ものみの塔協会は許しを求めるのか?
(ものみの塔誌1998年3月1日号)

ものみの塔誌1998年3月1日号は、巻頭記事として「なぜ宗教は許しを求めているのか」「諸教会は告白する」という記事をあげ、キリスト教世界の諸教会、特にカトリックの、過去の過ちに対する自己批判の動きを取り上げています。この記事ではまず、ローマカトリックなどの諸教会が時に、その過ちを認めて謝罪して来た歴史を解説し、その背景に世界教会主義(Ecumenism)があることを指摘しています。そしてサムエル第一15:1-12)の例をとりあげ、諸教会の態度を神は許さないであろうとしています。
サウルは神と和解するよりも、イスラエルにおける自分の立場に関心があったようです。こういう態度を示したサウルが神から許されることはありませんでした。同じような態度を示す諸教会が神から許されると思われますか。 (ものみの塔誌1998年3月1日号6頁)
この記事の後半は、諸教会がたとえ過去の過ちに許しを求めても、現在の教会の行動は変わっていないので、神の目に価値のある悔い改めではないと指摘し、最後にエホバの証人だけが、このような過ちに汚されていない宗教であると述べています。
‥‥キリスト教世界の諸教会が謝罪している血の罪や残忍な狭量その他の犯罪に汚されていない崇拝の形式を見いだすことはできるのでしょうか。確かにできます。どのようにすればそれができますか。「あなた方はその実によってそれらの人々を見分ける」というイエス・キリストが述べた規範をあてはめるのです。歴史の記録は忘れ去りたいと思う宗教もあるでしょう。しかしそうした記録は、イエスが「偽予言者たち」と呼んだ人々だけでなく、「りっぱな実」を生み出してきた人々をも見分けるのに役立ちます。(マタイ7:15-20)それはだれでしょうか。その答えは、エホバの証人と一緒に聖書を調べ、ご自分で探していただきたいと思います。今日、この世で影響力のある地位を保とうとするよりも、神の言葉に従おうと真剣に努力しているのはだれなのか、お調べになってください。‥‥ (ものみの塔誌1998年3月1日号7頁)
しかし、本当にエホバの証人だけが、このような「血の罪」を犯していない例外なのでしょうか。興味あることに、この記事はローマ・カトリック神学者ハンス・キュングを引用し、「人間の世界の上に浮遊している完璧な教会など実在しない」「告白すべき罪のない教会は存在しない」という彼の言葉をとりあげて、教会が「聖」であるとする一部のカトリック神学者に対する反論に使っています。しかし、ものみの塔協会だけは本当に告白すべき罪がないのでしょうか。もしあったとしたら、諸教会のように世界に対して公表して謝罪を求めているでしょうか。この3月1日号の記事が諸教会に対して行ったのと同じようなメスを、ものみの塔協会の歴史にあてはめてみたらどうなるでしょうか。上の引用の「お調べになってください」の勧めに従って少し調べてみましょう。

この3月1日号の記事は、諸教会の罪の例として次のようなものを上げています。十字軍、戦争、独裁主義に対する支援、諸教会の分裂、反ユダヤ主義、異端審問、マフィア、人種差別、小児性愛者、など(4頁参照)。それではエホバの証人はこれらの悪行に本当に係わっていないでしょうか。確かに、エホバの証人は十字軍の時代には存在しませんでしたから、これは比較になりません。しかし、それ以外の悪行は、程度の差はありますが、マフィアとの関係を例外としてエホバの証人も関係しています。しかし、それらの罪はものみの塔協会によってどのように扱われているでしょうか。

戦争

確かに現代のエホバの証人は戦争に参加しません。しかし十字軍の時代の行動を批判するのであれば、ほんの100年前にエホバの証人が戦争にどのような態度をとっていたかを調べるのは的外れではないでしょう。この宗教の創始者、ラッセルはローマ13:1の上位の権威に従うという命令はこの世の政府に従うことを意味するという、他のクリスチャンと同じような解釈をし、政府が兵役を課する場合には銃をとることもやむを得ないと述べています。しかし、この事実は現在のエホバの証人の間では認識されておらず、たとえ話題になっても、それはただの「古い光」あるいは「古い理解」であるとして、一蹴されるだけです。

独裁主義に対する支援

エホバの証人は、自分たちのナチスドイツに対する徹底した不服従の態度を誇りにし、それを何度も雑誌の中で取り上げてきました。しかし、その指導部であるラザフォード会長が、密かにヒットラーに手紙を送り、エホバの証人の宗教をドイツにおいて公認することと引き換えに、ヒットラーを支援することを申し出たことは、エホバの証人に対しては全く知らされていません。詳しくはナチス・ヒットラーと「ものみの塔協会」との協調関係のページをご覧ください。確かにカトリックと比べればその程度には大きな差がありますが、ヒットラーの独裁主義に協力を申し入れたという事実には変わりません。それではものみの塔協会は、カトリックのように自己批判をしたでしょうか。いいえ、彼らはこれに一切沈黙を決め込み、大部分のエホバの証人はこの手紙の存在すらも知りません。

諸教会の分裂

エホバの証人は、他の教会と異なって分裂しないことを誇りにしています。しかし本当にそうでしょうか。歴史第二部の1917年の大分裂の項をお読み下さい。1916年の創始者ラッセルの死後、後継者争いから組織は大分裂を引き起こし、一時は組織はバラバラに崩れかけました。その時に出てきたのが第二代会長のラザフォードで、彼はラッセルの追随者たちを追い払い、自分を会長とする組織を作りあげました。ラッセルの追随者たちは彼ら独自に組織を作らざるを得ず、ここに創始以来のものみの塔宗教は大分裂をとげたのでした。しかし、現在のエホバの証人の歴史では、ラザフォードはラッセルの正当な後継者であり、組織は連綿と続いてきたように教えているのです。

反ユダヤ主義

ものみの塔協会が反ユダヤ主義をとってきたことも、近年は全く取り上げられず、大部分のエホバの証人はこの事実を知りません。しかし、古いものみの塔、そしてラザフォードの著作を読めば、露骨な反ユダヤ主義が、ものみの塔協会の立場であったことが分かります。上に述べた、ナチスドイツに対する協力を申し入れた文書の中にも、露骨な反ユダヤ主義が各所に見られます。ラザフォードは最初、新たに作られたユダヤ人によるパレスチナの国家イスラエルを、聖書の予言の成就と見ていました。しかし、イスラエルがラザフォードの満足する方針を採らないことに失望した彼は、エホバの証人こそ聖書の予言が成就された「霊的イスラエル」であると宣言し、この教義にとって邪魔となるイスラエル人に対して、反ユダヤ主義の攻撃をしたのでした。ヒットラーに対する協力の申し入れもこのような背景から出ています。しかし、現在のエホバの証人は、自分たちの組織が反ユダヤ主義をとったことを認めて謝罪するどころか、その事実さえも闇に葬って知らせないのです。

異端審問

エホバの証人が、その教義を公に批判するものに対して、審理委員会を開いて排斥処分を行うその過程は、諸教会の異端審問と何らの違いはありません。元統治体員レイモンド・フランズと、彼と共に指導部に対して教義の疑問を提起した何人かの本部職員が排斥された審理委員会の過程を見れば、これは公正な裁判の原則を一切無視し、証拠や証言の吟味もなく、全くの噂に基づいての審判であり、中世紀の魔女狩り裁判と同じことが行われていることがわかります。詳しくはレイモンド・フランズ−エホバの証人最高指導者の人生の軌跡とその信仰をお読み下さい。

人種差別

上に述べた、ユダヤ人への差別以外にも、アメリカ南部のエホバの証人の会衆では、ごく最近まで黒人に対する人種差別が公然と行われていました。1950年代にはアメリカ南部の各州の黒人のエホバの証人は、黒人のみの会衆に参加し、黒人のみの大会が別に用意され、白人の会衆や大会に参加することはありませんでした。当時、黒人はブルックリンの本部の要職に採用されることは一切ありませんでした。現在でも統治体の成員の全員が白人であり、黒人やアジア系の証人を一切締め出している事態は全く変わっていません。

小児性愛者

エホバの証人は子供に性的いたずらをするカトリックの僧職者の例をよくあげますが、しかし、同じ問題がエホバの証人の各地の会衆で起こっていることはほとんど取り上げません。しかし、例えばものみの塔誌1986年1月1日号13頁には、エホバの証人の会衆の中にも同性愛、夫婦交換、そして子供に対する性的いたずらが広範に広がっていることを認めています。この記事は、1985年だけで36638人のエホバの証人が排斥処分を受け、その多くの者がこのような不道徳的行為を行っていることを認めざるを得ませんでした。しかし、ものみの塔協会はそれを、公表して世間に謝罪するようなことは決してしません。身近な例では、1997年の夏に、この筆者が住むオレゴン州ポートランドの近くのワシントン州、ウッドランドという小さな町で、20年以上にわたり、その町のエホバの証人の会衆の長老の息子が、会衆内の子供たちに対して性的虐待を加えてきたことが明るみに出ました。それに対して、会衆はその長老の息子を直ちに排斥処分にし、トカゲのしっぽのように切り捨てればあとは安泰と言うように、沈黙を守るのみです。当地の報道機関は、なぜ20年以上もこの問題が放置されていたのかを探るべく取材しましたが、エホバの証人はすべて、報道機関の取材を拒否しました。ついに、一人の会衆の内部を知る人の証言が得られましたが、それによれば会衆内の多くのエホバの証人はこの長老の息子に問題があることを知ってはいましたが、長老の息子であったこと、そして彼が悔い改めていると考えられたことから、20年以上もこの悪行を放置していたとのことです。これ以外にも、エホバの証人の会衆内での小児性愛者の問題は後をたたず、多くの証言が元エホバの証人から寄せられていますが、協会の一貫した方針は、それが明るみに出れば即刻排斥処分にするが、それ以外は「群れを守る」という名目の元に目をつぶったり、沈黙を守り、公表して謝罪することは一切ありません。大部分の悪行は、世間に対する悪い評判を恐れて、警察に報告されず闇から闇へと葬られているのです。

このように、ものみの塔の宗教も、ハンス・キュングの「告白すべき罪のない教会は存在しない」という言葉の通り、例外なく多くの罪を犯してきました。しかし、この3月1日号の記事に書かれた諸教会がその罪を告白して、許しを求めている態度とは正反対に、ものみの塔協会は自分たちを正当化し、時にはトカゲのしっぽのように一部を切り離し、またある時は沈黙を守ってその罪を隠蔽し続けてきたのです。彼らの正当化の口実は、自分たちがエホバから是認されている組織であるがゆえに、時に応じて「光が増してくる」ように真理が明らかにされてくるので、過去の過ちは過ちでなく、「光が十分でなかった」状態に過ぎないという詭弁でした。

しかし、ものみの塔協会の血の罪はこれにとどまりません。彼らの真の血の罪は、彼らが恣意的に作り上げた教義により、無数の信者を死や病気に追いやっていることです。過去において、彼らは予防接種を禁止し、臓器移植をも禁止しました。その後、「光が増してきた」との理由でこれらの教義は撤回されましたが、その間に予防接種を受けなかったことにより、あるいは臓器移植を受けられなかったことにより、死亡したり、重大な障害を被ったエホバの証人の数は数えきれません。これに対して、ものみの塔協会はその過ちを告白し、謝罪したでしょうか。いいえ、彼らにとってこれは過ちではなく、ただ「光が少なかった」だけのことであり、謝罪するべき罪の意識すらありません。そして現在は輸血拒否の教義により、世界中で何千人のエホバの証人が死亡し続けています。この聖書の恣意的解釈による輸血拒否の教義はいずれまた、「光が増した」ことにより、撤回されるかもしれません。その時、この何千人のエホバの証人の死者はまた闇に葬られるのでしょうか。そのようないい加減な理由で人命が失われ続けることを放置して、諸教会の罪の告白を批判している場合でしょうか。この3月1日号のものみの塔誌は、4月に各地の王国会館で研究されます。どうか、これを機会に、諸教会の罪の許しだけでなく、ものみの塔協会自体の罪の許しを各地の王国会館で質問し、議論してみて下さい。

(2-8-98)


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