ものみの塔宗教と進化論
『生命−どのようにして存在するようになったか進化か、それとも創造か』の考察

はじめに

『生命−どのようにして存在するようになったか進化か、それとも創造か』の本(以下ものみの塔協会のこの本の略称を使って『創造』と略す)は1985年にものみの塔協会によって発行され、1980年代後半から1990年代前半にかけて、瀕回にエホバの証人の書籍研究に使われた。エホバの証人が信者数の急成長を遂げたこの時代に、この本を読んで「真理」がある、と感じてエホバの証人になった人も少なくない。私がこの本に最初に接した時に、この本は内容が余りにもいい加減であり、少しでもまともな教育を受けた人間ならまじめに相手にできるものではなく、エホバの証人にとっては自分の組織の誤りを気づかせるいい材料になるのではないかと感じたものであった。実際その後、1992年の大学教育解禁の教義変更に伴い大学教育を受けたエホバの証人が急増するにつれ、少なくとも私の住むアメリカでは、この『創造』の本の内容を詳しく調べることでものみの塔宗教の本質を見ることができて、組織を脱出した元エホバの証人の話しを何度も聞いた。

私もこの本の内容の誤り(単純な誤謬と意図的な欺瞞)を指摘する文書を日本語で発表することを考えていたが、様々の理由で今までそれを行わなかった。その理由としては、1)本の出版された年がすでに大分古くなっていること、2)進化論と創造論の論争は、エホバの証人の問題を超えた膨大な論争であり、この論争をエホバの証人問題の中に引き込みたくなかったこと、3)私にとってはこの本の欺瞞は明らかで、批判の努力に値しないと感じたこと、の三つが主なものであった。

しかし、その後日本のエホバの証人や家族の方々から、今でも多くのエホバの証人が『創造』の本がきっかけで証人になり、その後も組織に様々な疑問を持ちつつも、ものみの塔の創造論の主張には少なくとも真理があるから、と信じて組織に留まっている人々の話しを聞いて、少なくとも日本ではまだ『創造』の本の影響は根強く残っていることを知り、このような文書を発表することも全く無駄ではないことがわかった。面白いことに、日本のエホバの証人の間では、むしろ高等教育を受けた人々の間に、中には医師のような人までが、『創造』の本に感銘を受けてエホバの証人になっている例が多いようだ。最近、読者の方から是非、ものみの塔の進化論に関する教えの批判を聞きたいというお便りを頂き、ようやく重い腰を上げてこれを書き始めることにした。

確かに大学以上の自然科学、特に生命科学(生物学、遺伝学、人類学、考古学、生化学、医学など)の専門教育を受けた人間にとってこの本の欺瞞を見抜くことはそれほど困難ではないが、自然科学の方法論と知識になじみのない人々にとっては、この本はあたかも科学の入門書のような印象を与え、聖書と科学の一致という魅力的なテーマに気を取られて、その内容を鵜呑みにしてしまうことになるようだ。特に日本人にとって困難なのは、『創造』の本のほとんど全ての内容が、本や雑誌や科学者の引用による権威付けに依存しているが、その引用の全ては英文の原文であり、原典を日本の図書館で簡単に調べることが出来ないことである。恐らくそのことが日本とアメリカのエホバの証人の間で、『創造』の本を読んで逆の反応を示す理由の一つなのかもしれない。

このような日本のエホバの証人の特殊性を考えて、以下の考察では出来るだけこれらの引用を和訳して、『創造』がどのような前後関係で、どのような権威者を、どのような出典から引用しているのかをわかり易く解説することにした。この記事では私は進化論と創造論との間で、どちらが真理でありどちらが間違っているかという議論をすることは避けることにした。私はこの件に関しては、事実を偏見なく見ることが第一であり、その事実をどう解釈するかは個人の問題であると考えるからである。「事実自体に物語らせる」ことが第一であり、その基本的な事実を歪めて伝える『創造』の本の欺瞞を指摘することが、その第一歩になると希望している。なお、この文書を書くにあたって、私の親友で元エホバの証人である、アラン・フォイエルバッカー氏の資料を使わせて頂いたことを感謝申し上げる。

『創造』の三つの基本的な問題点

1.引用の乱用

これはものみの塔協会の他の出版物にも共通することであるが、この本の第一のそして最大の問題点は、引用の乱用である。原典の文章の前後関係と、筆者の主旨とを無視して、文書を全く逆の意味に引用することほど、悪質な欺瞞は有り得ないが、「真理」を大事にすると公言するものみの塔協会が、これを『創造』の本の中で平気で行っているのである。具体的にどのようなことを行っているのであろうか。簡単な例を使って説明しよう。たとえばエイズの病因に関する研究の世界的権威者A博士が、ある時次のような発言をしたと仮定したとしよう。

「エイズの病因に関しては現在でも医学界で完全な一致を見ているとは言えない。確かに少数の医学者はHIVウィルス以外に病因があるかも知れないと考えている。しかし、大部分の医学の証拠はHIVウィルスによる病因を支持しており、その後の治療と予防の成果もHIV病因説を強力に支持している。現時点では私はエイズがHIVによって起こることは確実なことであると考えている」。
これに関して、ある出版物が次のような引用をしたらそれは良心的な引用と言えるであろうか。
エイズの病因に関しては現在もまだ解明されておらず、著名な科学者もHIV病因説に重大な疑問を持っている。たとえば、世界的なエイズ研究の権威A博士は「エイズの病因に関しては現在でも医学界で完全な一致を見ているとは言えない。確かに少数の医学者はHIVウィルス以外に病因があるかも知れないと考えている」と述べている。
この引用は、確かにA博士の言葉をそのまま引用しており、その点では正確である。問題は前後関係とA博士の意図が正確に伝わっているか、ということだ。「著名な科学者」であるA博士はエイズのHIV病因説を確信しているのに対し、上の引用ではA博士の言葉の前半だけを別の前後関係で引用した為に、あたかも「著名な科学者」であるA博士がHIV病因説に「重大な疑問を持っている」ように解釈される。これによってこの出版物の筆者自身が主張したいこと、つまり「HIV病因説」の否定が「世界的なエイズ研究の権威A博士」によって権威付けられることになる。しかし、HIV病因説を確信しているA博士の権威を正反対の立場、すなわちHIV病因説の否定に誤用することは、読者に対する悪質な欺瞞でしかない。

そのような明白な欺瞞行為を、「真理」をつかさどるはずのものみの塔協会が行っていたら、あなたはどう思うだろうか。

2.いい加減な権威

『創造』の本の第二の問題点は、その議論を権威付けるためにふんだんに使用している引用をどこから持ってきたか、という問題である。多くの引用は「科学タブロイド」と分類される、科学者がほとんど価値を置かない出版物であり、創造論を支持する「科学者」として『創造』の本が引用している人々の多くは「Institute for Creation Research」という、カリフォルニアにある半科学半宗教団体に関係する、まともな科学者としての教育や資格を持たない自称「科学者」たちだ。彼らは"young-earth creationists"と呼ばれる聖書を文字通り解釈して地球が6千年前に誕生したと称する「科学者」たちなのである。興味あるのは、これらの半分「科学者」、半分宗教家の創造論者たちは、エホバの証人が「おおいなるバビロン」、「背教者」として糾弾し、エホバの敵であるはずの「キリスト教世界」、すなわちキリスト教の特にファンダメンタリスト・グループに属する人々である。進化論を攻撃するためなら、無節操にも「おおいなるバビロン」と同調しようというのが、ものみの塔協会の態度なのだ。なお、確かに引用の中には、広くその権威を認識されている科学者も含まれているが、その際には上に述べた引用の乱用が行われていることが大部分である。

3.科学用語と概念の混乱

『創造』の本の第三の問題点は、科学用語の定義と概念の混乱である。この本では、宗教概念と科学概念とを巧みに混ぜ合わせて取り扱うため、ただ「進化」、「創造」という言葉を使っても、それらの言葉が場合によって異なる意味を持ち、いつのまにか議論が漠然となってしまう。その結果読者は、漠然と「進化」というものがとにかく間違っているのだという印象を強く受けるが、一体その本が否定しようとしているものの実態が何なのかは把握できない。その結果、エホバの証人の読者は、「進化とは何だかよく分からないが、とにかく間違っていて悪いこと」という漠然とした感情的反発を持つだけになる。前後関係からいくと、『創造』の本はある時は進化という現象そのものを否定しており、ある時はダーウィン説を否定し、ある時は別の進化の理論を否定し、またある時は生命の始まりに関する理論を否定している。問題は、一つの概念を否定する理由は、別の概念を否定する理由とは必ずしもならないことだが、概念の定義が漠然としているため、理論の否定が事実の否定にすりかえられていることが多い。これも科学文献を批判的な目で読む訓練を受けていない読者にとっては、想像もつかない罠なのだ。

以下に、この記事では『創造』の本の各所に現れるこれらの問題点を具体的に紹介するが、その前に、今述べたように、まず用語と概念の定義をはっきりさせてから本題に入ることにする。

進化に関する用語と概念

上に述べたように、「進化」を否定したり肯定する前に、進化とはどんなことなのかをはっきりと定義付けなければ、議論は全くかみ合わず、ただの水掛け論に終わる可能性がある。ここでは本論に入る前に、この『創造』の本が行わなかった言葉と概念の定義から始める。

先ず、一般用語としての進化はどのように定義されているか、国語辞典で見てみる。

進化
1 事物が、段階を追って、よりよい、あるいはより高度な形態へと変化していくこと。
2 生物の形態や機能が長い年月の間に変化し、次第に異なる種へ分岐していくこと。一般に、体制の複雑化、適応の高度化ならびに種類の増加を伴う。

1988.国語大辞典(新装版)小学館 1988.

次は、小さな百科事典からの定義である。
進化 
現在の多様な生物が,長い歴史的な変化の結果として共通の祖先から枝分かれしてきたという考え方に立って,その変化の過程をいう。生物進化の直接的な証拠としては化石がある。なかでもウマやゾウの化石では,現存種に至るまでの進化の過程を明確にたどることができる。そのほか,ガラパゴスやハワイ諸島における島ごとの種分化,オーストラリア区における有袋類の適応放散,そしてタンパク質分子のアミノ酸配列やDNAの塩基配列の研究など,あらゆる生物学の領域から進化の事実を裏付ける証拠が得られている(しかし宗教的な立場から神による種の創造を信じ,進化の事実を認めない人も少なくない)。爬虫(はちゅう)類が鳥類や哺乳(ほにゅう)類に進化した場合のように種や属の段階をはるかにとびこえたような進化を大進化といい,一つの種が変種や別の種に進化することを小進化といって区別する。進化がどのようにして起こるのかを説明するのが進化論である。

マイペディア98(C)株式会社日立デジタル平凡社

残念ながら、これらの一般向けの書物には、生物学的な厳密な定義は与えられていない。しかしこれらの定義に共通する点はとれば、「進化」とは端的に「生物の時間による変化」と定義されるであろう。次に、生物学者が説明した進化の概念を紹介する。
最も広い意味では、進化とは単純に変化を意味する。従ってそれは広い概念に適用される。星雲も言語も政治体制もすべては進化する。それに対し生物学的進化というのは、一個体を超えて伝えられる生物体の集合としての形質の変化、と言える。一個体がその形質を変えることは進化とは言えない。生物体の集合の中で起こる変化で進化と考えられるのは、遺伝物質を通して一つの世代から次の世代に遺伝されるものでなければならない。生物学的進化はほんの僅かの変化のこともあれば根本的な変化のこともある。進化の概念の中には、集団の中の異なる対立遺伝子の比率の僅かの変化(例えば血液型遺伝子)から、ごく初期の原始生物からの逐次変化によりカタツムリや蜂やキリンやたんぽぽに変化する過程も含まれる。

Douglas J. Futuyma in Evolutionary Biology, Sinauer Associates 1986

ここで、生物学的進化の概念の重要ポイントをまとめると次のようになる。
1.生物体の形質の集団としての変化。

2.その変化は遺伝物質の変化を伴いその生物集団の後の世代に次々に伝えられる。

これを遺伝学の用語で要約すると次のようにも言える。

進化とは、集団の遺伝子プールの中の対立遺伝子頻度の一世代から次の世代への変化である。
これらの生物学的な定義は、上に紹介した一般書に見られる定義や概念と比べるとはるかに単純で具体的で明確である。そして、このように比較してみると、一般に理解されている進化の概念と、生物学者が研究し論じている進化の概念に、かなりの隔たりがあることがわかる。まず第一に、上の国語大辞典は、「長い年月の間に変化」という言葉を使い、マイペディアも「長い歴史的な変化」という漠然とした表現が入っているが、生物学的な定義にはこのようなあいまいな時間の概念は入っていない。第二に、両方の一般書の定義とも遺伝物質の変化が必要であることを述べていない。第三に、国語大辞典は「異なる種へ分岐」という表現を使っているが、これも生物学的な定義には含まれていない。更に、ここで進化の概念の一つの重要な点を指摘しておこう。それは、一般書でも生物学の専門書でも、進化の概念の中には「どのようにして最初の生命ができたか」という疑問は扱っていないことだ。これも『創造』の本が混乱している重要な点である。

このような生物学者の扱う進化の概念と、一般人に広く知らされている進化の概念には幾つかの微妙だが重大な違いがある。この定義と概念の食い違いは何を意味するだろうか。実は、これが『創造』の本に代表される、進化を否定する文書がもっとも有効に利用する所となっている。どういう事かと言うと、生物学者、遺伝学者、考古学者などが、上に述べた生物学的な進化の定義に基づいて議論をしている文書を、部分的に引用し、それを一般人の知らされているあいまいな進化の概念にあてはめて、議論するのである。その結果、これらの科学者の議論が一見矛盾しているように見せることができ、『創造』の本の著者であるものみの塔協会はそれを使って進化は矛盾だらけであると、宣伝に使うのである。

科学上の事実と理論

「進化」の定義と概念の混乱の一つの要因に、科学上の事実と科学の理論との違いをはっきり認識しないで議論が行われるという問題がある。簡単な例を挙げれば、ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見た時、重力の存在という事実を認識した。重力はニュートンの以前にも以後にも存在し、誰もが観察して検証できる。これが事実である。それに対して、重力がなぜ、どのようにして存在するかは、簡単には説明できない。物理学者は様々な理論を出して、それが正しいかどうかを実験により検証している。ある理論は検証の結果、確立された事実となっているし、別の理論は検証されずに、理論のままで留まっている。しかし、理論が正しいか間違っているかに関係なく、リンゴは木から下へ落ちるのであり、重力を説明するニュートンの理論が間違っているからと言ってリンゴは上に昇っていくと主張する科学者はいない。

「進化」の概念についても「重力」と同じ事が言える。「進化」の現象そのものは、後で述べるように、科学者が観察して検証できる事実である。それに対して「進化の理論」、すなわちどのようにして進化が進んできたのか、については科学者が様々な理論を提出し、あるものは観察と検証を通して確立され、あるものは現実にあわない理論に留まっている。しかし、ある進化の理論の間違いを指摘することによって進化の存在そのものを否定することは(これが、『創造』の本の重要なテーマであるが)、ある重力の理論の誤りを指摘してリンゴが上に昇っていくと主張するのと同じように馬鹿げているのである。

もちろん、重力の現象のように、日常すぐに観察できる現象は直感的に「事実」として受け入れられるが、直ぐに目に見えない事柄を「事実」として受け入れるのは、科学者以外には難しいことである。その良い例がエイズの病因をめぐる論争である。1980年代の初めから、エイズの病因に関しては多くの理論、学説が提出された。現在、圧倒的大多数の医学研究者は、エイズがHIVウィルスで起こることを「事実」として認めているが、それも20年前には多くある理論の一つに過ぎなかった。しかし、現在でもHIVウィルスがエイズを起こすということは100パーセント確実とは言えない。誰も今の所、人間に科学的な実験の手法を用いてHIVウィルスを植え付けて、エイズが発病することを観察した人はいない。しかし、実際の症例を解析し、疫学、公衆衛生学の知識を動員し、更に治療効果を確認すれば、現在ではまとまな医学の訓練を受けて研究した人間であれば、エイズがHIVウィルスで起こるのではないと主張することは、ちょうどある人がまさにリンゴを手から放そうとしながら「重力の理論は完全には解明されていないからこのリンゴは下には落ちないかもしれない」と主張するのと同じことになっている。

進化の事実と理論に関しても同じ事が言えるのだ。

事実としての進化と理論としての進化

上に述べたように、生物学的進化を「集団の遺伝子プールの中の対立遺伝子頻度の一世代から次の世代への変化」と定義するなら、これは生物学者によって観察され、検証された事実である。また新しい生物種が生じることも観察されている。しかしこの事実は確かに「微少進化」と呼ばれる比較的小規模な形質の変化に限られている。これに対し、人間とチンパンジーが共通のサルのような祖先から分かれて現在の形に変わったとか、更には今の人間と大腸菌とが共通の生命体から分かれて現在の形になったという現象は、確かに直接観察することはできない。しかしこれに関しても、現在では生物学と関連科学の進歩により、無数の証拠が生物学、生化学、遺伝学、分子生物学、古生物学、比較解剖学などの分野から山積され、ちょうど上に例としてあげたエイズの病因に関する議論と同じように、進化を科学的方法に基づいて研究する人々にとっては、たとえ事実そのものを観察できず100パーセントではないにしても、事実として確立されている。

これに対し、進化がどうして起こったのか、そのメカニズムはどうなのか、に関しては現在でも完全に確立されているとは言えない。このことは、進化を全く説明できないということではない。確かに幾つかの進化の理論、たとえば自然選択説、突然変異、隔離、遺伝子の機会的浮動、などは多くの進化の現象を説明できた。しかし、それでは説明できないことも出て来るために、別の理論が提出されていく。ちょうど重力を説明するためにニュートンの理論がアインスタインの理論によってより完全になったのと似ている。なお、科学者は確立された事実でも、理論でも、それらが100パーセント正しいと教条的になることはない。科学者はいつもより新しい事実と理論を求めて実験と観察を続け、古い理論を正していこうとする姿勢を根底に持っている。この科学の本来の性格である不確定性を指摘して、それだから科学の事実も理論も不完全で信じられない、すなわち宗教的な教えと科学の事実が食い違う時は不完全な科学の事実を捨てるべきである、という考えは、本来次元の違う宗教と科学を意図的に混同させて、信者を真剣な科学的検証から遠ざける詭弁でしかない。

『創造』の本の一つの問題は、この事実としての進化と、進化の理論とを巧みに混同させて、進化の理論が不完全であることが進化そのものの否定になると教えていることである。これはあたかも、ニュートンの重力の理論が不完全であるから、リンゴは木から落ちることはない、と言っているのと同じ事なのだが、大多数のエホバの証人とその研究生は、この滑稽とも言える混同に気がついていない。科学者でなくとも、われわれは日常的に不確定不完全な情報に基づいて多くの正しい判断を下している。たとえば私の友人が東京から電話してきて、彼が今東京にいるが、彼は私にどのようにして東京に来たかを教えない。私は昨日の朝、ポートランドで彼に会っている。彼は一日のうちにポートランドから東京へ移動したのだ。これだけの不完全な情報からどれだけのことが結論できるであろうか。進化に関する証拠が不完全だから進化はないと信じる人の論理は、私の友人が飛行機に乗ったという情報はないから、彼は天使によってポートランドから東京に運ばれたに違いないと結論するのに似ている。しかしそれだけしか結論できないであろうか。私は上に述べた不完全な情報から次のような多くの事を結論できる。まず、私は彼が船に乗って行ったのではないことがわかる。どのような船に乗ってもポートランドから東京へ一日で移動することはできない。次に私は彼がどのような航空会社を使ってどのような経路でポートランドから東京へ飛んだかわからないが、それでも彼が飛行機に乗って東京へ行ったことだけは確実であると結論できる。なぜなら、今の時点で一般人が(そしてたとえ軍の関係者でも)ポートランドから東京へ一日で移動できるのは飛行機以外に方法がないからだ。

これに対して、『創造』の本の著者のように進化を否定する人々の議論は次のようになる。「あなたは彼が飛行機に乗ったのを見たことはない、あなたはどの航空会社のどの便に乗ったかを示すことができない、あなたは彼が船に乗らなかったという証拠を示すことはできない、従ってあなたの言う、彼が飛行機でポートランドから東京へ移動したという結論は間違っているかもしれない。それに対して神は何でもできる。従って彼は神によって天使を使って一晩のうちにポートランドから東京に移動させられたに違いないことは確信できる真実である」。この例は確かに現実には起こらないことであろう。なぜならわれわれはエホバの証人も含めて常識的に上のような不完全な情報から多くの結論を出して大きな過ちを犯すことはないからだ。しかし残念なことに進化の問題になると、不完全な情報がたちまち現実を離れたとんでもない結論に飛躍するのである。以下、この記事では、『創造』の本の具体的な内容を検討していく。


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