デービッド・リード著
村本 治 補・訳
神を第一にした若者たち
昔、多くの若者は神を第一にしたために死にました。 今でも若者たちは神を第一にしていますが, 今日では輸血を争点として, 病院や裁判所を舞台にドラマが繰り広げられています。 (「目ざめよ!」1994年5月22日号2頁)
この「目ざめよ!」誌、1994年5月22日号の表紙に出ている、これらの可愛げなたくさんの子供達の顔写真は何を意味するのでしょうか?中の記事を読めばすぐに、これらの子供達はものみの塔協会の輸血禁止の教えを守って死んでいったことがわかります。
少なくとも26人の子供達の顔が見つけられるこの合成写真の最前列には、特に可愛げな三人の子供が写されています。中央にいる15才のエイドリアン・イェイツは1993年9月13日に死にました。カナダ・ニューファンドランドの最高裁が彼を「成熟した判断能力のある未成年者」と認め、児童福祉局の要請した裁判所命令による輸血治療を却下したからです。左側の12才のリネイ・マルティネスは1993年9月22日にカリフォルニアで死にました。バレー子供病院の倫理委員会が彼女を「成熟した判断能力のある未成年者」と認め、裁判所の命令を求めないことに決めたからです。
右側に写っている12才のリサ・コサックは「自分がどんなにひどい怪我をするとしても,懸命に闘い,静脈注射装置のポールを蹴り倒し,その装置を引き裂いて,血の入った袋に穴を開けます」(13頁)と脅かして輸血を拒否し、カナダ・トロントの子供病院で死にました(日付は記されていない)。
この「目ざめよ!」誌の表紙の集合顔写真はニューヨーク・ブルックリンのものみの塔協会にある写真合成装置で作られたものにちがいありません。この三人の子供の他に23人の可愛い子供達の顔写真が背景を埋めていますが、これらの子供達の名前やどのような子供達かは記事には載っていません。しかし記事を読めば、その意図は、この最前列の三人と同様に「神を第一にし」て血液による治療を拒否して死んでいった子供達であることが明らかになります。
この「目ざめよ!」誌の主要記事である「神を第一にした若者たち」は5月22日号の最初の15頁を占める大きな記事です。エイドリアン、リネイ、リサ、の三人は、他のエホバの証人の子供達が見習うべきヒーローとして取り上げられているのです。他のどのエホバの証人の子供でも同じですが、これらの子供たちは親から,病院のベッドの上で死ぬよりは、「一層ゆゆしい危険、つまり血の誤用に同意することによって神の是認を失うという危険」を恐れるように、親から教えられてきました。そしてその親たちは皆、ものみの塔協会の教えを忠実に守っているのです。1991年6月15日号のものみの塔誌15頁には次のように書かれています。
子供が幼くても成人に近い年齢であっても,賢明な親は自分の子供たちとこうした問題について復習することでしょう。親は一人一人の若者が判事や病院関係者が尋ねる可能性のある質問に直面するという設定で,練習の場を設けることができます。
つまりこれらの子供達は、エホバの証人の親たちによって、教義を頭に植え付けられ、対応の仕方を練習により仕込まれているのです。
実質上すべてのエホバの証人の若者達は、多かれ少なかれこのような訓練をうけます。しかしこれらの子供達がすべてその訓練を実行に移すわけではありません。一体どのくらいの数の子供達が、これを実行して死に急いでいるのでしょうか?この「目ざめよ!」誌は「過去において、何千もの若者は神を第一にして死にました。今でも若者たちは神を第一にしていますが, 今日では輸血を争点として, 病院や裁判所を舞台にドラマが繰り広げられています(1994年5月22日号2頁) 《訳者註1》」と書かれています。しかしこの文章がどの「過去」を指しているのか,また輸血を争点として今日でも何千の若者が死んでいるのかについては書いてありません。
今日、大部分の病院や裁判所は、エホバの証人の成人が血液製剤を拒否する場合は、たとえそれが死につながることがあっても、これを認めています。一方患者が乳幼児や小児の場合は、医師はほとんどの場合、裁判所の指示を仰いでいます。しかし、ものみの塔協会は医療関係者や法曹界に対して、12才から17才の間の子供たちは「成熟した判断能力のある未成年者」として死を選ばせるように働きかけています。その結果このような係争は後を絶たないのです。
裁判所は多くの場合、どのようなことをしても血液治療を拒もうと決意している子供に直面し、板挟みになります。ある子供達、特に十代の前半の子供達は、単に家庭や会衆で繰り返したたき込まれ、練習させられた議論を繰り返しているにすぎません。一方、他の子供達は完全な説得を受け、自分自身の気持ちとして、血液を受けることは間違いで不道徳であると確信させられています。いずれの場合でも、彼らは禁じられた血液製剤を受け入れれば、仲間の前に恥さらしになり、親からは勘当され、組織からは懲罰を受けることを何よりもよく知っているのです。
しかし、どうしてこれらの親たちは愛する子供達を、組織の教義という祭壇の上に犠牲として捧げようとするのでしょうか?組織の部外者が,このエホバの証人の、病院や裁判所での不自然な行動に不審を感じても,答えの得られることはまれです。なぜなら,特別に訓練されたエホバの証人の長老で構成される「医療機関連絡委員会(Hospital Liaison Committee)」が迅速に介入し、ものみの塔組織の立場を患者と家族の立場とならべて訴えるからです。これらの長老は、患者の権利とか個人の良心といった一般論を使って訴えますが、その際は決して、秘密裏に開かれるものみの塔協会審理委員会がこの子供の両親を審理ににかけて、血液拒否の掟に服従させることは言及されません。医師や判事は多くの場合、証人たちに行われている、連日の教義の説得の過程を知りません。
新約聖書の中でイエスは、病人を安息日に癒したことに対する反対にあった時、自らの生命に関わる事態に対しては、彼の反対者でさえ、もっと緩やかな宗教的規制をとるであろうと知っていました。それゆえ、イエスはパリサイ人に対してこう尋ねたのです。「あなた方のうち、自分の息子や牛が井戸に落ち込んだ場合、安息日だからといってこれをすぐに引き上げない人がいるでしょうか」。(ルカ14:5 新世界訳)これと並列する質問をエホバの証人の親にするなら「あなた方のうち、自分の息子が血を流して死にかけている時、すぐに輸血をしない人がいるでしょうか」。しかしそれでも、エホバの証人は次から次へと子供たちの命を、自分たちの命と同様、この組織に捧げ続けるのです。
端から見るものにとって、テキサス州ウェイコのカルトの砦で80人近くの信者が焼死した事件や、ガイアナのジョーンズタウンで1000人近い信者がジム・ジョーンズの指示により毒をあおって死んだ事件は、一時的にせよ注目を集めました。私たちはとかく、世の中には常に狂信的な人たちはいるものだと考え、これらの事件を忘れがちです。確かに、百人、千人の人たちが一つの場所でそろって狂信的な行動を行えば、少なくともその時だけは世間は注目するものです。この点で、エホバの証人のやっていることは注目を受けにくいのでしょう。彼らはウェイコやジョーンズタウンで死んだカルトのメンバーと同じくらい献身的な信仰をもっていますが、どこか離れた所に集まって住んでいるわけではないからです。世界中で約千二百万人の人々がエホバの証人の集会に参加しています。そして彼らは私たちの近所に住み、同じ店で買い物をし、私たちの子供たちと同じ学校に子供たちを送っており、私たちと並んで職場にいるのです。しかし一方で彼らは、静かに彼らの与えられた組織の仕事を、私たちの間で繰り広げているのです。そしてその仕事は時限爆弾のように確実に、次の犠牲者を出す引き金となっているのです。
ものみの塔の出版物は1930年代から1940年代にかけて、予防接種を繰り返し非難していました。その理由は医学的に見て効かないだけでなく有害であること、聖書から見て道徳的に間違っていることがあげられました。もちろんこの、聖書に反する行為という見解はエホバの証人にとって決定的な力をもっていました。ものみの塔の組織は「予防接種は大洪水の後、神がノアと結んだ永遠の契約の直接的な違反である」(「黄金時代」[目ざめよ!誌の前身]1931年2月4日293頁)と明言していました。
このため、エホバの証人は自分たちや自分の子供たちに予防接種が行われるのを拒否し続けました。学校の入学に種痘が必要とされていた場合は、エホバの証人に好意的な医師に頼んで、子供の腕に酸を使って印しをつけてもらい、あたかも子供が予防接種を受けたかのように見せかける親もいました。更には偽の予防接種証明書を作り上げるエホバの証人の親さえいました。《訳者註2》しかしものみの塔は1950年代の前半に急に方針をくつがえして予防接種を認めたのです。そして現在では予防接種は病気を予防するのによいものだとして推奨されているのです。
エホバの証人は1967年11月15日号の「ものみの塔」で、新たな医療上の指示を受けました(日本語版1968年4月1日号222頁)。そこでは「読者からの質問」の欄で、ブルックリンにある組織本部から出された新しい掟が次のように示されています。「人肉を食べること、生体、死体を問わず別の人間のからだまたはからだの部分によって自分の命を支えることは、... それはすべての文明人が忌み嫌う人食いの行為です。」従って、神に許されていない、というものです。この記事では臓器移植は「結局のところ人食いに等しいものである」と言い切っています。
この宣告は実質上、エホバの証人が臓器移植の手術を受けたり臓器を提供することを禁じることになりました。腎不全におちいっているエホバの証人は自分の生命を長らえるために腎臓移植を受けられなくなり、視力を喪失しつつあるエホバの証人は角膜移植を受けられなくなりました。骨髄、皮膚、その他どのようなものであろうと、別の人間から取り出されたものを医療行為の一環として受け入れることはエホバの証人に一切禁じられたのです。この臓器移植禁止は、輸血禁止とともに当時の病院に収容されたエホバの証人の生死を決定したのでした。
しかしこのものみの塔協会の臓器移植禁止の教えは13年間しか続きませんでした。1980年、この教えは静かに取り除かれました。1980年3月15日号31頁(日本語版1980年6月15日号31頁)では「聖書は特に血を食べることを禁じてはいますが、他の人間の組織を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません」と書かれています。《訳者註3》更に、より最近のものみの塔の出版物では角膜移植は人々を助ける処置であると記されています(「目ざめよ!」1989年8月22日6頁)。
エホバの証人の子供たちははこの問題に限らず、日々の生活の中で、他の子供にはない重荷とストレスを背負わされています。他のクラスメートが国旗に敬礼して、国歌をうたい、誕生日を祝い、バレンタインカードを交換し、放課後の課外活動に参加するとき、エホバの証人の子供たちは自分自身の判断と、組織の硬直した規則の板挟みにあいます。ある子供たちは素直に組織の規則に従いますが、ある子供たちは裏表のある二重生活を送るはめになります。そしていずれの場合でも内面での葛藤に苦しむのです。
両親がともにエホバの証人である子供たちは、常に証人である心理的圧力を感じて生き続けます。その圧力は、集会において正しい答えをそらで言えるようになることから始まり、野外奉仕においていかに沢山の文書を売りさばくかまで、多岐にわたります。また、片方の親がエホバの証人でなかったり、離婚した非信者の親と面会を通じて接触する子供たちの場合は、いかにこの非信者の親が悪魔であるサタンに属する人間で、ハルマゲドンで神の手によって処刑され、惨殺されるかを何度も聞かされます。
これらの子供たちに救いの手を差し伸べようと思い立った場合、そこに立ちはだかるのは、法的規制や職業倫理であり、これらにより、いかにあなたがこれらの子供たちに同情しようとも、やれることは限られてしまうのです。しかし、いくつかのことはあなたでもすぐに出来ます。これらのことを心に留めて実行して下さい。