は増えているのだろうか。この答えは、非常にはっきりした否である。戦争の数を見ようと、その激しさや大きさを比較してみても、過去150年間にわたって、戦争が有意に増えたり減ったりしている証拠は見られない。戦争の強度を比較したとしても、近年の戦争がそれ以前の期間の戦争と有意に異なるとは言えない。(J. David Singer and Melvin Small, The Wages of War 16-1965, New York, 1972, p. 201)

    どのような史料と引用を使おうとも、一つだけ確実なことがある。それはイエス・キリストの戦争に関する予告は成就されてきたといことだ。しかし、それは決して、ものみの塔協会が教えるように1914年以降に限ってはいない。キリストの時代から現在までの、すべての世代において、「戦争のこと、戦争の知らせを聞く」ことは同じように続いており、「国民は国民に、王国は王国に敵対して立ち上がる」こともまた同じように続いてきた。イエスはこれらのことが、終わりの日の前に来なければならないと教えたが、それは正しくイエスの時と同様に現在もまだ続いている。イエスはどこにも戦争の規模の増加、頻度の増加など述べていない。イエスの言葉にそれ以上の意味をつけることは、人間の憶測と作り事に過ぎないのである。


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