歴史 第四部 フランズ会長と1980年代の内紛


1)フレデリック・フランズ
2)1975年の予言の失敗
3)1970年代後半の反動
4)内部からの批判
5)新たな「油塗られた者」に対する圧力
6)いわゆる1980年の「粛正」
7)レイモンド・フランズの排斥
8)1980年の粛正の波及効果

1)フレデリック・フランズ

ノアの後をついで会長となったフレデリック・フランズは1893年、ケンタッキー州に生まれた。彼は最初長老派の牧師を志願してシンシナチ大学に学んだ。ここにおいて、彼は一年間ギリシャ語の授業を受け、ラテン語、ドイツ語も学んだ。彼は1950年から60年代のノアの元での副会長時代に、協会の教義の変更や聖書解釈の中心となって学歴のないノア会長を助けた。その時代に出されたものみの塔協会独自の新世界訳聖書の翻訳委員会では、彼のこの一年足らずの聖書言語に対する学識が唯一の学識に数えられるものであったといわれる。そのフランズの、ものみの塔指導者としては最高の学歴も長続きはしなかった。シンシナチ大学二年生の時、ものみの塔協会の出版物に触れた彼は、直ちにこれを信奉して大学を中退し、「聖書研究者」に参加した。そして1920年、彼はブルックリンの本部に入り、以後終生をそこで過ごした。彼の大学二年中退という学歴が、ものみの塔協会指導者としての最高学歴というのは頼りない気もするが、その一方で彼は非常に優秀な学生であり、独学でさらに多数の外国語を学び、ヘブライ語の知識も独学で得た。これは上記の新世界訳の聖書翻訳の中心人物としての彼の立場を助けたといわれる。彼はすでにラザフォードの時代に頭角をあらわし、協会の一番の聖書の権威者で学者と目されていた。

フランズはごく最近の1993年に死亡したが、そのためか彼と直接面識のあったエホバの証人、元エホバの証人も少なくない。彼はラザフォードやノアに比較するとより親しみやすく、ブルックリンの本部の職員から「フレディー」の愛唱で親しまれていた。しかしその表向きにもかかわらず、彼はノアやラザフォードと同様に、その権威主義のたずなをゆるめることはなかった。また彼の言動には時に冗談ともとれない奇妙なものが見られ、型にはまった行動に慣れているエホバの証人の一般信者たちの首をかしげさせることもあった。たとえば1958年の世界大会では20万人を越える聴衆を前にして性的禁欲の重要性を説く中で、十代の女性のエホバの証人を性欲にかられて行動する盛りのついた雌牛にたとえて、満場の聴衆の赤面をかったことは後々まで言い伝えられているエピソードである。

2)1975年の予言の失敗

1975年の終末の予言の失敗以降、1977年のフランズの会長就任をはさんで1980年前半に至る時期はものみの塔協会の大きな動揺期となった。ノア前会長の生前から実質的な指導者となっていたフランズは、会長就任前後から彼の新たな路線を打ち出す。まず、1975年の終末予言の失敗に関しては、現在の証人たちも繰り返し使う「言い訳の論理」はこの時に作り上げられ、一般信者の間に広められた。この「言い訳の論理」の骨子は次のようなものであった。

1)ものみの塔協会は、はっきりと1975年に終わり(ハルマゲドン)が来ると述べたことはなかった
《確かにどの公式出版物にも1975年にハルマゲドンが来ると言い切った文書はない。しかしたくさんの文書が1975年に新たな千年統治が始まる、1975年に向けて最後の準備をするようにと書いてある。》

2)一部のエホバの証人は熱心の余り、自分勝手に1975年を終わりの年と決めて早まった行動をした。
《この「一部のエホバの証人」は主に、1975年以降幻想から目覚めて組織を離れていった人々をさしている。つまり組織を離れた「背教者」達にすべての罪をおしかぶせる論法である。しかし、1975年以前の出版物で協会がいかにこのような「早まった行動」を賞賛していたかを読めば、この論理がいかに無茶なものであるかは明らかである。》

この無謀な論理はしかしながら、現在でも多くのエホバの証人の頭にたたきこまれた1975年に対する言い訳である。彼らはこの論理を他の変化しつつある教義と同様、時に応じてブルックリンから与えられる「霊的食物」として受け入れ、自分の頭に植え付けているのである。

フランズ自身がこのことについて語った時にはその論理は更に妄想に近いものにまで発展する。1975年の春のカナダ・トロントの講演で「1975年の秋に起こることを確信をもって待ち望む」と語った彼は、翌年1976年の同じ頃、同じ場所での講演では「1975年になぜ何も起こらなかったのだろうか?それはあなたがた(と言ってフランズは聴衆のエホバの証人たちを指さしたといわれる)がそれを期待したからである。」と言い放った。それからマタイ24:36の聖句を引用してイエスがその時と時間は誰も知らないと書いてあるのだから1975年という年を期待すべきではなかったのだ、と説いたという。この講演の中で彼は一切の自分が語り、書いてきた1975年の期待には責任を負わせず、すべての責任を一般の証人の信者に押し付けたのだった。

もっともこれだけで一般のエホバの証人の不安、不満と動揺を押さえきることは不可能と感じたのかもしれない。1975年の予言の基礎となった年代計算にも修正の手が加えられた。それは人類創造からの6000年をどこの時点から計算するかであった。フランズはこの時点で6000年はアダムの作られた年からではなく、エバが作られた年からにすべきであると言い出した。この新しい教義によって新たな千年統治の開始は不特定の年数だけ先送りできることになった。しかしこの新たな教義の論理にも実は問題があった。ものみの塔の文書を読んでみると、協会はアダムとエバが同じ年に創造されているとして扱ってきたからである。結局この年代計算の修正はそれ以後曖昧になり、以前からあるハルマゲドンの予言、「1914年の出来事を見た世代が死ぬ前に」終わりが来るというという教義に戻っていった。

3)1970年代後半の反動

フランズの就任後明らかになった協会の路線は、1970年代前半の民主化の動きに対する明らかな反動であった。それまでは個々の会衆の長老たちは、自立的な決定権と巡回監督、地区監督に対するある程度の批判の余地を与えられていたが、1977年以降これらの監督は協会の特別な代表者、「使徒」としての権威を与えられ、再び協会本部の中央集権体制が強化された。それと同時に内部の批判勢力に対する系統的な封じ込めが行われていった。長老の持ち回り制もこの頃から徐々に廃止され、より安定した会衆の監督が強化された。また各会衆に会衆秘書という、本部あるいは支部に直接報告義務のある役職を設けたのもこの中央集権化への動きであろう。

1975年の予言失敗後の伝道者数の減少に焦りを見せた協会指導部は、フランズの会長下で野外奉仕の強化に乗り出した。それまでは、長老が会衆の個々の証人を個人的に訪問したり、彼らの悩み事や問題の相談や解決にあたる「牧羊の業」といわれる会衆の内部の世話にあてる時間を、伝道時間の報告の中に含めていたが、これが廃止された。従って、長老たちは「牧羊の業」を自分自身の時間をやりくりして行わなければならず、それに加えて家から家への野外宣教にも、一般の証人の模範となって多くの時間を費やしなければならなくなった。このことは「牧羊の業」の相対的な軽視につながるともに、長老に対する負担の強化となった。

この時代の一つの特徴に、高等教育の軽蔑と知識人の証人に対する弾圧が挙げられる。1970年代後半の協会指導部への批判が、独立に聖書や歴史を研究する高等教育を受けたエホバの証人の間に広がってくることに業を煮やした指導部は、大学教育を受けようとする十代のエホバの証人や、すでに大学教育を受けて教職等の専門職にあるエホバの証人に対して痛烈な侮蔑と批判を繰り広げた。この批判は大学教育を完全に禁止する一歩手前でとどまったものの、多くの若者はこの時代「死につつある古い体制の中で出世を求める」との批判に直面して大学教育をあきらめ「ハルマゲドン前の残り少ない時間」を野外宣教に費やした。何人かの教育のあるエホバの証人が自分の宗教の歴史を研究して出版を試みた。これらの研究は、ほとんど全てがエホバの証人の立場から書かれており、協会を批判的に見るものではなかった。 しかしビクター・ブラックウェルはエホバの証人が関係して協会側が勝利をおさめた裁判の記録を書き、スウェーデンのエホバの証人ディトリーブ・フェルデラーはラッセルの時代のエホバの証人の歴史を詳細に書いたことにより、前者は統治体から厳しく懲戒処分を受け、後者は排斥処分を受けた。統治体がいかに協会に関する情報の一切を占有し、唯一の情報源としての立場を押し通そうとしたかがよくわかるエピソードである。しかしそれと同時に、協会の出版する粉飾を凝らした自己顕示的な歴史に疑問を持ったエホバの証人の間に、徐々に批判勢力が育って行った。

4)内部からの批判

1970年代後半の内部批判の最も顕著なものはスウェーデンの長老で高等教育を受けたカール・オロフ・ジョンソンであろう。彼はエホバの証人の教義の根幹となる1914年の教義、すなわち1914年にイエス・キリストが見えない形で再来し、「異邦人の時」が終わり「終わりの時」が始まった、そしてこの「終わりの時」は「一世代」が過ぎる前に終わりハルマゲドンが来る、という教えの基礎である1914年に関して研究を行った。この1914年という年は、ものみの塔協会によれば次の計算方法によって算出される。エレミア書52章のネブカドネザル王によるエルサレムの陥落は紀元前607年に起こり、その時から七つの時、(一つの時は360年と計算する)つまり360×7=2520年を足すと1914年になるというものである。ここにはしかし大きな前提がある。すなわちネブカドネザル王によるエルサレムの陥落が紀元前607年に起こったということが確立されていなければならないのである。歴史学、考古学に造詣の深かったジョンソンはすぐに、この年代がものみの塔の文書以外のどこにも記載されていないことに不審を抱き、広範な歴史学的、考古学的、天文学的な研究を行った。幸いなことに当時広範な地域を支配して君臨していたバビロニアの王であったネブカドネザルは、当時の多数の考古学史料の中に現れており、複数の情報源からその活動の正確な年代を確認することが可能であった。ジョンソンはこの紀元前607年という年が、全く考古学的にも歴史学的にも根拠がなく、逆にあらゆる史料が一致してエルサレム陥落の年が紀元前586年、または587年であることを指し示していることを見いだした。1977年、彼はこれを「異邦人の時再考」という報告書にまとめ、統治体に提出した。この時点では、ジョンソンは献身的なエホバの証人であり、決して彼の態度に統治体に対する挑戦はなかった。

当時まだ統治体の一員であったレイモンド・フランズは、このジョンソンの報告書の取り扱いに関して、統治体がどう対処したかをその著書「良心の危機」の中で記述している。統治体は最初、この報告書に関心を示す態度をとった。しかし、これがものみの塔宗教の70年以上に及ぶ歴史の全てを通して根幹となっている、1914年の教義を根底から覆す可能性があり、とうてい教義の細かな調整では収集がつかないことに気がついた統治体は、一転してジョンソンの封じ込めにかかった。彼はまもなく長老の職をやめさせられ、1982年、協会に忠実でないとの理由で排斥された。この「異邦人の時再考」はその後出版されて一般に読むことができる。1996年現在、一時的に絶版になっているが再版が出される予定になっている。

ジョンソンのこの報告書は、二重の意味でものみの塔指導部にとってこの上もない危険なものであった。一つは、上に述べた協会の根幹の教義を覆す恐れがあること、そしてもう一つは統治体以外の一般の証人の中から「新しい光」と呼ばれる教義の変更が来ることによる、「忠実で思慮深い奴隷」と自称する統治体の権威の失墜であった。しかしこのジョンソンの報告書はわずかのコピーを元にして次々にコピーが作られ、アメリカ、オーストラリア、カナダ等の英語圏の教育を受けたエホバの証人の間に広がっていった。これは1980年代初期に起こった各地での反対者の動きにある程度の影響を持ったと考えられている。

5)新たな「油塗られた者」に対する圧力

エホバの証人の教義ではエホバの証人には「二階級」があり、死後天で復活する希望のある14万4千人の「油塗られた者級」と、それ以外の地上の楽園で生き残るという「大群衆級」に分けられている。この14万4千人の「油塗られた者」はキリストの復活以後2000年近くの間、天において集め続けられているが、最近になってこの「級」は定員が満たされ、これ以上は受け入れられないというのが、1935年以来のものみの塔の正式な教義である。すなわちこの教義によれば1935年の時点で14万4千人の定員は満たされ、あとはそのうちの地上に生き残っている「残りの者」がこの世で死につつ天で増えていく、従って今いる油塗られた者たちの数は年々減っていくはずである。新たに油塗られた者となるのは、油塗られた後で背教した者たちを補充するものだけである、と協会は教える。この油塗られた者とは、毎年春に行われる記念式の「主の晩餐」(これがエホバの証人が執り行う唯一の儀式であるが)で晩餐にあずかる者、すなわち回されるパンとぶどう酒を食べる(これを表象物にあずかるという)者のことである。毎年各会衆はこの「表象物にあずかった者」の数を世界的に集計し、それがその年の「油塗られた者の残りの者」の数となる。難しいのは、各会衆は記念式に際して前もって誰が表象物にあずかるかあずからないかを打ち合わせないことである。この表象物にあずかる行為は各エホバの証人の自発的な決断に任されている。大部分の証人は上に述べた1935年以来の教義をよくわきまえており、パンとぶどう酒に手を出さない。従って、「油塗られた者」の数は協会の思惑通り、毎年少しずつ減少しており、これがまた協会の「終わりの時」の予言を支持する現象となっている。エホバの証人の間では「今年は更に油塗られた者の数が減ったから終わりが近い」という言葉が毎年繰り返されている。

このやり方で問題となるのは、時に一般のエホバの証人の中で協会の教義をよく納得していないか、あるいは何らかの理由で自分は油塗られた者であると確信した証人が、新たに表象物にあずかり始めることである。このような者は特に新たにバプテスマを受けた証人の中に多い。1970年代前半のエホバの証人の急増期には新たに表象物を受ける者が相次いだ。その結果奇妙な現象が起きた。1973年の統計では「油塗られた者」の数が実際に増加してしまい、それに次ぐ1974年にもまた増加してしまった。これに対する協会の対応の仕方はこれらの「新たな油塗られた者」に懐疑的であった。 基本的には協会はこれらの「新たな油塗られた者」は一時的な誤りを冒した者と見る。しかし公式的にはそのような者たちを特別に指導する方針は出されていない。しかし、個々の会衆のレベルで見ると「新たな油塗られた者」に対する長老や指導的立場にあるもの、また一般のエホバの証人の社会の態度は特別なものがあった。これは伝道者数、バプテスマ数の急増した1970年代に特に顕著であった。長老たちはしばしばこれらの「新たな油塗られた者」が本当にそれにふさわしい人間かを問いただした。一般のエホバの証人はこれらの者たちを「自分を高める誇り高ぶった者」「自分が協会よりもより多くのことを知っていると思っている者」と見なす傾向があった。時にはこれらの者はゴシップの対象となり、仲間外れにされることさえあった。1970年の後半に協会の教義に反して「油塗られた者」の数が増えた時、この「新たな油塗られた者」に対する圧力は以前にも増して強まったと言われる。多くの「新たな油塗られた者」たちが周囲の圧力に負けて、それ以後表象物にあずかるのをやめたと言われている。

6)いわゆる1980年の「粛正」

1970年代のものみの塔協会のもう一つの特徴は、教義の二転三転するめまぐるしい変化であった。夫婦間の性行為に関する細かい規則、臓器移植の禁止と解禁、エホバの証人の全員が「宗教の奉仕者」(ministry of religion) であって兵役を免除されるかそれともこれは長老と奉仕の僕のみに適用されるのか、等の細かな教義に10年足らずの間に180度の変更が加えられ、また元に戻された。このような統治体の一貫性の無さと指導力の欠如は、当時統治体の内部にいてこれらの教義のめまぐるしい変更を直に目撃し、「良心の危機」に目ざめざるを得なかったレイモンド・フランズの著書によく記述されている。

このような指導部の動揺と徐々に成長しつつあった内部からの批判は、ついにニューヨーク・ブルックリンの協会本部の内部にも批判勢力を育てざるを得なかった。先ず一部の本部職員たちが、個人的な聖書研究会を始めた。この中には統治体の一員であったレイモンド・フランズ、ギレアデ学校(ものみの塔協会の神学校に当たる宣教師養成学校)の教務主任エドワード・ダンラップ、数人の元地区監督、元巡回監督、長老が含まれていた。レイモンド・フランズ自身、それまで協会の本や雑誌の執筆を通して多くのキリスト教関係の出版物に目を通す機会があったし、本部職員には一般のエホバの証人には与えられない情報に触れる機会があった。このような環境は、ものみの塔協会の最も恐れる「独立した思考」をこれらの一部の職員の間にはぐくむのに役だった。彼らは1914年キリスト再臨の教義、現在が「終わりの時」のしるしを現していることの教義、14万4千人のみが天で復活する教義、等を聖書に基づいて再検討した。彼らは結論としてこれらの教義が聖書に基づくものでなく、またその論理の帰結としてものみの塔協会、統治体、そしてついにはエホバの証人の組織そのものが聖書に述べられている救いの必要条件ではないのではないか、と考えるものまで出てきた。

しかし、これらの少数派の本部職員たちは当時、「時が来れば真理は明らかになり、誤りは正されるであろう」との態度をとり、内部にとどまって組織を変革できると考えていた。従って、彼ら自体は自分たちの研究結果を公に発表し、指導部を批判する行為には出なかった。しかし、ブルックリンの閉鎖された本部職員の社会の中ではこの噂はすぐに広がらざるを得なかった。この噂は1980年の初めには他の統治体の、特に強硬的見方をするメンバーの耳に達せざるを得なかった。1980年4月、統治体はこの組織の教義の根底を揺るがす疑問を、個人的にせよ提起したグループに対し、過酷な弾圧を開始した。これがものみの塔の近年の歴史で1980年の粛正として知られる内紛の始まりである。

1980年4月28日、次のような覚え書きが、統治体の議長委員会の名前で発せられた。

間違った教えが広まりつつある最近の証拠

以下にあげるのはベテル(訳注:本部の別名)から発している間違った教えのいくつかである。これらは4月14日以降、外部から統治体に対してもたらされたものである。

  1. エホバは今日地上において組織をもっていない。統治体はエホバによって指示を受けていない。

  2. キリストの時代(紀元33年)から終わりの時までバプテスマを受けたものは全て、天での復活の希望がある。これらの全ての者は記念式で表象物にあずかるべきであり、「油塗られた残りの者」と思う者だけに限るべきではない。

  3. 油塗られた者から成る「忠実で思慮深い奴隷」級の者たちと統治体がエホバの民を指示するという正当な根拠はない。

  4. 今日、「天的」級と、ヨハネ10:16の「他の羊」といわれる「地上」級、の二つの級は存在しない。

  5. 啓示7:4でのべられている14万4千の数は象徴的な意味であり、文字通りにとるべきではない。啓示7:9でのべられている「大群衆」もまた天で仕える。このことは15節で彼らが「夜も昼もその神殿で」あるいは王国行間訳版では「彼の神聖な住まいで」仕える、と書いてある通りである。

  6. われわれは今、「終わりの日」の特別な時期に住んでいるのではない。「終わりの日」は、ペテロが使徒2:17で予言者ヨエルを引用して述べたように1900年前の紀元33年にすでに始まっている。

  7. 1914年は確立された年ではない。イエス・キリストは1914年に王座についたのではなく、紀元33年以来王国を支配している。キリストの再臨(存在=パルーシア)はまだ起こっておらず、マタイ24:30で述べられている「人の子のしるしが天に現れる」将来の時に起こる。

  8. アブラハム、ダビデ、その他の昔の信仰のあった者たちもまた、ヘブライ11:16に書いてある通り天で復活する。

注意:上に述べた聖書の見方はある者たちによって受け入れられ、「新しい理解」として他の者たちに伝えられている。このような見方は協会のクリスチャン信仰の基本的な聖書の「枠組み」と反している。(ローマ2:30、3:2)これらはまた、エホバの民によって長年にわたって聖書的に受け入れられてきた「健全な言葉のパターン」にも反している。(テモテ第二1:13)このような「変更」は箴言24:21、22で非難されている。従って上記は「真理からそれ、ある人たちの信仰を覆している。」(テモテ第二2:18) 全てを考慮するとこれは背教であり、会衆の決定として処置すべきではないか?(神権宣教学校教科書1977年58頁参照。)

議長委員会 4/28/80

この時ブルックリンの本部の印刷工場で働いていたランダル・ワターズは、この少数派にはその当時関係はしていなかったが、1980年の粛正を、本部の内部に住む人間としてつぶさに目撃した。彼はこう書いている。

‥‥統治体の一人(レイモンド・フランズ)が休暇をとって留守にしている間に特別委員会が作られ、フランズの親しい友人、知り合いの全てが取り調べられ、告白を迫られた。これはフランズが私的にでも公的にでも述べた全てのことを寄せ集め、それを彼に対する証拠として使うためであった。二週間にわたってこの委員会はベテル家族(本部職員の別名)を脅かしながら、その告白を録音していった。それに続き、このあわれな統治体の一員(レイモンド・フランズ)は突如統治体により休暇から呼び戻され、統治体の前でこれらの告白の録音を聞かされた。その後彼は統治体を追放され、全ての権利を剥奪された。彼は何十年の間、組織の責任ある地位にあって組織に奉仕し、世界中を旅行して各国の支部を訪れた人間だった。しかしそんなことは全く考慮されなかった。‥‥

レイモンド・フランズはこの時点で統治体をやめさせられ、彼の妻と共に本部から追放された。彼がしかし直ちに排斥処分を受けなかったのは、彼の立場が協会の中で余りに際だっていたためと考えられている。しかし彼のベテルからの追放に続いてベテル本部では排斥の嵐が吹きまくった。エルシー、ルネ・バスケスの夫婦は最初のスペイン・ポルトガルの地区監督を勤めたが、背教の理由で排斥された。妻のエルシーはエホバの証人を主にした旅行代理店を経営していたが、彼女の排斥にともなってエホバの証人は一斉に彼女の店をボイコットし、その結果バスケス夫妻は経済的にも制裁を受けなければならなかった。ギレアデ学校の教務主任、エドワード・ダンラップはレイモンド・フランズと並ぶ協会の中の有数の筆達者で、彼の単独の著作には現在でも証人の間で使われている「ヤコブの手紙の注解」がある。このダンラップもまた排斥処分を受けた。その他多数の長老、監督が排斥の対象となったが、この中には先に排斥されたものとつきあったり、弁護したりして二次的に排斥処分を受けた者もかなりいた。

7)レイモンド・フランズの排斥

レイモンド・フランズ自身はブルックリンのベテルを追放され、北部アラバマ州、ガズデンの町に移った。59才の年で年金も退職金もなく、他に職業訓練も受けたことのないレイモンド・フランズは、追放のすぐ翌日から生計の心配をしなければならなかった。彼は友人のピーター・グレガーソンの所有地の仮設住宅(モービルホーム)に間借りさせてもらうことにした。彼はそこでピーター・グレガーソンの所有地の芝刈り、雑草の始末、植木の手入れ等の肉体労働をして家賃をまかなった。その一方、彼はエホバの証人としての活動をやめず、東ガズデン会衆で一般の伝道者に混じって集会と野外宣教に参加していた。しかし、彼はその中でも個人的に独立した妻との聖書研究を絶やさなかった。

しかしそのレイモンド・フランズを取り巻く会衆の雰囲気も徐々に険悪になっていく。一つの大きな要因は1980年の粛正以後、マッカーシーの「赤狩り」に似た「背教狩り」の雰囲気が各地の会衆に広められたからであった。告げ口や秘密裏の行動調査がエホバの証人同士の間で行われ、それが推奨された。このような中にあって先ずフランズの大家に当たるピーター・グレガーソンが1981年3月、エホバの証人の教義に疑問を抱き自発的に脱退した。彼は残された友人や家族への仕打ちを考えて排斥処分よりは面目の保てる自発的な脱退を選んだ。しかしものみの塔協会はこの二つを区別しなかった。1981年9月のものみの塔誌で自発的な脱退をした者は排斥された者と同じ様な扱いを受けなければならず、全てのエホバの証人は彼らから避けなければならないという、これは現在でも続く強硬路線が打ち出された。この指示がものみの塔誌を通じて広められると、「背教者狩り」の雰囲気はますます高まった。レイモンド・フランズ自身が標的となるのは時間の問題であった。

1981年9月、東ガズデン会衆に審理委員会が設けられ、そこでレイモンド・フランズが取り調べられることになった。彼の「罪」とはピーター・グレガーソンとレストランで食事をしたことであった。たまたま同じレストランの別の席で食事をしたエホバの証人が告げ口したのであった。これは排斥された人間とつきあってはいけないという協会の規則の違反と考えられた。彼は審理委員会が引用する聖句、コリント第一5:11の「そのような人とは共に食事をすることさえしないように」という句は「淫行の者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、ののしる者、大酒のみ、ゆすり取る者」を指しており、ピーター・グレガーソンはこのどれにも当たらないこと、同じく審理委員会が使うヨハネ第一2:19の聖句に関しては、これは「反キリスト」に関して述べた聖句であり、グレガーソンは神とキリストに対して反対したことは一度もなく、この聖句は適用できないとして弁護した。またフランズは彼が60に手の届く年で、蓄えもなく、手に職もない状態では、彼の雇用者であり大家であるピーター・グレガーソンとつき合わずには生きていけないことも指摘した。しかし、彼は悔い改めが見られないとの理由で控訴も却下され、1981年12月31日をもって正式に排斥処分を受けたのであった。

8)1980年の粛正の波及効果

1981年から82年にかけては、世界的にエホバの証人の一般の信者の間から批判勢力が台頭した。ジェームス・ペントンはカナダ・アルバータ州、レスブリッジの長老であったが、50人から60人の証人とともに脱退し、1981年の春にはトロントの協会支部の建物のまわりをデモ行進してピケを張った。1982年から1983年にかけては世界的にマスコミがものみの塔協会の内紛に注目した。ニューズウィーク、タイム、などの雑誌に記事が載り、大手のテレビ局が番組を作り、その結果ものみの塔協会の問題は当時、社会の注目を集めることとなった。アメリカ大陸以外への波及は数年遅れたが、1980年代を通して、世界各地で教義に疑問を抱き、統治体を批判するエホバの証人は、少数とはいえあとを絶たなかった。しかしそれでも世界全体を見ればエホバの証人の増加には歯止めはかからなかった。



参照文献

  1. 『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会 1993年
  2. "Apocalypse Delayed " M. James Penton University of Toronto Press, 1985



歴史 第五部 エホバの証人の最近の動きと将来の展望へ続く

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