聖書が述べる「終わりの日のしるし」とは何なのか?

イエスの言葉の真意は何か

聖書が「終わりの日」について述べている時、本当にその「しるし」によって人々が前もってその到来を知ることができると書いているのだろうか。歴史的に見ると、人類の歴史のほとんど、どの時代においても、人々は自分が「終わりの日」にいると信じるに足る証拠を見出してきた。そしてその予想は例外なく、失望に終わっている。それではその理由は何なのであろうか。

それは、人々がイエスの語った戦争、飢饉、疫病、地震などについての言葉を、イエスの意図したことと正反対に解釈しているからに他ならない。マタイ24:4から24:14までのイエスの言葉を注意深く読むなら、これらのイエスが語った「艱難」は、「終わりの日」が来る前に起こらなければならないことではあるが、弟子たちが尋ねた「しるし」ではないことを示している。イエスが弟子に教えたことは、これらの「艱難」は終わりの日が来る前に起こらなければならないことではあるが、「終わりの日のしるし」ではなく、むしろ人々を惑わせるものであるという警告であった。イエスはこう語っている。

「だれにも惑わされないように気を付けなさい」。(マタイ24:4b)

「あなた方は戦争のこと、また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです」。(マタイ24:6)

本ウェブサイトの他の記事において、このイエスの警告が正しく的中してきたことを歴史的に見てきた。歴史上の全ての時代にそれぞれ、戦争、飢饉、疫病、地震があったが、それらはことごとく、「終わりの日のしるし」ではなかったのだ。

イエスの語る他の警告も、これらが「終わりの日のしるし」ではないことを明白に示してきた。マタイ24章と平行するルカ21章にはこう書かれている。

「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て、『わたしがそれだ』とか、『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません。(ルカ21:8)

人類の歴史を振り返ると、今の現在を含めて、何時の時代にも「イエスが来た、終わりが近づいた」という人々が現れている。イエスは次の節に見るように、この現象もまた終わりのしるしではないことを警告しているが、歴史はその警告の正しさを証明してきた。

さらに、戦争や無秩序な事態について聞いても恐れおののいてはなりません。これらはまず必ず起きる事だからです。しかし、終わりはすぐには来ないのです」。(ルカ21:9)

現代において、「イエスが来た、終わりが近づいた」と告げまわる、エホバの証人も含めた多くの人々の活動もまた、このイエスの警告通りの、人々を「惑わす」現象に過ぎないのだ。

もちろん、真のクリスチャンはフィリピ3:20、ペテロ第二3:12などに書かれているように、キリストの再来を熱心に待ち望むものである。しかし、「熱心に待ち望む」ことがすなわち、つじつまを合わせた年代計算をして年の予想を立てたり、その時代の「しるし」を自分の期待にそうように捻じ曲げて解釈して、あたかも「その時」を知っているかのように「時が来た」と触れ告げることとは同じではない。イエスはその説教の中で、彼の再来の日と時間は誰も全く知らないことを述べている。この情報はイエスに最も近い弟子たちにさえ、明らかにされていなかったのである。(マタイ24:42、44;マルコ13:33,35)

実際の所、聖書を先入観なく虚心担懐に読むなら、マタイ24:35から25:13の主題であり、繰り返し強調されているテーマは、キリストの再来が、いつ起こるかを予想することがいかに不可能であり、それが突然予想もせずに起こるが故に、常に目覚めてその用意をしておくように、ということであることがわかる。

イエスはもちろん、彼の再来の「しるし」そのものについても語っている(マタイ24:30)。しかしその「しるし」は、実際にはキリストの再来と余りに近接して起こるため、その時点でどのような用意を始めても、すでに遅すぎるのである。それゆえ、イエスは十人の処女のたとえ話の中で、常に用意しているように教えているのである。

それでは「用意をする」とは、年代計算をしたり、世界の出来事を自分の都合に合うように解釈して、「終わりの日のしるし」として触れ告げることであろうか。そうではない。マタイ24:45以下のイエスのたとえ話によれば、用意をするとは、主人が予告無しに帰ってきた時に、主人に是認されるような奴隷の生き方をすることである。この主人の帰宅は、あたかも罠が突然閉じる(ルカ21:34−36;ローマ13:12;テサロニケ第一3:12)かのように、突然に起こるがゆえに、常に用意していなければならないのだ。

もう一つイエスが語った再来の真の「しるし」の特徴は、ルカ21:30に述べられているように、それが誰の目にも明らかなことである。この「しるし」を知るには特別な「研究」などする必要はないのである。

間違った期待がもたらすもの

イエスのこのような警告にもかかわらず、そしてイエスの予告通り、その後の歴史は、年代計算やその時代の「しるし」を解釈して「その時を知っている」と告げる人々が常に出てきたことを示している。ある人々や団体はこれらの解釈を使って、キリストの再来のはっきりした年や「異邦人の時」の終わりの年を予告した。これらの無数の預言はことごとく見事に外れたが、このことはイエスの警告「そのような者についていくな」(ルカ21:8)が、いつの時代にも当てはまることを歴史的に実証している。これらの「預言者」たちは例外なく人々を惑わし、それらの人々についていくことはことごとく、大きな失望に終わるのだった。

それでは、歴史的にいつの時代にも繰り返される、根拠の薄い実現性のないこのような予告の効果はどのようなものであろうか。一般の人々はこのようないい加減な予告を繰り返し聞かされることにより、神の言葉自体に疑問を持つようになる。一方、「知っている」と信じる人々は根拠のない安心感と自信を得て、この情報を知っている自分たちだけは特別な団体であるという意識を抱き、狂信的な行為に走るのである。彼らは自分たちの健康、結婚、出産、家庭、教育、就職などに関して盲動的な決断を下すようになる。イエスの「そのような者についていくな」という警告が、いかに適切に当てはまるかがわかるのである。

もう一つの「終わりの日」の予告がもたらす問題は、マタイ24:48の奴隷のたとえ話に指摘されている。このたとえ話では、主人の帰りが遅れることを知った奴隷が、それまでの間に勝手な行動を始める。そしてこのたとえ話では、このように主人の帰宅時期を予想する奴隷は「よこしまな奴隷」とされ、主人はこの奴隷の予想に反した時期に帰宅して、彼を厳しく罰するであろうとされている。これに対して「忠実な奴隷」は主人の帰りを知りもしなければ予想も立てないので、常に主人の命令を何時でも忠実に守っているのである。

チャールズ・ラッセルの「終わりの日のしるし」の見方

この世界の歴史の中で常に繰り返される戦争、飢饉、疫病、地震などが、「終わりの日のしるし」ではなく、「終わりの日」を惑わすものであるという聖書の解釈は、実はものみの塔の宗教の創始者である、チャールズ・テーズ・ラッセルによりすでに指摘されていた。彼の著書、「聖書研究」第四巻、1916年、566頁には次のように書かれている。

このようにして、われわれの主は、世俗の歴史を手短に要約し、弟子達にはキリストの再臨と栄光の王国がすぐに来るという期待を持たないように教えた。そしてそれは何と適切なことだっただろう。確かに世界の歴史は戦争と、欺きと、飢饉と、疫病の話ばかりで、他のことはほとんどない。

残念なことに、ものみの塔協会は、この後、この創始者の解釈を放棄してしまった。第一次世界大戦とスペイン風邪の流行という、当時の人々を圧倒させるセンセーショナルな出来事の前に、イエスの冒頭の警告を忘れ去り、これらの出来事に見事に「惑わされて」しまったのだった。

イエスが「艱難」を取り上げて警告を与えた本当の理由

それでは何故イエスは特に、戦争、飢饉、疫病、地震などを取り上げて、「終わりの時のしるし」ではないという警告を与えたのであろうか。この疑問に対する答の鍵は、一世紀当時の正統派ユダヤ人の間に信じられていたメシアの到来に対する差し迫った期待にある。当時のユダヤ人は、栄光と共にメシア到来し、イスラエルを救済する時には、このような艱難が共に来ると一般に教えられていたのだ。イエスの弟子たちは、当時のユダヤ人の間に広められていた、このメシア到来の「しるし」に馴染んでおり、イエスに対して「しるし」を尋ねた時、このような一般に広められていた「しるし」が共通の概念としてあったのだ。

イエスのこれに対する答えは、キリストの再来のしるしは、当時のユダヤ人の間に広まっていた「しるし」とは異なるものであるということであった。イエスは、これらの艱難は「しるし」ではなく、ただの始まりに過ぎないというものであった。

これらすべては苦しみの陣痛の始りです。(マタイ24:8)

すなわち、イエスはこれらの艱難が、その時から将来のイエスの再来の時までの歴史の中で続くことを予告し、それらは「終わりの時」の前奏曲に過ぎないことを教えたのだ。そして現実の人類の歴史は、まさにイエスの予告通りであったことを証明している。