ものみの塔を出てどこへ行けばいいのですか?

デービッド・リード著


あなたはもしかしたら、現役のエホバの証人で、この組織が
なんとなくおかしいと思いつつも、「他に行くあてがない」
「他にどこにも救いはない」と自分に言い聞かせて、漫然と
現状維持を決め込んでいるのではありませんか。そんなあなた
に是非読んで頂きたいのがこの一編です。ものみの塔に代わる
あなたの救いの道は、意外にも自分のごく近くにあるのです。


組織を離れる恐怖
ものみの塔の教えから学ぶ
旧約の教えとものみの塔の教え
イエス・キリストと新しい契約
神を「知る」こととは
パウロがイエスを「知った」とき
ステファノとイエスとの対話
誰もがイエスと近づきになれる
間違いに気付いて
新しい命とは
体は一つ、部分は様々
様々な兄弟たち
ものみの塔の外側にあるクリスチャンの交わり

組織を離れる恐怖

あなたがものみの塔の組織にどれだけ長く入っていたかによりますが、そこから脱出するにはきびしい決断に直面しなければなりません。私にはこのことがよくわかります。というのも私は十三年間 ― それは私の成人としての人生の大部分ですが ― の活動的なエホバの証人を経験した後に脱出したからです。脱出する人々が直面する大きな問題は「私はこれからどこへ行けばいいのだろうか?」という疑問です。

ある人たちは、あたかも焼けるフライパンから飛び出して火の中に落ちるかのように、麻薬、不道徳、飲酒等に巻き込まれて行きます。ものみの塔協会はこのような人々を取り上げて、「真理」から離れるとどういう結果になるかのよい例として指摘することに躍起となっています。また別の人々は、心理的圧迫の余りの強さに耐えかねて、精神病に陥ります。ある人たちは再び「神の真の組織」の探索にとりかかり、教会を次から次へと渡り歩き、絶えず失望を繰り返します。またある人たちは一つの組織あるいは宗派を見つけてそこに「ほんとうの真理」があると思います。他の多くの人たちは、全ての宗教に幻滅して「普通の人生」を生きようとし、家や家族や仕事に打ち込み、神を棚上げにしてしまいます。

このような反応は、自分の全人生を極度に支配してきた組織から、急に開放された人々によく見られる典型的なものです。もしここに書いてあることが自分に当てはまるとお思いなら、それはあなただけではないのです。

それとも、もしかしたら、あなたはまだエホバの証人の組織に留まっていて、不満はあるけれども、「どこへ行けばいいのか?ものみの塔協会だけが永遠の命に至る教えを持っている」と考えると怖くて離れられないのかも知れません。実際ものみの塔協会はこの結論に引き込むために、他の全ての宗教を否定的に述べた後で次のように言っています。

 過去百年以上にわたって「忠実で思慮深い奴隷」の組織が築き上げてきた記録を考えると、ペテロが言い表わした結論に到達せざるを得ません。ペテロは、使徒たちもイエスのもとを去ることを望んでいるのかどうかイエスから尋ねられた時、「わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう」と言いました。(ヨハネ 6:66‐69)次のことには疑問の余地がありません。すなわち、わたしたちすべては聖書を理解する上で助けを必要としており、「忠実で思慮深い奴隷」の組織を外にして、必要としている聖書の導きを見いだすことはできないのです。(ものみの塔1981年5月15日号16頁)

まさに、この物の見方が、エホバの証人をその組織から離脱することをこれだけ困難にし、離脱に成功した人を混乱させ、恐怖におののかせるのです。「他にどこに行くあてがあるのか?」の問いに対して、「どこも駄目だ!」がものみの塔協会の答えであり、これは一人一人の証人の脳裏に、絶え間ない繰り返しにより、たたき込まれているのです。つまり「われわれの組織だけがただ一つの道であり、真理であり、命である」のです(ヨハネ 14:6と比較)。

ものみの塔の教えから学ぶ

しかしこのような「自分が唯一だ」という教えのなかに、ものみの塔協会は、実はどこへ行けばいいのかと言う疑問にヒントを与えているのです。協会が自分のこととして当てはめている聖書の見方は、実は神の子イエス・キリストにあてはまるのです。キリストの弟子達が「主よ、わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。そしてわたしたちは、あなたが神の聖なる方であることを信じ、また知るようになったのです。」(ヨハネ 6:68ー69新世界訳)と言った時、弟子達は組織のことを話していたのではありませんでした。そしてまた「真理」は組織ではないのです。聖書はイエス自身が「道であり、真理であり、命である」と言っています。(ヨハネ 14:6)

エホバの証人として、私たちはこう教えられてきました。人々は「救いを得るためにエホバ神が選んだ組織に来なければなりません」と。(ものみの塔1982年2月15日号21頁)しかしイエスは「わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません」(ヨハネ 14:6 新世界訳)と言っているのです。ものみの塔協会は「正確な知識」が救いへの鍵であると教えました。しかしイエスはパリサイ人に向かってこう言いました。「あなた方は聖書によって永遠の命を持てるようになると考えて、それを調べています。そして、これこそわたしについて証しするものなのです。それなのにあなた方は、命を持つためにわたしのところに来ようとしません。」(ヨハネ 5:39ー40 新世界訳)

それではこのことから何がわかるでしょう?それはこれです。すなわち、イエスがのべ伝えた救いは、組織の会員になったり、聖書の正確な知識によるのではないということです。(確かにこれらは関与してはいますが。)人が命を得るためにはイエス・キリストに個人的に来なければならないのです。新しい契約の元ではイエスを通して以外に父なる神に行く道はないのです。

旧約の教えとものみの塔の教え

古代ユダヤ教の宗教制度と今日のものみの塔協会の組織とを比較してみましょう。当時のユダヤ人はイスラエル国家の一員であり、聖書を学び、神の律法を守ることによってエホバ(より正しくはヤーウェー)と特別な関係にありました。これと同様に今日のエホバの証人は、ものみの塔協会の一員としてその出版物を学び、協会が解釈した所の神の律法を守ることによって、神と特別の関係を持てると教えられています。ものみの塔はユダヤ人の組織を模範とし続け、イエス・キリストによって神が開かれた新たな道を無視し続けます。

イエス・キリストと新しい契約

神はエレミヤの予言した「新しい契約」を成就するためにその一人子を地上に送られました。この新しい契約の元では「『彼らはその最も小なる者からその最も大なる者に至るまで、皆わたしを知るからである』と、エホバはお告げになる。『わたしは彼らのとがを許し、彼らの罪をもはや思い出さないからである。』」(エレミヤ 31:34 新世界訳)

ありとあらゆる罪人たち、売春婦や取税人までもが、イエスのもとに来て彼らの罪の許しを得ました。この許しは無償の賜物であって、よい業に対する報いではありませんでした。しかしこれはユダヤ教の指導者の怒りを買いました。というのは、彼らは人々に、自分たちの教えた良い業の基準によって神の義を求めさせたかったからです。それにもかかわらず、イエスを救い主と信じた人々は罪の重荷から開放され、喜びで満たされたのでした。

罪の許しの約束に加え、先のエレミヤ 31:34 はまた「『彼らはその最も小なる者からその最も大なる者に至るまで、皆わたしを知るからである』と、エホバはお告げになる。」とも言っています。ここで使われている「わたしを知る」と言っているのはただ神に関する情報や「知識」を得るという意味ではありません。むしろ個人的に神と「知り合いになる」という意味なのです。ではどうしたらこのような個人的な神との関係を持てるようになるのでしょうか?それは、日々、神の一人子であるイエス・キリストと個人的に生きていくことで達成されるのです。イエスの弟子フィリポが、イエスに対して父を見せるように頼んだとき、イエスは次のように言いました。「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに、フィリポ、あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は、父をも見たのです。」(ヨハネ 14:9 新世界訳)

神を「知る」こととは

実際にイエスと共に生きた人々は、ヘブライ 1:3 に書かれている通り、「神の本質の完全な現れ」であるイエスを通して、この新たな親密な関係によって神を個人的に知ることができました。これはパリサイ人のようにただ「聖書を調べている」人々には不可能なことでした(ヨハネ 5:39 )。この違いを例えで言えば、一方はアメリカの大統領に関するありとあらゆる書物を研究する人に対し、他方はそのような書物は読んだことが無くとも大統領と毎週末ゴルフをすることにより個人的な友人となる人、と言えるでしょう。エレミヤが述べている「エホバを知るようになる」というのはこのような、神の一人子を通しての個人的で親密な神との関係をさしているのです。

そして、エレミヤの予言した新しい契約は、イエスと共に生活した一世紀当時の一握りの人々のためだけではありませんでした。むしろ、これはこの時以降、神が全ての人間と関係を持たれる時のやり方となったのでした。イエスが殺された時、弟子達はこれで、キリストを通しての神との個人的な関係は終わるのではないかと恐れました。しかしそうではありませんでした。イエスは三日目によみがえり、彼の弟子達との親密な関係を新たにし、この個人的関係を広く多くの人々に広げていったのです。

パウロがイエスを「知った」とき

その良い例は、パウロがキリストを通して神との個人的関係に入った時でした。これはパウロがダマスカスへ向かう道で、イエスがパウロに現れたことに始まりました。そしてこれはパウロの神の子との個人的関係のほんの始まりに過ぎませんでした。後にパウロはイエスとの個人的な関係を「主はわたしの近くに立って、わたしに力を注ぎ込んでくださいました」(2テモテ 4:17 新世界訳)と述べ、また「肉体のとげ」(2コリント 12:8ー9 )についてイエスと語り合っている様子を述べています。熱心なユダヤ教の信者として、パウロはある意味での神との関係を持っていました。しかし、それはあくまでも自分から遠く離れた神との関係でした。しかし今や、イエスに出会ったパウロは真の意味で神を「知る」ようになったのです。

ステファノとイエスとの対話

ステファノは裁判にかけられた時、イエスを幻の中に見ました。その後しばらくして彼の裁判が中断され、彼が市中に連れ出された時、ステファノはイエスに向かって呼びかけました。「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それからひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。」(使徒 7:59ー60 新共同訳)《訳者註1》ここにはステファノがそれ以前に見ていたイエスの幻を見続けているという記述はありません。むしろ、ステファノはイエスと継続的な関係を保っていたがゆえに、必要な時にイエスに呼びかけることができたのでした。

誰もがイエスと近づきになれる

それではパウロやステファノは特別であったのでキリストと個人的な関係を持て、必要なときにイエスに呼びかけることができたのでしょうか?もちろんそうではありません。パウロがコリントのクリスチャンに呼びかけたように、クリスチャンは、「いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト、すなわちその主でありわたしたちの主である方の名を呼び求めているすべての人たち」(1コリント 1:2 新世界訳)なのです。

イエスは弟子たちとの、この個人的関係が継続することを約束しました。「二人か三人がわたしの名において共に集まっているところには、わたしもその中にいるからです」(マタイ 18:20 新世界訳)と 。実際ヨハネ 14:20 (新共同訳)ではイエスは次のように言っています。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」《訳者註2》また 14:23 では「だれでもわたしを愛するなら、その人はわたしの言葉を守り行い、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て住まうのです」(新世界訳)とも言っています。

今日、イエスはご自分を人々に現すのに、パウロがダマスカスへの道で経験したような目のくらむ光は用いられません。むしろ、わたしたちはガラテヤ 4:6 に記されたように「神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(新共同訳)ことにより、イエスを受け入れるのです。

間違いに気付いて

最初私は、神に祈って罪を告白し、イエスを救い主として受け入れるということに対して、恐怖心がありました。それというのも、ものみの塔の教えでは、そのような祈りは悪霊を受け入れることになる危険があるからでした。私は、そのことで悩んでいたとき、ルカ 11:10ー13 のイエスの言葉にであいました。そこにはこう書いてありました。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(新共同訳)。この箇所を読んだ私は、安心して祈ることができ、イエスを自分の心に受け入れることができたのです。私は、ガラテヤ 4:6 に記されたことを自分自身のこととして体験できました。私は自分がエホバの証人であったときに一度も経験することのできなかった体験、すなわち神を私自信の「父」として知ることが初めてできたのでした。

エレミヤが予言した新しい契約、つまり聖書が述べている福音とは、神に関する新しい事実や、新しい教理を勉強することではありませんでした。(確かにたくさんのものみの塔の教理から離脱する必要はありましたが。)むしろ、福音は今ここに始まる新しい命であり、「新たに生まれる」(ヨハネ 3ー3 )ことによって「新しく創造された者」(2コリント 5:17 )となり、神の霊に満たされている人として生きるということなのです。

新しい命とは

イエスはこの新しい命のことをニコデモに次のように説明しました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。... だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(ヨハネ 3:3ー7 新共同訳)

神との新しい関係に入る人はすべて、イエスが述べたこの「新たに生まれる」という霊的な変化を実際に体験します。パウロはこの霊的な変化についてこう述べています。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。... 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ローマ 8:9ー11、 14ー16 新共同訳)

誰でも新たに生まれた時は、当然その人はキリストにある赤ん坊です。幼児が歩行をおぼえる過程でよく転ぶのと同様、霊的に歩き始めた人もまたよく転びます。しかし父はその子供の成長を助けるものです。あなたは神の言葉を求めるようになり、聖霊はあなたが神の言葉を聖書から読むとき、導いてくれます。そうすると、イエスが、ものみの塔の教えるような単なる「最初に創造された天使」ではなく、むしろ、疑い深いトマスがついに信じるようになった「わたしの主、そしてわたしの神」(ヨハネ 20:28 新世界訳)であることが見えてくることでしょう。

体は一つ、部分は様々

神との新しい関係に入る人はまた、神について学び神を愛するようになります。また自分が「キリストの体」とされている教会の一部であることを自覚するようになります。教会とは「天に登録されている長子たちの集会」(ヘブライ 12:23)と記されているものです。キリストの体である真の教会は、人間が作り上げた様々の宗教団体の内外の人々を含む宗派を越えた世界です。この教会はすべてのキリストを頭と仰ぎ、一つの霊によって一つの体となるようにバプテスマを受けた人々からなります。この教会では次のように様々な人々がいるのです。

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分では無く、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手でないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。... 目が手に向かって、『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません。(1コリント 12:12ー21 新共同訳)

ですから、たとえ私たちがどんなに違うように見えても、私たちはキリストにある兄弟姉妹が必要なのです。

様々な兄弟たち

長年ものみの塔の組織の中にいて、「組織によって与えられた忠告に疑問をはさむような独立的な考え方」は許されない(ものみの塔1983年4月15日号27頁)と頭にたたき込まれた者にとって、聖書に書かれたこのキリストにある多様な兄弟を受け入れることは、最初難しいかもしれません。聖書はキリストにある多様な兄弟について、更にこう書いています。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信にもとづいて決めるべきことです。(ローマ 14:1ー5 新共同訳)

あなたがこのような兄弟に対する見方を持って、他のクリスチャンとの交わりを進めていくなら、信仰の強い人といる時でも、信仰の弱い人といる時でも、「互いの信仰によって、励まし合う」(ローマ 1:12)という経験ができるでしょう。

ものみの塔の外側にあるクリスチャンの交わり

ものみの塔を出てどのようなクリスチャンの交わりを持てばよいのか、という疑問に対しては、神に祈って、神があなたをどのような交わりに加えたいと考えておられるかを尋ねてください。神は、必ずあなたの祈りを聞いてそれに答えてくださいます。あなたが導かれるクリスチャンの集まりは、確かにあなたから見て完璧な所ではないかも知れません。もしかしたら、そこではコリントにあった教会のように聖霊の賜物をふさわしく用いず、主の晩餐の祝い方も間違っているかも知れません(1コリント 14:23、 11:20)。あるいはそこではペルガモンにあった教会のように、ある会員は偽りを教えたり不品行に陥ったりしているかもしれません(啓示 2:14ー15)。あるいはそこではサルデスにあった教会のように「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(啓示 3:1)所かも知れません。しかしそのような不完全な教会での経験があなたをクリスチャンとして成長させ、あなたの主であるイエス・キリストとの個人的関係を深めてくれるのです。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。」(ヘブライ 12:7 新共同訳)と書いてあるとおり、これは父の子に対する訓練の一部なのです。不完全な教会の中にいながら、人やその組織を見るのではなく、ただイエス・キリストを仰ぎながら生きることは「訓練」の一部なのです。

私たちはみな、パウロの次の言葉を心にとどめておくべきでしょう。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(1コリント 13:12 新共同訳)

ですからあらゆる詳細に関して「正確な知識」を得ることは確かに不可能ですが、一方ではそれでも、親密で個人的なイエス・キリストとの関係を通して、神を「知る」ようになれる特権はクリスチャンに与えられているのです。もしあなたがまだそのようなイエスとの個人的関係に入っていないのなら、今すぐ神に祈りイエスを救い主としてあなたが必要としていることを告げてください。そしてイエスをあなたの主として受け入れてください。彼はあなたを招いているのです。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ 11:28 新共同訳)

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(啓示 3:20 新共同訳)

わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。(ヨハネ 14:21 新共同訳)


《訳者註》
  1. 訳者註1:新世界訳では「そして、訴えながら、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言うステファノに向かって、彼らは石を投げつづけた。それから彼はひざをかがめ、強い声で、『エホバよ、この罪を彼らに負わせないでください』と叫んだ。」となっている。ステファノの最初の文章の『主イエスよ』と、第二の文章の『主よ』の『主』は両方ともギリシャ語の kurios という単語で、明らかに同じもの(主イエス)を指しているが、ものみの塔協会はその新世界訳で意図的に『エホバ』と訳し変えてステファノはイエスでなくエホバに祈ったという教理にあうようにしている。
  2. 訳者註2:新世界訳では『内におり』の代わりに『結びついており』という訳語を使っている。


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本小冊子は、デービッド・リード氏の "Out of the Watchtower - into what?"
を原著者の許可を得て翻訳し、HTMLファイルに変換して掲載したものです。
なお著者の了解を得て、日本人向けにわずかの補足を加えました。


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