エホバの証人と祝日


 クリスチャンと称する宗教団体の中で信者にクリスマス、復活祭、誕生日、母の日等を祝うことを否定するものはいくつかあります。エホバの証人はその典型と言えるでしょう。この祝日を否定する背景にある根拠は何なのでしょうか。祝日を祝うことは間違っているのでしょうか。エホバの証人は次の三つの理由を挙げています。

  1.  祝日は普通、異教の非キリスト教の起源があり、しばしばみだらな習慣、泥酔、不品行などと結びついている。

  2.  聖書の中で祝日が言及されているのは否定的な状況、例えば誰かが殺されたことなどとの関連だけである。そして私たちが祝うように命令されているのは主の晩餐だけである。

  3.  祝日は何かの物や人を崇拝するが、聖書は「偶像崇拝から避けなさい」、「私たちはこの世の一部ではない」と書いてある。

クリスマスについてはこれに付け加えて、キリストは12月25日に生まれたのではないのだから、太陽神崇拝者によって祝われていた冬至の日に当たる日に何故これを祝うのか、という理由も挙げられています。

エホバの証人に対する答え

祝日反対理由第一:祝日は普通、異教の非キリスト教の起源があり、しばしばみだらな習慣、泥酔、不品行などと結びついている。

 多くの祝日が異教の習慣や偶像崇拝に起源を発していることは否定できません。しかし私たちが行っている他の多くの習慣もまた異教の習慣に発しています。そのよい例はカレンダーで、曜日や月の名前は異教の神の名前に基づいてつけられています。結婚記念日の祝いや結婚式の時の指輪の交換も異教の起源があります。現代の商業で使われている商標や絵柄、壁紙などのデザインはよく異教の起源をもつ美術作品から借用されています。それでは私たちは修道院か閉鎖された自分たちだけの社会に閉じこもって、全ての異教の名残のあるものを注意深く選別して取り除かなければならないのでしょうか?

 このような態度はパリサイ人の態度を思い起こさせます。彼らは長い時間をかけて何が「清い」何が「汚れた」かを議論し、それに基づいて規則を作り、あたかもその規則を守ることで清くなれるかのように人々にそれを守らせたのです。誰でもちょっと時間をかけてかれらパリサイ人が作った習慣を調べてみれば(たとえばその多くは後にタルムードに収められている)、全てのことを事細かに掘り起こして、何が「正しい」か、何が「間違い」か、と決めていることが、いかに馬鹿らしいかに気がつくでしょう。しかし一方、もし本当に神が全ての異教の習慣を忠実に取り除くことを私たちに要求している(例えばそれを守らなければわれわれは罰せられるというように)と真剣に信じているのなら、ちょうどパリサイ人と同じように、私たちもその生活の中から、全ての異教の習慣の痕跡のあるものを取り除く絶え間ない監視を続けるべきでしょう。全ての痕跡を取り除かずに途中で手を抜くのは偽善的ではありませんか?

 ものみの塔誌はこれに対し次のように述べています。(1)デザインや象徴はたとえ過去において異教の偽りの崇拝に使われたとしても、それ自体を使うことは悪いことではない。(2)ある事物が過去において何を意味したか、あるいは今日でも地球の別の場所では何を意味するかを心配することは時間の無駄であり、不必要な不安を引き起こす。(「目ざめよ!」1976年12月22日12−15頁、「ものみの塔」1972年5月15日295頁)

 ものみの塔協会の一貫性の無さはここにも明らかです。なぜなら現在西欧諸国で祝われている祝日の全てがほとんど元の異教の意味を失っているからです。ここにクリスマスを例にとってみましょう。キリストの時代のずっと以前から、異教徒は12月25日、すなわち冬至(太陽が地球から最も離れている時)に太陽を崇拝していました。全ての異教の祝日がそうであるように、これは無礼講でみだらな行いが許される時でした。紀元336年頃カトリック教会が12月25日をキリストの誕生を祝う日として決めた時、これは三世紀にアウレリアヌス大帝が導入したソリス・インヴィクトゥスの祭りに代わるものでした。この当時これはキリスト教の異教に対する勝利を意味していました。後になって聖ニコラス(サンタ・クロース)の記念と贈り物の習慣が教会の歴史の発展の中で付け加えられました。

 ものみの塔協会の論理からすると、私たちが考えなければならない質問は、私たちにとって今のクリスマスの持つ意味が昔の異教徒にとっての意味と同じであるかということです。私たちは現代のこの世界で12月25日に太陽を崇拝しているでしょうか?答えはいいえです。確かに多くの人々がこの時を誤用したり自分の都合のよいように利用していますが、そのことをもってクリスチャンの持つクリスマスの考えに反対する理由にはなりません。ものみの塔協会の言う通りキリストは12月25日に生まれなかったかも知れませんが、祝いが必ずしもその実際の日付に行われなければならないという決まりはありません。私たちの大部分ば歴史的な日付と違う日に祝日の休暇をとりますが、その習慣を悪いとは考えないではありませんか。

 復活祭はこれに比べるとより教会に関係した歴史があります。元をたどると、初期のキリスト教会は現在の復活祭に当たる祝い(キリストの復活)を、主の再来を待ち望んで毎週日曜日に行っていました。後になると、受難と復活の話にちなんで、この記念日はユダヤ教の過ぎ越しの祭り、すなわちエジプトからの脱出を記念する日と合わせて行われるようになりました。そして325年のニケア会議においてこの祝いの日は最終的に、春分の日の後の満月の日の次に来る最初の日曜日と決定されたのです。八世紀には「イースター」という名前がアングロサクソン系の人々からキリスト教の祭りの名前として導入されました。この名前そのものは多産の女神であるアスタルテの祭りからとってきたものでした。同じ時にアスタルテの祭りから借りてこられたものにウサギと玉子の使用があります。この両者ともに多産の象徴として異教の文化の中でよく使われていました。

 確かに復活祭は教会の歴史と異教の文化の事物がつきまとってはいますが、その祝日の意味は現代では大きく変わっています。元来の復活の祝いを守った時と同様、現在では私たちはウサギや玉子を多産の祈願とは関係付けませんし、大部分の人は復活祭を、みだらな行いが特に増える日とは考えていません。テレビ番組でさえこの時にはキリスト教をテーマにしたものを放送しています。


祝日反対理由第二:聖書の中で祝日が言及されているのは否定的な状況、例えば誰かが殺されたことなどとの関連だけである。そして私たちが祝うように命令されているのは主の晩餐だけである。

 ものみの塔協会は、聖書の中で誕生日のことが書かれているのは二カ所であると教えていますが、実際には三カ所においてその記載があります。ファラオの誕生日(創世記40:20)、ヘロデの誕生日(マタイ14:6)の他に、他でもないキリストその方の誕生が、天使により歌と栄光の中で祝われているのです(ルカ2:10−14)。

 この他、聖書の別の二箇所において、誕生の日が肯定的な調子で描かれています。一つはヨブ記1:4で、新世界訳によると次のように書かれています。

そして、その息子たちは行って、自分の日に各々の家で宴会を催し、人をやって、その三人の姉妹をも招いて一緒に食べたり飲んだりした。(ヨブ1:4、新世界訳)

 ここに出てくる「自分の日」については、エホバの証人の「洞察」の本の「誕生日」の項目を見ると、この「自分の日」のヘブライ語は、ただの「日」(yome-Str 3117)をさしていて、ファラオの誕生日の記述で使われているヘブライ語(yawlad yome-Str3205,3117)と異なることから誕生日のことを指してはいない、と教えています。しかし、この記事が指摘していないのは、これに続くヨブ記3:1で、再び全く同じ表現である「自分の日」が出てくることです。ここではやはりyome-Str 3117が使われており、1:4と同じ使い方、同じ意味です。しかし、この「自分の日」は何を意味するでしょうか。それに続く3:3を読めばそれは明らかです。

ヨブが口を開いて自分の日に災いを呼び求めたのは、その後のことであった。さてヨブは答えて言った、「わたしの生まれた日は滅びうせるように。また、『強健な者が宿された!』と、だれかの言ったその夜も。(ヨブ3:1−3、新世界訳)

 このように3:1に見られる「自分の日」(yome-Str 3117)は「生まれた日」(yawlad yome-Str3205,3117)と同なじ意味で使われているのです。従って、ものみの塔の「洞察」に書かれている「自分の日」が誕生日を意味しないという主張は全く通用しないことがわかります。一章に描かれたヨブが「自分の日」に宴会をやっていた当時、彼は「とがめなく、廉直で、神を恐れ、悪から離れていた」神に是認された人でした。

 もう一カ所、聖書が誕生を喜ばしく記述しているのは、ルカ1:14に書かれているバプテスマのヨハネの誕生です。

 ものみの塔がの聖書の中これらの箇所で非常に喜ばしく、意義深く描かれている誕生日を無視しているのは、聖書の中の誕生日はみな否定的であるという彼らの立場を危うくすることを恐れるご都合主義なのです。

 ものみの塔はまた、聖書が祝日を祝うように命じていないから、われわれはそれに関係すべきではないと主張します。これは次の二つの理由から誤った思いつきと言えます。第一に、イエスも使徒たちも、現代の祝日を今あるような形で言及するはずがありません。そのようなものはその当時全く存在しなかったからです。その当時ユダヤ教の祝日はみな国をあげての宗教祭日でした。キリスト教徒がこれらを祝うことはキリストの再臨と律法の廃止の後でさえ許されていたのです(コロサイ2:16、17)。ものみの塔協会は使徒パウロを背教者として扱わなければなりません。なぜならパウロは特別の日を守るか守らないかは個人個人にかかっていると言っているからです(ローマ14:5、6)。パウロはまた、古い律法が過ぎ去った後もその古い習慣の一部を守っていたのです(使徒13:14、15;21:20−26)。


祝日反対理由第三:祝日は何かの物や人を崇拝するが、聖書は「偶像崇拝から避けなさい」、「私たちはこの世の一部ではない」と書いてある。

 キリストを崇拝することは新約聖書によれば正当なことです。天使たちがキリストを崇拝しただけでなく(ヘブライ1:6)、全ての被造物は天と地において彼を崇拝しました(啓示5:13、14)。更に私たちは彼を、父と同じやりかたで敬うべきです(ヨハネ5:23)。キリストを崇拝することはどのような時にでも正当であり、これはクリスマスも復活祭も例外ではありません。

 誕生日に関して言えば、人々は一般に、友達や子供たちを誕生日の日に崇拝したりはしません。ある日にある人に対して特別のことをしてあげること、あるいはある人がその日には特別だと思うことが何がいけないのでしょう?ある人を特別であると思うことと、その人を崇拝したり偶像化したりすることとは全く違うことです。エホバの証人は一般に自分たちの結婚記念日を祝いますが、これは結婚の誕生した日を祝うことです。きっとエホバの証人の考えでいけば、結婚記念日であろうとなかろうと、夫婦はお互いに特別な人と考えるべきではないのでしょう。もしかしたら彼らにとっては結婚自体がよくないことかも知れません。なぜなら夫婦はともにお互いを特別な人と考えてしまう危険性があるではないですか!

 現代の世の中でキリストの誕生を祝うことで「つまづく」人はわずかでしょう。この例外は、エホバの証人のように自分たちを規則づくめで縛る人たちでしょう。使徒パウロは、規則づくめで他の人のつまづきになる宗派の人々について、自分自身の判断をあてはめませんでした(ローマ14:21)。なぜなら規則づくめに人を縛ること自体が神の怒りをかったからです(ガラテア5:1−4)。


偶像崇拝に関する真の問題点は何でしょうか

 モーセの律法は神の性質を理解し、神がいかに転びつつある人間と関わっていくかを理解する上での大事な手がかりとなります(ガラテア3:24)。この同じ原理は偶像崇拝や偽りの崇拝において使われた物体についての理解でも使われるべきでしょう。偶像崇拝は心の問題なのです。崇拝に使われる物体、例えばロザリオの数珠玉とか、星の印とか、マリアの像とか、そのもの自体が悪なのではありません。人が偶像崇拝をしているかどうかは、人がそれらの物体で何をするか、それらの物体をどう見るかにかかっているのです(申命記11:16;ヨブ31:26−28)。旧約の時代にはイスラエル人たちは一般的に心が鈍っていてこの真理を理解できませんでした。彼らは天にも地にもどのような像を作ることも許されませんでしたし、彼らのまわりの異教徒と社会的な交流をしたり、びんの毛を切ったり、異邦人と食事をしたり、多くのことが禁じられていました。

 それではどうしてクリスチャンたちはこのような律法の数々から開放されたのでしょう?それはクリスチャンたちが神の律法(それは実は律法の根元にある原理ですが)を彼らの心の中に刻み込まれたからです(エレミア31:33;第二コリント3:3;ヘブライ10:16)。彼らは真の偶像崇拝は心の問題であることを認識したのです。そうであるなら、物理的な物体との接触を避けることは問題の解決にはなりません。むしろキリストの力により内側から自分の心が常に新たにされ、全ての形の偶像崇拝、社会的地位への愛着、財力、権力、人気と言ったモーセの律法に言及されていないものも含めた全ての形の偶像崇拝を克服しなければならないのです。

 クリスチャンが偶像崇拝を違った角度から見るなら、物体や象徴物は私たちに何の力も持たなくなります。私たちはどのような物体をも恐れるべきではありません。悪魔そのものでさえ、私たちに何かの影響力を持つかのように考えて恐れるべきではないのです。私たちはただ、神のみを恐れるべきです(列王紀下17:35−41)。

 使徒パウロは偶像は意味がないいということに関してはきわめて明快です(第一コリント8:4)。偶像は、あなたが恐怖や迷信にかられて特別の意味づけをしない限り、あなたに対して何の力もありません。もしあなたがその物体を恐れるなら、その物体はあなたに対して力を持ち、間違いなく悪魔はそれを利用するでしょう(申命記7:16)。聖書は、死への恐怖を通して人は一生その奴隷になると言います。しかし、今やキリストが私たちのために死んだ後では、キリストは、悪魔とその恐怖を引き起こす物体をクリスチャンにとって無力なものとしたのです(ヘブライ2:14、15)。

 このことはものみの塔協会にとっては実は致命的な衝撃なのです。彼らはキリストを、恐怖と死にうちかった勝者として見ません。むしろ彼らは、、悪魔を思い起こさせる可能性のある実に全てのものを、十字架を、占い板を、霊媒者を、医者を、元エホバの証人を、怖がるのです。このようなものを単なる物理的な物体として、あるいはこのような人たちを単に「惑わされた」人々として見るのでなく、彼らはわざわざ努力してそれらの人々や物体との接触を避けようとするのです。この姿は聖書に出てくる宗教指導者で、「邪悪なもの」あるいは偶像崇拝に関係するものからの汚れを恐れていた人たちを思い起こさせませんか(マルコ7:1−23)。

 イエスはまた、あなたの食べるものがあなたの霊性に影響を与えないことを教えました。パウロにいたっては、偶像の祀ってある寺院へ行って偶像に捧げてある肉を食べたとしても彼の健康や霊性に何の影響も与えないと言っています。しかしパウロは、信仰の弱いある人々にとっては、そのような肉を食べることによりそのような肉の捧げられた偶像の神の存在を信じ、良心が朽ちていくことがある、とも言っています(第一コリント8:7)。もしパウロがこのような物体や偶像崇拝に関する儀式をパリサイ人のように、あるいは現代のエホバの証人のように見ていたら、彼は決して偶像の祀ってある寺院には近づかなかったでしょうし、そこで祭壇に捧げてある肉そのものを食べることなど思いもよらなかったでしょう。このことは、ハロウィーンの祭りで「いたずらかお菓子か」の遊びに参加するのとはくらべものにならないくらいの大きな問題となったことでしょう。これはたとえて言えば、サタンの崇拝者の会食に参加して一緒に食事をするようなものでしょう。しかしそれでもパウロにとっては、教会の信仰の弱い人たちのつまづきにならない限り、これらのことは何の恐れも、心配もいらないことだったのです(第一コリント8:9−13)。もし教会全体が強い信仰を持っていれば、彼ら全員で地元の偶像寺院のレストランで会食をしたって構わなかったことでしょう。このことはキリスト教の、悪魔とその世界に対する圧倒的な勝利を示すものだったのです(ルカ10:18−20、使徒26:18)。

 エホバの証人の人々がキリストにおける自由を見ることが出来ないことは不幸なことです。ちょうど昔のパリサイ人と同じように、彼らは祝日、物体、特定の人々、に対する恐怖と規則で縛られて生きているのです。彼らが、パウロのコロサイ人にあてた手紙の中に述べた根本原理を理解してくれることを望んでやみません。

 あなたが伝統的な祝日を祝おうと祝うまいと、そのことで神に良いことをしたとか悪いことをしたとか考えるべきではないでしょう。本当に大事なことはあなたが心を尽くして神を愛することであり、あなたの隣人を自分のように愛することなのです。祝日などの事柄に関して宗教規則に縛られるのは、パウロも言っているように、誇りと霊的な退行をもたらすでしょう。 キリストにあって成長するということは、この罪深い世の中で自由に生き、しかもその偶像崇拝の習慣に影響されないということを意味するのです。


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