『異邦人の時再考』 − 要旨と抄訳

カール・オロフ・ジョンソン・著|村本 治・抄訳


第五章 「バビロンで七十年」の計算法(1998年増補改訂第三版に基づく)

「エホバはこのように言われたからである。『バビロンで七十年が満ちるにつれて、わたしはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して、わたしの良い言葉をあなた方に対して立証する』。(エレミヤ29:10、新世界訳)

 ものみの塔協会の教える年代計算で、西暦前607年をバビロンによるエルサレムの破壊の年とする根拠は、このエレミヤ書に預言されている七十年を、ユダヤ人の残りの者が捕囚の身から帰還したであろうと考えられる、537年に加えると607年が出てくることによる。ものみの塔は、次の引用に見るように、七十年がユダヤとエルサレムにとって完全な荒廃の期間であったと考える。

聖書預言からすれば、エルサレムが滅ぼされると共にユダヤが荒廃した時から、キュロスが布告を出した結果、流刑の身になっていたユダヤ人たちが自分たちの故国に帰還した時までの期間以外に、この七十年の期間を当てはめられる時代はありません。聖書預言が明示しているところによれば、その七十年間はユダヤの地が荒れ果てた状態で経過する歳月となるはずでした。(『聖書に対する洞察』第二卷449頁)

 しかし、七十年間の説明は本当にこれしかないのだろうか。もし本当にそうであれば、本書の以前の章で述べた、考古学で確立された年代と聖書の年代とが矛盾し、どちらか一方を取らなければならないであろう。確かにそのような状況が本当に存在するなら、考古学の年代を捨てても「聖書に堅くつく」のが確かにクリスチャンの態度であろう。しかし、もし見過ごしていた史実が、確かに預言を成就していたら、史実に支持された預言をとって、史実に支持されない解釈は捨て去るべきではないだろうか。以下に、七十年という期間の預言は、史実によってもはっきり支持されており、聖書と史実とがよく調和していることを見てみよう。これにより、ものみの塔の主張する解釈が、史実のみでなく、聖書とも調和しないものであることがわかるのである。

 聖書の中で、ものみの塔協会が使用する七十年間に言及している箇所は7箇所である。それらは、エレミヤ25:10−12;29:10;ダニエル9:1−2;歴代第二36:20−23;ゼカリヤ1:7−12;7:1−7;イザヤ23:15−18である。これらを一つずつ調べてみたい。

エレミヤ25:10−12

 この預言は、第一節に書かれているように、「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年、すなわちバビロンの王ネブカドネザルの第一年」に行われた。これは、エルサレムの破壊から18年前に当たる。

『そして、わたしは彼らの中から歓喜の音と歓びの音、花婿の声と花嫁の声、手臼の音とともしの光を滅ぼす。そして、この地はみな必ず荒れ廃れた所、驚きの的となり、これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければならない。そして七十年が満ちたとき、わたしはバビロンの王とその国民に対して言い開きを求めることになる』とエホバはお告げになる、『彼らのとがを、カルデア人の地に対してである。わたしはそれを定めのない時に至るまで荒れ果てた所とする』。(新世界訳)

七十年間は「荒廃」か、それとも「従属」か?

 この聖書の箇所、特に11節を注意深く読むと、「七十年の間」という言葉は直接には「これらの諸国の民」が「バビロンの王に仕える」期間を示しているのである。つまり、七十年という期間は「諸国民がバビロンの王に仕えた期間」でなければならない。この点がものみの塔協会の目にも明らかであることは、1971年の大文字版の新世界訳聖書の826頁にこの七十年を「七十年間課せられた従属(servitude)」という表現で現していることでもわかる。(この表現はしかし、私の最初のこの文書がものみの塔協会に送られた1977年の後、静かに書きかえられて、1984年の大文字版の新世界訳聖書の965頁では「七十年間課せられた流刑(exile)」となっている。)

 ものみの塔協会は決して、この七十年間が「バビロン王に仕えた」、すなわち「従属」の期間であることも、ユダという一つの国についてではなく、その周囲の諸国の民について述べていることも、決して問題にはしない。協会は、この七十年間は、「完全に荒廃した期間」であり「ユダ」の国だけをさしていると常に教えてきた。しかし、ここに見るように協会の解釈はエレミヤの言葉に直接矛盾しているのだ。

 それでは「従属」と「荒廃」とはどのように違うのだろうか。 エレミヤ27:7,8、11を見ればわかるように、バビロン王の政策はユダを含む周辺の王国の王が、バビロンに忠誠を誓うことを第一にしていた。そしてこのような忠誠を誓うことを拒否する王国に対して、ネブカドネザル王は武力による破壊と征服を行ったのだった。つまり、バビロン王に忠誠を誓って「従属」することと、反逆して「破壊」と「荒廃」をこうむることとは、全く正反対の出来事なのだ。それだからこそ、エレミヤは27:17で、「バビロンの王に仕えて、生きつづけよ。どうしてこの都市が荒れ廃れた所となってよいだろうか」と警告しているのだ。

 ユダの国がバビロン王に対して忠誠を誓わなかったのが七十年間にも及ばなかったことは、聖書からも史実からも明らかである。ユダは18年の従属の後に、ネブカドネザル王によって滅ぼされている。この事から見ても、このエレミヤが預言した七十年間は、エレミヤ25:11にはっきり書かれている通り、ユダだけでなく諸国の民が、バビロンに破壊されたのでなく従属していた期間でなければならないのだ。

七十年間はいつ終わったのか?

 エレミヤ25:12によれば、エホバは七十年間の終わりの時に、はっきりと、「バビロンの王とその国民に対して言い開きを求める」と預言されている。全ての歴史家も、またものみの塔協会も、全員がこの預言は西暦前539年に成就されたという点では一致している。すなわちこの年の10月に、バビロンは、ペルシア王キュロスによって占領され、ダニエル5:30によれば、バビロン王のベルシャザルは殺害される。すなわち、この西暦前539年という年を境にして、バビロンの支配は崩れ、もはやどの国もバビロン王に忠誠を誓うことは出来なくなっただった。

 エレミヤの25:12の言葉は、ものみの塔協会が主張する、七十年間は西暦前537年に終わったという説とは、真っ向から矛盾する。ものみの塔は、539年にバビロンが倒れた後、ユダヤ人の残りの者たちがユダに戻って国を再興するのに2年たったと計算し、539から2を引いて537という数字を出している。しかしそれでは、バビロンが崩壊した2年も後で、エレミヤ25:12に預言されている、「バビロンの王とその国民に対して言い開きを求める」ことができるのだろうか。これはバビロンが崩壊したその時点でなければならない。すなわちエレミヤ25:12を忠実に解釈すれば、七十年間の終了は西暦前539年以外にないのである。ものみの塔協会はこれに関しての説明を一切行っていない。

七十年の預言の歴史的背景

 先に述べたように、このエレミヤ25:10−12の七十年の預言は、エルサレムの破壊の18年前に行われたが、この年、すなわちエホヤキムの四年目という年は、歴史的に有名なカルケミッシュの戦いでネブカドネザル王がエジプトの王ファラオ・ネコに勝利を収め、バビロンがシリアやパレスチナの支配を開始した年であった。この戦いは西暦前605年に起こったとされている(ものみの塔協会の年代計算だけは西暦前625年)。大英博物館に所蔵されているバビロン年代記21946によれば、戦いの終わった直後から、ネブカドネザルこの地区の平定を始め、シリア・パレスチナの諸国を自分の属国としていった。その中でネブカドネザルは一時、父の死の後を継いで王座に就くためにバビロンに戻ったが、その翌年も通じて、この地域の平定を行ったのである。これから見ると、「諸国の民がバビロンに仕え」始めたのは、西暦前605年と考えるのが妥当であろう。

ダニエル1:1−6に見るユダの従属の開始

ユダの王エホヤキムの王政の第三年、バビロンの王ネブカドネザルはエルサレムに来て、これを攻め囲んだ。やがてエホバは、ユダの王エホヤキム、および[まことの]神の家の器具の一部を彼の手に渡された。そのため彼はこれをシナルの地に、自分の神の家に携えて来た。それらの器具を自分の神の宝物倉に携えて来た。そののち王は、廷臣の長アシュベナズに、イスラエルの子らおよび王族の子孫や高貴な者たちの中から幾人かを連れて来るように言った。すなわち、何ら欠陥がなく、容姿が良く、あらゆる知恵に対する洞察力を持ち、知識に通じ、知られた物事に対する識別力があり、王の宮殿に立つ能力をも備えた子供たちを[連れて来るように]、そしてこれにカルデア人の読み書きと国語とを教えるように[と命じた]。さらに王は、それらの者たちのために、王の美食の中から、また自分が飲むぶどう酒の中から日ごとのあてがい分を定めた。三年のあいだ彼らを養い、その終わりにこれらの者を王の前に立たせるためであった。さて、それらの者たちの中に、幾人かのユダの子らがいた。ダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤである。

 このダニエルの書の冒頭を見ると、「エホヤキムの王政三年」にネブカドネザルはエルサレムを攻めて、ダニエル自身を含む、ユダの要人の一部を捕虜としてバビロンに連れ帰ったことが書かれている。第二節を見ると、「ユダの王エホヤキム・・・を彼の手に渡された」とある。この表現は、聖書の他の部分を見てもわかるが(裁き人3:10;エレミヤ27:6,7)、強制的に従属させられたことを意味する。なお、この年は実はエレミヤ書の「エホヤキムの第四年」と同じ年である。何故なら、ユダでは王の年数を数えるのに即位年を一として数えるのに対し、ダニエルが官吏として仕えていたバビロンでは即位年をゼロとして実際の在位年数を数える方法をとっていたからである。ユダの在位年数を使ったエレミヤと、バビロンの在位年数を使ったダニエルとの間に、一年の違いが出てくるのであるが、実際には同じ年を述べている。

 このように、ユダのバビロンに対する従属は、エホヤキムの在位期間の早い時期に始ったいるのだが、もちろん、ものみの塔協会の年代計算では、これはうまく当てはまらない。ものみの塔協会はこれを説明するために、「エホイヤキムの王政の第三年」というダニエルの1:1の言葉を文字通り取らずに、「バビロンに仕える属国の王としてのエホヤキムのこの第三年のことであろうと思われます」としている(「聖書に対する洞察」第一巻410−411頁)。そしてこれはエホヤキムの王としての11年間の最後の年とする。これは、すなわちネブカドネザル王の第8年目(ユダ計算法)になる。

 しかしこの解釈はダニエルの2:1の記述と真っ向から矛盾している。ここでダニエルは、ネブカドネザル王の第二年目に王の夢の解釈をしているのである。もしダニエルがネブカドネザル王の8年目(あるいはバビロンの計算法では7年目)にバビロンに連れてこられたとするなら、どうして彼がネブカドネザル王の第二年目に夢の解釈ができるのだろうか。この点を何とか取り繕うために、ものみの塔は、ダニエルの2:1の「ネブカドネザルの王政第二年」をやはりその通りに解釈せず、エルサレムが破壊された年から第二年、実はネブカドネザルの王政代十九年をさしている、という無理な解釈を行っているのだ。(「聖書に対する洞察」第二巻135頁)

 このように、ダニエル1:1−2と2:1を見ても、ものみの塔協会の七十年預言の解釈は、聖書の記述そのものと矛盾し、「エホイヤキムの王政の第三年」、「ネブカドネザルの王政第二年」という単純な記述をそのまま素直に解釈せず、捻じ曲げて解釈せざるを得なくしている。なお、バビロニアの神官ベロッソスが紀元前3世紀に書いたバビロンの歴史の中でも、ネブカドネザルが王に就いた第一年目にすでに、ユダの一部の人々がバビロンに捕虜として連れ去られたことを記している。ベロッソスはこの記録をバビロン年代記や新バビロン王朝の時代の記録に直接基づいて書いており、この点でダニエル1:1の解釈を裏付ける重要な史料なのだ。

エレミヤ27、28、35章に見る「従属」の年代

 これらのエレミヤの章の記載をみると、「諸国の民の従属」(エレミヤ25:11)はエルサレムの崩壊の、はるか以前に始っていたことがわかる。エレミヤ27章の初めの部分を見ると、ユダの王ゼデキヤの時代にすでに、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンなどがすでにバビロンの従属国になっていたことがわかる。これば6節でエホバが、「わたしはこれらすべての地を、バビロンの王、わたしの僕、ネブカドネザルの手に与えた」と述べている通りである。 エレミヤ28章では予言者ハナニヤが、ゼデキヤ王の第四年目(1節)に、エホバのことばとして、「わたしは丸二年の内に、すべての国の民の首からバビロンの王ネブカドネザルのくびきを砕くであろう」と述べている。このハナニヤの預言は間違ってはいたが、この事件から間違いなく明らかなのは、このハナニヤの預言が行われた、ゼデキヤ王の第四年目にすでに、すべての国の民の首に、「ネブカドネザルのくびき」置かれていたということである。

 エレミヤ35章では、エホヤキム王の時代にすでに、バビロンの王ネブカドネザルがユダの地に侵入し、レカブ人は避難するために、エルサレムに住むようになったことが書かれている。また列王第二24:1にも、エホヤキム王の時代に「バビロンの王ネブカドネザルが上って来たので、エホヤキムは三年間彼の僕となった」、と書かれている。しかしその後、エホヤキムは翻ってネブカドネザルに背き、カルデア人、シリア人、モアブ人、アンモン人がユダを滅ぼすために遣わされた。このことも、すでにこの時代に、これらの「諸国の民」が、バビロンに従属していたことを物語る。

エレミヤ25:10−12のまとめ

 エレミヤの七十年の預言は、エルサレムの完全な荒廃の期間を言及しているのではなく、ユダだけでなく、「諸国の民」がバビロンに従属していた期間をさしていることを、聖書に基づいて見てきた。そして聖書の他の箇所、バビロニア年代記、ベロッソスの記録、エレミヤの他の章や列王第二24章は、すべて「諸国民の従属」が、カルケミッシュの戦いの同じ年に、既に開始されていたことを示している。

エレミヤ29:10

「エホバはこのように言われたからである。『バビロンで七十年が満ちるにつれて、わたしはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して、わたしの良い言葉をあなた方に対して立証する』」。

 エレミヤが次に七十年間に言及するのは、彼が、エルサレムからバビロンに流刑になっている、ユダヤ人に送った手紙の中であった。29:3に見るように、これはイスラエルの破壊される数年前にあたる、ゼデキヤ王の時代であった。この手紙の中で、エホバはエレミヤを通して、「バビロンで七十年が満ちるにつれて、わたしはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して、わたしの良い言葉をあなた方に対して立証する」と言っている。この手紙がその時点ですでにバビロンに流刑になっている人々によって読まれた手紙であることを考えれば、「バビロンで七十年が満ちるにつれ」という表現は、その時点ですでに七十年間が進行中であることを前提にしている。もしものみの塔協会の解釈のように、七十年間がエルサレムの破壊によって始まるとするなら、このエレミヤ29:10の手紙では、「バビロンで七十年」は将来の事として言及されなければならず、その時点での流刑者は、まずその七十年が始まるエルサレムの破壊まであと数年を待たなければならず、つまり計七十数年という、預言に矛盾する年数を待たなければならなくなる。ここでもまた、七十年間がエルサレムの破壊によって始まったという、ものみの塔協会の解釈は聖書の内容と調和せず、七十年間はエルサレムの破壊の前に始まった、バビロンによる諸国の支配の期間でなければならないことがわかるのである。

「バビロンで七十年」の訳の問題

 この「で」(英語原版新世界訳では“at”)はヘブライ語の前置詞“le”の訳であるが、場所や時を表す at, in, の他に、for, to, in regard to, with reference to(ための、関しての、ついての)などの表現にも使われる。従って英語圏の聖書は大部分、この前置詞を“for”あるいは “to”、すなわち「バビロンに対しての」という意味に訳している。すなわち29:10の七十年間は「バビロンの地においての」という意味ではなく、「バビロンに対して(従属)の」と解釈されている。[ちなみに日本語訳の聖書では、新世界訳以外は、口語訳、新共同訳、新改訳、とも全て「バビロンに七十年」と訳している。また王国欽定聖書では十七世紀の最初の訳の伝統を守って“at”が使われている。]「バビロンに対しての」という意味の訳が、他のエレミヤの言葉、特に上に見た25:10の「従属の七十年間」という表現と最も調和するのである。

ダニエル9:1−2

メディア人の胤アハシュエロスの子ダリウス、すなわちカルデア人の王国の王とされた者の第一年、その統治の第一年に、わたしダニエルは、エルサレムの荒廃が満了するまでの年の数を幾つかの書によって知った。それに関してのエホバの言葉が預言者エレミヤに臨んだのであり、[すなわち、]七十年であった。

 ダニエルは、ダリウスがバビロンを滅ぼした年に、「エルサレムの荒廃が満了するまでの年の数を幾つかの書によって知った。それに関してのエホバの言葉が預言者エレミヤに臨んだのであり、[すなわち、]七十年であった」と述べている。この表現は、一見ダニエルがエルサレムの荒廃は七十年間続いたと言っているかのように見え、ものみの塔協会もこの部分を瀕回に使って「荒廃」の期間が七十年と主張する。しかし、ここでダニエルは、預言者エレミヤの手紙、すなわち上のエレミヤ29:10の「バビロンで七十年が満ちるにつれ」を引用していることを忘れてはならない。従って、このダニエルの9:2の七十年間はエレミヤ29:10と同様に、バビロンによる支配の期間と解釈すべきであろう。

 この時点で、ダニエルがエルサレムが復興されることを期待したことは、9:3からのダニエルの祈りに現れている。なぜならダニエルの引用しているエレミヤの29章の12節には、七十年間の満了の後、「あなた方は必ずわたしを呼び、来て、わたしに祈り、わたしはあなた方の言葉を聴くであろう」と書いてあり、ダニエルはここでその通りにしているのだ。従って、ダニエル9:2で述べられていることは、その時点でエレミヤの預言した「バビロンで七十年」が終了したことの認識と、その時点でエルサレムの荒廃状態が終わるという希望である。エルサレムの荒廃が七十年前に始まって七十年間継続したという直接の言及は、ここには見いだせないのだ。

歴代第二36:20−23

その上、彼は剣を逃れた残りの者たちをとりこにしてバビロンに連れ去り、こうして彼らは、ペルシャの王族が治めはじめるまで、彼とその子らの僕となった。これはエレミヤの口によるエホバの言葉を成就して、やがてこの地がその安息を払い終えるためであった。その荒廃していた期間中ずっと、それは安息を守って、七十年を満了した。(歴代第二36:20−21)
 この21節を読むと、歴代記の筆者は「この地が安息を払い終える」のに七十年かかり、それがエレミヤの預言と一致しているように見える。しかし聖書の他の部分との対応を調べてみると、この歴代記の筆者が使っている表現は、レビ記26:34、「その時、荒廃しているその期間中ずっと、すなわちあなた方が敵の地にいる間に、その地は安息を払い終えるであろう。その時、その地は安息を守る。それは自らの安息を返済するのである」を直接引用している事がわかる。歴代記の筆者は、ダニエルと同様、ユダの荒廃はモーセの律法のこの部分が適用されたものと信じていたので、このレビ記の言葉をここに挿入したのだ。この歴代記の表現にも、元のレビ記の表現にも、安息が守られたのが七十年間であったとは直接書かれていない。安息を守ったのは「荒廃していた期間中ずっと」であり、それが終わった時に、エレミヤの預言した七十年が満了したと述べているに過ぎない。荒廃の期間がいつ始まったかは、どこにも述べられていない。言い換えれば、ここではペルシャ王がバビロンを滅ぼした段階で、二つの異なる預言、エレミヤの「バビロンで七十年」とモーセの「この地が安息を払い終える」とが、同時に成就したと述べているのだが、そこから「この地が安息を払うのに七十年かかった」とは結論できないのである。

そして、ペルシャの王キュロスの第一年に、エレミヤの口によるエホバの言葉が成し遂げられため、エホバはペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせられたので、彼はその王国中にあまねくお触れを出させ、また文書にしてこう言った。「ペルシャの王キュロスはこのように言う。『地のすべての王国を天の神エホバはわたしに賜わり、この方が、ユダにあるエルサレムにご自分のために家を建てることをわたしにゆだねられた。すべてその民の者であなた方の中にいる者はだれでも、その神エホバがその人と共におられるように。それゆえ、その人は上って行くように』」。(歴代第二36:22−23)

 歴代第二36:22−23のこの部分は、聖書解釈者の間で意見の分かれている所である。これに基づいて、七十年間の満了はバビロンの崩壊した西暦前539年ではなく、その翌年にキュロスがユダヤ人の帰国を許した時とする解釈の仕方がある。それは、「エレミヤの口によるエホバの言葉」の成就をすなわち七十年間の満了と解釈するためである。しかし、この歴代第二の部分と、エレミヤ29:10の預言とをよく比較して見ると、歴代記の筆者は「成し遂げられた」ことがユダヤ人のエルサレムへの帰還とエホバの家の再建であることがわかる。一方エレミヤ29:10では「わたしはあなた方をこの場所に連れ戻し」と書いてある。従って、「エレミヤの口によるエホバの言葉」の成就は七十年間の満了ではなく、ユダヤ人の帰還という、エレミヤの預言の成就を述べているのである。

 もう一度、上に取り上げたエレミヤ29:10を注意深く読んでみよう。そこには「あなた方をこの場所に連れ戻し」たその後で、七十年間が満了するという、ものみの塔協会の解釈するようなことは書いていない。エレミヤ29:10には、「バビロンで七十年」が満了したその結果として、「あなた方をこの場所に連れ戻し」と言っているのである。従って、エレミヤ29:10の預言に忠実に従うのであれば、七十年間の満了は、ユダヤ人がまだバビロンにいるうちに起こっていなければならないのだ。このことは、また前に述べた、エレミヤ25:12の「そして七十年が満ちたとき、わたしはバビロンの王とその国民に対して言い開きを求めることになる」、というエホバの言葉とも調和する。七十年間の終了時点において、エホバはバビロンの王とその国民に対して、言い開きを求めるとあるが、これはまさしく、バビロンの王が滅ぼされた時でなくてはならず、バビロンの崩壊が過去のこととなってしまった時点ではありえない。

ゼカリヤ1:7−12

 次に述べるゼカリヤの二つの引用は、ともに七十年という年数が使われており、ものみの塔協会はこれが、エレミヤの預言した七十年間と同じものをさしている、と解釈する。しかし、次に見るように、ゼカリヤの述べた七十年がエレミヤの預言と直接関係しているという証拠は見いだせない。

すると、エホバのみ使いは答えて言った、「万軍のエホバよ、いつまであなたは、エルサレムとユダの諸都市に憐れみを示されないのでしょうか。この七十年間の間、あなたはこれを糾弾されたのです」。 (ゼカリヤ1:12)

 ゼカリヤにこの幻しが下ったのはダリウス王の二年、それは西暦前519年のことであった(ゼカリヤ1:7)。当時、ユダヤ人はエルサレムに帰還し、神殿の再建は始まったが、エホバの目から見て、その状態は憤りを買うものであった。ものみの塔協会は、この「七十年間の間の糾弾」を、エレミヤの預言の七十年間と同じものと解釈する。しかし、み使いが「糾弾」について話しているのは、ユダヤ人の帰還後、そろそろエホバが憐れみを示すべきはずの時なのに、まだ「糾弾」が続いていることを述べているのである。もしものみの塔協会の解釈のように、この「糾弾」がユダヤ人帰還前の七十年間をさしているのなら、実際の「糾弾」は90年間も続いたことになってしまう。

 もっと聖書全体の流れの中でこの「糾弾」の意味を見つけてみよう。このゼカリヤの前後関係を読んでいくと、エホバの「糾弾」の表れは、荒廃し続けて再建が追いつかない、エルサレムと神殿の状態であることがわかる。このことはゼカリヤ1:16で「わたしは必ず憐れみを抱いてエルサレムに帰る。わたしの家もそこに建てられるであろう」、と書いてある通り、糾弾が終わって憐れみが示される時は、神殿の再建であることがわかる。神殿の崩壊が、ネブカドネザルのエルサレムの崩壊の時であることを考えれば、ここで「七十年の間糾弾」と言っているのは、神殿の破壊から、西暦前520年から515年の間に起こった再建までの、約七十年間をさすと考えるべきであろう。実際、ネブカドネザルの包囲が始まった西暦前589年から計算すれば、ハガイの書に書かれたダリウス王の二年目の再建までの年数はぴったりと七十年になるのである。

ゼカリヤ7:1−5

さらに、王ダリウスの第四年、第九の月[つまり]キレウスの四[日]に、エホバの言葉がゼカリヤに臨んだ。そのためベテルは、エホバの顔を和めようとして、シャルエツェル、およびレゲム・メレクとその支配下の人々を送り、万軍のエホバの家に属する祭司たち、また預言者たちに語ってこう言った。「わたしは、これまで、ああ幾年になるでしょうか、ずっとしてきましたように、第五の月に物断ちを行って泣き悲しむべきでしょうか」。すると、万軍のエホバの言葉が引き続きわたしに臨んでこう言った。「この地のすべての民また祭司たちに言うように。『第五の[月]また第七の[月]にあなた方が断食を行って泣き叫んだ時、しかもそれは七十年に及んだが、[その時]あなた方は、本当にわたしに、このわたしに対して断食を行ったのか。』

 このゼカリヤに対するエホバの言葉は、ダリウス王の第四年、すなわち西暦前518年に語られた。

 ここで述べられている、断食の習慣は、ユダヤ人が過去の悲しい歴史を、記念して忘れないようにするためのものであった。第五の月の断食はネブカドネザルの護衛長であるネブザラダンがエルサレムとその神殿を焼き払った(エレミヤ52:12,13;列王第二25:8,9)悲しみの記念であった。また第七の月の断食は、ネブカドネザルがエルサレムの崩壊の後、ユダヤ人の貧しい残りの者を世話するように任命したゲダリヤが殺された日(列王第二25:22−25)を記念している。これらの断食が、エルサレムの破壊の時の悲劇に基づいていることは、ものみの塔協会も認めている。(『人類のために回復される楽園−神権政府によって!』<1972年、英語版のみ>235頁)ここでベテルの人々が祭司や預言者に尋ねていることは、「ネブカドネザルのひどい仕打ちを悲しむ記念の断食をいつまですればいいのですか」、という質問である。

 これに対してエホバは、「それは七十年に及んだ」と言ったのだ。もちろん、それはそのはずである。西暦前518年の七十年前、すなわち西暦前587年に、この悲劇的な事件である、エルサレムの破壊が起こったからである。もし、ものみの塔協会の言うように、エルサレムの破壊が西暦前607年に起こったのであれば、エホバは「それは九十年に及んだ」と言わなければならない。この点は、上記の『人類のために回復される楽園−神権政府によって!』の中で、ものみの塔協会も認めざるを得なくなっている。

流刑中のユダヤ人が、七十年間のユダの地の荒廃のあいだ断食をし、またその残りの者たちが故国に帰ってからのこれらの全ての年のあいだ、彼らは本当にエホバに断食していましたか。(『人類のために回復される楽園−神権政府によって!』<1972年、英語版のみ>237頁)

 ここで、ものみの塔協会は、彼らの計算によれば、断食が七十年と、それに加えて帰国後の三十年近い年月が加えられていることを、意図してかしてないか、認めている。しかし、それに対する説明は、現在までの所、見当たらない。この点でも、ものみの塔の西暦前607年のエルサレム破壊という解釈は、直接エホバの言葉に矛盾するものであることがわかる。

七十年間はどの期間にあてはまるのか

 以上見てきた聖書の内容から、エレミヤの預言にある七十年間をどの期間に当てはめるか、については次のような条件が満たされなければならない。

  1. 七十年間はユダの国だけでなく、諸国に当てはまらなければならない。

  2. 七十年間はこれらの諸国の荒廃でなく、バビロンに属国化した状態に当てはまらなければならない。(エレミヤ25:11)

  3. 七十年間はバビロンが支配していた期間でなければならない。(エレミヤ29:10)

  4. 七十年間の満了はバビロンとその王が罰せられた年、つまり西暦前539年でなければならない。(エレミヤ25:12)

  5. 七十年間の開始はエルサレムの破壊の何年も前でなければならない。(エレミヤ27、28章;ダニエル1:1−4、2:1;列王第二24:1−7)

  6. ゼカリヤ1:12、7:5に出てくる七十年間は、エレミヤの七十年間をさすのでなく、神殿の破壊から西暦520−515に行われた神殿の再建までの期間をさす。

 ものみの塔協会の七十年間の当てはめ方は、ユダの国だけにあてはめ、完全な荒廃状態に対して使っており、聖書の記述と真っ向から矛盾する。それはものみの塔の年代計算が、すべて1914年から逆算されて作られた西暦前607年という年を正当化するための年代計算であることによる。

 それではこのエレミヤの預言の七十年間は、実際にはどの期間に当てはまるのであろうか。上に述べたように、聖書ははっきりと、その七十年間はバビロンの王が崩された時としており、すなわち西暦前539年に七十年間が終わることは間違いない。始まりの年は、諸国がバビロンの属国になり始めた西暦前605年が最も聖書の記述にあっている。しかし、この問題点はその期間が七十年ではなく、66年になってしまうことである。

 ここで考えなければならないのは、70という数は旧約聖書の中で7と並んで特に意義のある数字と考えられていたということである。70という数は旧約聖書の中で52回にわたり、別々の事柄、重さ、長さ、人の数、時間の長さなど、色々な量を表すのに使われている。 また聖書の中で七十年と書かれている時、概算の数字として書かれていることがある。イザヤ23:15には「王の日数」は七十年と書かれている。また詩編90:10にも人の寿命は七十年と書かれている。これらは、決して正確な70という数を問題にしているのではなく、大体の数がそうなるという意味である。従って、エレミヤの預言の七十年間という期間もまた、概算の数字として使われた可能性は充分ある。

 もう一つの解釈は、七十年間が実際西暦前609年に開始したと考える場合で、これによれば、七十年間は正確な数字となる。それでは、この西暦前609年という年に、それに相当する事件が起こったであろうか。

 その当時、バビロンのナボポラッサル王は、かつての最強王国であったアッシリアと戦っていた。このアッシリアは、古代オリエントの中の、最初の世界帝国と言われ、鉄の武器を使用して近隣諸国を征圧し、エッセルハッドン、アッシュルバニパル王の時代には、バビロン、イスラエルを含む世界征服を成し遂げた。しかし、西暦前627年にアッシュルバニパルが死ぬと、帝国は衰退を始めた。当時のバビロン王、ナボポラッサルは西暦前616年にアッシリアに勝利を収めたものの、アッシリアを助けるエジプト軍に押され、撤退しなければならなかった。しかし西暦前612年には、アッシリアの首都ニネベが、バビロンとメディアの連合軍によって陥落する。アッシリア王アッシュルウバリット二世は、ハランに首都を移して逃げたが、西暦前609年にハランも陥落し、この年、世界帝国のアッシリアは完全に滅亡した。この609年がアッシリア滅亡の年であると言う点では、歴史学者は一致している。

 以後の歴史展開を見ると、ネブカドネザルがその地域を平定するまで、バビロンはアッシリアの後を継ぐ勢力として、次々と諸国を従えていく。エレミヤの27:7には、「そしてすべての国の民は、彼自身の地の時が来るまで、彼とその孫とに必ず仕える」、と書いてある。従って、七十年の開始は、バビロンがアッシリアに代わって諸国への支配を始めた、西暦前609年とすることは充分可能である。


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