1)はじめに
2)指導体制の変化
3)繰り返される教義の変更
4)ものみの塔協会の内部での変化
5)エホバの証人の社会の内部での変化
6)ものみの塔宗教の今後を占う
7)終わりに
エホバの証人の宗教は、その出版物が頻回に述べているように、「光が増す」ことにより、漸進的に変化していく宗教である。現時点でこの宗教にどのような変化が起こりつつあるかを分析することは、一般的に言って、現代史を書くことの困難さと同じ難しさを持っている。現在の動きの本当の歴史的意義は、今後十年以上たってから、この時期を歴史的に振り返って初めて分かることであろう。細かな動きの積み重ねが、より大きな動きとなるわけだが、それぞれの時点ではその大きな動きを読みとることは非常に困難である。ここでは、この困難を承知の上で、筆者のものみの塔宗教の研究を元にした、1997年中期での現状分析と今後の展望を解説したい。
1992年12月22日に第四代会長、フレデリック・フランズが99歳の高齢で死んだ後、12月30日に当時の副会長で当時72歳の、ミルトン・ヘンシェルが第五代会長として就任した。ヘンシェルも第三代目の生粋のエホバの証人として、ほとんどその一生をブルックリンの本部で過ごした一人であった。このヘンシェルが、前会長のフランズと比べてどれだけ独自の路線を出すかが注目された。ヘンシェルは統治体の内部でも、保守的な路線を支持する傾向があったが、一方、ものみの塔の組織内部には、変更を加えなければならない多くの教義が待ってた。前統治体員レイモンド・フランズによれば、ヘンシェルは統治体の中では常に保守的な投票パターンを示したが、皮肉なことに彼の就任時点でいくつかの教義の変更は必至の情勢であった。フレデリック・フランズの晩年から、ヘンシェル体制への移行期において、組織の指導部には大きな変化が起こっていたことがうかがえる。
その後の教義の変更の経緯と、非公式に入ってくるブルックリン指導部の内部情報をあわせると、古くなった組織にほとんど普遍的に存在する、保守派の現状維持組と、進歩派の改革組との内部での複雑な力関係が浮き彫りになってきた。1992年4月15日の「ものみの塔」誌31頁によると、「援助者(helpers)」と呼ばれる若手のエホバの証人が、統治体の重要な委員会に参加する新たな制度が作られた。これにより、高齢の統治体(当時の平均年齢82歳)に若返りの空気を取り入れようとした意図がうかがえるが、結果的に見ると、この動きは、その後に来る幾つかの組織の柔軟化路線をもたらしたと考えられるであろう。次にそのような新路線の幾つかを解説してみたい。
この新路線は、実は1992年11月1日のものみの塔に発表されており、従ってフランズ会長の死と直接の関係はないが、その後に続く柔軟化路線の先駆けとして注目される変更だった。協会はそれまで、教育は職業訓練を主として行うべきで、最低限の職業に就けるだけの能力を習得した後ではそれ以上の高等教育は必要ない、としてきた。これは間近に迫ったハルマゲドンの前には、気長な大学教育や出世などは無意味であり、むしろ「残されたわずかの時間」を伝道活動に集中させるためであった。しかし、ハルマゲドンの到来が遠のくにつれ、これらの最低限の技能しか持たないエホバの証人の長期的な生活の支えが深刻な問題になって来た。これに加えて多くの国で、社会経済体制の複雑化により、より高度の教育を受けた労働力が要求され、それまでのエホバの証人の低教育レベルでは、社会的地位がますます下落する一方であった。
1992年11月1日の「ものみの塔」誌19頁は「‥‥特別な教育の是非に関して厳密な規則を設けるべきではありません」、「‥‥高校卒業後の勉強を取るか取らないかを決定する時、会衆内の他の人たちは彼らを批判すべきではありません」と述べている。この表現の裏には、それまでは高等教育を受けることはほぼタブーとする雰囲気があり、高等教育を受ける数少ない人々は会衆内で批判されていたことを如実に物語っており、これは元証人たちの証言からも明らかだった。変化する社会の要請に駆られて打ち出されたこの新たな方針は、その後、かなりの波及効果を示している。エホバの証人として高等教育を受ける者たちは、高等教育の根幹である幅広い知識と経験とを習得する必要性と、エホバの証人として守らねばならない情報制限との狭間に立ち、悩みつつも新たな境地を発見した人も少なくない。
日本のエホバの証人の社会では、しかし今でも四年制大学で学問を目的として進学するエホバの証人はほとんどいないようで、せいぜい短大や高専での職業教育がまだ主流のようである。
ものみの塔のそれまでの教義では、イエスは1914年に見えない形で王として再臨し、忠実なエホバの証人である「羊」と、エホバの証人の言葉を受け入れずにそれに逆らった「やぎ」とを分ける仕事を始めたことになっていた。これはマタイ25:31−33のたとえ話に基づいている。この教義は、端的に「あなたは地上で永遠に生きられます」の本の183頁に次のように書かれている。
キリストは戻られて天の王座に座しておられますから、全人類は裁きを受けています。この現代の「裁きの日」は1000年の裁きの日が始まる前に来ます。現代の裁きの期間中に人々は、「やぎ」としてキリストの左側に、あるいは「羊」としてキリストの右側に分けられます。「やぎ」は、神への奉仕に携わるキリストの油そそがれた「兄弟たち」を助けようとしなかったために、滅ぼされます。時がたつうちにそれらの「やぎ」は悔い改めない罪人、邪悪な者、不義を行なうことに凝り固まっている者であることを示します。一方「羊」は、あらゆる面でキリストの「兄弟たち」を支持するために、王国の支配下で命を与えられます。−マタイ25:31-46。
しかし、この教義は1995年10月15日の「ものみの塔」誌の二つの長い記事により、変更された。元々この教義はたとえ話を自分たちの現在に当てはめたものであるら、たとえ話が何をさしていたかを変更すれば新しい教義は簡単に作成できるわけで、この二つの記事は長々と、いかに新しい解釈が古い解釈よりよいかを説いてる。そして、これらの記事の結論は次のように要約されている。
たとえ話は、これまで長年理解されてきたように、イエスが1914年に王座を執って座られた時にあてはまるのでしょうか。‥‥このたとえ話は、人の子が栄光のうちに到来する将来のことを示しています。‥‥ですからこうして考えてみると、マタイ25章31節で言われている、イエスが裁きのために『自分の栄光の座に座る』のは、この強力な王が諸国民に裁きを宣告して執行するために座る将来のことである、ということになります。羊とやぎのたとえ話をこのように理解すると、羊とやぎに対する裁きが行われるのは将来のことであるという点がおのずと明らかになります。その裁きは、マタイ24章29節と30節で言及されている「患難」が突如始まり、人の子が『その栄光のうちに到来した』後に行われることになります。(「ものみの塔」誌1995年10月15日22−23頁)では、羊とやぎのたとえ話に関するこの新鮮な理解は、わたしたちにとってどんな意味があるのでしょうか。確かに、人々は今すでにどちらかの側についています。『滅びに至る広い道』にいる人もいれば、『命に至る狭められた道』を歩み続けようと努力している人もいます。(マタイ7:13,14)しかし、このたとえ話の中で描かれている羊とやぎにイエスが最終的な判決を下す時はまだ先のことです。(「ものみの塔」誌1995年10月15日27頁)
これらの長々と続くたとえ話の解釈の、「新鮮な」理解を要約してみると次のようになる。
それまでエホバの証人は、よく家から家への訪問で、積極的に話を聞いて研究に参加する稀な人を見つけると、「羊を見つけた」と喜んでいたが、この新しい教義では、この証人は「羊になる可能性のある人を見つけた」としか言えなくなった。なぜなら、今「羊」のように見える人が将来に先延ばしされた「裁きの日」には「やぎ」になる可能性があり、逆に今「やぎ」のようにエホバの証人に逆らっている人が「裁きの日」には「羊」となる可能性があるからだ。この教義の変更は、この「ものみの塔」誌の次の号で発表された「1914年の世代」の解釈の変更と共に、エホバの証人の教義の歴史の中で、大きな転換期を記すことになった。
1914年のキリストの見えない臨在による「終わりの日」の開始と、1914年にその「終わりの日」の開始を目撃した世代(マタイ24:34)が終わらないうちに、世の終わりであるハルマゲドンが到来する、というのはエホバの証人の教義の中核となる預言であった。しかし、1914年から年数が経つにつれ、ものみの塔協会は自らが設定した「締め切り」を変更して、ハルマゲドンの預言を遅らせる必要に迫られてきた。この問題点は、1970年当時の統治体ですでに取り上げられていたことが、当時の統治体員のレイモンド・フランズの証言で明らかにされており、その後もこの教義の変更は時間の問題と見られていた。レイモンド・フランズの時代に比べ、この「1914年の出来事を見た世代」はますます高齢化し、残りわずかになっていたからである。
1995年11月1日の「ものみの塔」誌はそれまでのマタイ24:34の「世代」が1914年の「終わりの日」の開始を目撃した世代であるという教義を全く変更し、「イエスの用いた「世代」という表現は、時を計るための定規というよりはむしろ、歴史上のある時期に住み、他と異なる一定の特徴を供えた同時代の人々をおもに指しています」(17頁)とした。更に19頁では、「そのようなわけで、今日イエスの預言の最終的な成就において、「この世代」とは、キリストの臨在のしるしを見ながらも自分たちの道を改めない、地のもろもろの民のことであると考えられます」と新たな全く異なる定義を発表した。これは、つまりエホバの証人の警告を聞かない反対者、無関心者一般を指すことになり、このような人は常にこれからも存在し続けることは確実だから、こうすれば「この世代」は恐らく永遠に過ぎ去ることはないことになるだろう。ここに最後まで残されていたハルマゲドンの「締め切り日」が撤廃されることになった。この教義の変更は、1995年12月18日号のニューズウィーク誌にも取り上げられるほどの大きな路線変更であり、エホバの証人の一部に大きな動揺を与えたが、大部分の証人は他の「新しい光」と呼ばれる教義の変更と動揺、ただ批判することもなく鵜呑みにこれを受けいれたようである。
これらの1995年秋に発表された「裁きの日」と「この世代」の解釈の変更は、それまでの、ハルマゲドンは今すぐにでも訪れるという、せっぱ詰まった緊張感に支配されたエホバの証人の刹那的生き方に、少しずつだが大きな変化を与えてきた。エホバの証人は、もっとゆったりと自分たちの将来について計画を立てることが出来るようになった反面、それまでの緊迫感の故に正当化されていたカルト的な習慣を少しずつ変えて、より常識的な生活態度を取らざるを得なくなってきた。人々は、不便でも不条理でも苦痛でも、すぐに終わりが来ると教えられていれば、何とか堪え忍べるもので、従ってカルトの不条理な行動もその緊急性のために、信者にとって受け入れられるのだった。しかし、このカルト特有の緊迫感が少しずつ取り除かれると、カルトとしての信者へのコントロールは次第にその力を失わざるを得なくなるのは自然の成り行きなのであろう。
1990年代の「ものみの塔」誌や「目ざめよ」誌の記事には、「ものみの塔」誌1994年2月15日号の特集記事に代表されるように、かなりの部分がエホバの証人はカルトであるという評判を一掃しようとする努力が見られる。それまでのパリサイ人まがいの戒律主義から、多くの事柄に「平衡の取れた見方を保ちながら、良心で決断する」という柔軟性を強調する姿勢が打ち出されてきた。それらは、決してそれまでの戒律主義、たとえば誕生日は絶対に祝わない、クリスマスはやらない、などの規則を覆すものではなかったが、「否定形」の教えを前面に出すことが抑えられ、より建設的な姿勢を印象づけようとする努力は随所に見られるようになった。
上に述べた、1995年に発表された基本的な教義の変更に伴い、それまで家庭聖書研究の教科書として使用されていた「あなたは地上で永遠に生きられます」の本は、「古い真理」となり、使用できなくなった。1996年からは、新たなより縮小された教科書「知識」がこれに代わって使用されるようになった。教科書の縮小化に伴い、家庭聖書研究もより「促成栽培」的な信者の獲得を目指すようになって来また。それまでの何年もにわたってだらだらと家庭聖書研究を続ける習慣は止めることが勧められ、むしろ研究を早期に終了して研究生を集会や奉仕にかり出すことに強調点が置かれるようになった。(「ものみの塔」誌1996年1月15日)この変化はまた、旧共産圏の爆発的な信者の増加に対し、早急に対応できるよう、研究プログラムを短縮し、教科書を短時間で翻訳できる短いものにする必要性に対応したものでもあった。
エホバの証人は歴史的に見て一貫して徴兵拒否を貫いてきたが、多くの国で良心的兵役拒否者に対して与えられた非戦闘代替勤務を受け入れるか否かに関しては、ものみの塔はその教義を二転三転させてきた。ラッセルとラザフォードの指導体制の一部の時期においては、兵役に代わるものとして病院や建設作業での勤務は許されることと指導されていた。しかし、第二次世界大戦の頃から、この教義は一転し、エホバの証人は兵役だけでなく、その代わりとなる非戦闘勤務も拒否しなければならなくなった。この教義は第二次世界大戦後も連綿と続き、徴兵制のある多くの国で、エホバの証人の多くの青年男子が数年間の懲役を言い渡され、刑務所で貴重な人生の一部を過ごすことを強いられたのだった。一方もし青年が代替勤務を受け入れた場合、その青年は即刻、会衆から断絶処分を受けたのであった。これらの青年は、エホバに逆らったものというレッテルと共に一生を罪の意識に苛まれて村八分の人生を送るか、数年を刑務所で過ごすかの過酷な板挟みにさらされたのだった。
他の良心的兵役拒否を行う宗教団体の中でも、この代替勤務をも拒否するという教義はエホバの証人に特有のものであり、この特有の教義の故に、世界的に年間何千人に登る服役中のエホバの証人の若者のことを考えると、この教義の変更は必至と見られていた。現に1977年には、これが統治体の議題に登り、過半数の統治体員がこの問題は個人の良心で決めるべき問題であると投票したが、議決に必要な三分の二に達せず、現状維持が決められたことが、当時の統治体員であったレイモンド・フランズの証言で知られている。
1996年5月1日の「ものみの塔」誌20頁には、この懸案の教義が約20年を経て、そして恐らく何万人の若いエホバの証人の刑務所服役を経て、ついに静かに変更され、ラッセル当時の聖書解釈に戻ったことを示している。
クリスチャンがそのような問いに正直に答えて、国家に対するその一般市民奉仕[筆者注:すなわち非戦闘代替勤務のこと]は権威に従順を示して行うことのできる「良い業」であると結論するならどうでしょうか。それはその人のエホバのみ前での決定です。任命された長老も他の人たちも、その兄弟の良心を十分に尊重し、その人を引き続き良い立場にあるクリスチャンとみなすべきです。
しかしこの記事には、過去何十年間という間に数年間を刑務所で過ごした何万人ものエホバの証人青年男子に対する謝罪や思いやりの言葉もなければ、一言の言及すらなく、これらの若者はそのまま闇に葬り去られたのだった。恐らく日本のように徴兵制のない国では、このようなエホバの証人の青年男子が何万人もいたという事実などは、全く知らされていないであろう。このような国では、一般のエホバの証人はこの矛盾に満ちた悲劇的な教義に関して、つんぼさじきに置かれているのである。
エホバの証人の教義の多くが、年代計算に基づいた預言に基づいているため、多くの教義が時間の経過とともに変更されない限り、全く無意味なものとなってしまう可能性がある。現在、誰の目にも明らかな次の変更課題は14万4千人の「油塗られたもの」の教義であろう。エホバの証人の教義によれば、これらの特別級のエホバの証人は、1914年以来、地上で死ぬと直ちに天に取り上げられており、ハルマゲドンの時には一斉に天に行くことになっている。従ってハルマゲドンはこれらの人々が地上で死に絶える前に来なければならない。しかし、奇妙なことに、ものみの塔協会自体の統計が、この「油塗られたもの」の数がこの十年間というもの、ほとんど変化していないことを示している。一方、現在でもものみの塔協会が継続して使っているもう一つの教義では、新たな「油塗られたもの」あるいは「天的級」の証人は1923年を最後に増えないことになっている。従って、時々この数が増加したりするのは非常に奇妙な現象となる。(これに対する協会の説明は、すでに「油塗られたもの」であった人がそれまで気がつかず、後になって自分がそうだと分かった場合があること、宗教の自由の無かった国々では1923年以来、自分が油塗られたものであることを表明する機会がなく、それが現在になって数として一時的に増える原因となっている、などという苦しいものだった。)
この「油塗られたもの」の教義と表裏一体になっているものが「大群衆」、すなわちその他大勢のエホバの証人に関する預言の教義で、この二つの教義は、この数年のうちに大きな変更が加えられざるを得なくなっている。また1914年という年も、最近の教義変更でも、イエスの再臨の年として再確認されたが、教義全体の体系を考えると、そういつまでも長続きできるものではないであろう。そしてこの1914年の教義と密接につながっていて、現在の指導部に絶対的な権威を与えている「忠実で思慮深い奴隷」の教義もそれに伴って変えられなければならない。これら一連の関連した教義、「油塗られたもの」、「大群衆」、「1914年」、「忠実で思慮深い奴隷」はこの数年から十年位の間に次々と変更される可能性を秘めている。もしかしたら1995年にもたらされた「裁きの日」と「この世代」の教義の変更は、次に来る大きな教義の変更の伏線と考えられるのかもしれない。
血の教義が変更されるかどうかは、非常に予想が困難と言える。現時点では、一握りのエホバの証人の指導部にいる人々を中心として、血の教義を中心にした内部改革の動きが大分表面化してきたが、一方、現在の指導部の主流は、この輸血拒否の教えを現状維持のまま乗り切ろうという意図を示してる。彼らがその命運を賭けているのが、無輸血手術の進歩、代替血液や、その他の人工的な手段や製剤により、近い将来に輸血の必要がなくなることである。ものみの塔の血に関する記事を読むと、ブルックリン指導部はこの輸血が無用になる日の来るのを必死で祈っているかのように見える。彼らの、無輸血手術の技術進歩に対する支援と、異様なまでの熱心な報道はその本音をよく物語っている。このような現状では、血の教義が変更されるかどうかは非常に予想が困難といえる。
ものみの塔協会は、ニューヨーク・マンハッタンの向こう岸にあるブルックリンに広大な一等地と数多くのビルと工場を所有し、その不動産だけで200万ドル(約230億円)以上の価値があると言われる。その他、農場、研修教育施設、工場などとして使われているパターソン、ウォールキル、など四カ所のニューヨーク周辺の広大な土地、世界各地の王国会館、支部の建物と土地などをあわせると、その資産の額は膨大なものとなる。本部の対岸のマンハッタン、ウォール・ストリートでは、ものみの塔協会による金融資産の莫大な投資が、よく知られている。最近の順調なアメリカの株価の伸びは、協会にとっては最も祝福すべき現象なのかも知れない。しかも、組織の運営は大部分が証人の無料奉仕か、最低の報酬での労働から成り立っているから、莫大な資産と異常に低価格な運営費を背景にした財政的な安定はこの組織の特色となってきた。
しかし、この巨大で裕福な組織も、その潤沢な財源の確保には苦労が見らる。1980年代のテレビによる福音伝道団体の腐敗に端を発し、アメリカでは非課税非営利を称する宗教団体への課税の見直しが叫ばれるようになってきた。その結果、ものみの塔協会の膨大な資産は誰の目にもとまらない訳にはいかない。協会はこの動きをいち早く察知し、1990年以降、その膨大な数の雑誌や書籍を「売る」ことを止めた。現在少なくともアメリカでは、協会はこれらの文書を「無料」で配布し、その代わりにそれに相当する金額の「寄付」を「世界的な聖書教育の仕事のため」と称して勧めている。つまり、収入源の名目を「売り上げ」から「寄付」に変えることにより、税制が変更になっても収入に課税されないような手だてを打ったわけだが、収入はその後もほとんど変わっていないようである。その証拠に、例えば1996年11月の「王国宣教」では、どのような出版物を受け取るにはいくら位の寄付を出すべきかが、具体的な金額とともに詳細に指示されている。つまりこの「寄付」という名目変更が巧妙な税金対策であり、実質的には出版物の販売が依然として重要な財源であることが示されている。
その他、大会における食事の支給の中止、書籍の簡素化による「質より量」への志向などはこの一連の動きと見られる。しかし、当面、この巨大な資産を抱える組織の財政に根本的な問題が起こることはないと思われ、協会の財政的な安定は揺るぎ無いものと考えられる。
1990年代におけるエホバの証人の成長を特徴づけるのは、旧共産国における爆発的な増加と、アメリカ、ヨーロッパなどの先進国での伸び悩みあるいは実質的な減少傾向であろう。アフリカ、アジア、ラテンアメリカなどがこれらの間の中間的な存在と言える。協会はこの数年、その重点をこれらの「需要の多い」地域に置き続ける方針と見られ、これらの国の言語を集中的に訓練された開拓奉仕者が、先進国のエホバの証人の中で大量に作られ、旧共産国へ送られつつある。1990年代の半ばは東ヨーロッパ、ロシアが主力であったが、今後はこれに加えて、香港の返還にともなう中国の宗教解禁をねらった、大量の中国大陸への浸透に力点が置かれるようだ。一方、アメリカ、ヨーロッパの先進国では、組織による一方的な情報統制が崩れ去る結果、今後も低迷傾向は続くことが予想される。
1990年代の協会の柔軟化路線に一致して、個々のエホバの証人の態度にも少しながら変化が見らる。1970年、80年代の「規則ずくめ」の信者の生活は今でも多くの証人によって受け継がれてはいるが、一方、より自由な見方をする証人の数も増えつつある。最近の「期限付き預言」の撤廃による、生活の余裕感とそれに伴うある程度の脱力感がかなり影響していると考えられるが、恐らくその最大の原動力となっているのが、一つは高等教育の解禁であり、もう一つはインターネットに代表される新しい、効率的な情報交換の手段の発達であると考えられる。カルト宗教の大黒柱は、組織による情報の独占と信者に対する厳密な情報コントロールであるが、上に述べた二つの最近の変化、高等教育とインターネット、は共にこのカルト宗教の大黒柱を根底から覆す可能性をはらんでいる。
そのような動きの目に見える形が、現在インターネットを中心に活動している「改革派」のエホバの証人の動きであろう。彼らの活動自体が、インターネットなしには全く不可能であることを考えると、この動きはまさに1990年代後半のインターネットの発展の落とし子と言えるであろう。これらのエホバの証人は、それぞれの会衆の中では、ごく普通のエホバの証人として振る舞っているが、インターネットの上では、自分の実名や所属を明らかにすることなく、自由にものみの塔組織を批判し、その改革を求めている。インターネット上で無名のままで懲罰を恐れることなく、自由に意見の交換が出来るという、それまでに無かった環境が、このような運動を可能にしたと言える。一部の改革派エホバの証人は、すでにブルックリン本部の内部で、統治体の「援助者」と呼ばれる若手グループの間に浸透していると言われ、最近多く出版された柔軟路線の記事の幾つかには、彼らの意見が多く取り入れられている可能性が考えられる。
1997年7月22日の「目ざめよ」誌は、インターネットを特集した。この記事は、インターネットの使用に強い警告を発してはいるものの、決してこれを「悪」と決めつけてエホバの証人の使用を禁じてはいない。この協会の態度は、今後ますます、エホバの証人の中の勇気ある一部の人々をインターネットに進出させるであろう。改革派の動きは今後もインターネット上で活発に続き、その中の可成りのものが、自分たちの組織の根本的な誤りに気づき、改革から離脱への道を辿ることが予想される。現に過去数年間だけでも、改革を志向したエホバの証人の指導的地位にある可成りの人たちが、組織を後にしているのである。
ものみの塔の組織は1990年代に入り、二つの大きく異なる路線を選ぶことが可能であった。一つはそれまでのフレデリック・フランズ会長時代の先鋭的カルト色を更に強化し、エホバの証人を更なる組織の厳しい枠の中に囲い込むことであった。他の選択は、カルト色を出来るだけ取り去り、一般社会に少しずつとけ込み、社会の中で拡大を計ろうとする方向である。1990年代の一連の組織の動きは、明らかに組織が前者の路線を弱め、後者の路線を強化しようとしている意図が現れている。この動きは、それまでの組織の刹那的存在、つまり今にも訪れるハルマゲドンまで何とか存続すればいいという観点から脱却し、今後何十年あるいはそれ以上、安定した世界的大宗教教団として存続していかなければならないという現実を、組織が認識し、より社会的に責任を持った組織に変わろうとしている動きと見ることができるであろう。
今後、ものみの塔はどのような方向に向かうのだろうか。この点で、参考になるのが、二つの似たような宗教の歴史であろう。その一つはモルモン教、あるいは末日聖徒イエス・キリスト教会である。その歴史を詳しく述べることはここでは控えるが、この宗教も創始者ジョセフ・スミスの時代のカルト的教えと習慣を受け継ぎながら、現在では徐々に一般社会にとけ込もうとしている。例えば、一夫多妻の教義と習慣は、アメリカの法律の前に変更を強いられ、今ではモルモン教徒に一笑に付される「古い光」である。モルモンの教義は、ものみの塔と同様、聖書に基づいているように見えるが、その聖書解釈は大きく聖書から飛躍し、聖書以外の文書が教義の大きな中心となる点、ソルトレークシティーの本部が巨大な教団を形成し、その下に世界中の信者が絶対服従するという体制、戒律と行動を第一とする点、世界的に宗教的な未開地に宣教者を送り込み、伝道活動が義務とされている点、など、ものみの塔の宗教と非常に似た点が多くある。
しかしその反面、モルモン教徒は非常に安定した市民生活を送り、高等教育を受けて様々なこの社会の指導的職業にもつき、社会にとけ込もうとしている。信者の生活には、ものみの塔のようなハルマゲドンの期限に迫られたせっぱ詰まった様子はない。現代のモルモン教徒はむしろ、清廉潔白で道徳的に高度に規制された生活様式を望む人々の集まりと化しているようである。これは、他の成立し切った既成の宗教に共通の特徴と言えるが、宗教は次第に信者社会の文化と生活様式となり、それ以上の力は次第に弱まっていくのが歴史的な流れのようである。ちょうど日本の企業が工場を建設するにあたり、神主を呼んでお払いをしてもらうことで安心感を得るが、決して真剣に神道の教義の是非まで気にしないのと同じように、安泰を保つ巨大宗教教団は、やがて信者の生活文化の一部となり、信者は細かい教義の是非や歴史的経緯などを気にしなくなっていくのだ。ものみの塔宗教も、期限付きハルマゲドン預言や、非常識的、カルト的教義と規則とを徐々に捨て去る過程を経て、やがて比較的無害な生活文化の一部になっていく可能性は高いと言える。
もう一つのものみの塔の今後を占うヒントを与えるのは、Worldwide Church of God の最近の歴史である。これは、ハーバート・アームストロングという人によって始められた聖書を使ったカルトで、ものみの塔宗教と非常に多くの共通点を持っている。ものみの塔と同じように、この世の終わりは今すぐにでも来ると教え、信者に「この世」から離れるように厳しい戒律を課し、情報統制をはかり、教団は信者の生活をあらゆる面で規制していた。指導部はやはり、ものみの塔と似た巨大な本部をカリフォルニアに建設し、ものみの塔と同じ様な雑誌を通して、常に変化する教えを恒常的に信者の間に浸透させていた。誕生日やクリスマスは異教の習慣だから祝ってはならないという教え、旧約聖書の食餌に関する禁令の厳守、既存のキリスト教、カトリックやプロテスタントを最大限の悪口をもって糾弾する点なども、ものみの塔宗教と非常によく似ていた。
しかし、1986年、教祖のアームストロングが92歳で死んだ後は、この教団は大きな変化をとげた。ものみの塔と違って、集団指導体制が確立する前に、カリスマ的教祖が死んだことが、後継者の弱体化を引き起こし、結局アームストロングの確立していた厳密な情報統制は崩れ去り、信者も後継指導者も、自分たちのカルト的教義の内容を聖書に基づいて、詳しく検討する機会を与えられたようだ。その間、教団からは幾つかの小さな分派が離れていき、信者の数は一時の四分の一にまで減少した。後継指導者自身が、1986年から1995年までの間に大きな宗教的変革をとげ、1996年に第三代の指導者に変わった時には、創始者の始めたカルト的教義はほとんど全て捨て去られ、1997年にはなんと、十年前までは口を極めて糾弾していたプロテスタントの宗派の一つとして、National Association of Evangelicals(全国福音連合)に加入したのだった。
しかし、この変化のために教団は多大の代償を払わなければならなかった。信者数の激減の他、ものみの塔誌に相当する雑誌の発行数は最盛期の15パーセントにまでに落ち込み、教団は財政危機に陥り、アームストロングの教えを様々な程度で引き継ぐ分派との軋轢は続いている。
ものみの塔宗教は、この Worldwide Church of God と似た運命を辿るであろうか。これは筆者の私見だが、ものみの塔が Worldwide Church of God と同じような変貌をとげるには、余りに長い歴史と確立された社会的な存在があり、これは起こりにくいことであると考えらる。むしろ、最近の路線変更の方向性はモルモン教の軌跡と非常に似ており、ものみの塔が今後の長い歴史の中で、更にカルト色をぬぐい去り、モルモン教と似たような、清廉潔白で道徳的に高度に規制された生活様式を望む人々の集まりとなって行く可能性が高いのではないかと考えられる。少なくともかなり確かなことは、エホバの証人の宗教はどのような変貌をとげたとしても必ず存続し続けることであろう。信者の伸びは、いずれ世界中で現在のアメリカ・ヨーロッパ並みの微々としたものになるだろうが、その反面、極めて安定した宗教勢力となるかも知れない。恐らく、ブルックリン本部の絶対的権威、大部分の戒律は存続するだろうが、それも余りに社会から見て非常識にならないような配慮が配られ、それ以外ではエホバの証人はモルモン教徒と同様、一般社会人と大差が無くなっていくのではないであろうか。
しかしその前に、多くの教義の変更とそれに伴う内部の「ふるい分け」が繰り返されることであろう。教義の変更ごとに、エホバの証人の一部に間違いに目ざめるグループが出て、情報の自由化とあいまってその一部は組織を後にするであろうが、その反面、組織がより常識的な路線を打ち出すにつれて、それに惹かれて新たに信者になる者も増えるであろう。そして、多分これらの変化は相殺されていずれ信者の数は一定化するであろう。今までの統計をみると、特にキリスト教の背景のある国々(アメリカ、ヨーロッパ)ではエホバの証人が人口200から300人に一人に近い密度になると、ほとんど例外なくそれ以上の伸びは止まっている。これはどのような国でも、人口のある一部の割合の人々が常にこのような性格の宗教を必要としていることを示唆している。従って、たとえものみの塔宗教が衰退したとしても、他の似たようなカルトがその真空を埋める形で出てくるのであろう。モルモン教とエホバの証人が、かなり似たような層の人々に浸透しやすいという観察もこれを裏付けるものかも知れない。キリスト教の背景のない国々で、どの位のエホバの証人の数が平衡状態をもたらすかは予想がつかない。対抗する既存の宗教の強さにもよるであろうが、日本の現在の約600人に一人の密度は、もしかしたらこの平衡点に近い数なのかもしれない。
ここでは、1997年中期現在でのものみの塔宗教の現状分析と今後の予想を述べてみた。これはあくまで筆者個人の可能な限りでの、ある程度の根拠を持った予想であるが、これはもちろん預言ではなく、多くの点が間違いに終わることが考えられる。今後、新たなものみの塔の動きに対応して、随時、加筆、変更をしていく予定である。
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