ものみの塔宗教と進化論

第1章 生命―それはどのようにして始まったか

第一章では、この本がどのような態度で進化と創造を検討しているかを述べている。

*** 創 9 1 生命―それはどのようにして始まったか ***
生命の起源に関する種々の問題点を考える際,多くの人は一般に広まっている見解や感情に動かされがちです。こうした傾向を避けて,正確な結論を得るためには,実際の証拠を,偏見のない態度で考察することが必要です。
ここで読者は「実際の証拠を、偏見のない態度で考察することが必要」であることを教えられている。『創造』の本全体を通じて、この態度は実際に守られているであろうか。ものみの塔協会が教えるように、ここで実際の証拠を偏見なく見てみよう。
*** 創 9 1 生命―それはどのようにして始まったか ***
また,最もよく知られた,進化論の唱道者チャールズ・ダーウィンでさえ,自分の説の限界に気づいていたことを示しており,それも注目すべき点です。「種の起源」の結びの中で,ダーウィンは,「幾つもの機能を持つ生命が,当初は創造者によって幾つかの,もしくは一つの形態の中に吹き込まれた」とする壮大な見方について記し,こうして,起源の問題がさらに検討されるべきものであることを明らかにしていました。3
ここでは、最初の『創造』の本の引用の欺瞞が示されている。ダーウィンはどのような前後関係で上の言葉を述べたのだろうか。この引用は「種の起源」の一番最後の段落であり、岩波文庫からその部分を引用し、『創造』の本の引用した部分を下線で示す。
 いろいろな種類の多数の植物によっておおわれ、茂みに鳥は歌い、さまざまな昆虫がひらひら舞い、湿った土中を蟻虫ははいまわる、そのような雑踏した堤を熟視し、相互にかくも異なり、相互にかくも複雑にもたれあった、これらの精妙につくられた生物たちが、すべて、われわれの周囲で作用しつつある法則によって生みだされたものであることを熟考するのは、興味ふかい。 これらの法則は、もっともひろい意味にとれば〈生殖〉をともなう〈成長〉、ほとんど生殖のなかに含まれるとしてもよい〈遺伝〉、生活の外的条件の間接および直接の作用によって生じる、また用不用によって生じる〈変異性〉、〈生存闘争〉を生じさせまたその結果として〈自然選択〉をおこさせ、〈形質の分岐〉と改良の劣った種類の〈絶滅〉とを随伴する、高い〈増加率〉である。このようにして、自然のたたかいから、すなわち飢餓と死から、われわれの考えうる最高のことがら、つまり高等動物の産出ということが、直接結果されるのである。生命はそのあまたの力とともに、最初わずかのものあるいはただ一個のものに、〈造物主〉によって吹きこまれたとするこの見かた、そして、この惑星が確固たる重力法則に従って回転するあいだに、かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつあるというこの見かたのなかには、壮大なものがある。

ダーウィン著・八杉龍一訳 進化論(下)岩波文庫261頁

ここで前後関係を読めば直ぐにわかるように、ダーウィンは確かに「創造者」あるいは「造物主」という言葉を使ってはいるが、決して生命が創造者によって吹き込まれたことが壮大な見方であると言っているのではなく、彼の「種の起源」で論じた進化の現象を要約して、「かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつある」その現象が壮大であると言っているのである。もちろんダーウィンはこの19世紀半ばの時代には、他のほとんど全ての人と同じように「創造者」の存在は信じていたわけで、彼のこの言葉は、彼の進化の理論がいかに創造者の存在と調和していると考えていたかを示すものに過ぎない。彼は創造者が造った「単純な発端」から生命の幾つもの機能が発展してきたことを壮大であると感動しているのである。この前後関係には『創造』の本が述べるような、ダーウィンが「自分の説の限界に気づいていた」ことを示す言葉は一切語られていないし、彼が「創造者によって・・・吹き込まれた」ことが壮大であると言っているのでもない。
*** 創 9 1 生命―それはどのようにして始まったか ***
5 これらの見解の前に敗退しているのは,いわゆる「科学的創造論者」です。それらの人たちは,創世記にある創造の記述に対する自分たちの解釈にしたがって,地球の年齢はわずか6,000年で,創世記が創造の期間としている『六日』の各一日は24時間であったと唱えています。しかし,そのような考えは,聖書の述べている事柄を正確に伝えているでしょうか。地球,およびそこに住むすべての生物は,文字どおり六日のうちに造られたのでしょうか。それとも,それに代わる,筋の通った別の見方がありますか。
ここで興味あることは、ものみの塔協会が、「科学的創造論者」は聖書の述べている事柄を正確に伝えておらず、自分たちの見方こそが「筋の通った別の見方」であることを示唆していることである。ここで言う「科学的創造論者」とは、「若い地球創造論者」(Young-earth Creationist)と言われ、上の引用にもあるように、地球はわずか6,000年前に作られたという説を唱えるファンダメンタル(根本主義)・クリスチャンの一派であり、その中には自称科学者も含まれている。後で見るように、『創造』の本はこれらの「若い地球創造論者」の書いたものを随所に引用して、ものみの塔独自の創造論を『創造』の本の中で繰り広げているのだ。もちろん、ものみの塔協会は、自分たちの引用がこれらの「大いなるバビロン」と蔑視するファンダメンタル・クリスチャンからのものであることを明らかにしていない。しかし、聖書の解釈が間違っているとするこれらのキリスト教世界の主張を流用して、自分たちの創造論に関する聖書解釈の正当性を主張するのは、正直な態度であろうか。少なくとも『創造』の本の主張を支える大部分の引用は、ファンダメンタル・クリスチャンに源を発していることを読者に明らかにすべきではないのだろうか。
*** 創 10 1 生命―それはどのようにして始まったか ***
科学が論争点ではない

7 論議を進める前に,問題をはっきりさせておくのが良いでしょう。すなわち,科学の業績がここで論点となっているのではありません。

*** 創 10 1 生命―それはどのようにして始まったか ***
進化論を受け入れている人々は,創造は科学的ではないと論じます。しかし,公正に見て,進化論そのものも真に科学的だろうか,という点が問われるでしょう。

ここでは、『創造』の著者すなわちものみの塔協会が「科学」をどう扱っていいか、混乱に陥っている様子がわかる。一方では科学の業績がここで論点となっているのではない、と言いながらもう一方では、「進化論そのものも真に科学的だろうか,という点が問われる」、として進化論の科学性を批判している。実際『創造』の本の多くの部分は、進化が科学的でないことを示すことに力を注いでいる。『創造』の本に一貫して見られる態度は、科学的であることすなわち正しいこと、非科学的であることすなわち間違ったこと、という単純な見方である。その結果、『創造』の本はいかに創造論が科学的であり、進化論が非科学的であるかを示すことに力を注いでいる。しかし、科学者の多くは創造が科学的でないから間違いであるなどとは主張していない。科学者は、創造は宗教であり、進化は科学であり、この両者は全く異なった次元で論じられるべきであると考える。本来宗教概念である創造を科学の方法で分析・検証しようとするのはお門違いであるし、同様に厳密に科学の概念である進化を、宗教の見方で批判しても、これまたお門違いなのである。『創造』の本の根本的な欠陥は、この二つの異なる次元の概念を、意図的にもまた無意識のうちにも、混乱させて論じている所にある。
*** 創 10 1 生命―それはどのようにして始まったか ***
8 ここで,幾つかの語の定義をはっきりさせておくことも必要でしょう。この本の中で扱う進化とは,生物進化のこと,つまり,最初の生物体は無生の物質から発生したという理論のことです。次いで,生殖の過程を通してそれは様々の種類の生物に変化し,そのようにして,人間を含め,かつて地上に生存したあらゆる生命形態が生じた,とされています。そして,このすべては,何ら知的な導きや超自然的な介入なしに成し遂げられた,と信じられています。
ここで明らかなことは、『創造』の著者すなわちものみの塔協会が、進化を「生物進化のこと,つまり,最初の生物体は無生の物質から発生したという理論」と定義していることである。すでに「進化に関する用語と概念」のページで述べたように、このような「理論」を生物進化と定義する一般書も、生物学の専門書も存在しない。『創造』が述べている定義は「生命の起源論」(abiogenesis)であって進化とは別の次元の問題である。生命の起源に関する理論は確かに沢山あり、宇宙の起源と同じように新しい知見を取り入れて、新しい理論が作られつつあるが、確定した説はないと言ってよい。宇宙の起源、地球の起源に関する理論と同じように、実験に基づいて検証することは困難であり、地球にどのようにして最初の生命が生じたかは、進化とは別に大きな研究と議論の課題である。この「理論生物学」とでも言える分野と、生物学者が日常のように観察して研究している進化とを一緒にして論じるなら、結論は現実離れしたものとなるだろう。

『創造』の著者による進化の定義の後半の部分、「生殖の過程を通してそれは様々の種類の生物に変化し,そのようにして,人間を含め,かつて地上に生存したあらゆる生命形態が生じた」は、確かに一般書で扱われている進化の概念であるが、先に述べたように、これも生物学の定義とは異なる。生物そのものが変化するのでなく、生物集団の中の遺伝子頻度が様々な理由により変化する結果、異なった性質の生物集団がそれ以前の生物集団にとって変わることが進化と定義されている。決してサルが人に代わったわけではなく、サルも人もそれ以前の生物集団に代わって出てきたに過ぎない。いずれにしても、『創造』の著者の進化の定義は、科学者が扱っている進化とは異なるものであり、従ってその議論が現代の科学を正しく論じることができないのは当然と言える。

第2章 進化をめぐる意見の不一致―なぜ?

*** 創 15 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
注目すべき点として,チャールズ・ダーウィンの書,「種の起源」が1859年に出版されて以来,その説の各部分については,一流の進化論学者の間でさえ,少なからぬ意見の食い違いが続いてきました。今日,その論争はこれまで以上に激しいものとなっています。
第二章では、『創造』は進化をめぐる意見の不一致を取り上げて、いかに進化の科学的基盤が確立されていないかを示そうとしている。ここでは、「進化に関する用語と概念」のページで説明した、事実と理論とを混乱させて読者を欺く手法が使われている。それは科学現象をして確立された事実である「進化」と、その進化の現象を説明する「進化の理論」とを区別せずに論じることである。確かに進化の理論に関しては意見の食い違いがあり、実験と観察の繰り返しに基づいて、新しい理論が古い理論に常におき代えられている。しかし、この状況は進化に限らず、どのような科学の分野でも日常のように行われている。これに対し、「進化」という現象が存在することは、科学者が観察して検証できる事実であり、この現象の存在に関しては意見の食い違いは存在しない。『創造』の著者は、「進化のメカニズムをめぐる意見の不一致」とせずに「進化をめぐる意見の不一致」とすることにより、進化そのものに学者が一致していないような誤った印象を巧みに読者の心に植え付けているのだ。
*** 創 15 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
攻撃の対象とされる進化論

4 科学雑誌「ディスカバー」は今日の状況をこのように述べました。「進化論は……根本主義のクリスチャンから攻撃されているだけでなく,名の通った科学者たちからも異論を唱えられている。化石の記録を研究する古生物学者の間では,ダーウィン説に対する一般的な見方とは異なる見解が次第に広がっている」。1 進化論者で,「キリンの首」という本の著者であるフランシス・ヒッチングはこう述べています。「生物学の重要な統一原理として科学界に広く受け入れられているにもかかわらず,1世紀と4分の1を経たダーウィン説は,驚くほどの困難にぶつかっている」。2

ここで日本語版の見出しの訳は「攻撃の対象とされる進化論」となっているが、英文版の原本は「Evolution under attack」となっており、つまり「攻撃の対象とされる進化」と訳さなければならない。また引用文の主語は「進化論は」と訳されているが、英語版の原本は、主語が「進化は」(Evolution)となっており、「進化論は」と和訳するのは正確ではない。日本語訳の段階で再度「進化」と「進化論」が更に混乱していることを示している。この「ディスカバー」誌の引用文の前後関係を読んでみるとすぐにわかるが、異論が唱えられているのは進化が事実か否かの問題ではなく、進化のスピードに関する意見の不一致を述べていることがわかる。次にこの「ディスカバー」誌の記事の前後を訳し、『創造』の本が抜き出して引用した部分を下線で示す。
1989年に発表されたチャールズ・ダーウィンの見事な進化の理論は、科学と宗教の思想に驚くべく影響を与え、人間の自分自身に対する見方を永久的に変えてしまった。しかし今や、この神聖と見られていた理論には、根本主義のクリスチャンから攻撃されているだけでなく、名の通った科学者たちからも異論を唱えられている。化石の記録を研究する古生物学者の間では,ダーウィン説に対する一般的な見方とは異なる見解が次第に広がっている。 ・・・・ほとんどの論争の中心は、進化の30億年の過程が一定の緩やかなペースで起こったか、それとも長い不活動の期間の中に短期間の急速な変化が断続的に起こったのか、という鍵となる疑問である。進化はウサギか、カメか、という疑問だ。広く受け入れられているダーウィンの見方、すなわち進化はゆっくりと這うように進んできた、という見方はカメを支持する。一方、アメリカ自然史博物館のナイルズ・エルドリッジとハーバード大学のジェイ・グールドの二人の古生物学者は、ウサギに賭けている。

James Gorman, "The Tortoise or the Hare?," Discover, p. 88, October, 1980.

ものみの塔協会が知らせない、「ディスカバー」誌の引用の前後を見れば、議論の対象は進化そのものでなく、進化のスピードに関する意見の違いに言及しているに過ぎないことがわかる。エルドリッジもグールドも、進化そのものには何らの疑問も持ってはいないのだ。しかし、『創造』の上の引用を読むだけで、実際の記事も、これらの科学者の見方も知らないエホバの証人は、あたかも「名の通った科学者」たちが進化を「攻撃の対象」にしているような印象を持ってしまう。

その次に出て来るヒッチングの引用に関しては、このウェブサイトの別の記事ものみの塔協会の権威者とは ― 第二部:『生命』の引用をめぐってで詳細に紹介してあるのでそちらを参照してほしい。一言だけここで紹介するなら、ヒッチングは「進化論者」でも「科学者」でも「権威者」でもなく、ただダーウィン説に対する批判を出版している「評論家」に過ぎない。

これ以下、「攻撃の対象とされる進化(論)」が述べている攻撃の対象は、進化ではなく、ダーウィンの提出した進化のメカニズムについての理論なのだが、一般の読者はこの違いがわからず、進化そのものが攻撃されているのだ、という印象を持ってしまう。

*** 創 17 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
起源をめぐるジレンマ

10 生命がどのように生じたかという問題について,天文学者ロバート・ジャストローはこう述べました。「[科学者たち]が残念に感じる点であるが,明解な答えはない。化学者は,無生の物質から生命を創始する自然の過程を再現する実験に一度も成功していないからである。科学者たちは,そのことがどのように起きたのかを知らない」。彼はさらにこう述べました。「科学者たちは,生命が,創造という行為の結果ではない,という証拠を持っていない」。

この「起源をめぐるジレンマ」という部分ではまず、10節から13節にかけて天文学者ロバート・ジャストローを引用し、あたかもジャストローが進化に疑問を持っているような印象を読者に与える。ジャストローが実際進化に対してどのような見方を持っていたかは、以下に引用するが、その前に目や脳のような複雑な器官が「方向づけのない偶然の要素」によって作られるはずがないことを11節で述べたあと、12節でダーウィンを引用して、こう書いている。
*** 創 18 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
12 ダーウィンもこれが難問であることを認めていました。例えば彼はこう書いています。「目が[進化]によって形成されたとするのは,率直に告白すれば,極めてばかげた考えに思える」。以来1世紀以上がたちました。その難問は解決されましたか。
ダーウィンは本当に目が進化によって形成されたとするのは馬鹿げた考えと思っていたのだろうか。再び『創造』の本の知らせない、前後関係を見てみよう。
 さまざまな距離に焦点をあわせ、種々の量の光をはいるようにさせ、球面収差や色収差を補正する、あらゆる種類の無類の仕かけをもつ目が自然選釈によってつくられたであろうと想像するのは、このうえなく不条理のことに思われる、ということを、私は率直に告白する。太陽は静止し世界はその周囲をめぐると最初にいわれたときには、人類の常識はそれを誤りであると宣言した。だが『民衆の声は神の声』(Vox populi, vox Dei)という古いことわざは、哲学者ならだれも知っているように、科学では信ずることはできない。だが、理性が私に告げるところによれば、もしも完全で複雑な目からきわめて不完全で単純な目にいたる数多い漸次的な段階が存在し、しかも各段階はその所有者にとって有用であることが示されるなら、またもしも目がつねに軽微な変異をし、たしかに実際にそうであるようにその変異が遺伝するものであれば、そしてさらに、変化する生活条件のもとである動物に有用であるなんらかの変異あるいは変化が器官に生ずるものであるなら、完全で複雑な目が自然選択によって形成されたと信ずることの困難は、たとえわれわれの想像ではうちかちがたいものであっても、学説をくつがえすものとは考えられないのである。いかにして神経が光に感じるようになったかということは、いかにして生命が最初に生じたかということよりももっと、われわれにとって当面の問題ではない。しかし、いくつかの事実は感覚性の神経のあるものが光を感受するようになり、また同様に音を生じる空気の比較的粗い振動を感受するようになったと推量させるということは、いってもさしつかえないであろう。

ダーウィン著・八杉龍一訳 進化論(上)岩波文庫242頁

ここでは、ものみの塔協会の欺瞞の二つの典型的な例を見ることができる。『創造』の著者は、「目が[進化]によって形成されたとするのは,率直に告白すれば,極めてばかげた考えに思える」として進化という言葉をカギ括弧に入れて引用に付け加えているが、実際、ダーウィンの原本は「進化」ではなく、ここに「自然選択」という言葉が書かれていた。これを意図的に「進化」という言葉にすりかえたのは、まさしく『創造』の著者(ものみの塔協会)が自然選択に関する議論を進化に関する議論にすりかえて読者を欺くことを意図的に行ったとしか考えられないであろう。

もう一つの欺瞞は、もちろんここでダーウィンが言おうとしていることの正反対の結論を『創造』の著者は読者に示していることだ。ダーウィンはここで目が自然選択によって作られたということを常識で想像するのは、太陽の周りを地球が回るということを常識で想像するのと同じように「極めてばかげた考えに思える」と述べているのだ。しかし、彼の文章全体を読めばわかるように、ダーウィンは「目が自然選択によって形成されたと信ずることの困難は、たとえわれわれの想像ではうちかちがたいものであっても、学説をくつがえすものとは考えられないのである」、すなわち直感ではばかげた考えと思えても、理性では充分ありうることだ、と結論しているのである。これに対し、『創造』の引用では、ダーウィンが本当に、目が自然選択によって形成されたと考えることはばかげたことだと信じていたような印象を読者に与える。ダーウィンの実際の主旨を正反対に捻じ曲げた引用と言えるであろう。

*** 創 18-19 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
12 むしろ逆に,目に関してダーウィンの時代以後知られるようになった事柄は,それがダーウィンの理解していたよりずっと複雑なものであることを示しています。そのため,ジャストローはこう述べました。「目は設計されたもののように思える。どんな望遠鏡の設計者でも,これほどにはできなかったであろう」。10

13 目についてこのように言えるなら,人間の脳についてはどうでしょうか。単純な機械でさえ偶然による進化ではできないのですから,それよりほとんど無限に複雑な脳がそのようにしてできたということを,どうして事実とすることができるでしょうか。ジャストローはこう結論しています。「人間の目の進化を偶然の所産として受け入れることは難しい。人間の知性の進化を我々の祖先の脳細胞の中における無作為の分断の所産と見ることはさらに難しい」。

ここでは、先に述べたジャストローの引用が使われている。ここで『創造』の引用をそのまま素直に読めば、ジャストローは目の形成や脳の機能の発達は進化の結果と理解することは困難であると考え、進化を事実とすることは難しいと考えていた、と読める。しかし著名な天文学者ジャストローは進化に関して本当にそのような疑問を持っていたのであろうか。次にジャストローの引用の前後を紹介する。下線の部分が『創造』の引用した部分である。
ダーウィンの時代の多くの人々は、「デザイナーなしにデザインはできない」と言った神学者ウィリアム・パーリーに合意していた。・・・化石の記録は恐竜が消滅した時代に、小さな哺乳類たちがクジラや象などの他の多くの種類の哺乳類に進化したことをしめしているが、誰も小さな動物がクジラや象に変化するのを見たものはいない。これらの特別な変容を示す証拠は間接的であり、化石の記録の中に埋もれている。・・・そして最後に偶然の役割がある。もしダーウィンが正しければ、人間は過去40億年の間に次々に起きた偶然の出来事の重なりの結果できたことになる。これが真理でありうるだろうか。このような素晴らしい知性と精神を持った人間が、地球のちりから偶然だけで作られたのだろうか。人間の目の進化を偶然の所産として受け入れることは難しい。人間の知性の進化を我々の祖先の脳細胞の中における無作為の分断の所産と見ることはさらに難しい。

私自身のこの疑問に対する見方は不可知論的であり、ダーウィンの見方と近い。・・・人間の出現に至るこの歴史は明らかに方向性があるのに、それでもそれを見出せないのだろうか。科学者はこの疑問に関して答えを知っているように感じやすいが、彼らのこの件に関する知識の完全さへの自信は正当性を欠くものかもしれない。

一方、進化に関する証拠への科学者の信頼も当然のことと思われる。進化を支持する化石の証拠は、今やほぼ完全である。・・・全ての歴史の証拠と同じように、人間が動物に祖先を持つという証拠は状況証拠ではあるが、しかしその累積された証拠は圧倒的な説得力を持つ。進化の事実には疑いは挟めない。

この人間に至る長い過程が、宇宙の目的や計画の表現であるかどうか、という疑問は、私にとっては人間の理解を超えた問題であり、少なくとも科学の範囲を超えた問題であると思われる。科学者たちは、創造から人間の出現に至るまでの出来事の流れについての興味ある物語を語ることができるが、宇宙の最初と最後についての疑問と同じように、目的や計画のより大きな質問に関しては、科学は答えを持たないのだ。

Robert Jastrow, The Enchanted Loom: Mind in the Universe, pp. 97-101, Simon and Schuster, New York, 1981.

ここで、『創造』は再び引用の欺瞞を行っている。ここでわかるように、ジャストローは「進化の事実には疑いは挟めない」とはっきりと述べ、その上で進化のメカニズムに関して「偶然」あるいは「無作為」の結果であることに困難を表明しているのだ。『創造』はここでも再び読者を「進化」と「進化の理論」との間で混乱させて、科学者が考えてもいないような結論に、読者を誘導しようとしている。
*** 創 19-20 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
化石をめぐるジレンマ

14 過去の生物の幾百万片もの骨その他の証跡が科学者たちによって発掘され,それらは化石と呼ばれています。進化が事実であったのなら,それらすべての中に,一つの生物が別の種類の生物へと進化してきたことを示す豊富な証拠があるはずです。しかし,米国のシカゴ自然史野外博物館の「館報」はこのように注解しました。「ダーウィンの[進化]説は常に化石の証拠と密接に結び付けられてきており,たいていの人は,生物史のダーウィン的解釈を支持する一般的論議の非常に重要な部分を化石が支えている,と考えるであろうが,残念なことに,厳密に言うと,それは真実ではない」。

15 これはなぜでしょうか。その「館報」はさらにこう述べています。「[ダーウィン]は化石の記録に当惑させられた。それは,彼が予言したのとは違って見えたからである。……地質学の記録は,当時も今も,ゆるやかな漸進的進化を示す,わずかずつの連鎖的変化の形跡を提出してはいない」。事実,1世紀以上にわたって様々な化石が収集された今日,「我々が持つ,進化的推移の例はダーウィンの時代よりさらに少ない」と,「館報」は説明しています。12 なぜでしょうか。今日入手しうる,より豊富な化石の証跡は,進化を説明するためにかつて用いられていた標本のあるものが今では決してそのようにはみなされないことを示しているからです。

この14、15節では、米国のシカゴ自然史野外博物館の主事であるデービッド・ロープが書いた博物館「館報」を引用して、あたかも化石が進化の事実を支持していないと考えているかのような印象に読者を誘導しようとしている。しかしここにも、ものみの塔協会のあからさまな欺瞞が隠されている。デービッド・ロープの書いた原本を紹介し、ものみの塔協会が『創造』の本の中に選択的に引用した部分を下線で示す。
ダーウィンの自然選択の説は常に化石の証拠と密接に結び付けられてきており、たいていの人は、生物史のダーウィン的解釈を支持する一般的論議の非常に重要な部分を化石が支えている、と考えるであろうが、残念なことに、厳密に言うと、それは真実ではない。われわれは生物の時間を経た変化として定義される事実としての進化と、その変化の説明とを区別しなければならない。ダーウィンの自然選択の理論を通しての貢献は、どのようにして進化の変化が起こったかを示唆することであった。地質学の記録に見られる証拠は、われわれが期待する程にはダーウィンの自然選択説と一致していない。ダーウィンはこのことに完全に気がついていた。彼[ダーウィン]は化石の記録に当惑させられた。それは、彼が予言したのとは違って見えたからである。その結果、彼は「種の起源」の大きな部分を使ってこの違いを説明し、理由付ける試みを行った。幾つかの問題があったが、その主要なものは、地質学の記録は、当時も今も、ゆるやかな漸進的進化を示す、わずかずつの連鎖的変化の形跡を提出してはいないということだ。言い換えれば、中間移行形が充分に存在しないということだ。

David M. Raup, "Conflicts Between Darwin and Paleontology," Field Museum of Natural History Bulletin, pp. 22-3, Chicago, January 1979.

ここに見られるものみの塔協会の欺瞞は、原文が「自然選択の説」(theory of natural selection)とある所を、勝手にカギ括弧を使って[進化](evolutution)という言葉に置き換えていることである。しかもその欺瞞の悪質さは、ロープの原文のすぐ次の文章を読めばますます明らかになる。何とロープ自身が次の文章で、「事実としての進化と、その変化の説明とを区別しなければならない」と重大な警告を発しているにもかかわらず、その部分を引用せず、こともあろうにこのロープの警告と正反対に、意図的に進化と進化の理論の一つである自然選択の説とを混同させているのである。上に引用したように、ロープは事実としての進化になんらの疑問も持っていない。問題にしているのは、ダーウィンの自然選択説、特にゆるやかな漸進的変化を支持する地質学的証拠が少ないことから、ダーウィンの進化についての説明に問題があることを述べているのだ。そのことと、進化の事実に疑問を持つことは根本的に異なる問題であるのに、ものみの塔協会は読者に対し、あたかもロープが進化の事実に疑問を持っているかのような、誤った印象を与えようとしているのだ。

また、上の『創造』の引用を見ると、あたかもロープは中間移行形が全く存在しないと言っているような印象を受ける。しかし、引用の直ぐ後の文では、ロープは「中間移行形が充分に存在しない」と言っており、全く存在しないと言っているわけではないのだが、『創造』はこの部分は引用しない。実際、中間移行形の化石は数は少ないが発見されている。ここで最も重要なことは、ものみの塔の主張する全ての生物は初めから今の形に作られ変化しなかったという創造論では、このような中間移行形は一切存在しないはずであり、創造論こそが化石の記録とあわないことであるが、その点は一切述べられていない。

ロープの引用の問題はこれだけでは済まない。同じ20頁の挿し絵には、三つの古生物、エオヒップス、始祖鳥、肺魚の絵の上に大きなバツ印がつけられ、次の説明文が書かれている。

*** 創 20 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
「化石の記録における,ダーウィン説的な変化の古典的実例とされてきたもののあるものは……より詳しい情報の結果として捨てられたり,修正されたりしなければならなかった」ハ―米国,シカゴ自然史野外博物館,デイビッド・ロープ

ここに引用されたロープの原文の前後を読めば、この引用も実に無責任な引用であることがわかる。

さて、ダーウィンから120年経った現在、化石に関する知識は大いに増大した。われわれは現在、約25万種の化石の生物種を持っているが、しかしそれでも状況は大きく変わってはいない。進化の記録は未だに驚くほどに断続的であり、われわれが持つ、進化的推移の例はダーウィンの時代よりさらに少ない化石の記録における、ダーウィン説的な変化の古典的実例とされてきたもののあるもの、たとえば北アメリカにおける馬の進化などは、より詳しい情報の結果として捨てられたり、修正されたりしなければならなかった。比較的少ない資料しかなかった時には簡単で見事な進行に見えたものが、今ではより複雑ではるかに漸進性の少ないものに見える。つまり、ダーウィンの問題はこの120年間に解消の方向に向かっていない。われわれは変化の推移を示す記録を持つが、それは自然選択の最も論理的な帰結とは考え難い。また、恐竜や三葉虫などの大々的な絶滅も未だに大きな謎だ。

David M. Raup, "Conflicts Between Darwin and Paleontology," Field Museum of Natural History Bulletin, p. 25, Chicago, January 1979.

この引用を見てわかるように、ロープはこの挿し絵に描かれている古生物を論じてはいない。彼はただ北アメリカにおける馬の進化について言及しているに過ぎない。彼は恐竜から鳥への進化や、肺魚の進化については全く言及していない。この説明文はあたかも、ロープがこれらの化石の古生物の存在を、バツ印で示されるように否定しているような印象を受ける。これらの三つの古生物に関しては多くの議論があるが、その存在は学会で完全に否定はされていない。そして何よりも、ロープは化石の記録と自然選択説による緩やかな変化とは一致しないという問題点を指摘しているだけで、これらの古生物の存在を否定しているのではないのに、読者にあたかもロープがこれらの動物を否定しているような間違った印象を植え付けている。実際、ロープは私信の中で、彼がこのようなものみの塔の欺瞞的な引用に迷惑していることを表明し、彼はこれらの古生物の存在には何の疑いも持っていないことを述べている。

確かに、21頁の16節に行くと、「漸進的な進化」、「ゆるやかな進化」という言葉を引用しているが、ここまでの『創造』の議論を読んでくれば、どれだけの読者が、学者の不一致が進化のメカニズムに関する理論に関してのものであって、進化そのものに関してのものではない、ということを理解できるであろうか。ここまで読んでくれば、大部分の読者は「進化」がすなわち「漸進的な進化」、「ゆるやかな進化」であって、進化そのものが化石によって裏付けられていない、という印象を持つのであり、それがものみの塔協会のねらいなのだ。

*** 創 22 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
21 どちらの説が唱えられるとしても,ある種類の生物が別の種類の生物に変わってゆくことを示す何らかの証拠が当然あるはずです。ところが,化石の記録の中に見られる様々な型の生物相互の差,また今日地上にいる様々な型の生物相互の差は依然としてはっきり存在するのです。
ここでは、引用の欺瞞ではなく、ものみの塔の事実と論理の欺瞞が見られる。事実の欺瞞は、化石の記録の中に、生物種の変化の過程を示すものが見つかっている、という事実を知らせていないことだ。理論の欺瞞は、ものみの塔の他の出版物の議論と同じように、ここでも典型的な単純二者択一議論が使われていることだ。基本的に『創造』の本の読者は二つの選択しか与えられていない。一つは19世紀半ばに出されたダーウィンの進化の理論か、もう一つは聖書の創造の記述か、その二つの選択しか与えられていない。もちろん、ダーウィンの理論は今では大きく見直され、実際に会わないことも多くある。従ってものみの塔の単純二者択一議論に従えば、聖書の創造しか信じられなくなってしまう。しかし、ダーウィンの古典的な理論以外にも、多くの可能性や事実がそれ以後山積しているのだ。しかし、ものみの塔は、常に読者にそれらの多くの可能性を考えさせない。

その典型は、この22頁の21節によく現れている。ものみの塔は、「ある種類の生物が別の種類の生物に変わってゆくことを示す」化石の記録がなければ生物の変化はなかった、という単純な結論に読者を導こうとしている。ここでの欺瞞は、どうして化石の記録が見つからないかの簡単な理由を読者に知らせないことだ。それは生物が化石として残る可能性は全ての時代を通して非常に稀なことである、ということだ。もしその生物の生きていた物理化学的環境が化石の形成に適していなければ、化石は全く残らずその生物の存在の痕跡は一切残らない。このような稀にしか起こらない記録によって変化を推測するなら、変化の過程をすべて記録できなくとも全く不思議はないのだ。

ここで簡単な例を挙げて、ものみの塔の欺瞞を指摘してみよう。われわれがチューリップの球根を鉢に植えて、毎日一回ずつ写真を撮ってその成長を記録すれば、確かにチューリップの球根が小さな芽になり、次に成長して、最後に花をつける、全ての過程を見ることができる。しかし、もしあなたが写真のフィルムが手に入らず、あなたは球根の時の写真を撮った後、二ヶ月後に花がついて成長したチューリップの写真しか撮れなかったとしたらどうだろうか。ものみの塔によれば、球根からチューリップの花に変わっていく過程の写真がないから、球根とチューリップは全く別の生物である、という結論になる。そこには、フィルムが充分にあって、毎日写真が撮れたら全く別の結論に達する可能性がある、ということは全く考えられない。

*** 創 23 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
23 そのため,ハーパーズ誌の中で,著述家トム・ベテルはこう述べています。「ダーウィンは自分の説の土台を削り取るほどの誤りを犯していた。ところがそれは最近になってようやく誤りとして認められるようになった。……確かにある生物は他の生物より『適して』いるかもしれない。……もとよりこれはその生物の創始に資するものではない。……このような概念に何か非常に大きな間違いのあることは明らかだと思う」。ベテルはさらにこう述べました。「わたしの見るかぎり,結論はかなりの衝撃となる。すなわち,ダーウィン説はまさに崩壊の瀬戸際にあると思う」。
ここでも、「崩壊の瀬戸際」にあるのはダーウィンの理論であると述べているのだが、22節の直ぐ後にこの23節を置くことで、進化の概念そのものが「崩壊の瀬戸際」にあるような印象を与え、進化と進化の理論との決定的な違いを明らかにしていない。なお、「著述家トム・ベテル」は、9頁5節で述べられている、聖書の述べている事柄を正確に伝えていないはずの「科学的創造論者」の一人であるが、そのことは全く言及されていない。
*** 創 23-4 2 進化をめぐる意見の不一致―なぜ? ***
24 進化論がかかえる未決の難問の幾つかを要約して,フランシス・ヒッチングはこう述べました。「その決定的な試験となる三つの分野において,[現代の進化論]は失格している。すなわち,化石の記録は,漸進的変化というよりは進化の飛躍という型を明らかにしている。遺伝子は安定を保たせる強力な仕組みであって,その主要な機能は新しい形態に進化するのを防ぐことにある。分子レベルにおける無作為の段階的突然変異は,生物体の組織的な複雑さ,およびその複雑さが増してゆくことの説明とはならない」。―下線追加。

25 次いでヒッチングはこのように結論しました。「努めて穏やかに表現したとしても,それを教える人々の間にあってさえ様々な疑問に囲まれている進化の理論を疑問視するのは当然許されることである。ダーウィン説が真に生物学の重要な統一原理であるとすれば,それは異常なほど大きな無知の領域を包み込んでいることになる。それは,無生の化学物質がどのようにして生き物となったのか,遺伝暗号の背後にどんな文法律があるのか,遺伝子はどのようにして様々な生物の形態を形造ってゆくのかなど,最も根本的な疑問の幾つかに説明を与えていない」。事実ヒッチングは,現代の進化論は「極めて不十分で」,自分はそれを「信仰の問題として扱うべきもの」とみなしている,と述べています。

ここでも再び超自然現象や心霊現象の信奉者であるヒッチングが引用されている。ものみの塔はヒッチングを例によって「権威者」として使って「現代の進化論」の攻撃に使っている。しかし、ここにも幾つかの欺瞞が潜んでいる。まず第一の欺瞞は、遺伝子の「主要な機能は新しい形態に進化するのを防ぐことにある」という言葉だ。これは生物学の基本概念と反する。遺伝子の主要な機能は遺伝形質を生物の一つの世代から次の世代に伝えることであり、「進化を防ぐ」ことではない。確かに遺伝子には自己修復機能が備わっているが、それでも突然変異は日常的に起こっていることは、生物学者の一致して知る所である。第二の明らかな欺瞞は、「ダーウィン説が真に生物学の重要な統一原理である」として、それを攻撃しているが、現代の生物学者は誰もダーウィン説が「生物学の重要な統一原理」とは考えていない。ダーウィン説は生物学の古典的な説の一つに過ぎない。第三の欺瞞は、ダーウィン説が「無生の化学物質がどのようにして生き物となったのか,遺伝暗号の背後にどんな文法律があるのか,遺伝子はどのようにして様々な生物の形態を形造ってゆくのかなど,最も根本的な疑問の幾つかに説明を与えていない」ことを理由として攻撃していることだ。ダーウィンは決して「無生の化学物質がどのようにして生き物となった」かを説明しようとはしなかった。その説明を与えていないのは当たり前である。また、ダーウィンの時代には「遺伝暗号」については何も知られていなかった。これも説明を与えていないのは当たり前であり、そのことをもってダーウィン説が「極めて不十分で」あると攻撃するのは全くお門違いなのだ。

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