歴史 第一部 ラッセルとエホバの証人の起源


1)初期のラッセルと再臨派の影響
2)ラッセルの独立とものみの塔宗教の芽生え
3)神の代弁者ラッセル
4)ラッセルの私生活
5)内外の敵
6)ラッセルの晩年


1)初期のラッセルと再臨派の影響

現在のものみの塔協会の基礎を作り上げたのはチャールズ・テイズ・ラッセル (1852-1916) である。彼はアメリカ、ペンシルバニア州アレゲーニー(現在のピッツバーグの一部)に生まれた。彼は最初長老派教会の家庭に育てられた伝統的なクリスチャンであったが、後に組合派教会に変わった。彼は父の経営する男性服装店の事業に若い時から参加し、家業は繁盛していたと言われる。その彼が教会を嫌って独立の宗教運動に走った動機の一つに、教会で教えられた「罪人に対する永遠の地獄の責め苦」の恐怖に耐えられなかったことが上げられている。いったん16歳で教会を離れるが、まもなく再臨派(アドベンティスト)の運動に強く惹かれていった。その当時、再臨派はキリストの再臨の年を様々に設定してそれを告げ回っていた。またその当時の19世紀の後半にはいわゆる千年王国 (millenium) の信奉者が他の宗派にも多数いた。彼がその後、現在のエホバの証人の教義の基礎となるものを作り上げるわけだが、その根底にはこの当時の再臨派の教義と見方が大きく影響しているのである。

1876年、24歳のラッセルは再臨派の指導者ネルソン・バーバーと提携し1874年にキリストは「見えない形で」再臨したという教義をうちだした。1877年、彼はバーバーと共著という形で「三つの世界」という本を出版している。これは実際にはラッセルが資金を出し実際の執筆はバーバーが行ったものだが、その内容は聖書、特にヨハネの黙示録を使って込み入った年代計算を繰り返し、最終結論として1873年はアダムが神によって創造されてからちょうど6000年目にあたり1874年から新しい千年期の7000年目に入った、これはキリストが再臨してこの世を再建する時である、というものであった。更にバーバーは後のエホバの証人の教義の中核となる1914年を、「異邦人の時」(ルカ21:24)の終わりとして初めて設定した。確かに今のエホバの証人の教義とは微妙な違いがあるが(現在のエホバの証人の教義は1914年こそがキリストの「目に見えない形」での再臨の年であり「異邦人の時」はこの年に始まったとする)、「目に見えない形の再臨」そして1914年という、現在のエホバの証人の教義の中核となるものは、この19世紀後半の再臨派(アドベンティスト)の指導者の打ち出した新しい教義に大きく影響されていたことは特筆に値するであろう。

2)ラッセルの独立とものみの塔宗教の芽生え

しかしこのラッセルとバーバーの二人の連携も長続きはしなかった。キリストの贖罪に関する教義の違いからこの二人は袖を分かつことになる。ラッセルはバーバーの発行していた「朝の先ぶれ」(Herald of the Morning) を全面的に資金援助していたが、1879年、ラッセルは新たに自分の主宰する雑誌「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」(Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence) を創刊した。これこそが現在まで続く「ものみの塔」誌の始まりなのである。この二人はその後お互いの読者を自分の雑誌に引き込むため、昔の友は今日の敵よろしくお互いの非難をくりひろげることになる。

興味深いことは、このものみの塔宗教の揺籃期に、その創始者のラッセルは自分の宗教が将来において大きく拡大した組織になって続いていくことを考えていなかったことが、彼の書いたものに示されていることである。当時のラッセルの関心は身近に迫ったこの世の終わりと、自分たちを含む14万4千人(黙示録7章、14章)が霊的な存在として神に取り上げられる(テサロニケ第一4:17)ことにあり、その先のことまで計画していた様子はうかがえない。

しかしこのことが起こると予想された1881年が何事もなく過ぎ去る頃から、ラッセルの態度は徐々に変化していく。1882年、彼は三位一体を否定する教義を前面に打ち出し、再臨派を含む既存のキリスト教教派から完全に訣別する。1880年代は彼の宗教の成長期であった。おびただしい数の本、雑誌が出版され、伝道活動は広範に広がっていった。ラッセルはラッセル牧師と呼ばれ、彼の主著である6冊の「聖書研究」は1886年から1904年までに次々と出版された。そして1884年、現在の「ものみの塔聖書冊子協会」の前身である「ペンシルバニアものみの塔聖書冊子協会」が法人組織として確立され、ここに組織化された宗教としてのものみの塔宗教の基礎が確立されたのである。精力的なラッセルの伝道活動は実を結び信者の数は着実に増え続けた。

3)神の代弁者ラッセル

初期のラッセルの宗教組織は聖書研究者と称していたが、その組織は今のものみの塔協会とは全く違ったものであった。組織の役職は全て公開の選挙で選ばれたし、現在ある審理委員会のような懲罰機関で組織の指令に従わないものを罰することもなかった。実際初期のラッセルは、組織化された宗教を否定的に見ており、組織よりも神とキリストと個人との関係の重視が強調されている。しかしこのラッセルの態度も年を追うにつれ変化していく。彼自身もその周辺も、彼を徐々にカリスマ的宗教指導者に仕立て上げていった。その端的な例が彼の主著である「聖書研究」の取り扱いであり、彼自身を神の「代弁者」と称するに至ったことである。

ラッセルは、彼の6冊の「聖書研究」は本質的には聖書を主題別に並べ変えたものだから、実質的には聖書そのものである、従ってたとえ聖書そのものを読まなくても「聖書研究」だけを読んでいれば「光」のなかにいるが、もし「聖書研究」を読まずに聖書だけを読んでいれば、その人間は闇に入るであろうと述べている(「ものみの塔」1910年9月15日)。つまり彼は自分の書いた本を聖書以上に重要な本として信者に読ませていた。

現在のエホバの証人の教義の最重要点の一つは、マタイ24:45のイエスのたとえ話の中にでてくる「忠実な思慮深い奴隷」が実はものみの塔協会の指導部、特に統治体をさしており、この「忠実な思慮深い奴隷」の統治体が一般信者である証人たちに「時に応じた食物」、つまりその時その時に応じた教義を決めて与える(これを「霊的な食物」と証人たちは言う)ということである。この教義がエホバの証人の信仰の根底にあるが故に、彼らは統治体が次々に打ち出す新しい教義を全て聖書に基づいた「新しい光」として無条件に受け入れるのである(これについては教義の項も参照してください)。しかしこの「忠実な思慮深い奴隷」が誰をさしているかの解釈はラッセルの時代には異なっていた。ラッセル自身が自分を「忠実な思慮深い奴隷」と称したかどうかは意見の分かれるところであるが、少なくとも彼の当時の追随者たちはラッセルを神から使わされた特別の使者、あるいは代理人と見ていたことは間違いない。また二代目の会長のラザフォードはその著書「聖書研究」第7巻でラッセル個人を、生れる前から神によって特別に選ばれた者であり、パウロと同等の神の使者として扱っている。

このように晩年のラッセルは神と人類の間を仲介するカリスマ的宗教指導者としての地位をゆるぎないものとした。

4)ラッセルの私生活

新興宗教の創始者にはスキャンダルがつきものである。一般的に言って個人のスキャンダルはその個人の業績とは離して考察されるべきものであろう。しかし、こと神の代弁者、神の仲介者を自称、他称する宗教指導者に対しては、そのプライバシーにもメスがいれられるべきであろう。なぜなら神の代弁者の資格にはその人間全体の評価が関わらざるを得ないからである。

ラッセルの私生活については彼と妻マリア・ラッセルとの長年にわたる離婚裁判の記録の中にかなり詳細に記録されている。この中にはラッセル夫婦の異常な性生活、ラッセルの暴君的な夫としての態度、マリアの性的不満、ものみの塔誌編集の上でマリアが自由を与えられなかったこと、マリアが夫を中傷する文書を大々的に配布したこと等が含まれている。この夫婦の泥仕合ともいえる長年の家庭不和と、数を重ねた離婚調停は1894年から始まり1908年の離婚成立まで延々と続く。この中で明らかにされたラッセルの夫婦関係の詳細をどう評価するかは、確かにどちらの側から見るかで大きく違うであろう。なたとえば、ものみの塔協会公式の歴史書である『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』では、これはキリスト教世界の僧職者がラッセルの評判を傷つけるために作り上げたこととして信者に教えている。

しかしどちらの側に立つとしても一つだけ否定できないことは、この「聖書研究者」という名前の同じ宗教(当時まだ「エホバの証人」という名前は使っていなかった)の信者であり、一方は「神の仲介者」としての最高権威者である夫と、他方はその夫を表向きには全面的に助け、ものみの塔誌の編集を手がけてきた妻とが、私生活の面ではどちらに非があるにせよ、この長年にわたる泥仕合の家庭不和を続けていたという事実は誰も否定できないであろう。神の前に立つ兄弟姉妹としての、また神が絆を定めた夫婦としての神の愛による和解ができず、泥仕合の末に家庭の破局に終わる、この宗教の創始者で最高権力者であったラッセル夫婦の姿は、その後この宗教が世界中にもたらした家庭破壊の数々のひながたとして、この宗教の根本的な問題点をその最初期から提示していると言えないであろうか?ちなみに次の二代目会長ラザフォードもその異常な夫婦関係で知られている。

5)内外の敵

カリスマ的宗教指導者には敵がつきものである。ラッセルもその例外ではなかった。1880年、彼は「新しい真理」として奇妙な贖罪の教義を打ち出した。それは14万4千人の彼の追随者はキリストによって贖罪をうけるのでなく、キリストと一緒になって贖罪の業を行うというものであった。言い換えれば14万4千人には贖罪をしてくれる仲介者がなく、彼らはキリストの体として一緒に贖罪の業をするというものである。ラッセルはまた、奇妙な誓いを自分がたて、1908年には彼の追随者たちにも同様の誓いをすることを求めた。その誓いの中には「私は異性に対し公的な場でふるまうのと全く同じ様に私的な場でもふるまう」という項が含まれていた。著名なラッセルの追随者の一部は公然とラッセルの行動に疑問を投げかけた。いくつかの会衆とその主立った指導者たちは「新約信奉者」というグループを形成し、もっと正当的なキリストによるすべての者の贖罪を信奉してラッセルから分派した。1909年のことであった。約一万人いた「聖書研究者」のなかの数百人が分派したと伝えられている。

一方外部においてはラッセルは、彼のし烈なキリスト教会聖職者に対する攻撃の結果、多数の敵をキリスト教各派の中に作っていった。その先頭に立っていたのはカナダ・バプテスト教会のロス牧師であった。ラッセルは自分の離婚問題とそれに伴う誹謗中傷以外にも、1903年から1913年にかけては裁判ざたの連続であった。それらは名誉毀損、虚偽などの罪状であった。

6)ラッセルの晩年

1914年はラッセルの予言の最も重要な年であった。この年は現在のエホバの証人の教義にとっても鍵となる年なのであるが、当時のラッセルとその追随者たちにとっては違った意味で重要であった。彼らは1914年に「異邦人の時」は終わりを告げこの世は破壊される(ハルマゲドン)、ラッセルとその追随者たちは天にとりあげられ、キリストの千年統治が開始する、というものであった。これだけの大きな予言が成就するのを待つのに神経の高ぶらないものはいないであろう。ラッセルも例外ではなかった。彼はすでに、この年がいかに確実なものであるかを何度も繰り返して述べてきた。たとえば、「時は近づけり」の中で、彼は「どんなに遅れてきたとしても不完全な人間の統治は1914年を過ぎることはありえない」と書いている。しかしその1914年が近づくと、彼はいくつかの表現を使ってその予言がその通りに起こらなかった場合の言い訳けを述べている。たとえば、自分は霊感を受けた予言者ではない(だから間違えることもある)、たとえ予言が外れても警告を与えただけで意味がある、世界の無政府状態とキリスト教会の崩壊は1914年の後に起こるかもしれない(最初はこれらが1914年のまえぶれとして起こると述べていたが、1914年が間近に近づくとこれも変えざるを得なくなった)等等。

しかしそれでも1914年秋に第一次世界大戦が勃発すると、ラッセルは「ついに来るものが来た」と確信した。彼はその秋「異邦人の時」は終わり「今はハルマゲドンの中にいる」と考えた。彼らが天に取り去られないことなどどうでもよいかのよに、ラッセルの追随者たちも予言は成就したと確信した。ラッセルは1914年から1916年にかけて勢力的に宣教活動を続け、第一次世界大戦は1918年のハルマゲドンの戦いで終わり、彼らは天に連れ去られるとふれまわった。しかし思いがけないことが起こってしまった。1916年10月31日、ラッセルは宣教中の汽車の車中で病死してしまったのである。これは追随者の間で最も解釈に困る事件であった。彼らはあとほんの二年たらずのうちにラッセルを中心にして天に取り上げられるはずだったからである。混乱はそれだけではすまされない。地上の政府がみな粉々に打ち砕かれる代わりに第一次世界大戦は1919年、ベルサイユ条約により平和に解決してしまったのである。

ラッセルの死後、「聖書研究者」の宗教活動はほとんど停止せざるを得なかった。上に述べたような中核になる教義の崩壊、戦争非協力による各政府や怒った大衆による迫害、そして後継者同士の内部争いが次々に起こったからである。

参照文献

  1. 『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会 1993年
  2. "Apocalypse Delayed " M. James Penton University of Toronto Press, 1985

歴史 第二部 ラザフォードの時代へ続く

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