歴史 第三部 ノア会長と世界拡張の時代


1)ネイサン・ノア
2)組織拡大の努力
3)巨大な世界大会
4)会衆委員会と審理委員会の設置と排斥処分の拡大
5)1975年終末の予言と協会の急成長
6)協会組織の改革
7)1975年の予言の失敗

1)ネイサン・ノア

1942年にジョゼフ・ラザフォードが死んだ後、第三代会長に就任したのはネイサン・ノアであった。彼は1905年ペンシルバニア州ベツレヘムに生まれた。16才で「聖書研究者」に参加し、18才でニューヨーク・ブルックリンのベテル(ものみの塔協会の本部のこと)に参加して以来、終生をそこで過ごした、生っ粋のエホバの証人であった。ノアは1940年以来ラザフォードの元で副会長として、彼の右腕となって協会の実務を遂行していた。彼は外面ではラザフォードと異なり、小柄で、温和な印象を与えた。彼はまたビジネス感覚を持ち、それは彼の任期に行われた組織だった協会の世界的拡大に貢献したといわれる。彼もまたラザフォードと同様、内部における自分の非同調者や自分の命令に従わない者に過酷な態度をとったが、その一方では、第一代、第二代会長に比べてカリスマ的会長の姿を前面に押し出すことは少なかった。またそれらの前任者と異なり、ノアは正常な夫婦関係を保てた。彼の大きな欠点はその高等教育の欠如であった。そのため彼は前会長のような大量の文書の執筆はできなかった。彼が会長になったあと、ものみの塔誌の記事の執筆者名が隠されるようになったが、その一つの理由にノアが会長として主要記事を執筆することができなかったことがあげられている。その彼の無教育を補って、彼の片腕となって働き、多くの記事や出版物を執筆したのがフレデリック・フランズであった。彼はノアの元で1949年以後副会長に就任し、1977年のノアの死後は第四代会長に就任するが、ものみの塔協会の指導者の歴史の中でほとんど唯一の大学教育を受けた人間であった。フランズの教育と知識、その雄弁は、彼をノアの実質上の代弁者にするのに十分であった。ノアの時代に作られたり変更されたりした教義の多くは、フランズがその基礎を作り上げたといわれる。

2)組織拡大の努力

ノアの時代の大きな特徴は、協会の組織だった拡大の努力であろう。彼の時代に現在の地域、巡回区が世界的に網の目のようにはりめぐらされ、それぞれの監督がおかれて世界的中央集権体制が確立された。また巡回大会、地域大会が定期的に開催されるようになったのも彼の時代である。1943年、彼は各会衆に神権宣教学校を設置し、ニューヨークにはギレアデ学校といわれる宣教者の訓練学校を作った。これらの教育機関では効果的な「売り込み」の技術が教授され、世界中に網の目のようにはりめぐらされた組織とあいまって、ものみの塔宗教はあたかも訪問販売化粧品のように世界を席巻していった。特にギレアデ学校の卒業生は、ものみの塔宗教の未開地に対して、ある時は命懸けで送り込まれ、協会組織の世界的拡大に貢献していった。1942年のノアの会長就任時に11万人であったエホバの証人の数は、1977年の彼の最後の年には222万人にふくれあがった。この急成長の原動力は、ノアの上記のようなビジネス感覚の他に、この時代の特徴があげられている。すなわち、第二次世界大戦の前後の厭戦気分と平和の希望、そして1950年、60年代の冷戦の緊迫による差し迫った第三次世界大戦の危険とそれにともなう世界の破滅の恐怖は、ものみの塔のような差し迫った世界の終末とそれに続く地上の楽園を売り物にする宗教にはまたとないお膳立てであった。

3)巨大な世界大会

この時代の急成長を象徴するのは1950年代に開かれた巨大な世界大会であろう。1950年のニューヨーク・ヤンキースタディアムの大会では16万人以上の信者がノア会長の「あなたは地上で幸せに永遠に生きられますか?」という講演を聞き、その時点で初めて出版された協会による新約聖書の訳(新世界訳)が配布された。1953年に開かれたニュージャージーの世界大会は1950年大会と近い規模であったが、1958年にはエホバの証人の歴史上最大の世界大会が、やはりニューヨーク・ヤンキースタディアムで開かれ、最終日には25万人以上が動員され、ニューヨーク市全体に影響を及ぼす大行事となった。この大会では副会長のフランズが「キリスト教界の僧職者たちはこの地上で最も非難されるべき人間である」という反キリスト教の教義を強調する宣言文を読み上げ、大会参加者の全員によって採択された。最終日にはノア会長の「神の王国支配−世界の終わりはすぐですか?」という講演が行われた。この大会はあまりに大きすぎてニューヨーク市の機能に悪影響を与え、それ以後これほど大きな大会は開かれなくなった。

4)会衆委員会と審理委員会の設置と排斥処分の拡大

組織の規則に従わない証人に対する懲罰制度はノアの任期中に現在も続いている形に確立された。その骨子となるのは三名の男性信者からなる会衆委員会の設置であり、これらの特別の権限を持った者達が巡回監督の支持の元、協会本部あるいは支部と緊密に連絡を取りながら、会衆の長にあたる会衆の僕となるべき信者を本部に推薦し、会衆の一般信者の指導、特に懲罰に関する決定を行うようになった。これは名前こそ違うとは言え、実質的に各会衆に、カトリックと似た聖職者を置くことと同じ結果になった。この制度の元で多くの証人たちが彼らの「悪行」について裁かれた。この委員会は決して現在の司法制度の基本となるような証拠、証言の信憑性の吟味、容疑者の基本的権利等に関する考慮は一切なく、一方的な裁定が下されるところは、これまたカトリックの昔ながらの宗教裁判と基本的には同一であった。淫行、酒乱、輸血の使用の他、協会の打ち出した教義や規則を公然と批判する者、そして排斥された元証人と交際し続ける者が対象とされた。会衆委員会はこのような懲罰のために開かれる時は審理委員会と呼ばれた。この委員会の決定した排斥処分はエホバの証人の社会の中で大きな影響力を持つようになった。なぜなら、その決定が個々の証人の交際範囲や家族関係を直接決定するからであった。

5)1975年終末の予言と協会の急成長

歴史的に見て、ものみの塔宗教の急成長が起こったのは協会が新たな終末の年を予言した時と、戦争による世界の破壊が進行している、あるいは冷戦のように世界の破壊が間近に迫っていると感じられる時であった。しかし1960年代の前半には成長の伸び悩みの兆しが見られた。これに対応するかのように1966年、新しく出版された本「神の自由の子となってうける永遠の生命」の中で1975年に人類創造から六千年が終わり、新たな千年統治が始まるという全く新しい教義が発表された。そして1968年以来、「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌の中で次々と1975年に向けて準備をするようにとの記事が掲載された。後にこの予言が見事に外れた後、協会は決して1975年に終末が来ると言い切った事はないと何度も自己弁護を繰り返した。しかし1975年に新たな千年統治が始まる、と1966年の出版物の中で述べておき、次に多くの記事で、1975年に向けて終わりの日の準備をするように呼びかけるなら、たとえ1975年に終わりが来るという文章がどこにも現れなくても他にどのような論理の帰結がありうるのだろうか。

いずれにしても当時の一般のエホバの証人たちはこの1975年をほぼ確実な年として、ものみの塔の勧めに従って、終わりの日の準備をした。当時「72年までに済ませて75年まで生き延びる」が合言葉になっていた。多くの若者は残り少ない何年かを学業に使うより宣教奉仕に使おうと次々と学校をやめていった。多くの人々は順調にいっていた家業や職業をやめて財産を処分した。家を売ったり、保険を解約してその資金で開拓奉仕に専念するものも多かった。結婚や出産を遅らせる信者が相次いだ。この年を追って高まる信者の熱心さは、1970年代前半のエホバの証人の世界的急成長をもたらしたのであった。

6)協会組織の改革

1972年、協会はあらたな組織運営制度を記載した「王国宣教と弟子作りのための組織」と題する本を発表した。この時代の組織制度改革は個人支配からより集団指導体制を目指すものであった。まず会長のもとに11人の「油塗られた者」級の協会幹部からなる統治体が設置され、もはや会長の個人的決定が最終的な力を持つことがなくなった。また各会衆の運営も「会衆の僕」といわれる個人の支配から長老たちと「奉仕の僕」の集団指導体制に変化していった。そしてこれらの管理職は巡回監督、地域、地帯監督と同様、一定の任期による持ち回り制となった。この一見民主的と見える組織の改革は、エホバの証人の社会の中でより自由な議論を歓迎するように見えた。しかしこの権力の分散化の本当のねらいは1975年の前に来るはずの世界的宗教弾圧に向けられたものであった。彼らは、いったん宗教弾圧とだいかんなんが来れば、組織は分断され各地域、会衆はある程度独立で機能する必要があると考えたのであった。

7)1975年の予言の失敗

1975年が他の年と同じ様に過ぎ去り、予言された世界の破滅が起こらなかった時、多数のエホバの証人が幻想から目覚め、組織を後にした。それは1976年の信者増加率の急激な低下に始まり、1977年の信者(伝道者)数の減少という戦後ではまれにみる事態に至った。この信者数の減少は世界的な現象であったが、興味あることになぜか、日本はこのほぼ唯一の例外として、1970年代の後半に著しい信者数の増加を続けた。この憂慮すべき事態に対する協会指導部の反応は他の予言の失敗の時と同様、弁解と正当化、そして取り繕いのための教義の調整であった。そこには決して謙虚な反省と根本的な教義の見直しはなかった。この当時、ノア会長は既に進行した脳腫瘍に侵され、会長としての機能を失っていたといわれる。この困難な時代に中心となって対応していたのは次期の会長であるフレデリック・フランズであった。前の二人の会長と同様、ノアもまた予言の失敗に動揺する組織を目の前に残して1977年6月7日に死去する。



参照文献

  1. 『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会 1993年
  2. "Apocalypse Delayed " M. James Penton University of Toronto Press, 1985



歴史 第四部 フランズ会長と1980年代の内紛へ続く

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