『異邦人の時再考』 − 要旨と抄訳

カール・オロフ・ジョンソン・著|村本 治・抄訳


第一章 聖書年代計算解釈の歴史

「一年に対して一日」の規則

 ものみの塔の1914年の教義の基礎となるのは二つの数字である。一つはその計算の起点となる紀元前607年であり、もう一つはこれに加算される「異邦人の時」の期間である2520年である。2520年の計算は、ダニエル4:23の「七つの時」の「時」は360年であるとの前提に立っている(360×7=2520)。この360年という数字は啓示の書12:6と12:14で三つ半の「時」が1260日であることに基づいている。従って1260を3.5で割ると360という数が出る。そしてそこでのもう一つの大きな前提が「聖書では一日が一年に当たる」という「一年に対して一日」の規則である。

 聖書の中でこの「一年に対して一日」の計算法が明らかに使われているのは二箇所である。それは民数記14:34とエゼキエル4:6であり、共に聖書本文の中でそのように解釈するように書かれている。それ以外の年数の計算にこの「一年に対して一日」の規則をあてはめたのは、紀元一世紀のユダヤ教のラビ、アキバ・ベン・ジョセフが最初と言われる。9世紀のユダヤ教のラビ、ナハウェンディはダニエル8:14の2300日を2300年と計算し、シローの陥落(紀元前942)から計算して紀元1358年をメシアの来る年と予想した。彼はまたダニエルの1290日を1290年として、エルサレムの第二の神殿の破壊(紀元70年)から起算して1358年の同じ年を算出している。その他多数のユダヤ教のラビたちがこの「一年に対して一日」の規則を当てはめて14世紀、15世紀、19世紀にメシアの来る年を予測してた。

 キリスト教の世界では修道僧、フロリスのヨアヒムが12世紀に、最初にこの「一年に対して一日」の規則をダニエルと啓示の書11:3の1260日に当てはめている。これ以前に初期のクリスチャンたちがこのような「規則」に基づいて聖書を解釈していたという証拠は見つかっていない。ヨアヒムは紀元1260年という年を特別な年と考えたようではあるが特別な予想はたてず、1260年の来る約60年前に死んだ。しかし彼の追随者たちは1260年に新たな体制が始まると信じたといわれる。その時以来、この「一年に対して一日」の規則は、聖書に基づいた年代予想に無数の例で常用されるようになった。

異邦人の時への「一年に対して一日」の規則の適用

啓示の書の11:2、3で述べられている「42週」あるいは「1260日」は、「神殿が諸国民に与えられ、聖なる都市が42週の間踏みにじられる」という表現から、ルカ21:24の「異邦人の時」を指しているという解釈は古くから行われていた。12世紀から13世紀にかけては、紀元1260年に異邦人の時が終わる、あるいはエルサレムが復興される等の予想が多く打ち出された。ビラノバのアーノルドは、異邦人の時がローマ帝国によるエルサレムの破壊から、ダニエル12:11に出てくる1290日すなわち1290年目に終わると予想した。これは14世紀に起こるはずであったが、この予想された時期は折から十字軍の聖地奪回の時期に当たり、彼の予想は十字軍を鼓舞する信仰上の拠り所となった。

 15世紀を過ぎて、もちろんこれらの予想がことごとく外れた後は、この異邦人の時の終わりの予想はローマ教皇に反対する宗教改革者の一部の間に引き継がれた。彼らは1260年の起点を次々に遅らせて自分たちの時代の近い将来に終わりが来るように計算法を変えていった。彼らの論理では「神殿が踏みにじられた」のはローマ教皇がキリスト教界を支配した時点で始まったことにしており、紀元300年代から500年代が起点として使われた。例えば1795年、イギリスのジョージ・ベルはこの計算に基づいてローマ教皇が1797年かもしくは1813年に倒されるであろうと予測した。興味あることには、この直後の1798年にローマ教皇ピウス六世がフランス軍により捕囚となり流刑にされる。実はこの1798年という年は、これ以外にも何人かによって、かなり前から重要な年として予想されていた。その後この年は一つの確立した年として1260年間の終わりとして扱われることが多い。ものみの塔宗教の創始者チャールズ・ラッセルとエホバの証人たちも、1930年まではこの年を年代計算の中の重要な年として使用していた。

 19世紀初頭のヨーロッパは、フランス革命とナポレオンの席巻により混乱の時代に入った。この時代に多くの人々が、自分たちが「終わりの時」に生きていると感じるのも無理はなかった。「世界の終わり」を予測する動きが一段と活発になったのがこの時代であった。アメリカとイギリスでは、ウィリアム・ミラーをはじめとするキリスト再臨を期待する運動、いわゆるミラー派(Millerite)の動きが盛んになる。彼らはダニエル8:14の2300日を2300年として、キリストの再臨を1843年、1844年、1847年などに設定した。

ジョン・アクィラ・ブラウンと2520年の計算

 最初に2520年の計算法を提唱したのはイギリスのジョン・アクィラ・ブラウンであった。彼もまた、ミラー派と同様、1843年(後に変更して1847年)のキリスト再臨説を唱えていたが、それとは別にダニエル4:23の「七つの時」が2520年と計算されるべきであり、ネブカドネザル王の統治の開始の年とされる紀元前604年に2520年を加算して1917年を「イスラエル王国の栄光が完全に現される」年とした。これに続いて、2520年を異邦人の時に当てはめる説が次々と打ち出された。例えばをマナセが捕囚された(歴代第二33:11)紀元前677年から起算して、2520年を加算してミラー派の予測してきた1843年と一致させる計算法が提唱され、後にミラー自身にも受け入れられた。ドイツでは神学者ベンゲルが1836年をキリスト再臨の年と定めていたが、彼もこの2520年の計算を取り入れ、マナセの捕囚の年を紀元前685年として、これに2520年を加算して1836年に一致させていた。その他多数の計算法、予測が発表されたが、2520年を使用して1843年に再臨の年を設定する方法が、当時広く受け入れられた。

ネルソン・バーバー

 1844年に多くの期待に反してキリストの再臨が起こらなかった時、ミラー派の動きは幾つかのアドベンティスト(再臨派)の派閥に分かれていく。これらの派閥は更に多くの異なった年代設定を発表していく。これらの中から現在のアドベンティスト派とセブンスデー・アドベンティスト派が形成されていった。ウィリアム・ミラーの仲間であったネルソン・バーバーは1844年に予想が外れた後、一時完全に信仰を失い、オーストラリアへ行って金を掘って金儲けに専念した。しかし彼は、イギリスを経由してアメリカへ帰国する船の中で聖書を読むうちに新たな年代計算法を思いつく。アメリカ帰国後、彼はアダムの創造から計算すると1873年が人類創造から6000年目に当たることを思いつき、1870年に彼独特の年代計算法を発表して1874年を来るべきキリスト再臨の年とした。彼はその教義を広めるため「真夜中の叫び」という月刊誌を発行した。しかし、1874年になって、キリストの再臨らしきことが全く起こらなかった時、バーバーはその説明に迫られた。彼は年代計算には間違いがないと確信していた。彼は「正しい時に違うことが起こった」として聖書の中にその答えを探した。そこで彼は、再臨にあたるギリシャ語のパルーシアは「見えない形で存在すること」という解釈を考えつき、キリストは1874年に予想通り再臨したが、それは目に見えない形で起こったと発表した。彼は再臨が起こったことを示すため、雑誌の名前を「真夜中の叫び」から「朝の先触れ」に変更したが、信奉者の間にこの「目に見えない再臨」の説は広くは受け入れられなかった。

チャールズ・テーズ・ラッセル

 ペンシルバニア州アレゲーニーに生まれた、ものみの塔宗教の創始者チャールズ・テーズ・ラッセルは1870年、18才の時に聖書研究会を始めるが、これは最初からアドベンティスト派の大きな影響を受けていた。彼は最初アドベンティストの1873年、1874年の年代設定を受け入れなかったが、1876年、バーバーの発行する「朝の先触れ」の「目に見えない再臨」説を読み感動する。彼はバーバーとフィラデルフィアで会見し、直ちに1874年が「目に見えない再臨」の年であることを受け入れる。そして同年1876年の10月にラッセルは、バイブル・エグザミナーという雑誌に「異邦人の時:いつ終わるのか?」という記事を書き、そこで「七つの時」は2520年であり、紀元前606年から起算して1914年に終わるという、その後長年にわたってものみの塔宗教で引き継がれている1914年の教義を初めて発表した。更にラッセルは一連の著作の中で、1914年に神の王国が完全に確立され、エルサレムは神の神殿として復興される、1914年の前に大艱難の時代が来る、等の予想を発表した。後にラッセルは彼のこの予想は単なる予想を越え、1914年は「神の設定した年代」として疑いを許されない年であると信者に教えた。

 しかし、1914年が近づくにつれてラッセルは少しずつ自分の1914年に関する予想に弱気になっていく。一つの問題点は、単純に紀元前606年に2520年を加算する方法では、実は紀元0年が存在しないことが計算に入れられていないために、正確に計算するとその結果は1914年でなく、1915年になってしまうことであった。ラッセルはこの計算法の問題点を1904年頃に気付いていたが、教義を根本的に変更するには遅すぎた。1913年のものみの塔誌の「あなたの節度を示しなさい」という記事の中で、ラッセルは年代を予想することに対する過熱状態に節度を示すよう促している。1914年の1月になると、ものみの塔の記事の中で彼は「われわれはこの1914年という年が、予想したような劇的で迅速な秩序の変化が来ると確信しているわけではありません」という、数年前に断言した「神の設定した年代」から比較すると何とも弱気の姿勢に変わっていった。1914年が進むにつれ、ラッセルはますます弱気になり、ほとんど1914年の年代計算は間違いであることを認める直前まで行く。

 しかしその年の8月、ヨーロッパが第一次世界大戦に入ると、ラッセルは直ちに来るべきものが来たと確信し、彼の年代計算への確信は元々の強固なものへ戻った。彼は以後1916年10月31日の死まで、異邦人の時は終わり、「神の復讐の日」あるいは「ハルマゲドンの戦い」が始まったという記事を、ものみの塔誌や聖書研究の本に次々に発表していった。ラッセルはこの第一次世界大戦に続いて社会主義革命が起こり、階級闘争から無政府状態になるという予想を立てた。しかしこの予想に反して1918年、第一次世界大戦は終わってしまった。

 この後、ラッセルの追随者たちはしばらく混乱の時期に入る。それまでの外れては捨て去られた19世紀の幾つもの年代設定とは異なり、1914年には確かに「何か」が起こってしまった。従ってこの年を直ちに捨て去ることはできなかった。バーバーが1874年を守るために、年を変えるのでなく年の意義を変えたのと同様、ものみの塔の指導者も数年かかって新たな1914年を根幹とした教義作りを考えた。そしてついに1922年のセーダーポイントの大会で、ものみの塔協会第二代会長のラザフォードは、神の王国は確かに1914年に確立されたが、それは地上でではなく、天で見えない形で起こった、という新しい解釈を発表した。同じ大会でラザフォード会長は、キリストが天の神殿に見えない形で1918年頃に王座についたという新しい教義も明らかにした。それまでは、ラッセルはキリストが天の神殿に来たのは1878年であると教えていた。またラザフォードは1930年までの間に、キリストの「見えない形での再臨」が起こったのは1914年であると変更した。それまではラッセルの(そしてそれはバーバーによって最初に作られた)1874年がその年であるという教義であった。ここに現代のエホバの証人が、「真理」として記憶し信奉する現在の年代計算法が完成したのである。


第二章へ続く

『異邦人の時再考』の目次へ戻る

エホバの証人情報センターの目次へ戻る