歴史 第二部  ラザフォードによる組織の拡大


1)ラザフォード
2)1917年の大分裂
3)ラザフォードの投獄事件
4)新たな出発
5)ラザフォードの指導によるものみの塔宗教の拡大
6)「エホバの証人」の命名
7)「神権統治」の徹底強化
8)新たな教理 ― 閉ざされた天への希望と「大群衆」
9)社会的孤立
10)いかがわしい医学教理
11)ラザフォードの私生活
12)ラザフォードの晩年と死

1)ラザフォード

ジョゼフ・フランクリン・ラザフォード(1869ー1942)はミズーリ州の貧しい家庭に育ち苦労して徒弟奉公をしながら弁護士の資格を取ったのち、1906年洗礼を受けてラッセルの宗教活動に加わった。折りからラッセルは離婚や僧職者達との争いで数々の裁判を争わなければならなかった。これはラザフォードにとってこの団体の中で地位を築きあげるのに幸いした。彼は得意の雄弁をふるってラッセルとその宗教を弁護した。従って、ラッセルの死後わずか2ヶ月で彼がラッセルの後継者に就任したのも特に不思議には見えなかった。しかしラザフォードの、ラッセルと対照的な、強権的性格はその就任当初から目にみえていた。

ラザフォードの性格についてはラッセルと同様たくさんの記述が残されている。彼はその長身と頑強な体躯、そこから出る威圧的な声と話し方で常に聞く者を圧倒した。彼は宗教指導者というより上院議員の政治家というタイプであった。彼は非常に気分屋であり、話し方はぶしつけでおうへいな印象を聴く者に与えた。癇癪持ちの性格で、時折は怒りを押さえきれずに暴力をふるうこともあったという。自分を批判されることを許すことができず、自分に反対するものは自動的に悪魔のレッテルがはられた。品行方正をうたい文句にするエホバの証人の会長には似つかず品のない言動がよく見られた。主の晩餐の記念式の前の晩、二人の長老を引き連れてヌード・ショーを見にいったことでは彼は公的に非難されることとなった。ラザフォードがアルコール中毒者であることは全ての史料が一致して認めるところである。当時のベテル(ニューヨークの協会本部はこう呼ばれた)でラザフォードの元で働いていた人の証言によると、ラザフォードは会長の職権を利用してカナダの支部監督から酒をみつがせていたと言われている。

ラザフォードの、霊的指導者というより、やくざの親分と言ったほうがぴったりのこの性格と言動は、彼をラッセルと違った形のカリスマ的指導者に作り上げていく。数年のうちに協会は、集団指導体制を指示したラッセルの遺書に反して、ラザフォードの絶対独裁体制の元に全く異なった変革をとげていく。



2)1917年の大分裂

1916年10月31日のラッセルの死後、後継の会長の座をめぐって何人かが争うことになる。ポール・ジョンソンは最初ラッセルの指示によりイギリスで国際聖書研究者協会を組織していたが、ラッセルの死後次期会長をめざすことになる。これを知ったラザフォードはロンドンにいたジョンソンの全ての職権を剥奪し直ちにアメリカへの帰国を命じた。ラザフォードはジョンソンを精神病扱いにし、その後一切彼に役職を与えなかった。

一方協会の理事会には、ラッセルが直接任命した四人のメンバーがいた。この四人はラザフォードがラッセルの遺志を無にしてラザフォード独自の方針を出していったことに危機感を感じ、協会の内部規約を変更し、ラザフォードへの権力集中を牽制しようとした。これを知ったラザフォードは立ち所にこの四人の理事を解任し、自分を支持する別の四人の理事に変えてしまう。理由は彼らがラッセルの直接任命による理事あって、理事会の選挙を通していないから、その地位は無効であるというものであった。しかしこの理屈は全く通用しないものであった。なぜなら他にも選挙で選ばれていない理事は何人かいたからである。

この対立が決定的になったのは1917年7月、ラザフォードが密かに他の二人と共同で執筆してきた「終了された秘義」をラッセルの六巻の「聖書研究」の第七巻として突然発表したことにある。この本は主に啓示の書とエゼキエル書を注解したものであるが、後にも先にも見られないような奇妙で奇怪な解釈が見られる。たとえば、啓示の書14章20節のぶどう絞りから流れた血の距離1600ファーロングは、この「終了された秘義」の書かれたペンシルバニア州スクラントンから協会の本部のあるブルックリンまでの距離について書いてあると解釈させる。しかしこの距離の計算はニュージャージー州ホーボーケンから出るフェリーボートに乗ることが条件となっている。その怪しげな内容をさしおいても、この本の執筆に関しては、共同執筆者はいるものの、ラザフォードが一人で実質的には企画編集したものであった。このことはラザフォードが、その当時はまだ生き残っていた民主的な協会の運営を完全に無視したことになり、理事達、特にラッセルの遺志をうけつぐ者達の不満をかった。

ジョンソンはこのことを公然とラザフォードの前で抗議した。1917年7月27日ジョンソンはベテルの家族(職員達のことをこう呼んでいた)の面前で、自分の言い分を話す機会も許されぬまま、ラザフォードから追放を言い渡された。ジョンソンが自分の立場を話そうとした時ラザフォードは暴力づくでジョンソンをベテルから追い出したという。彼の私物は戸外に放り出され、何人もの兄弟が見張りに立ってジョンソンが戻って来るのをくいとめる用意をさせられた。また四人の反ラザフォードの役員たちも警察力を導入して追放された。1918年ついにこれらの追放された信者たちは別の教派を形成し、完全にラザフォードの率いる協会と袂を分かつことになった。

これらの分派した信者たちはその後「ラッセル派」と呼ばれるようになった。彼らは確かにラッセルの教えに戻る形になっていた。しかし、もし個人の名前でその教派を呼ぶのであれば、ラザフォードの組織こそラザフォード派と呼ばれるべきであろう。それというのも、スターリンの独裁政権下の恐怖の粛正を髣髴とさせるラザフォードのやりかたと、それに続く一連の独裁体制づくりの過程をみると、一個人の影響が一貫してその教派の教義に反映されているという点では、ラザフォードの追随者、つまり現在のエホバの証人の組織の方がはるかに、いわゆる「ラッセル派」よりも強力なのである。言い換えれば他のことはない、現在のエホバの証人はみな「ラザフォード派」と呼ばれるべき人達なのである。



3)ラザフォードの投獄事件

1917年、ラザフォードは会長就任の最初から、キリスト教界の聖職者達が当時進行中の第一次世界大戦を支持していることを非難するキャンペーンをくりひろげた。このことは当然ながら大きな反発をくらい、ラザフォードを含む8人の協会役員は煽動罪で起訴され、有罪の判決を受けることになる。彼らはみなアトランタの拘置所に送られ九ヶ月間をそこで過ごすことになった。この間一時的にせよ、ものみの塔宗教は実質的に停止せざるを得なかった。この経験はラザフォードの生涯を貫くキリスト教界への憎悪に拍車をかけるものとなった。1919年3月、彼らは保釈金を払って釈放され、翌月、公正な裁判を受けられなかったとの理由で全員無罪を言い渡された。



4)新たな出発

釈放後のラザフォードは組織の再建に取り組んだ。新たに人心を捉えるには新しい教理が必要であった。1920年彼は「現存する万民は死することなし」という本を出版して「新しい光」(エホバの証人は新しい教理が発表される度にこう呼ぶ)を示した。同名のスローガンの元に信者による新たな家から家への宣教活動が開始された。この新しい教義では、1925年に人類が完全さを取り戻し、完全な人間が支配する1000年統治が始まる、その時には旧約聖書のエホバの忠実な僕、アブラハム、イサク、ヤコブ等がみな完全な人間として復活し、現存する万民と一緒に新秩序の中で永遠に生きるとした。この新しいキャッチフレーズはラザフォードの計算通り人心を捉えることに成功した。新たな家から家への宣教活動とその時間報告義務の開始はこれに拍車をかけた。1925年が近づくにつれて信者の気持ちは高揚していった。ラザフォードは協会の資金で、復活してきたアブラハム、イサク、ヤコブ等を迎えいれて住まわせるためにベス・サリムという名の豪邸をカリフォルニア州サンディェーゴに購入した。信者たちは事業、学業、結婚、出産等をみな遅らせて1925年の新秩序の到来にそなえた。家を売ったり保険を解約するものもいた。更に農家の信者たちは1925年以降の収穫は必要なしとして種を蒔くことをやめた。

やがて1925年が来て過ぎ去り、予想されたことが起こらなかった時、何千という信者は失望してこの宗教を離れた。ラザフォードはといえば、彼はこの失敗にいささかも動じることはなかったようであった。彼は相変わらず「終わりはすぐ間近」、「たとえ今外れても数年あるいは数ヶ月のうちには実現するだろう」と強気の態度を続けた。この、終わりの時の設定、それに備えた信者の動員と信者の急増加、失望とそれを取り繕う予言の修正、というパターンは、これ以後現代まで連綿と繰り返されるこの宗教の特徴であり、その最初の原形がこの1925年の予言に端的に示されているのである。



5)ラザフォードの指導によるものみの塔宗教の拡大

この1925年の予言の失敗はこの宗教の信者数を一時的に減少させたが、その傾向も長続きはしなかった。ラザフォードは次々と新しい宣伝活動を試みる。1925年以降平均一年に一冊の割合で彼は自分の本を出版していった。また1922年のオハイオ州セダーポイントに始まり、毎年全米各地で大きな全国大会を開催し何万人という信者を動員してその拡大ぶりをみせつけた。1922年から1928年までのこれらの全国大会は、啓示の書8:1から書かれている七人のみ使いが七つのラッパを吹くという予言が成就されたもの、というのは現代のエホバの証人も信じている教義の一つなのである。また1925年以降協会の出版物は、編集委員会を通さずラザフォード一人の判断で出版されるようになり、彼はついに編集委員会そのものをも解散させた。



6)「エホバの証人」の命名

1919年以降ラザフォードは自分の追随者である「聖書研究者」と、ラッセルを受け継いではいるが必ずしもラザフォードに従わない「聖書研究者」達とを区別する必要があった。1931年7月のオハイオ州コロンブスでの全国大会で彼は自分達の宗教を「エホバの証人」という新しい名前で呼ぶことを発表した。これはイザヤ書43:12「「あなた方はわたしの証人である」からとられた。彼はイザヤ書62:2を引用し、神の民は「新しい名前」を与えられると書いてあることを根拠とした。しかしこのイザヤ書をもう2節読み進むと、その新しい名前は「エホバの証人」ではなく「わたしの喜びは彼女にある」であり、ラザフォードのつけた名前は彼の引用した聖句には基づいていないのである。しかし、他のラザフォードの新しい教理や方針と同様、この新たな宗教の名前も多数の信者の意気を高揚させるのに役立った。



7)「神権統治」の徹底強化

ラザフォードの独裁体制は組織の構造の面でも「神権統治」の名のもとに強化された。1919年から1932年にかけて彼は各地の会衆に宣教活動を課し、その結果を直接協会本部に報告させる制度を作っていった。そして協会が任命した奉仕監督が直接各会衆を指導するようになった。そして最初は「黄金時代」(「目ざめよ!」の前身)を、そして1926年からは「ものみの塔」誌を売り歩くことが宣教活動の大きな柱となった。それと同時にラッセルの時代から伝統的に続いていた各会衆の独立性を取り除き、全ての会衆が協会によって直接コントロールされるシステムが作られていった。

現在でも毎週続けられている「ものみの塔」研究は、「ものみの塔」誌の欄外に書かれている質問に対し、ものみの塔の本文の中から答えを見つけてそれを復唱することにより、書かれている内容を信者の頭にたたきこむ、この宗教の中心となる信者の教育方法である。この方法はラザフォードのこの時代に協会のめまぐるしく変わる教理を信者に一律、一斉に、また効果的に浸透させる目的で始められた。この「ものみの塔」研究、は各会衆の長老が独自の考えで説教や公開講演をするそれまでの会衆の活動よりも重要なものとされた。

そしてついに1932年、それまで必ずしもラザフォードに協力的でなかったいくつかの会衆に業をにやしたラザフォードと協会の指導部は、それまでラッセルの時代から続いていた各会衆の長老と監督の民主的選挙による選任制を廃止し、1938年には各会衆の全ての役職は協会の直接任命制によって決められるようになった。こうしてラザフォードは各地の会衆にくすぶり続けた彼の批判勢力を押さえつけることに成功した。

ラザフォードはまた様々な宣教方法をとりあげた。現在のエホバの証人の活動の柱となっている家から家への宣教とその時間報告制度を築きあげたのは彼であった。その他、現在の証人たちは一切行わない興味深い宣教方法がいくつか取り入れられていた。その一つは携帯蓄音機によりラザフォードの演説を家から家への宣教に際して聞かせたことであった。その他独自のラジオ放送局を開設したり、宣伝カーに大音量のスピーカーを備え付けて、いずれもラザフォードの迫力ある演説を一般の市民の耳に叩き付けていった。これらの方法はラザフォード体制の終了とともにすたれていったが、いかにラザフォード個人の信者に対する直接的影響が重視されたかを如実に物語る現象である。



8)新たな教理 ― 閉ざされた天への希望と「大群衆」

ラザフォード体制下のものみの塔宗教は新たな教理を数々を発表しながら、より先鋭的な変革をとげる。先ず、新たな教理では復活の希望のある人間の数がますます減らされていった。ラッセルの時代には多くの人間に天における復活の希望があったが、1923年にはキリスト教界の僧職者達、そして後にはラザフォードと協会の指導部に従わない全ての者達が永遠の死に至るとされた。恐らく最大の恐怖の教理は、ハルマゲドンの時点でエホバの証人に改宗していない全ての者は、物心もつかない幼児まで含めて全て殺され、永遠に復活する希望が無い、というものであろう。この教理は、エホバの証人に改宗していれば永遠に地上で生きられるという魅力的な教えと抱き合わされて人々にアピールしていった。信者は、ものみの塔組織に頼ることが唯一の希望の道であり、それから離れることは絶望的な永遠の死であるという、巧妙な「飴と鞭」の板挟みになり、組織への忠誠を強めていくことになる。そしてこれは現代に続くこの宗教のマインド・コントロールの基礎となっていった。

恐らくラザフォードの作り上げた教理の最も重要なものは、14万4千人の天で復活できる階級と、地上に残って永遠に生きる「その他大勢」の信者の階級との「二階級復活の教理」であろう。この「その他大勢」の「大群衆」は天においてイエスとともに永遠に生きる希望は無くなった。この希望は14万4千人の特別な階級の信者に限られてしまったのであった。この教理は当時ますます増え続けるエホバの証人の大勢の信者にある程度の希望を与えると同時に、ものみの塔宗教の核心である14万4千人の「あぶら塗られた者」が特別の選ばれた信者であるという教理を継続していくためにどうしても必要なものであった。また信者達は14万4千人だけでなく、不特定多数の「大群衆」を集めなければならないという新たな課題を与えられ、これ以後、この教理は際限のない宣教活動にかり出される理論的根拠を与えた。



9)社会的孤立

一方、ラザフォードの社会体制からの孤立の傾向は奇妙な教理を次々に生み出した。1928年、ラッセルの時代から何の問題もなく続けられてきたクリスマス、誕生日の祝いが突然、異教の習慣に基づいているとの理由で禁止された。ラザフォードは商業、政治、宗教(ものみの塔以外の)を悪魔の三大道具であるとして攻撃の勢いを強めていった。彼はそれまでの、ユダヤ人はエホバの特別の民であるという教義を捨て、エホバの証人のみが神の選ばれた「イスラエル人」にあたるとした上で、当時のアメリカ商業の支配勢力であったユダヤ人を侮蔑した。証人たちは、この世の政府はすべて悪魔が支配していると言う教理を教えこまれ、国旗への敬礼、国歌の斉唱を禁じられた。これらは現在まで連綿と続く教理であり、これらを明白に違反することは、排斥つまり永遠の死で処罰されることになるが、これはこのラザフォードの作った「真理」に始まったのである。

更に彼は、1918年の彼の投獄事件に関与したキリスト教聖職者たち、とくにローマカトリック教の聖職者達に対し、し烈な攻撃をくりかえした。それはまるで「敵討ち」の様相を呈していた。今でもエホバの証人たちがキリスト教を「大いなるバビロン」と侮蔑的に呼ぶのはこの時に始まっている。その当時、多くのエホバの証人たちが、ラザフォードの作ったスローガン、「宗教はわなであり、まやかしである」(Religion is a snare and a racket)、のプラカードを掲げてキリスト教の教会の前や繁華街でデモ行進するのが見られた。



10)いかがわしい医学教理

またこの時代に始まった教理に、数々の医学に関するものがある。現代のエホバの証人はその輸血拒否の教理でよく知られるが、この宗教の奇妙な医学への介入もこのラザフォードの時代に始まっている。これらの医学的「真理」は現在の「目ざめよ!」誌の前身である「黄金時代」に次々に発表されていった。いくつかの例をあげれば、感染症が病原体の感染で起こるという、今では当たり前の医学常識の否定、種痘を初めとする予防接種の一貫した反対(その理由は「病気の動物の膿を人体に取り入れる汚い習慣」ということであった)、ツベルクリン注射の危険、アルミニウム製の食器の有害説の宣伝、今では当たり前の牛乳の低温殺菌の有害説、等であった。これ以外にもいかがわしい癌の治療薬、温水で浣腸を6ヶ月間毎日繰り返す「体内温浴」健康法、いかがわしい医療機器の紹介、アメリカ医師協会への攻撃、等が頻回に「黄金時代」誌に掲載された。これらのものみの塔宗教の医学への介入の重要な点は、エホバの証人全体がこのような無根拠のいかがわしい医学の話を、ちょうど協会の聖書の解釈と同じように無批判で受け入れて信じ込む体質を持っていることであろう。よくエホバの証人には迷信深く、あいまいなものを信じやすい人間が多いといわれるが、その性質を如実に示すのが、今の輸血の教理の前段階ともいえるこれらの「医学教理」の数々なのである。このようなエホバの証人の「偽医学」への無批判的信頼は、ものみの塔協会指導部の巧みに作り出した「新しい真理」への無批判的信頼とが密接に平行していると言えるあろう。



11)ラザフォードの私生活

歴史第一部のラッセルの私生活の項でも書いたが、神の代弁者を自称し、自ら作り上げた「真理」を「エホバの真理」として広めていった独裁的宗教指導者、ラザフォードの私生活は、ラッセルの私生活と同様はっきりと公開されるべきものであろう。このような高い地位に自分をおく人間にとってはその個人のプライバシーも慎重に検討されなければならないであろう。

先ず非常に興味深いラザフォードの個人問題に、その結婚生活があげられる。彼もまたラッセルと同様、早い時期にその妻マリーとの別居生活に入り、それ以後生涯、正常な夫婦生活を体験することはなかった。このように第一代、第二代の創始期の会長が二人とも正常な家庭を維持することが出来なかったことは、果たして偶然であろうか?この宗教が現在までエホバの名の元に多くの夫婦を引き裂いていった歴史を見る時、この夫婦関係の軽視はこの二人の会長に始まるこの宗教の伝統となっていった。たとえ他のものみの塔の出版物がどのように夫婦関係を重視する記事を載せても、実際に個々のエホバの証人とその指導者が夫婦生活をどう見ているかを観察するとき、それらは全くむなしいきれい事に過ぎなくなるのである。なお、彼には一人息子がいたが、この息子はエホバの証人の家庭には珍しく父親の率いる宗教には全く関心を示さず、結局エホバの証人にはならなかった。

ラザフォードのこの夫婦関係の破綻は彼の一貫した女性差別とフェミニストへの侮蔑に裏打ちされている。彼はクリスチャンの男性が、当時アメリカ社会で主流となっていた「女性第一」の習慣に迎合するのは道徳的に間違っていると説いた。

ものみの塔協会は常に必死でラザフォードのアルコール中毒を隠そうとしてきた。しかしこれには余りに多くの証言や事実が記録されており、もはや誰もこれを否定する者はいなくなった。多くの当時のエホバの証人たちがラザフォードが泥酔のために講演ができなくなったのを目撃している。最も重要な記録は当時のカナダの支部監督であったウォルター・ソルターが1937年に発表した公開質問状であろう。この中で彼は多数のビール、ウィスキー、ブランデーを箱単位で協会の資金で購入し、カナダから密かに会長個人の使用のために送っていたことを明らかにした。ラザフォードは一般の信者が家から家への宣教活動に追われている間に、自分自身は一切このような活動に加わる事無く(会長としての職務が多忙で家から家への宣教は出来ないというのが表向きの理由であったが)、ブルックリンの本部の奥深くで、何人かの側近を除いて一切彼の近くに来させないようにした上で、これらのアルコール飲料を飲みまくっていたという。

ラザフォードの生活は当時の大恐慌の嵐の中で、全く世の中の深刻な不況の影響を受けなかったかのように贅沢をきわめた。彼の主な住居はニューヨークのアパートであったが、これは当時の財閥の幹部が住むのに相当する豪華なものであった。その他に彼は協会の資金で第二の住居をステイテン島の協会のラジオ放送局の中に、更に同じくステイテン島の中に別荘を、またロンドンとドイツのマグデブルグにも彼専用の住居をそれぞれ用意させていた。しかし何と言っても最大の住居は、協会の資金でカリフォルニア州サンディェーゴに購入したベス・サリムという名の豪邸である。これは当初、1925年にアブラハム、イサク、ヤコブ等の聖人達が復活してくるという奇妙な予言に基づいて、これらの聖人達を迎えいれて住まわせるために購入された。実際この別荘はラザフォードがこれらの聖人から信託を受けた形で名義登録された。この別荘にはこれらの聖人が使うという目的で豪華なキャデラックの車が二台がそなえつけられた。これらの聖人が予言に反して1925年に復活しなかった後は、この別荘はもっぱらラザフォードの豪華な第二の住まいとなったのであった。



12)ラザフォードの晩年と死

ラザフォードの死の数年前に第二次世界大戦が始まる。これもまた偶然の皮肉以上と思われるが、彼も第一代会長ラッセルが第一次世界大戦をハルマゲドンの始まりと信じたのと同様、第二次世界大戦がハルマゲドンに至ると信じ込んだと言われる。

晩年のラザフォードが1941年セントルイスの大会に現れた様子は、当時19歳であった若き日のレイモンド・フランズの目撃するところであった。その大会の最終日、ラザフォードは5歳から18歳の子供たちを最前席に座らせて、もうすぐに来るアブラハム、イサク、ヤコブ等の聖人達が復活してくる日まで彼らに結婚を延ばすように、そうすればその日にはふさわしい相手が決められるであろうと説いた。この大会で彼は「子供」と題する本を発表したが、間近に近づいたハルマゲドンに備えて結婚を延ばすことがその主要なテーマであった。同年9月15日のものみの塔誌の記事には「ハルマゲドンまであと数ヶ月」という文句が載った。この会長の忠告を忠実に守って結婚をしなかったエホバの証人は数え切れないほどいた。彼らの多くはいつまで待っても実現しないラザフォードの予言を待ち続け、婚期を逸し一生正常な夫婦、家庭を持たないで現在では晩年を迎えているのである。

そのラザフォードはと言えば、彼はこの時すでに末期の癌にむしばまれていた。その死を予想してか、また自分の目の黒いうちにハルマゲドンを見届けたいと言う希望のあらわれか、彼は晩年ますますハルマゲドンの接近を強調した。しかしその彼も癌には逆らえなかった。1942年1月8日、彼はサンディェーゴのベス・サリムの別荘で息を引き取る。皮肉なことに身近に迫っていたのはこの世の終わりのハルマゲドンではなく、彼自身の人生の終わりだったのである。ここに現代のものみの塔宗教の多くの教理と組織を築き上げ、現代のエホバの証人に対し初代会長をはるかにしのぐ影響力を持つ第二代会長ジョゼフ・ラザフォードの時代は終焉を告げる。



参照文献

  1. 『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会 1993年
  2. "Apocalypse Delayed " M. James Penton University of Toronto Press, 1985



歴史 第三部 ノア会長と世界拡張の時代へ続く

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