『異邦人の時再考』 − 要旨と抄訳

カール・オロフ・ジョンソン・著|村本 治・抄訳


第二章 新バビロニア王朝の年代計算

 ものみの塔協会の1914年の教義は新バビロニア帝国の継続期間と緊密に関係している。新バビロニア帝国が終わったのはバビロンがペルシャ王キュロスによって征服された紀元前539年であるが、この紀元前539年という年は、粘土板の楔形文字に残された詳細な天文観測の記録から、現代の天文学者によってその年の正確さが確認されている。キュロスはその治世の一年目に、バビロンに捕囚の身であったユダヤ人に対してエルサレムへの帰還を許した。ものみの塔協会はこの史実を次のように使って1914年の教義の起点である紀元前607年を算出している。先ず、エレミヤ25:11、29:10、ダニエル9:2、歴代第二36:21で述べられている70年が、キュロスによるユダヤ人の解放によって終わったと考える。そしてユダヤ人が実際にエルサレムに帰還したのは紀元前537年の秋であるとする。(訳注:この論理については、ものみの塔協会発行の『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』(1990年)の285頁を参照。)従ってそこから70年をたして逆算すると紀元前607年という年が出てくるのである。ものみの塔協会は、この年にネブカドネザル王がエルサレムを破壊し、以後1914年に終わる2520年間の異邦人の時が始まったと主張し、これがものみの塔宗教の根幹となる1914年の教義の基礎となっている。しかし、この一見もっともらしく見える説は、実は以下に見るように、多くの確立された史実と全く一致していないのである。

 この章では先ず、古代歴史家の時代以来確立されてきた新バビロニア王朝の王の在位期間の年代を検討し、それがものみの塔の紀元前607年エルサレム破壊の説とは全く異なることを見る。そして七項目の証拠をあげて、この古代以来確立されてきた王在位期間が、いかに信頼性の高いものであるかを詳しく検討する。これらの7項目は、証拠の独立性から考えて次ぎの4項目にまとめられる。年代記などの歴史資料、商業・施政文書、天文学日誌、そして同時代のエジプトの記録との一致である。これらを通じて、ものみの塔の年代計算が正しいためには、すべての歴史証拠で説明できないような空白の20年間が新バビロニア王朝の歴史に付け加えられなければならないことを示す。

古代歴史家の記録

 二人の古代歴史家が新バビロニア王朝の歴代の王の治世の記録を残している。バビロニアの神官ベロッソスは紀元前3世紀にギリシャ語でバビロンの歴史を記している。残念ながらこの記録の原著は失われ、後代の引用が残っているのみであり、現代の引用は「エウセビオス年代記」に収められている。もう一人は紀元2世紀のギリシャの天文学者で歴史家であったクラウディウス・プトレマイオスで、彼は紀元142年にその有名なバビロン王名表を著した。ものみの塔協会はその『洞察』の事典の中でプトレマイオスがベロッソスの著作を資料として使ったと推測しているが(『聖書に対する洞察第二巻』438頁参照)、実際には多くの学者がプトレマイオスがベロッソスと独立に、バビロンの王の記録を使ってこの王名表を作成したと考えている。これらの二人の古代歴史学者のバビロニア王の治世の記録は以下のようになっている。

新バビロニア王朝・各王の在位年数−ベロッソスとプトレマイオスの比較

王名

ベロッソス

プトレマイオス

紀元前年代

ナボポラッサル

21年

21年

625−605

ネブカドネザル

43年

43年

604−562

アウィル・マルドック

2年

2年

561−560

ネリグリッサル

4年

4年

559−556

ラバシ・マルドゥック

9ヶ月

556

ナボニドス

17年

17年

555−539

 もしこれらの二人の(独立の)バビロニア王朝の最古の歴史家たちの記録が信頼できるものであるなら、ネブカドネザル王の第一年目は紀元前604年又は603年になり、その18年目であるエルサレムの陥落の年は紀元前587年又は586年になる。ものみの塔協会の主張する紀元前607年にはネブカドネザルはまだ王位にも就いていないのである。プトレマイオスの記録の正確さに関しては、その天文学上の記録が現代の天文学者の計算により確認されたこと、他の楔形文字の記録とも一致することから高い評価を受けてきた。

 しかし、ものみの塔協会はプトレマイオスのバビロン王名表が信頼のおけないものであることを示す学説をいくつか上げて、これに基づいた聖書年代計算を退けようとしている。(詳しくは『聖書に対する洞察第二巻』438頁参照。)実際、著名な物理学者であるロバート・ニュートンは『プトレマイオスの罪』(1977年)と題する著書の中で、プトレマイオスがその天文学上の記録を改ざんしており、従ってその王名表とバビロニア王朝の継続期間も信頼できないと発表した。これはものみの塔協会の有力な反論材料となり、1977年12月15日号のものみの塔誌747頁(英文版)に勝ち誇ったように掲載された。しかし、このニュートンの説にはその後多くの反論が上げられている。ニュートンは物理学者で歴史学者ではなかった。確かに天文学上の記録には改ざんの跡が見られるかもしれないが、そのことがバビロニア王朝の記録の正確さをも覆すことになるだろうか。興味あることは、ニュートンはその著書の序文の中で、バビロニア王朝の歴史についてはフィリップ・コントゥール氏の援助を受けたと書いているが、実はこのフィリップ・コントゥールはエホバの証人であった。当時のものみの塔協会の年代計算の方法は『聖書理解の助け』に述べられており、ニュートンがコントゥールを通してこの見方に影響されたことは想像に難くない。ニュートンが見逃しているのは、プトレマイオスのバビロニア王朝の継続期間の記録が、その400年前に書かれたベロッソスの記録や、ごく最近発掘された多くの新バビロニアの歴史記録と完全に一致することである。もしプトレマイオスがその天文記録を改ざんしたにしても、その王朝の記録は偶然では説明できない一致がある。更にニュートン自身がその著書の中で認めているように、新バビロニア王朝の継続期間に関しては、全く独立の天文学的な確認の証拠が上げられている。

 プトレマイオスはカンピュセス王の第7年目に月食が起こった事を記録しているが、これは天文学的に確立された紀元前523年のことであった。これがプトレマイオスの作り話でないことは近年発掘された楔形文字による記録で確認されている。また、最も重要であるネブカドネザル王の治世の継続期間の37年間も、プトレマイオスが記載したこの期間に起こった月の満ち欠けと星座の観測記録が正確であることは、現代の天文学者によって確認され、それによってネブカドネザルの治世が紀元前568年または567年に終わったことが確立された。従ってニュートン自身も、その著書の中で「従ってプトレマイオスの王名表がネブカドネザル王に関しては正確であることの強力な証拠があり、カンピュセス王に関しても正当な証拠がある」と書いている。

 ものみの塔協会がニュートンの著書を使って、プトレマイオスの記録の全ての信頼性を退けるのは正直な態度ではない。ニュートンの述べているように、プトレマイオスの天文学的な記録の中に確かに改ざんがあり、その記録のあるものは信頼がおけないかもしれないが、上記のニュートン自身の言葉で確認されるように、1914年の教義の鍵となるネブカドネザル王の在位期間に関しては、その記録の正確さはあらゆる方向から確認されているのである。

 更に「プトレマイオスの王名表」という名前自体が実は正確ではない。この王名表はプトレマイオスの遥かに以前から、バビロニアの天文学者によって伝えられ、アレキサンドリアの天文学者によって使われていた天文学資料なのである。たとえプトレマイオス自身の信頼性に疑問があったとしても、その王名表は独立の信頼性を持つものである。

 しかし百歩譲って、ものみの塔協会の主張するようにプトレマイオスは信頼できない歴史家であるとしよう。現在ではこの王名表の記録の正確さを証明するために、プトレマイオスの信頼性を議論する必要は全くなくなている。次に示すように、過去約一世紀の間に発掘された考古学資料が、プトレマイオスの記録の正確性を全く独立に証明しているからである。それらの証拠は次の7項目に分類される。

年代記その他の歴史資料

バビロニア年代記

 この年代記の翻訳は現在進行中であり原物は大英博物館で閲覧できるが、この中の史料BM21946には「ナボポラッサルは21年間バビロンを支配した。彼はアブの月の8日目に死んだ。ネブカドネザル(U)はバビロンに戻り次の月の第一日にバビロンの王座に就いた」と書かれている。この年代記は一部が失われており、完全なバビロニア帝国の歴史を語ってはいない。しかし新バビロニア帝国に関してはかなり詳しい記録が残されており、これはプトレマイオスとベロッソスの記録とよく一致している。このことは、この二人の歴史家が、バビロニア年代記を独立に参照してその歴史を書いたことを示しており、彼らの歴史が元の年代記の記載をかなり正確に反映していることを示す。

 それではバビロニア年代記の信頼性についてはどうであろうか。アッシリアの記録はその王や神をたたえるために、彼らに不利な歴史が書き換えられたことが知られている。バビロニアでも同じことがあったのだろうか。アッシリアとバビロニアの歴史の権威であるA.K.グレイソン博士は「バビロニアの書記は、アッシリアと異なり、自分の国の敗戦も記録し、また敗戦を戦勝に書き換えることもなかった。バビロニアの書記はかなり客観的な記述をしており、従ってその記録は旧約聖書の記録とよく平行している」と述べている。従って、バビロニア年代記の数字は、そしてそれはベロッソスとプトレマイオスの記録に反映されて現在知ることができるが、新バビロニア王朝の王の治世期間をかなり正確に知る資料となるのである。

列王表

 歴代の王の名前のリストとその治世の年代を記録した表が多く出土しているが、その中で新バビロニア王朝の王を示すのはウルク列王表である。これは1959年から60年にかけてのウルクの発掘作業で出土し、1962年に翻訳されて出版された。この表は多くの部分が欠損してはいるが、新バビロニアに関しては次のような記録が見られる。[ ]内の文字は欠損していることを示す。

21年間:

ナボポラッサル

43[年]間:

ネブカドネザル(U)

2[年]間:

アウィル・マルドゥック

[X]+2年8ヶ月:

ネリグリッサル

[…]+3ヶ月:

ラバシ・マルドゥック

[Y]+15年間:

ネボニドス

 この表はベロッソスとプトレマイオスの記録と比較するとナボポラッサル、ネブカドネザル(U)、アウィル・マルドゥックの治世の年数は一致しているが、他の三人の王に関しては数字の一部欠損で不明な点がある。[X]は1であり、[Y]は2であろうと推測されている。

王朝碑文

 バビロニア時代の王朝碑文は多数出土している。これらは歴史文書と異なり、その王の同時代人が記録している点で重要である。その中で新バビロニアに関係するのは次の3つであり、いずれもナボニドス王の時代に書かれた。

 ナボン18号:この円柱碑文にはナボニダスが、エラル13という月食の日に娘を月の神シンに女神官として捧げた、と記されている。1949年ヒルデガード・ルイはこの月食が紀元前554年9月26日に起こったものであることをつきとめた。これはベロッソスとプトレマイオスの記録によると、紀元前555年又は554年に始まり17年間続いたナボニダスの治世の2年目に当たることになる。このことは20年後のW.G.ランバートによる研究により、別の史料から確認された。新しく出土した粘土板の碑文にはナボニダスがその治世の3年目の少し前に娘を捧げたとい書かれていたのである。このことはベロッソスとプトレマイオスの記録と、ナボン18号の記録との正確さをを独立に証明し、ベロッソスとプトレマイオスのナボニダス王に関する記録の信頼性を強力に確立した。

 ナボン8号:ヒラー碑文とも呼ばれるものでバビロンの南西部で出土した。ここにもナボニダス王の治世の天文学上の記録が記されている。そこにはナボニダス王の第一年目に起こった事として、ある日の夕暮れに金星、土星、木星が見られたが火星と水星は見えなかった、アルファブーティス、イプシロンヴァージニス、アルファライレ、の星が見られた、と記されている。この星と惑星の組み合わせを計算すると、これは紀元前555年5月31日から6月4日の間になる。これもまたベロッソスとプトレマイオスの記録に基づいたネボニダス王の第一年目と完全に一致し、その記録の正確さがここでも天文学的に証明されている。

 この碑文にはまたナボニドスの治世二年目のこととして、「ハランにあるエ・ハル・ハル神殿が54年間破壊されたままに放置されており再建されなければならない」と書かれている。この神殿の破壊はバビロニア年代記史料BM21901とナボンH1B号にともに記載され、ナボポラッサル王の16年目に起こった事として記録されている。この事実は明らかにナボポラッサル王の16年目がナボニドス王の治世二年目の54年前であることを示すが、これまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。つまりナボポラッサルの治世が21年であったから、16年目から彼の最後までは5年あり、次のネブカドネザル王は43年間、次のアウィル・マルドゥック王が2年間、次のネリグリッサル王が4年間(ラバシ・マルドゥックの数ヶ月の治世は除外する)の治世があったからそれらをを合計すると(5+43+2+4)54年になるのである。

 この事実は、天文学的に確立されたナボニドス王の第一年目が紀元前555年又は554年であれば、ナボポラッサル王の16年目は紀元前610年又は609年になり、従ってナボポラッサル王の21年目は紀元前605年又は604年になり、この年ネブカドネザルは王位に就いたことになる。ネブカドネザル王の第一年目は紀元前604年又は603年であり、従ってエルサレムが彼によって破壊された治世18年目は紀元前587年又は586年となる。これが現在の古代オリエント学者の間で一致して受け入れられている年代であり、それはまたベロッソスとプトレマイオスの記録とも完全に一致するのである。

 ナボンH1B号:これは1956年に出土した新しい碑文で、ものみの塔協会の『聖書理解の助け』の記載にはこれは使用されず、その事典の中ではナボンH1Aのみが紹介され、これらの碑文がいかに信頼がおけないかの例として使われていた。しかしこの新しいH1Bでは、信頼のおけない例とされていた部分の完全な記述が読みとれるようになった。これはナボニドス王の母の生涯を記述したものであるが、この母がナボニドス王の9年目に死ぬまでの新バビロニア王朝の各王の治世が全て記録されている。そこには「私はアッシュルバニパル、アッシリア王の20年目に生まれ、アッシュルバニパルの42年目、アッシュルエチルイリの3年目、ナボポラッサルの21年目、ネブカドネザルの43年目、アウィル・マルドゥックの2年目、ネリグリッサルの4年目、の合計95年間を生きて…」と各王の治世の継続期間が明らかに書かれている。更にこの母の生涯を要約する形で「アッシリア王のアッシュルバニパルの時から、息子であるバビロニア王ナボニドスの9年目までの幸福の104年間、神々の王であるシンに敬意を捧げ、シンは私を栄えさせ、…」と新バビロニア王朝の継続期間を直ちに計算できる数字が書かれている。この年代記述もまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。

 確かにこれらの年代記、列王表、王朝碑文は、それぞれが同一の記録に基づいて書かれた可能性は否定できない。またベロッソスとプトレマイオスの記録もその同じ記録を使っていた可能性は十分考えられる。しかし、そのことはこの新バビロニア王朝の記録の信頼性を揺るがす材料ではなく、むしろその信頼性を確認するものと考えるべきであろう。というのも、同時代人の記述も含めて何世紀もの時間を隔てて書かれたいくつもの記録が、これらの年代記録において完全に一致していることは、それらの記録がいかに誤りなく長年にわたって保存されていたかを示しており、それはまたベロッソスとプトレマイオスの記録の、少なくともこの新バビロニア王朝の記録に関する限りでは、揺るぎ無い信頼性を保証するのである。

商業・施政文書

 メソポタミアの発掘では粘土板に楔形文字で書かれた何十万件にわたる文書が発掘されているが、その多くは商業や施政に関する契約や手紙であり、すべて発行の日付が何々王の何年目、何の月の何日目と記されている。この記録は新バビロニア王朝の全ての王に関して残されており、これらの記録からだけでも各王の在位期間をほとんど日の単位で正確に同定することができる。これらの文書は新バビロニア王朝の各年にわたってそれぞれ残されている。

 ものみの塔協会の1914年の教義の基になる紀元前607年に、エルサレムがネブカドネザル王によって破壊されたとするなら、新バビロニア王朝の継続期間は、上に示された確立された記録を20年間だけ引き延ばさなければならない。しかしこれらの膨大な数の楔形文字の文書には、この記録にない20年間に相当する日付のついた文書は一つも見つかっていない。全ての新バビロニア王朝時代の文書につけられた日付は、上に述べた確立された各王の在位期間と完全に一致するのである。すなわちネブカドネザル王の治世では43年目まで、アウィル・マルドゥック王の治世では2年目まで、ネリグリッサル王の治世では4年目まで、ナボニドス王の治世では17年目まで、の全ての各年にその日付のある文書が見つかっているが、各王のそれ以後の年の日付のついた文書は一切ない。もし新バビロニア王朝がものみの塔協会の主張するように20年間引き延ばされるのであれば、この何千件にわたる新バビロニア王朝期の粘土板の中にその20年間の分だけが一切ないということをどのように説明するのであろうか。

 これらの商業文書の中で特に興味があるのは、ネブカドネザル王の治世を含めてバビロンで強力な銀行を経営していたエグビ家の、銀行取引の詳細な記録である。この銀行の「頭取」の歴史的記録が各王の治世の年を使って記録されている。この記録を辿ると、ネブカドネザル王の第三年目からペルシャのダリウス・ヒュスピスタス王の第一年目までの三人の頭取の名前と在任年数が記録されている。これらの在任年数を合計すると81年になる。ダリウス・ヒュスピスタス王の第一年目は、ものみの塔協会も認める紀元前521年と確立されているので(『聖書に対する洞察第二巻』166頁参照)、そこから逆算するとネブカドネザル王の第三年は紀元前602年、そして第一年は紀元前604年になる。これもまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。このエグビ家の歴代の記録は、新バビロニア王朝の継続年数を疑いの余地を一切残さずに確立させている。そこにはものみの塔協会の主張を正当化させるための空白の20年間を説明する余地はないのである。またこのエグビ家の記録は、その他多数見つかっている年代を経た取引の記録などバビロニア王朝の王の在任期間を示す史料の中ほんの一例に過ぎない。

天文学日誌

 バビロニアの天文学者の記録の中でネブカドネザル王の治世に関係しているのは、ベルリン博物館に所蔵されているVAT4956と呼ばれる史料である。これにはネブカドネザル王の第37年目から第38年目までの天文観測の記録が記されている。これにはそれぞれの日の月の位置と水星、火星、金星、木星、土星の星座との位置関係が詳細に記録されている。この記録のうち、約30日分のものはその記述が非常に正確であるために、現代の天文学者が容易に日付を計算することができた。それによるとこの観測が行われたのは紀元前568年又は567年であり、この月と五つの惑星の位置関係がこのような組み合わせになることは、その後何千年に一度しか起こらないことが明らかになった。ネブカドネザル王の第37年目が紀元前568年又は567年であるなら、その第一年目は紀元前604年又は603年になり、これまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致する。

 最古の天文学日誌BM32312にはやはり5つの惑星と星座との位置関係が記録されており、現代の天文学者はこの日誌を紀元前652年又は651年に同定できる。この日誌では王の名前と在位年は欠損しているので、ものみの塔協会がよく主張するように、これらの日誌には後の書記によって王の年代が挿入されたという議論は通じない。しかし日誌にはその年の12月目の27日にヒリトという場所でバビロニア王が戦ったと記されている。このヒリトの戦いはバビロニア年代記(BM86379)にやはり12月目の27日として記録されており、それはシャマシュシュムキン王の16年目に起こったとされている。従って独立に別の時期に記された天文学日誌とバビロニア年代記の記録を組み合わせることにより、シャマシュシュムキン王の20年間の在位は紀元前667年から648年、その次のカンダラヌ王の在位は紀元前647年から626年、次のナボポラッサル王の在位は625年から605年、そしてネブカドネザル王の在位は604年から562年と同定される。これまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。

エジプトの記録との一致

 新バビロニア王朝の間に、ユダの王国またはバビロニアとエジプトとの間には、計4回の歴史的事件が記録されている。このうち3つの事件に関しては聖書に記述がある(列王第二23:29、エレミア46:2、エレミア44:30)。4つ目は楔形文字文書BM33041に記されており、ネブカドネザル王がその37年目にエジプトのアマシス王に攻勢をかけた事件である。

 エジプトの王の在位期間は、バビロニア王朝の年代計算とは完全に別の方法で確立されている。エジプトには一連の墓碑が全ての時代を通じて残されており、それらの墓碑に王の名と年月日が全て記されているのである。新バビロニアの時代に相当するエジプトには第26王朝が支配しており、その王(ファラオ)の在任期間は次の様に確立されている。(訳注:エジプトの王の在位期間の計算法はバビロニアと異なり、即位の年が第一年目と数えられている。)

エジプト王名

在位期間

紀元前年代

プサメティクス T

54年

664−610

ネコ U

15年

610−595

プサメティクス U

6年

595−589

ホフラ

19年

589−570

アマシス

44年

570−526

プサメティクス V

1年

526−555

カンビュセス王によるエジプト征服

525年5月/6月

 列王記第二23:29にはユダの王ヨシヤが、メギドに攻めてきたエジプト王、ファラオ・ネコに殺されたことが記されている。ものみの塔協会は、エルサレム破壊の年が紀元前607年になるように合わせるため、このヨシヤ王の殺された年を紀元前629年としている(『聖書に対する洞察第二巻』1093頁参照)。しかしエジプトの王朝の記録によればネコの王位はその19年後の紀元前610年にしか始まらない。

 エレミア46:2ではファラオ・ネコがユーフラテス川のほとりのカルケミシュで、ネブカドネザル王に撃ち破られ、これはユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年目に起こったと記されている。ものみの塔協会はこの年を紀元前625年としている(『聖書に対する洞察第一巻』410頁参照)。この年もまたネコが即位する15年も前のことなのである。一方ものみの塔協会の上に述べた空白の20年を差し引いて、このカルケミシュの会戦が紀元前605年のネブカドネザルの即位の年(これは第一年目の前の年になる)に起こったとすると、ファラオ・ネコの在位期間、紀元前610年から595年と完全に調和するのである。

 エレミア44:30ではエホバの言葉として、ネブカドネザルによるエルサレムの破壊により一部のユダヤ人がエジプトに逃げた時、エジプトはファラオ・ホフラの王政下にあったことを示している。もしものみの塔協会の主張するようにエルサレムの破壊が紀元前607年に起こったとするなら、それはファラオ・ホフラの王座に就く18年前になり、この聖書の記述と一致しない。一方エルサレムの破壊が確立された紀元前587年に起こったとすれば、ホフラの任期は紀元前589年から570年であり、この聖書の記述と調和するのである。

 BM33041ではネブカドネザル王がその37年目にアマシス王に戦いを挑んだと書かれているが、もしネブカドネザルの第一年ががものみの塔協会の主張するように紀元前624年であるなら(『聖書に対する洞察第二巻』421頁参照)、その第37年目は紀元前588年になり、それはアマシス王でなくホフラ王の治世になってしまう。

 このように4箇所の新バビロニア王朝時代のエジプトに関係する事件の年代は、全て独立したエジプトの年代計算により、ものみの塔協会の年代計算とは全く一致せず、ベロッソスとプトレマイオスの記録と王朝碑文、商業文書、天文学日誌等で確立された年代と完全に一致しているのである。興味深いのはこのものみの塔協会の年代は常に、あらゆる方法で確認された年代より20年遅れている(空白の20年)のである。

第二章のまとめ

 ものみの塔協会の主張する新バビロニア王朝の年代が史実や聖書と一致せず、プトレマイオスに代表される確立された年代が正しいことは次のような知見から確立される。

  1. 年代記その他の歴史資料
     a)バビロニア年代記
     b)列王表
     c)王朝碑文(ナボン18号、ナボン8号、ナボンH1B号)

  2. 商業・施政文書(特にエグビ家の記録)

  3. 天文学日誌
     a)VAT4956
     b)BM32312

  4. エジプトの記録との一致

 ものみの塔協会の主張する年代が正しいためには、どのような前提が必要だろうか。先ずベロッソスが間違いを冒して新バビロニア王朝の継続期間を20年短く記録した、それを400年後のプトレマイオスが独立に同じ間違いを冒して同じ年代記録に達した、と考えなければならない。あるいはこの二人は同じ20年分の間違いの含まれるバビロニア年代記を使用したとする。しかしそれではナボニドス王と同時代の書記が、自分たちの現在進行しつつある出来事をどのようにして20年間違えて記録するのだろうか。それと同時にナボニドス王の母は自分の生涯を20年分だけ短くして記録しなければならない。またそれと同時に、全く異なった地に住んで異なった記録を残していったエジプトの書記たちも、一斉に新バビロニア王朝の時代にあたる期間に20年の間違いを冒さなければならない。天文学日誌の王の記録は、ものみの塔協会が主張するように後世において王の名前と治世の年を書き換えて、ちょうど全てが20年間遅れるようにしたと考えなければならない。

 最も難解であるのは、何千と出土した新バビロニア時代の商業文書で、全ての王の全ての治世の年と日付のものが出土しているのに、ものみの塔の年代計算に必要な「空白の20年」の部分だけが一切出土してないのである。このような多くの別々の時代と場所から出てくる記録が、一斉に20年間違っているということが、ものみの塔協会の主張するようにありうることであろうか。可能性は次のどちらかである。当時、数百年にわたって国際的にこの20年間を歴史から削り去る「共謀」が行われその結果、何万何千とあるどの史料を見てもこの20年は出てこない、あるいは実際にこの「空白の20年」は存在しなかった。前者の可能性がいかに馬鹿げた妄想で不可能な事であるかを見れば、ものみの塔協会の年代計算は疑いの余地を残すことなく20年間だけ間違っている、すなわちエルサレムの破壊は紀元前607年ではなく、紀元前587年または586年に起こったことが誰の目にも明らかになるのである。

 1922年7月15日のものみの塔誌217頁には「強力な年代計算の綱」と題する記事があり、次のように述べられている。

 年代計算がいくつかの証拠によって示されるならそれは強固に確立したことになります。科学的な確立論の法則は、年代計算の綱の合わされた束が、個々の証拠一つ一つを足し合わせたものより遥かに強固な力を与えることを示しています。この法則は多くの重要な事柄で使用されます。すなわち、もし一つの事柄が一つの方法で示されたのならそれは偶然かもしれません。もしそれが二つの方法で示されたのなら、それはほとんど確実になります。そしてもしそれが三つ以上の方法で示されたら、普通それが偶然であり間違いであることは不可能になります。もしそれに更に別の証拠を加えるなら、それは偶然の領域を完全に出て、証明された確実性になるのです。

私はこの章で7項目の証拠を示し、それらは4項目の完全に相互に独立した証拠に分類されることを示した。その全てが、紀元前587年又は586年が、ネブカドネザル王の18年目に起こったエルサレムの破壊の年であることを示している。上記のものみの塔誌の記事によれば、これは偶然ではあり得ず、「証明された確実性」と見なければならない。


第三版第五章へ続く

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