レイモンド・フランズ − 
エホバの証人最高指導者の人生の軌跡とその信仰


《 目次 》
はじめに
生い立ち
戦時中の宗教迫害の体験
カリブ海諸島での支部監督時代
ブルックリンの執筆部門の時代
統治体への任命
統治体の権威と内部改革の仕事
統治体内部での「良心の危機」
寝室に入り込むエホバの証人の規制
兵役回避のための代替勤務か、それとも投獄か
人の命を支配する人の教え
二重の物差し
1975年まで生き延びる
縮みゆく「この世代」
人生の岐路に立って
嵐の前触れ
宗教裁判の嵐
最後の統治体会議
思想統制
嵐の後
判決
波紋
エホバの証人からクリスチャンの自由の証人へ
(写真は「ブルックリンの執筆部門の時代」の前と「エホバの証人からクリスチャンの自由の証人へ」の前に挿入してあります。)

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はじめに

 この伝記は、エホバの証人の最高中枢機関である統治体の数少ない一員として、世界中の何百万人というエホバの証人を指導したレイモンド・フランズの人生の軌跡と信仰を描いたものである。現在までのところレモンド・フランズは、エホバの証人の最高中枢機関の内部を体験し、それを外部の世界に知らせることのできる唯一の人間である。レイモンド・フランズが1980年に統治体をおろされた時、この事件はエホバの証人の社会で大きな話題になった。それには彼が第四代の当時の協会の会長であったフレデリック・フランズの甥であったことも大きく影響していた。彼の人生は、一人のエホバの証人の典型的な生き方と信仰を示す一方、彼が組織から排除されていく過程は、ものみの塔の組織の内部実態をあからさまに描きだしている。

 その波乱の人生体験は、彼の二冊の著書、『良心の危機』と『キリスト者の自由を求めて』に詳しく述べられているが、残念ながらこれらの著書は未だ日本語訳が完成していない。この伝記では、これらの著作を含む多くの資料と、レイモンド・フランズ自身への取材を通して、彼の人生と信仰を紹介することを試みた。特に統治体員としての活動の描写では『良心の危機』の内容を多く取り入れてあるので、この重厚なフランズの著作を英文で読破する時間のない方々にとって、その内容の概要を簡単に知るには役に立つものと著者は希望している。この描写を通じて、ものみの塔宗教の根底にあるものが浮き彫りにされ、ものみの塔を去ったレモンド・フランズの信仰がどのようなものであるかを考えることにより、日本のエホバの証人の方々への考えの糧を与えることができればと願っている。

 なお、聖書の引用は原則として、ものみの塔聖書冊子協会発行の新世界訳日本語版を使用し、ものみの塔協会の出版物の引用ページは、原則として英文版によったが、日本語版のページがわかったものについてはそれも併記しておいた。この伝記の執筆に特別の協力と励ましを頂いたレイモンド・フランズ氏と、ロザリン・ヒューズ氏に感謝申し上げる。

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生い立ち

 レイモンド・フランズ(以下レイという彼の愛称で略す)は1922年5月8日、オハイオ州、シンシナティの対岸の町、ケンタッキー州、デイトンでドイツ系移民者の家系に生まれた。父、ハーマン・フランズは生涯地元の鉄道会社で秘書や事務の仕事をしていた。レイの両親は共に、エホバの証人であった。また彼の4人の祖父母のうち3人までが、ものみの塔協会の初代会長でこの宗教の創始者であった、チャールズ・ラッセルの主宰するものみの塔宗教の信者で、後にエホバの証人と呼ばれる「聖書研究生」あった。レイの両親の兄弟のうち母の兄弟一人と父の兄弟3人までがエホバの証人であり、この中にはレイの父のすぐ下の弟にあたり、4代目のものみの塔協会の会長であるフレデリック・フランズが含まれていた。これらの4人のうち、父方の最も若い叔父アルバートは1925年の予言が外れた時点でこの宗教を離れた。レイには二人の姉がおり両方ともエホバの証人として育った。すぐ上の姉は、ものみの塔協会の宣教師学校であるギレアデ学校を卒業後、ブラジルに奉仕者として派遣されたが、後にものみの塔宗教を離れている。もう一人の姉は現在もエホバの証人であり、レイは定期的に挨拶の手紙を書いているが、一度も返事をもらったことはないという。

 レイはすでに高校の学生の時代から、家から家への伝道を週に20時間から30時間おこない、街角で雑誌を売ったり、ビラを配ったりする熱心なものみの塔の信者であった。1938年、16才の彼は、その年に家の近くのオハイオ州シンシナティで開かれたエホバの証人の大会で、当時の第二代会長ジョゼフ・ラザフォードがロンドンからラジオ電話を通して行った演説に深い感銘を受けたという。彼はその時以来、組織が救いにとって不可欠なものであり、証しの業は結婚や出産などの個人的な関心より優先されるべきものであることを確信した。この時以来、彼は本格的なエホバの証人の活動に入った。

 1939年1月1日にバプテスマを受けた後、1940年高校を卒業した彼は、大学教育を求めることなく直ちに全時間のエホバの証人の活動に入った。折から世界は第二次世界大戦に突入しており、エホバの証人はその戦争参加拒否、国旗敬礼拒否の姿勢から各地で迫害を受けた。その年のデトロイトでのエホバの証人の大会では、世界終末の危機感は最高潮に達していたという。ラザフォード会長はこの時、これが大艱難の前の最後の大会になるかも知れないと語った。レイはその年の秋に夏服を処分したのをおぼえている。次に夏服が必要になる前にハルマゲドンが来るか、あるいは大艱難の時代に入り強制収容所にでも入れられるだろうと考えたのだった。

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戦時中の宗教迫害の体験

 レイ自身、アメリカにおける1940年代のエホバの証人の迫害を目の当たりに体験している。その年、彼は仲間のエホバの証人の煽動罪の裁判に出席し、有罪判決後に暴徒により袋叩きになりかけた経験を強烈な印象で記憶している。更にその後、彼は75人の会衆の証人達とともに、集団でオハイオ州シンシナティからインディアナ州のコナースビルへ出向いて、当時ものみの塔協会が合憲性を挑戦していた、家から家への伝道の権利を行使する活動に参加した。この結果これらのエホバの証人はレイも含めて一週間の間投獄された。この若い時代の暴行や投獄による宗教迫害の生々しい経験は、自分たちが神に真に仕えているという彼の確信を更に強めていった。

 彼はその後、家を出て他の同世代の証人と二人で、東部ケンタッキー州とウエストバージニア州の炭坑地帯で全時間開拓奉仕者として伝道活動を続けた。レイはここでも毎日のように迫害の危険にさらされ続けた。怒りに駆られた抗夫の集団に取り囲まれ、命からがら逃げ出したこともあった。その当時彼は、これらの迫害を通じてこれらの人々に宿る宗教的不寛容の根強さを身にしみて感じた。レイはその当時、自分の身に40年後に降りかかる、ものみの塔宗教内の不寛容の嵐を予想するすべもなく、自分はそのような宗教的不寛容のない、ものみの塔の組織に属していることを幸せと感じていたという。

 1941年の夏が来たが、レイの期待に反してハルマゲドンも大艱難も来なかった。彼はその年のセントルイスの大会に出席していた。これはラザフォード会長にとっての最後の大会となった。大会の最終日、ラザフォード会長は、5才から18才までの子供たちを演壇の前の席に座らせて、結婚をするのはアブラハム、イサク、ヤコブたちの聖書に登場する昔の忠実な人々が復活してくるまで待つようにと諭し、「子供」と題する新しい本を配布した。この本は、ジョンとユニスという婚約中の若いエホバの証人のカップルの話であった。この二人の登場人物の話を通じて、結婚して家族を作るのは数年後に来るはずの新体制になってからにすることが勧められていた。当時19才で独身のレイは、興奮と落胆の入り交じった複雑な気持ちを経験したのをおぼえている。その年、差し迫ったハルマゲドンへの期待感は更に拍車がかけられた。その年の9月の「ものみの塔」誌は「ハルマゲドンまでに残された何ヶ月かを」という表現を使っていた。しかしラザフォードはすぐその翌年の1月8日に死亡し、予想されたハルマゲドンは来なかった。

 レイはその後、ものみの塔協会の幹部となった後、当時のラザフォードがこのような緊迫感を煽った理由を、次期会長で叔父にあたるフレデリック・フランズから聞かされた。それはラザフォード自身がその時点で末期の癌にむしばまれ、自分が数ヶ月の命しかないことを知り、何とか自分の生きているうちにハルマゲドンが来て欲しいという強い願望が、彼をあのような緊迫感を煽る記事や演説に駆り立てたということであった。一方当時、ラザフォードの勧告に従い、結果として結婚適齢期を逃し生涯を独身で過ごしたエホバの証人が多数出た。

 1942年にはレイは、オハイオ州ウェルストンで特別開拓者となって伝道活動を続けていた。彼は協会本部から支給されるわずかの手当だけで極寒のオハイオの冬を凌がなければならなかった。この町でもエホバの証人に対する迫害は後を絶たなかった。1944年にはレイは5ヶ月間、協会の宣教学校であるギレアデ学校で宣教訓練のコースをとった。その後一年半は巡回監督としてアリゾナと南カリフォルニアの会衆を巡回して回った。この間に彼はサンディエゴにあるベス・サリムと呼ばれた、ものみの塔協会所有のラザフォードの別荘にも滞在することになる。ラザフォードは最初この豪邸を、間もなく復活してくるはずのアブラハム、イサク、ヤコブたちの昔の忠実な人々を住まわせるために、協会の資金を使って、これらの聖書の登場人物たちの名義で購入した。しかし結局はラザフォード自身の別荘として彼の死まで、もっぱら彼自身のために使用されていた。レイはこの邸宅に滞在しながら、聖書で読んだ古代の人々がこんな豪邸の生活様式を本当に喜ぶのだろうかという、素朴な違和感を感じざるを得なかったと述べている。

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カリブ海諸島での支部監督時代

 1945年、レイは「油塗られた者」の一人となった後、1946年、当時の第三代ものみの塔協会会長のノアからプエルト・リコの支部監督に任命されて、カリブ海の島国へ単身で赴任した。彼は熱帯の島国特有の病気に悩まされながら、8年間を首都サンワンの宣教者の家で過ごした。その後宣教活動の拡大に伴い、彼はアグアディラの町に移された。更に一年後には旅行する監督を命ぜられ、レイは隣接するバージン諸島やエホバの証人が禁制となっていたドミニカ共和国にも何度も旅行した。この旅行は主にものみの塔の雑誌をこの禁制下の国に密輸入させることだったが、ある時は当時の独裁者に面会を申し込み、ものみの塔の禁制を解くように請願したこともあった。しかし1957年にはドミニカ共和国でエホバの証人は更なる弾圧を受けることになり、何人もの証人たちが迫害され投獄された。

 1959年、レイは現在の妻であるシンシアとプエルト・リコで結婚した。これは協会がそれまでの方針を変更し、宣教者として派遣された者も結婚をして構わないということになったことによる。レイは結婚後もプエルト・リコを根拠として旅行する監督の仕事を続けた。レイと妻のシンシアは旅行先の未開の島における不衛生な生活環境に悩まされ続けた。汚染された飲み水、腐った食物や、ゴキブリやネズミとの共生から妻のシンシアは重篤な胃腸炎と寄生虫症を患ったこともあった。充分な医療を受けられなかったことは、その後のシンシアとレイの健康状態に悪影響を及ぼしたことは否定できなかった。

 1961年にはレイは独裁政権の倒れたドミニカ共和国に赴任させられた。5年間の彼の支部監督としての任期の間に、この国は政情不安定を繰り返した。その間1964年には再びギレアデの宣教学校で10ヶ月間の訓練を受けた。この時レイは初めてノア会長からブルックリン本部での勤務のすすめを受けた。レイはしかし、ドミニカ共和国の支部の残された仕事のためにいったんドミニカに戻ることになる。1965年にはドミニカの内戦が勃発したが、レイとエホバの証人の宣教者たちはアメリカ本国へ避難せず、内戦のまっただ中でこの国にとどまり、文字通り銃弾の飛び交う中で命からがら、ものみの塔協会支部の存在を守った。



ブルックリン時代の
レイモンド・フランズ
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ブルックリンの執筆部門の時代

 1965年、レイは会長ノアの指示により、20年間のカリブ海の島々での任務を終え、ニューヨーク・ブルックリンの世界本部(これを「ベテル」と呼ぶ)に呼ばれ、執筆部門で働くこととなった。レイは最初、カリブ海の島々の宣教活動に満足しており、この重要な仕事を続けたいと申し出たが、これはノア会長の不興を買うことになった。レイは素直にノア会長の指示に従い、ニューヨークの本部へ引っ越すことにした。

 レイのブルックリン到着後数ヶ月も経たないうちに、彼はノア会長により協会の聖書事典を編集する重大な任務を与えられた。この任務の出発点は、その当時すでに集められていた膨大な原稿を使うことであった。これらの原稿は世界中のエホバの証人約250名によって分担執筆されたものだが、その執筆分担は単に協会の重要な役職についているという理由で割り当てられていたため、大部分の執筆者は事典の執筆を出来るような能力もなければ、調査の方法すらも知らなかった。これらの既存の原稿の少なくとも90パーセント以上は全く使いものにならず、新たに執筆し直さなければならなかった。レイは最初単独でこの事典の執筆を試みたが、これは到底不可能であることが明らかとなった。協会の理事であり後の統治体員となるライマン・スウィングルと、ギレアデ宣教学校の教務主任であるエドワード・ダンラップがこの企画に加えられ、更に二人が付け加えられ、合計5人のチームによりこの編集作業は続けられた。レイはこの仕事の中心となって多くの記事の調査と執筆にその後の5年間を費やした。この膨大な仕事は1970年に、1696ページからなるものみの塔協会の聖書事典、『聖書理解の助け』となって結実する。この事典はその後1988年に『聖書への洞察』という、現在エホバの証人が使っている二冊の聖書事典に置き換えられたが、その内容はレイの編集した『聖書理解の助け』をほんのわずか手直しして多くの図版を加えただけのものであり、現在のエホバの証人の知識の宝庫として世界中で愛用されている。

 このレイの5年間にわたる聖書事典の執筆、編集、調査作業は、彼に新しい境地を切り開かせる原動力となった。彼はノア会長の指示を受けて、協会の出版物に限らず、あらゆる情報源を使って聖書の項目の解説を執筆することとなった。これには、一般のエホバの証人が手にすることも、目を通すこともなかった、キリスト教界の出版した多くの聖書事典や注解書が含まれていた。レイはこれらの、「大いなるバビロン」と侮蔑的に呼ばれていたキリスト教界の出版した、いわば「敵方の資料」を使うことに最初躊躇心を押さえきれなかった。しかし意外にもノア会長はそのことに何のためらいもない様子であった。レイはこれらの注解書を調査するにつれ、多くのこれらの出版物の内容が、あるものは一世紀も以前に書かれたものでありながら、正確であり信憑性のあることに驚かざるを得なかった。ものみの塔協会の数年以内に目まぐるしく変わる出版物とは全く異なるこれらの書物は、レイの目を見開かせることとなる。彼はそれまでこのように聖書を深く研究する機会はなく、また聖書の理解は常に協会から与えられるために、そのような研究の必要も感じなかった。レイの聖書に対する見方がこれにより一夜にして変化したわけではなかったが、その後何年もの間の研究を通して、彼はエホバの証人には全くない聖書への洞察を学んで行く。彼はこの過程で、聖書を前後関係の中で理解することの重要性、聖書の単語の意味は聖書の中から見いだすべきことなどを改めて認識した。彼はまた聖書をヘブライ語とギリシャ語の原典から読むことの重要性も学んでいった。

 彼はこの調査の過程を通して、いくつかの協会の教えが聖書の正確な解釈に基づいていないことを発見せざるを得なかった。例えば、「長老」と「監督」という項目の執筆では、一世紀当時、会衆は長老がグループとなって指導にあたり、全ての長老が監督の役目を果たしていたことが明らかになった。これは1932年以来、ラザフォード会長の指導の元に長老グループが解散させられ、それに代わって協会の直接指名による「奉仕の主事」が単独で指導するという、その当時の協会の制度とは全く異なっていた。レイはこの点を会長のノアと副会長である叔父のフレデリック・フランズに指摘したが、二人とも間近に迫ったハルマゲドンまではこの体制を続けていこうという姿勢であった。しかし数年後にはレイの進言は取り入れられ、この制度は変更されて会衆は再び長老グループにより指導されることになった。

 彼はまた多くの歴史的な項目の調査、執筆をしなければならなかった。「年代計算」の項目は27ページに及ぶ膨大な記事であったが、この調査と執筆はまたレイに驚くべき事実を明らかにしていった。エホバの証人の教義の根幹となるものの一つは1914年に、ルカ21:24で述べられている「異邦人の時」が終了し、その年にイエス・キリストが王としての支配を見えない形で開始した、というものである。この教えの根拠となるのはダニエル書4章の「七つの時」が2520年を意味し、その「七つの時」は紀元前607年から数え始められる、従って1914年という年代が算出されるというのである。この607年という年はバビロニアのネブカドネザル王によりエルサレムが破壊された年であるが、レイはこの607という数字が何故か、ものみの塔協会の出版物にのみ出てくる何か協会特有の数字であることに、薄々気がついてはいた。しかしその時点までは特に深い調査をしたことはなかった。

 この「年代計算」の膨大な記事の執筆に当たって、彼は何ヶ月もの間、古代史の文献や資料を調査し、何とか協会の紀元前607年という年を支持する歴史資料を探し続けた。彼は執筆部門の秘書を使ってニューヨーク中の図書館を探し回らせたが、協会の年代を支持する史料は何一つ見いだせなかった。逆にどの史実も、ネブカドネザル王の新バビロニア帝国王としての即位が紀元前607年という早い年代にはあり得なかったことを示しており、エルサレムの破壊は協会の教える年代より20年後に起こっていることで一致していた。レイは、ロードアイランド州、プロビデンスにあるブラウン大学の考古学の教授で、古代楔形文字の権威であったアブラハム・サックス教授を訪ね、これらの協会の年代を覆す多くの史実に何か問題点があって、それらの信頼性をゆるがすことができないかを質問した。この会見で明らかになったことはレイにとって実に驚くべきものであった。ものみの塔協会が言うようにエルサレムが紀元前607年に陥落したことが史実であるためには、古代の書記たちが示しあって多くの楔形文字で書かれた文書を、一斉に同じ様に書き換えなければあり得ないことであった。これは不可能なことであった。

 当時、レイは協会の年代計算が、これらの圧倒的な史実の前にも正しいものであることを信じ続けたかった。その結果、彼はその「年代計算」の項目の執筆に際しては、できる限りこれらの協会にとって不利な史料の、弱点や問題点を大きく取り上げ、当時の考古学の資料の信頼性を揺るがすことにより、間接的に協会の紀元前607年という年代を支持するような書き方をすることにした。しかし、彼の心の奥底には何か割り切れないものが残った。レイはその他の項目の執筆でも似たような経験をした。「諸国民の定められた時」、「忠実で思慮深い奴隷」、「大群衆」などの項目の執筆では、同じように、聖書や資料の解釈に協会の特有な教えを支持するような書き方をせざるを得なかった。しかし、一方レイは不完全ながらも、この『聖書理解の助け』の本が、より柔軟で客観的なものの見方をエホバの証人の間に育てるのに少しは役だったかも知れないとも考えている。

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統治体への任命

 1970年、5年にわたる聖書事典の執筆と編集が完成して出版された年、協会は統治体の構成員をそれまでの7人から11人に増加することを決め、その年の10月、レイは他の3人と共に統治体の構成員に任命された。この後9年間にわたって、レイはこの宗教組織の最高中枢決定機関の内側において、何百万に及ぶ世界中のエホバの証人の日常生活も、生死をもコントロールする、協会の運営と方針決定の過程に参加していくことになる。

 この統治体という機関はエホバの証人の教義の中で重要な位置を占める。その教義によれば、イエス・キリストは「忠実で思慮深い奴隷」級(マタイ14:15−47のイエスのたとえ話に由来する)の少数のエホバの証人を任命して、彼の「羊」である一般のエホバの証人の指導と管理を任せたということになっている。この少数の選ばれたエホバの証人が「油塗られた者」の「残りの者」と呼ばれ、その更に一部が選ばれて統治体を構成するのである。しかし、統治体という概念も存在自体も、この宗教の最初からあったわけではない。ここではレイが統治体に加わる以前に、どのように統治体というものが発展してきたかを先ず見てみよう。

 第一代会長ラッセル、第二代会長ラザフォードの時代には、このような複数のエホバの証人で構成される決定機関は設定されておらず、全ての決定は会長の最終的な独断で行われていた。1942年のラザフォード会長の死後、ネイサン・ノアが第三代会長としてその地位を受け継いで間もなく、統治体という言葉がものみの塔の出版物に登場するようになる。しかしそれは最初、7人で構成される、ものみの塔聖書冊子協会の法人理事会を指していた。これは次の1955年の「奉仕者となるための資格」の381頁に次のように書いてあるとおりである。

主がその神殿に入られた時以来の何年もの間に、法人の理事会が目に見える統治体であることがはっきりと分かってきました。

 しかし、1970年代に入るまでこの理事会は会長の下におかれた従属的、形式的な会であり、理事会が重要な決定を会長と独立して行うことはなかった。例えば、当時の重要な協会の企画であった、ものみの塔協会独自の翻訳による聖書、新世界訳聖書の翻訳と出版に関しても、その最終段階に至るまで理事会はその企画に関しては聞かされず、ノア会長とフレデリック・フランズ副会長の間で進められてきた。重要な教義の変更に関しても、理事会がそれに発言権を持つことはなく、主にノア会長の知識面での全面的補佐をしていたフレデリック・フランズ副会長が、会長の了解を取りながら進めていた。

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統治体の権威と内部改革の仕事

 しかし、レイが統治体に入った1970年以降この体制は見直される。レイが統治体員として引き受けた大きな仕事の一つは、この統治体とものみの塔協会の法人との関係を見直し、指導体制に大きな変更を加えることであった。彼は他の統治体内外の4人とともに「五人委員会」を形成し、聖書に基づいたエホバの証人の指導体制の改革に臨んだ。その時点での大きな問題は、エホバの証人の全体を宗教的、霊的に指導する最高機関であるはずの統治体が、法人としての法的な団体であるものみの塔協会、そしてその法人の会長と理事会とどのような関係を保つべきか、であった。レイはすでに統治体に加わる以前から、『聖書理解の手引き』の執筆、編集を通じて、聖書に描かれている初期のクリスチャン教会には、一人の人間の独裁的な体制はなく、グループによる指導が行われていたことを発見し、それを副会長に進言したことは前の章で述べた通りである。これに基づく変更は1972年に実施された。その結果、会衆の僕が一人で会衆を取り仕切る体制から、現在の、長老団と奉仕の僕による集団の指導体制が打ち出されたのはこの時であった。従って、レイはこの体制がエホバの証人全体の体制として、最高指導部にも確立されるべきであると考えた。

 レイは五人委員会の委員長として、本部の職員や統治体の構成員たちの幅広い意見を聞いて回った。そこでレイが経験したことは、多くのベテライトと呼ばれる本部職員たちが、自分たちの声が聞かれず上から下への命令の一方通行に疑問を抱いていることであった。本部職員の士気の低下は目に見えていた。集団指導体制はこの閉鎖的な指導体系をより開放的なものにし、より多くの人々の意見が採り入れられるであろうという希望の元に広く歓迎された。もう一つの問題は法人の管理機構である協会の会長と、宗教の最高指導機関である統治体との関係であった。上に述べたように、統治体は長年の間、協会の会長に従属する理事会であった。レイを中心とする五人委員会は、これを根本的に変更し、法人とその会長は統治体に従属し、統治体の実務面での必要を満たす、いわば統治体の道具として位置づける提案をした。この考えの基本はすでに1971年12月15日号の「ものみの塔」誌の記事に掲載されていた。しかし、何故か副会長でありレイの叔父であったフレデリック・フランズはこの案に反対を示し、またノア会長も変革に消極的で現状維持を求めていた。

 興味あるのは1975年9月のギレアデ宣教学校の卒業式で、フレデリック・フランズ副会長が祝辞の中でこの件に触れた時に述べた事柄であった。レイはこの副会長の演説の論点を細かく記録していた。副会長はものみの塔協会が宣教師を送り出すのはどのような権威によるかを論じた。彼は協会の歴史をさかのぼり、ラッセルは統治体に従っていたのではないことを強調した上、使徒の6章に言及して、12使徒は7人からなるグループを選んで信者の食物の分配の世話をまかせ、それにより使徒たちは霊的な事柄に専念していた、と述べた。副会長の意図は、統治体は霊的な事柄以外には関与すべきでなく、世俗の仕事は法人に任せておくべきであるということであった。副会長は更に続けて、パウロとバルナバのいたアンティオキアの会衆が、いかにエルサレムの使徒たちのいた会衆と独立に重要な事柄を決定し、宣教師を独立に派遣していたかに言及した。副会長の意図は、統治体とは別に法人が、丁度アンティオキアの会衆がエルサレムの統治体とは独立していたのと同じように決定権を持てるかを、一世紀当時のクリスチャン会衆の例を使って示すことであった。しかし、この卒業式でこの祝辞を聞いていたレイは、この副会長の論理そのものが、実はエホバの証人の統治体の絶対的権威を揺るがすものであることに気がつかざるを得なかった。

 レイは確かに、副会長の論理はまさしく聖書の記述に基づいていることを知っていた。この一世紀当時のクリスチャン会衆が中央集権的なエルサレムの統治体と独立して、イエスと聖霊に基づいて会衆独自の宣教活動をしていたという聖書に書かれている事実は、現代のエホバの証人の統治体が、世界中の全ての会衆を権威をもって指導していくという主張を、実は根底から覆すものであった。もちろんこれは副会長の意図したことではなく、彼はあくまで法人とその会長が、統治体から独立した権威を持つべきであることを強調していたのであるが、レイはこの同じ論理を一般の証人が使用して現代の統治体の権威に疑問をはさめば、彼は「背教者」のレッテルを貼られることを心の奥底で認識していた。レイは聖書の同じ言葉が、状況によって一つの事を正当化するために使われる一方、別の状況では同じ事を反対するために使われることに疑問を投げかけざるを得なかった。

 1975年8月15日、レイは五人委員会を代表して報告書と勧告を作成し提出した。その内容は、会長に集中していた権威を、統治体の構成員の間に分散させる改革案であった。副会長フレデリック・フランズと統治体員の中にはこれを「会長への攻撃」と見なす態度が見られた。しかし、最終的にはこの改革案は採択され1976年1月1日に施行された。この新体制では統治体が法人ならびに宗教上の方針決定の最高機関となり、その元に六つの委員会が置かれた。ペンシルバニア州の法人であるものみの塔聖書冊子協会はこの六つの委員会の下に置かれ、このペンシルバニア州法人の下に更に末端の多くの法人組織が置かれた。この改革により、法人の会長は純粋に法律上の役職になり、宗教上の権威は統治体に移されることになった。

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統治体内部での「良心の危機」

 レイが統治体員に任命された当時、彼は自分が何百万人のエホバの証人の中から選ばれた数少ない「忠実で思慮深い奴隷」として、何百万人の証人の信仰生活を左右していく任務の重要性に、重い責任を感じて統治体の毎週の会合に臨むことになった。しかしその会合の内容はレイの期待と大きく異なったものであった。統治体の会合のかなりの部分は人事に関する決定の承認に当てられた。様々な国の協会の役職、特に旅行する監督(巡回監督、地区監督)の任命に際しては、その者の名前、年齢、バプテスマの年月日、「油塗られた者」であるか否か、が読み上げられ、ほとんどの場合右から左へと承認されていった。これは統治体の退屈な議事であり、形式的な内容が大部分であり、老年者で構成される統治体の中でも特に高齢の構成員は、よく居眠りをせざるを得なかった。票決の時点でも、眠りから覚ましてよく分からない人事の承認に投票するのは気の毒であるとの配慮から、居眠りをしている統治体員はそのままにされることもあった。

 しかしもう一つの重要な議題は、世界各地の会衆や支部から送られてくる相談の手紙に対する対処であった。この中の多くは、会衆内の個々のエホバの証人のある種の行為が排斥処分に当たるかどうかを決定することであった。決定は1975年までは全会一致を必要としており、それ以後は三分の二の賛成が必要とされた。しかし意見が大きく分かれることは稀であり、多くの場合少数意見は主流の意見にあわせて譲歩することが多かった。レイも統治体に加わった最初の数年間は、多数意見にあわせて票決に参加し、多くの場合決定は全会一致で行われた。しかし、後に述べるように、彼の統治体での最後の数年間には、レイは少数派として主流に反対する投票をすることが増えていった。

 これらの一般の会衆から寄せられる相談の手紙には、ありとあらゆるエホバの証人の日常生活の問題がからんでいた。ある証人の息子や娘に大学教育を受けさせた場合、その証人は長老に任命される資格があるか、娘や息子を18歳で結婚させた場合、長老に任命される資格があるか、ある証人が交代で夜勤のある職業に就いているため時々夜の集会に欠席する場合、その者を長老に任命すべきか、等々。またどのような場合に離婚は正当と認められるか、夫が妻に以前の浮気を告白した場合、妻はその夫を離婚して再婚することが許されるか、離婚は浮気をされた者だけでなく浮気をした者にも正当化されるのか、浮気をされた者が離婚を正当化された後に実は自分も浮気をしていたことが発覚した場合、元の離婚は正当なままであるのか、など。エホバの証人の教義では離婚が許されるのは、性的不品行があった場合のみであるが、その定義がはっきりしていないため、問い合わせが後を絶たなかったのであった。その他の相談の例では、エホバの証人の活動をしていて違法行為をした場合罰金を支払うのは正当なことか、労働組合員であるエホバの証人はストライキに入った時にはピケなどのスト行為に参加してよいか、あるいは「代替業務」として組合施設の清掃などを受け入れるべきか、協会は資金をアメリカ国外の支部へ送る場合、第三国への送金を通してドルの価値を増やす、一部の国では違法とされている取引を許してよいか、赤十字を通して災害の被災者たちに援助を送ることは正しいことか、等があった。最後の例での問題は、赤十字が十字というエホバの証人の禁じている宗教シンボルを使っていること、赤十字が輸血の世界的な供給源であることが問題点であった。

 一般のエホバの証人は、統治体の議事は、綿密に聖書に照らされて決定されていると考えがちである。しかし、事実はこれとはほど遠いものであった。様々な議題が議事に登って審議されていく過程で、結局の所、究極の決定事項は、ある事柄が証人の排斥に値する事柄であるかどうかであった。これらの議題に登る質問事項は、各国の状況によって実に様々で、膨大な数に登った。しかしこれらの審議で聖書が使われることは先ずなかった。それには幾つかの理由があった。先ず、統治体の各構成員の時間的な制約があった。統治体員といえども、一般のエホバの証人と同じ様な集会と奉仕の義務を果たさなければならず、それに加えて各構成員は幾つかの委員会に配属されて、その中で任務が与えられていた。それに加えて世界各国から寄せられる書類の量は常に委員会の処理能力を超えていた。従って構成員の中には、ものみの塔誌に掲載され予定の記事を聖書に照らし合わせて慎重に検討することもなく、ただ承認する票決に参加する者も何人かいた。

 この問題はしかし、エホバの証人の指導部に共通する問題でもあった。組織の指導的な地位が高くなればなるほど、仕事の量は増えていき、その結果深い聖書研究をする機会がそれに比例して減っていくのである。これはレイの個人的な経験でも裏付けられていた。この事実はしかし、ものみの塔の宗教の本質を示すものでもあった。一旦組織の内部に入れば個人個人が聖書を深く研究する必要はほとんどなくなり、最も大事なことは組織の方針と教えがどうなっているかを組織の出版物を研究して学ぶことであり、これがエホバの証人の最も信頼できる決定の拠り所なのである。従って統治体の内部でも、先ず検討されることは、ある決定がそれまでの組織の方針と教えにあっているかどうかであり、それさえ確認されれば聖書を開こうとするものはなく、議決は直ちに下された。

 しかし聖書が統治体の決定に使われない最大の理由は、これらの各地から寄せられる多くの疑問に対して多くの場合、聖書は何もはっきりした指針を示していないことであった。例えば血清の注射や血小板の注入を受けつけることは輸血と同じように取り扱われるべきかという疑問には、聖書は全く沈黙しているのである。もう一つの例はコカコーラの会社の運転手をしているエホバの証人が軍事基地に納品をする職務を与えられた、あるいは証人の音楽家が軍事基地の将校クラブで演奏することになった、この時これらの証人の行為は排斥処分に値する罪であるのか、という質問であった。聖書にはどこにもこれらの証人の行為をはっきりと規定する記述はない。しかし統治体は、これらの例でこれらの証人の行為は容認されず、彼らは軍事基地との関係を絶たなければならないと決定した。聖書が沈黙を守り人の論理が答を決めるのである。たとえ反対者が聖書への言及を求めても、大抵の場合ヨハネ15:9の「世から離れていなさい」が引用されて、それで似たような疑問は全て同じ様に片づけられた。その様な広い解釈とあてはめ方が聖書全体の中でどのような意味を持つかを、聖書によって決めることは不必要と考えられたのだった。

 三分の二の多数決で決定される統治体の票決は、排斥処分の決定に当たり奇妙な結果を生じることもあった。ある行為を行った証人、例えば血液のある成分を受けつけた証人を排斥処分にするかどうかの決定の場合、14人の統治体員のうち9人までがその行為は排斥処分に値しないと判断した場合でも、これは三分の二に達しないため、その証人は統治体の半数以上が容認される行為と考える行為をしたことにより、それでも排斥処分にされるのだった。レイは、これらの排斥処分にされた証人達が、実際は多数の統治体員が彼らの行為を支持しているにも関わらず排斥されたことを知ったらどう感じるのか、排斥処分に関しては古い規則の現状維持を改め、「疑わしきは罰せず」を原則とすべきではないか、という疑問を統治体の会議で投げかけた。しかしこの疑問も、長年にわたるこの組織の伝統的な排斥処分の方針を、相も変わらず現状維持して行こうという雰囲気の中で葬り去られた。

 レイの統治体の議決への関与は「良心の危機」の連続であった。伝統に固執し、変化を容認せず、神と聖書に判断をゆだねる代わりに、人の論理が支配する統治体内部の審議の過程は、レイを徐々に統治体内部での少数派に追い込んでいった。中でも特にレイの記憶に焼き付く統治体の決定には、次に述べるような彼の良心を苛ませる幾つかの事例があった。

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寝室に入り込むエホバの証人の規制

 レイの統治体の任期中に、統治体は夫婦間の性行為の細かい規制を「ものみの塔」誌に次々に発表して、またそれを変更していった。レイはこの方針の変化の過程に参加することになる。問題となった行為は、正常の性交行為である性器同士の結合以外の行為、特に性器と口腔との結合、性器と肛門との結合であった。多くの証人の間からこれらの性行為に関しての疑問が寄せられ、統治体はこれに対して答えを出さなければならなかった。1972年、統治体はこれらの行為は排斥処分に値する行為であるとする決定を、わずかの審議の後で下し、1972年11月と12月の「ものみの塔」誌(英文)にその旨が掲載された。この決定は、そのような異常性行為に参加したり、目撃した者の報告の必要性をエホバの証人たちに促していた。その結果、1973年以降、異常性行為をめぐる審理委員会が各地の会衆で多く開かれるようになった。これは、特に夫婦の片方がエホバの証人でない場合、深刻な夫婦間の不和を引き起こすことになった。この異常性行為の規制が打ち出された結果、多くの証人の夫婦が離婚せざるを得ない羽目に陥った。オーラルセックスは性交の前戯として多くの夫婦間で行われていた。混乱した証人たち、指導的立場にある長老たちが次々に本部に問い合わせを寄せ、どこまでを性交とし、どこまでを前戯とするのか、前戯でのオーラルセックスは構わないのか、と言う疑問が頻繁に聞かれた。更に病気やけがで、正常の性交が出来なくなったエホバの証人たちは、それに代わる行為として性器以外を使った性行為を長年にわたって行っていたが、これも禁止されることになった。

 この異常性行為に関する規則はエホバの証人の社会を5年以上にわたって支配した。多くの夫婦関係が破壊され、あるいは少なくとも不和に追いやられた。その実数は誰も知らない。1978年、この規則は統治体の決定により廃止されることになる。1978年2月15日の「ものみの塔」誌32頁(英文版)は次のように述べている。

...明らかな聖書の指示がない以上、これらの事柄は結婚している夫婦自身が神の前に責任をもつことです...これらの結婚に関する私的な事柄は会衆の長老が指示する範囲を超えており、これらの事柄だけを理由に排斥処分をとるべきではありません...このことは聖書に決定を委ね、証拠が十分でない場合には独断的な立場をとることを控えるという鋭敏な責任感を明らかにしています。

 レイはこの記事を執筆させられた時、この「聖書に決定を委ねさせ、独断的な立場を控える」という態度は実際、統治体の決定するほとんどの事柄にあてはまることを痛感せざるを得なかった。この記事の執筆は、レイの良心の痛みを和らげるのにある程度役立ったが、一方それまでの5年間に統治体が世界中のエホバの証人の間に引き起こした傷、それは感情的なストレス、無意味な罪業感、心理的混乱、離婚等ありとあらゆる損害が含まれたが、それらは決して元には戻せないことを、レイは知っていた。

 これと関連した問題に、性的不品行の言葉の解釈があった。上記の性器同士の結合以外は正式の性交と認めないとする解釈を逆にとれば、性器結合以外の性行為は淫行と解釈されなくなるという問題である。夫婦の一方が他の夫婦以外の男性又は女性と性器以外の結合を持った場合、その行為は性交ではなく、従ってその行為を行った者は聖書の規定する「姦淫」に当たらないと統治体は解釈した。その結果、例えばエホバの証人のある女性は、夫が他の男性と同性間の性行為を行った場合にはこれは姦淫に当たらず、それを理由にこの夫を離婚して別の男性と再婚することは許されないというのが統治体の判断であった。これはマタイ19:9「あなた方に言いますが、だれでも、淫行以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すのです」というイエスの言葉が根拠となっていた。しかし、レイはこの統治体の多数の決定に疑問を持ち、ギリシャ語の原典でイエスの言った言葉の本当の意味を調べてみた。レイはギリシャ語の淫行に当たる言葉、ポルネイアが単なる性交に限らず、ほとんど全ての性行為を含むものであることを見出した。レイのこの見解はその後、ものみの塔の「淫行」の言葉の正式な解釈として取り入れられ、これは1972年1月1日の「ものみの塔」誌にレイの執筆で記事として掲載された。それ以降、上に述べた例の女性は夫の同性愛関係による淫行を根拠として夫を正式に離婚できることになった。しかし、その女性にとっては手遅れであった。彼女はその後再婚し、その理由ですでに排斥処分を受けていたからであった。

 これもまた人の論理が聖書に優先されて決定を左右し、エホバの証人の私生活を翻弄した例であった。 レイはこれらの決定に実際に関与する中で、自分の良心が否が応でも目ざめていくのを止めることは出来なかった。

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兵役回避のための代替勤務か、それとも投獄か

 多くの徴兵制をしく国々では、良心的兵役拒否者に対して代替の非戦闘勤務、例えば土木工事とか軍の病院での勤務などを与えていた。エホバの証人は長年の間、この代替非戦闘勤務をも拒否することが正式な方針になっていた。この教義は1996年の5月1日のものみの塔誌の上で変更されるまで、半世紀以上にわたって続けられ、その結果、多くの徴兵制のある国々で、何千人にのぼるエホバの証人の男子が、徴兵拒否の罪で投獄され続けた。この教義の理由は、代替勤務を受け入れることは戦闘という「血の罪」の「代替」であり、それは同じ様に血の罪になるという解釈であった。その結果、エホバの証人の青年男子は代替勤務を拒否して投獄されるか、代替勤務を受け入れて直ちに会衆から断絶され、排斥処分を受けたのと同じ様な扱いを受けるかのどちらかの選択に迫られるのだった。

 レイの統治体の任期中の1978年に、この問題はベルギーのエホバの証人からの問い合わせをきっかけとして、統治体の中で見直しが行われた。世界中の支部に調査の手紙が送られ、何回かの統治体の会議で審議がはかられた。この中で代替勤務は個々の証人の良心に基づいた決定に委ねられるべきであるという提案は、16人の構成員のうち、賛成9、反対5、棄権1で過半数は代替勤務を受け入れることは罪にはならないと判断したが、しかし賛成が三分の二に達しなかったために採択はされなかった。この問題はレイの任期中合計6回にわたって統治体の議題に登ったが、そのたびに現状を変更する案は三分の二に達する賛成を得ることはできなかった。この結果、その後更に17年間エホバの証人は世界各地で、統治体の過半数が罪にはならないと判断した事柄を、それでも拒否し続けて投獄されなければならなかった。レイの心の奥底の良心の呵責は更に強まったが、他の統治体員は単に規則に従っているだけでごく当たり前のこととしてその結果を受け入れていた。

 これらの排斥処分に値する罪に関する統治体の決定に関しては、ある事柄では聖書にその排斥処分決定の理由を見つけられることはなかった。全ての決定は純粋に組織の方針決定の結果であった。それは一度出版されれば世界中の兄弟姉妹が守らなければならない確立された方針となるのであった。レイはマタイ23:4の「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」というイエスの言葉を思い出さざるを得なかった。

 レイは統治体の任期の後半に向かって、聖書に基づかない規則によってエホバの証人を縛る統治体の態度に疑問の発言をすることが多くなっていった。これに対する統治体員の態度には、その根底に一般の証人に対する不信があることを覆い隠せなかった。統治体の大部分には、組織が細かい規則を定めて一般のエホバの証人を統制しない限り、彼らは生来的に罪に陥るという思考が支配していた。また、それまでの長年の規則を変更することは、それまで忠実にその規則を守って自分を犠牲にしてきた他の証人たちに心理的混乱をもたらすという配慮があった。この統治体の、自分のみが信頼できるという不謙遜な態度と、過去に証人に重荷を課してきたことがそれを続けていくことを正当化させるという考えは、イエスの教えた謙遜さと他人のくびきを分かち合うクリスチャンの態度とは、全く異質なものであることをレイに思い起こさせた。

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人の命を支配する人の教え

 エホバの証人はその血液を取り入れることを拒否する教義に基づき、多くの治療行為にも細かい規則を設けてきた。そのよい例が、血液凝固因子が遺伝的に欠損しているために止血の機能が損なわれ、凝固因子の注射のみが有効な治療法である血友病の患者の治療であった。統治体と、組織の各支部の指導部は、血友病のエホバの証人の患者に対してはその出版物を通さず、個々の患者に対し直接の指導をしてきた。その方針は、血液成分である第八凝固因子を使って一回の治療することは構わないが、この治療を繰り返して受けることは、血を命を支える食べ物としてそれによって「養われている」ことになるから、聖書の教え(創世記9:3−4;レビ記17:10−12)に反することになるというものであった。この方針は長年の間、出版物に載せられることなく、問い合わせのあったエホバの証人に直接、本部や各国の支部が伝えていた。

 しかしこの方針は、1975年6月の統治体の会合で変更され、血友病患者は繰り返し血液成分の治療を受けても構わないという決定が下された。しかし、この結果は直ちに協会の出版物に公表されなかった。その理由は、元々の一回だけ血液成分を受け入れても構わないという方針自体が公表されてこなかったため、もし新しい方針を公表するならば、先ず古い方針がどうなっていたかを説明しなければならず、方針の目まぐるしい変換が余りに明らかになり、これは望ましいことではなかった。従って、本部は過去に問い合わせてきた血友病の証人の手紙を元に、新しい方針を個々の患者の証人に手紙で伝えることにした。この方法は一見満足のいくように見えた。しかし現実には多くの証人が電話を通して本部に治療方針を問い合わせてきており、そのような患者には、過去の記録を辿って新しい方針を伝えることができなかった。その結果ようやく1978年6月15日の「ものみの塔」誌に、他の血液成分の治療の許される例と一緒にして血友病が小さく取り上げられた。過去の方針の変更はどこにも述べられなかった。この統治体の決定から、「ものみの塔」誌への公表までの三年間の間、方針の変更の決定を知らされずに、出血により病状が悪化したり死に至った血友病のエホバの証人の実数は知られていない。

 これもまた、組織の方針変更が、統治体の配慮の及ばない末端のエホバの証人の生死を振り回すことになった例として、レイの心を深く痛めるのであった。

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二重の物差し

 レイの9年間の統治体の任務の中で、彼の良心を痛める事柄は多数あったが、その中で彼が実際に経験した、最悪の組織の方針の矛盾と不一致の例は、統治体の二つの国の支部に対する指導方針の矛盾と一貫性の欠如であった。この例は、二重基準、すなわち一方で一つの規則を適用して指導しながら、他方では同じ事柄に全く別の規則を適用して指導することの顕著な例であり、この事例を通してレイの良心は最大の危機にさらされることになる。この二つの国とはメキシコと東アフリカのマラウィであった。

 1964年以来、マラウィのエホバの証人は実に残虐な宗教弾圧を受け続けていた。千人以上に登るエホバの証人が家を焼かれ、暴行、拷問、虐殺などの虐待を受け、多くのエホバの証人は近隣のザンビアやモザンビークに難民として避難せざるを得なかった。その虐待の理由はマラウィのエホバの証人が、当時の一党独裁政権の党員カードを購入するのを拒否していることであった。マラウィは当時バンダ終身大統領がマラウィ議会党を率いて独裁政治をしいており、国民にこの独裁政党の党員カードを購入することを強制していた。それはこの独裁政権が国民全体を党員にすることにより、国民の完全な一致を簡単で安易な方法により達成しようとする政略の一つであった。エホバの証人のマラウィ支部はこれに対し、この政権の党員カードをエホバの証人が購入することはクリスチャンの政治的中立を破り、この世の勢力と妥協することになり、それはエホバに対しての裏切りにつながるとして、国中のエホバの証人にこの政党カードを買わないように指導していた。この方針はニューヨークの統治体によって完全に支持されており、そのためマラウィの大部分のエホバの証人は命をかけてこの指示を守り通したのであった。統治体のこの問題に対する議論では、常に「妥協を許さない」クリスチャンの姿勢が強調された。

 レイは1975年、宗教弾圧の続くこのマラウィの状況を調査して書類にする任務を受けた。この中でマラウィの特殊な状況を知るにつれて、レイの心の中にはこの党員カード購入拒否の方針に対する幾つかの重大な疑問が生じた。先ず、党員カードという名前が確かに政治に関係しているために、これの購入は政治的中立を破るように見えた。しかし、マラウィのような一党独裁の国で国家権力が国民全員に党員であることを要求するなら、党員であることはその国の国民であることの義務とほとんど同一ではないだろうか、という疑問が生じた。使徒パウロはローマ13章で国の政治権力に対して「神の僕」あるいは「奉仕者」と見なして従うように教えている。パウロはローマ13:7で要求されるものは全て与えるように教えている。マラウィでカードを買うことはその政権が国民に要求している義務であって、パウロが教えている政治権力に従うことではないのだろうか。パウロの見方に対し、イエスはこのような状況でどのように教えているだろうか。確かにこれと同じ状況は聖書に記載されていない。しかし、もし権力者が重荷を与えて一マイルを歩くように要求した時、イエスはそれに対して政治権力に妥協することなく拒否するように教えただろうか。マタイ5:41には一マイルを歩くように権力者が要求したら二マイル行きなさいとイエスは教えている。レイの心には次から次へと聖書に基づく疑問が絶えなかった。レイはマラウィの困難な状況に対して明快な答は出せなかったが、しかし彼にとって一つだけ確かなことがあった。それはマラウィの党員カードの購入拒否の方針は、明確な聖書の記述に基づくものではないということであった。

 ちょうどマラウィの問題が深刻化する1978年頃、先に述べた兵役の代替勤務の問題に関して、統治体はメキシコでの徴兵制度に対するエホバの証人の対応の仕方の報告をメキシコ支部から受け取った。その報告はレイを驚嘆させるものであった。

 メキシコでは徴兵年齢に達すると男子全員が一定期間の軍事訓練を受けることが義務となっていた。男子は登録の時に「カルティラ」と呼ばれる証明書を発行され、軍事訓練を受けるとそのカルティラにそのことを証明する印を押してもらうことになっていた。メキシコ政府は、この軍事訓練終了の印が、官吏をわいろで買収することにより、訓練に参加しない者に対して違法に押されていることが広範に行われていることを当時知っており、政府はその摘発に力を入れているところであった。そしてものみの塔協会のメキシコ支部の報告によれば、この違法な官吏の買収はメキシコのエホバの証人の間でも、何年にもわたって一般的に行われていることであった。レイの驚きはそれだけではなかった。何とこの違法行為を長年支部が指導して行ってきた理由は、ニューヨークの本部がそのように指導したからであるというのである。マラウィの事態で「妥協を許さない」クリスチャンの態度を指導してきた統治体が、そのような指導をメキシコに同じ時期にすることがあり得るのであろうか。レイはこの深刻な疑問に直面し、良心の動揺を抑えることができなかった。

 レイは1978年11月にメキシコの支部を訪れ、実地にこの事態を調査することになった。レイはメキシコの支部において、現地のエホバの証人から直に報告を受けることになる。彼らメキシコ支部のエホバの証人たちはマラウィの悲惨な状況を知っており、それに比べてわいろを使って官吏を買収して有効な兵役カードを所持しているメキシコの証人の間に、良心の痛みを感じている者が多くいることをレイに報告した。しかし、このわいろを使った買収の方法は確かに、ニューヨークの本部が1960年に文書で承認した方針であった。レイはメキシコ支部で、その1960年の本部からの手紙を読むことができた。それはメキシコ支部がニューヨークの本部に質問の手紙を送ったのに対する返事として送られてきたものだった。彼はすぐにそれが、当時副会長であり彼の叔父であったフレデリック・フランズの書いたものであることがわかった。その手紙には「わいろ」という言葉は使われず、代わりに「金銭取引」、「料金の支払い」という表現が使われ、払った金銭は軍事権力にわたるのでなく、わいろを受け取る個人に行くことが強調され、これにより道徳的な問題が軽くなるような書き方がしてあった。そしてこの習慣がメキシコ各地で広く行われており、監視官も見逃しているのなら、エホバの証人にとっては有益な事だから続けることには問題がないという指示であった。この手紙の最後には、しかしこの習慣によって問題を起こした時は、本部は関知しないから個々の証人が自分で責任をとるようにとあった。

 レイにとっての悲しみと驚きは、この本部からの指示がメキシコに出された1960年にレイはドミニカ共和国を管轄する支部監督として、そこでまさしく同じ問題、すなわち義務づけられた軍事訓練への参加の拒否により多数のエホバの証人が何年も投獄されていた事実を身を持って体験していたことであった。メキシコにわいろを使って軍事訓練を回避することを認めておいた同じ年、全く同じ問題で苦しむドミニカ共和国の兄弟たちにはノア会長、フランズ副会長は何の手だても下さなかった。実際、会長、副会長は同じ頃ドミニカ共和国を訪問し、わざわざこれらの兵役を拒否して投獄された兄弟たちに拘置所まで面会に行っているのである。そこまでしながら、一方のメキシコには違法な方法で軍事訓練を回避させ、全く同じ問題に悩むドミニカ共和国には何もしないという、この二重基準はレイの理解をはるかに超えることであった。

 このメキシコの軍事訓練をわいろを使って回避する方針は、マラウィの党員カード購入拒否の方針とほぼ時間的に平行して発展してきた。最初のマラウィにおけるエホバの証人への暴力的弾圧は1964年に起こり、一旦下火になりかけたが、1967年に再発した。このようにマラウィの国民が一枚のカードをめぐって弾圧に苦しむ間に、メキシコのエホバの証人はニューヨークの本部よりの承認を受けて、一枚のカードが引き起こす問題をわいろで回避し続けていたのである。その後1969年には、メキシコ支部はニューヨークの本部に対して、この違法な習慣を維持することが本当に容認されることなのかを確認するための手紙を出している。この中で支部は新しい情報として、このようにわいろを使って終了の印を得た者は第一予備軍に配属され、戦時には正規軍の次に召集されることになることを知らせ、このことによって、わいろを使って訓練終了の印を取得する現行の習慣を変更させるべきかを問い合わせている。レイはこれに対するニューヨークからの返事も読むことができた。この手紙は会長(ノア)がその秘書を使って書かせたものであった。その手紙は、簡単に1960年の手紙に述べた指示に変更はなく、この件は個々の兄弟の良心に任せられるべきであり、もしその結果として召集を受けたら、個人個人が良心に基づいて決定すべき事柄である、と指示している。

 この事実は更にレイの心を深く痛めることになる。片方のマラウィで「政治的中立」の名の元にカードの購入を徹底的に拒否して暴力的弾圧にさらされるエホバの証人がおり、他方のメキシコでは「良心の問題」の名の元に軍事訓練終了の印をわいろを使って取得し、第一予備軍という軍事組織に属しながら、しかも断絶処分も受けず巡回監督や地域監督になっているエホバの証人がいるのである。片方で非戦闘代替勤務を兵役の代わりに受け入れることは、この世の権力に妥協することになるとして拒否し続けて投獄されることを指示しておき、他方で第一予備軍という立派な軍隊に属することを「良心の問題」と片づけて容認し続けるのであった。これ以上に明白な二重の物差しがどこにあるだろうか、とレイは深い良心の呵責に追いやられるのであった。レイは次の箴言20:23の言葉を思い起こさざるを得なかった。

 二種類の分銅はエホバにとって忌むべきもの、欺きのはかりはよくない。

 この二重の基準は、このエホバの証人の最高権力の座に就く人間たちの恣意の産物にほかならなかった。組織の益を個人個人の証人の苦しみより優先し、自分たちの投票が66.6%か62.6%かによって、多くの若者とその家族の人生とを何年にもわたって棒に振らせることに全くの無感覚になっている、それがこの最高機関で独占的決定権をもつ少数の人間たちの実態であった。聖書にはっきりした根拠を示すことができないにも関わらず、一つの方針をある国の信者に命をかけて守らせながら、他の国では全く反対の方針を容認し、しかもそのためには違法行為をすることさえ「良心の問題」と片づける、これがこの統治体という権力者集団の実態であった。この醜い矛盾がこの組織の中で平気で行われている真の理由は、結局の所、この指導集団がエホバへの忠誠の名の元に、実は組織への絶対的な忠誠を自らに課す結果、人々が組織の矛盾に対して盲目になっていくのであることを、レイは気がつくようになった。レイはこの経験を通じて、神は仲間の人間の上に、強大で絶対的な権力を行使するような人間の集団を置く意図はないと確信するに至るのである。 

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1975年まで生き延びる

 レイが統治体に加わった1970年の数年前から、世界中のエホバの証人の間では1975年をキリストの新たな千年統治の始まりの年として期待する動きが、年を追って拍車をかけるように増大していた。この1975年の「予言」を作り上げ、推進していたのは当時の副会長であったフレデリック・フランズであった。彼は1966年に出版された自分の著書『神の自由の子となってうける永遠の生命』で次のように書いている。

その年表によれば、人間創造の年は紀元前四〇二六年です。信頼できるこの聖書年代表に従って言えば、人間創造以来六千年になるのは一九七五年のことです。そして人類歴史の第七の千年区分は西暦一九七五年の秋に始まります。

ゆえにこの時代のうちに、そして多くの年を経ないうちに、わたしたちは、エホバ神の目から見て人間存在の第七日にあたる日を迎えることになります。

忘れてならないことに、人類の前途には、聖書巻末の本に述べられているようにイエス・キリストが千年のあいだ地を治める、キリストの千年統治があるからです。十九世紀前、地におられた時、イエス・キリストはご自身について預言的に「人の子は安息日の主である」と言われました。(マタイ、一二の八)「安息日の主」イエス・キリストの支配が、人間生存の第七の千年期と時を同じくしていることは、単なる偶然ではなく、エホバ神の愛の目的によるのです。

 これに続く9年間のものみの塔協会の出版物は、次々と1975年をキリストの千年統治の始まる年として、熱心に世界中のエホバの証人に鼓舞し続けた。例えば1968年のものみの塔誌は次のように書いている。

間近な将来に最高潮を迎える出来事が来ることは確かなことです。なぜならこの古い体制の完全な終わりが近づいているからです。どんなに長くとも数年以内にこの「終わりの日」に関係する聖書の預言は成就されるでしょう。そして生き残る人類はキリストの栄光に満ちた千年統治の中で解放されるのです。何と困難な、しかし同時に何と壮大な日々が間近に迫っていることでしょう! (ものみの塔1968年5月1日272頁)

 レイはこの記事を読みながら、確かに1975年という数字は出てこないが「間近な将来」「どんなに長くとも数年以内」とあるこの時は一体どの位遠い将来のことを言っているのかと素朴な疑問を感じざるを得なかった。

 更に、多くの「権威者」の引用として、1975年がどのように特別な年と一般に考えられているかを「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌で何度も取り上げ、1975年までに世界が危機を迎えるであろうと述べた著名人の引用を取り上げたりして、読者のエホバの証人の終末感をますます煽り立てていった。

 後にものみの塔協会は、どこにも1975年にキリストの千年統治が始まると断言したことはない、と言ってこの預言が見事にはずれたことの言い訳の一つにしている。確かに無条件でそのように言い放った文書はない。しかし、無数のものみの塔の出版物の記事の中で繰り返される論理は、1975年に人類創造から6000年が終了し、第七番目の千年期に入る、それはエホバの安息の千年期に当たりキリストが統治する千年期であるというものであった。この論理は読むものに少しの疑問を与える余地もなかったのである。当時、1975年にキリストの千年統治が始まるというのはエホバの証人の間で常識となってしまっていた。1974年の「王国宣教」ではこの終末感は絶頂に達する。

家や資産を売って、開拓奉仕をしてこの古い体制における自分たちの残りの日々を過ごそうとする兄弟たちのことをよく耳にしますが、確かにそれは、邪悪な世が終わる前に残された短い時間を過ごす優れた方法です。(王国宣教1974年6月3頁)

 当時統治体の内側から、この事態を見ていたレイは、統治体員の大部分がこのエホバの証人の高揚しつつある期待を抑える必要を感ぜず、静観の姿勢をとっていたと述べている。その最大の理由は、この1975年の預言が発表された1966年以後、エホバの証人の信者数は爆発的に増加し、この新しい教理が組織の拡大に確実に貢献していることは誰の目にも明らかだったからである。レイ自身もその当時、一人のエホバの証人としてまた新入の統治体員として、確かにこの1975年という年に期待を持ったことは否定しない。しかし、レイは聖書を読めば読むほど、この1975年という設定された年に向けて世界中のエホバの証人が準備している姿と、聖書に繰り返しのべられている次のような言葉の数々がどうしてもそぐわないことに、内心違和感を感じざるを得なかった。

その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も知らず、ただ父だけが知っておられます。(マタイ24:36)

それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。(マタイ24:42)

このゆえに、あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。(マタイ24:44)

ずっと見ていて、目を覚ましていなさい。あなた方は定められた時がいつかを知らないからです。(マルコ13:33)

父が自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは、あなた方のあずかるところではありません。(使徒1:7)

 レイはこれらの聖句を事ある毎に引いて、行き過ぎを抑える発言をしたが、証人の数の世界的急成長の前にはそれを聞く者はほとんどいなかった。興味あることは1968年8月15日のものみの塔誌では、このマタイ24:36を取り上げ、「今はこのイエスの言葉をもてあそんでいる時ではありません。反対に今はこの事物の体制が急速にその壮絶な終わりを告げることに気がつかなければなりません。間違ってはいけません。父がその日と時刻を知っていれば十分なのです。」というイエスの言葉をもさしおくような教えによって、一般のエホバの証人を煽り立てていることであった。

 1974年のある日、レイ夫婦を部屋に訪れた叔父のフランズ副会長に対して、レイの妻シンシアはレイが他の兄弟の過熱気味の1975年に対する興奮状態を静めるような講演をしたことを話したが、副会長はレイに対して「皆が興奮して何がいけないのかね?これは興奮すべきことだよ」と言った。レイは彼の叔父が心底からこの自分の作り上げた教義を信じて疑っていないことを知るのだった。1975年の夏には、副会長は「君、これは1914年とよく似ているよ。あの年も夏までは全てが安泰だった。ところが秋が来て事態が急変して戦争が始まったじゃないか」とも語っている。彼は、1914年の預言をほぼあきらめかけていた第一代会長ラッセルの心境を自分の心境と重ね合わせているのだった。1975年の初めにかけて、副会長は会長とともに世界中を巡ってこの1975年の教義を中心にして講演してまわった。これは更に熱狂的な歓迎を受けた。この世界的な過熱状態は、さすがに統治体の内部にも少数ながら、懸念の声を上げさせざるを得なかった。しかし、これも特別な方針の変換をもたらす議論には至らなかった。

 1975年は、この組織が預言しては外れた1881年、1914年、1918年、1920年、1925年、1940年と同じように、予想したことが起こらずに過ぎていった。レイはこの時、結局の所、この様な当たらない預言を繰り返すことが、神と神の言葉とにどのような影響を及ぼすかを考えざるを得なかった。この様な行為が神と神の言葉に対する崇敬と信頼性を推進するものになるのだろうか。むしろ逆に、これらの行為は聖書の言葉を軽視する立場を正当化する、絶好の材料を与えるのではないだろうか。これはレイの心に年を追って広がっていく疑問であった。

 1976年以降の統治体の会合では、外れた1975年の預言に対する対処の仕方が何回か討論された。統治体員のある者は、何もこれについて話したり書いたりしないのが一番賢明である、そうすれば数年のうちにエホバの証人の兄弟姉妹たちはこのことを問題にしなくなるであろう、と述べて何もしないことを勧めた。しかし、1977年以降、徐々にこの問題はエホバの証人の社会の中で問題をはらんでいった。レイのいたブルックリンの本部の中でも、統治体から1975年の預言のことに何のコメントもないことに、率直に苛立ちを示す者が増えていった。しかし、最も大きな打撃は1977年と78年の二年連続で、世界中の伝道者数(家から家への伝道活動に参加した人数で、エホバの証人の活動の指標として毎年の変化が常に注目されている)が減少したことであった。このようなことはものみの塔の戦後の歴史の中ではあり得なかったことであった。この結果、統治体はついに1975年に関してその預言が外れたことを認める記事を出すことに決定した。この記事はレイが執筆することになり、1980年3月15日のものみの塔誌(英文17頁5節)に掲載された。これはもちろんレイが統治体全体から執筆を割り当てられたもので、統治体の当時の多数の見解をそのまま記述するだけのものであった。レイとしてはこれが統治体員としてできる一般のエホバの証人に対する精一杯の陳謝の行為であった。

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縮みゆく「この世代」

 前の章で述べた1975年の預言とならび、このものみの塔組織の教義で大きな役割を占める年代預言に1914年と「この世代」の教義がある。この教義では、マタイ24:34、ルカ21:32でイエスが「これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません」と言ったのに基づき、1914年に始まった「終わりの時」のしるしを見た世代が過ぎ去る前に、この事物の体制の終わり、すなわちハルマゲドンが来るというものである。この「1914年の世代」の教義は年が経つにつれて増大する問題をはらんでいた。言うまでもなく1914年の出来事を目撃した世代は年を追って減少しているからである。ハルマゲドンが到来しない以上、この教義を続けていくには何とか「この世代」を長引かせる「調整」が行われなければならない。

 最初、この教義では「この世代」は1914年に少なくとも15歳以上であった者たちとした。それは15歳という歳がその当時の出来事の重要性を認識できる最低の歳と考えたからであり、この解釈は1968年10月8日の「目ざめよ!」誌の13頁にのっている。これは1975年の預言とよく調和していた。なぜなら1975年にはこの世代は76歳以上となり、生存している人間は多数いるはずだからであった。1975年の預言が外れた後、この教義は「1914年の出来事を見た世代」と変えられた。これにより、「この世代」の年齢を引き下げる可能性を開いた。

 1978年の統治体の会合では、「この世代」の解釈をどのように変更したらよいかの討論が行われた。統治体員のアルバート・シュレーダーは「この世代」を「油塗られた者」すなわち、14万4千人の特別のエホバの証人たちを指すことに変更することを提案した。「油塗られた者」の数は毎年春の、記念式で表象物にあずかる、すなわちパンとぶどう酒を食べたエホバの証人の数であり、これには可成り若いエホバの証人も含まれているので、すぐに死に絶える心配もなかった。しかし、統治体の討議ではこの新たな教義の解釈は却下された。他の関連する教義の変更をも必要とし、教義体系の根本を覆す可能性があるからであった。

 1979年の統治体の会合ではレイは、スウェーデンの長老カール・オロフ・ジョンソンの送ってきた1914年の年代計算の根拠に対する調査結果をコピーして配布した。そしてこの1914年と「この世代」の教義が歴史的根拠を持たないこと、イエスがルカ24:28、24:31で「この世代」の人々に対して「しかし、これらの事が起こり始めたら、あなた方は身をまっすぐに起こし、頭を上げなさい。あなた方の救出が近づいているからです」、「このように、あなた方はまた、これらの事が起きているのを見たなら、神の王国の近いことを知りなさい」と指示しているのは、今の教義で行けば当時幼児や赤ん坊であった者に対してであるというのはどうのようなものか、という疑問を提起した。確かに1914年当時20代、30代であって、当時の事の重大性を認識し、「神の王国が近いことを知った」世代は次々に死んでおり、生存者は残り少なくなっていた。これに対する他の統治体員の態度はレイに対して冷淡であった。統治体員ロイド・バリーは、統治体員の中に1914年の現行の教義に疑いを挟む者がいることに当惑を感じると述べた。別の統治体員ライマン・スウィングルは、ソビエトのある地方では人々は130歳の長寿であり、現行の教義を固守していくことに問題はないと述べ、これは統治体の多数によって支持された。レイはこれに対し、今日「現在の真理」として教えられていることは「過去の真理」となり、「将来の真理」により置き換えられていることを認識すべきであり、このような「真理」はその言葉の意味を失うのではないか、と述べた。結局このレイを唯一の少数意見とする討論の結果、統治体はこの1914年と「この世代」の教義を変更しないことに決定した。

 しかし、統治体も会長も1914年の教義を揺るぎない真理と信じ切っていたわけではない。この事実はレイの良心を何年もの間にわたって痛め続けさせた。たとえば1975年の統治体の会合で、ノア会長は「1914年について、私はよくわからない。1914年はずいぶん長いこと語られてきた。われわれは正しいかもしれない。正しいと希望するよ」と弱気の発言をしている。また執筆部門の会議でも1914年の教義が取り上げられた時、統治体員のカール・クラインは、この1914年を少なくとも前面に出すことはやめること、一つの教義を変更する前にはその教義に関してしばらくの間沈黙を守ること、それにより次に来る教義の変更はスムースに行くという、今まで何度も行われていたやり方を通していくことを示唆している。また、レイはナイジェリアを訪問した際、支部委員会の奉仕者に一般のエホバの証人の間でのこの1914年の教義の受け取られ方を尋ねてみた。その支部委員は、自分自身が率直な疑問を持っていることをレイに打ち明けている。このようにものみの塔指導部の内部に多くの疑問を持つ者が存在するのが明らかでありながら、統治体はこの1914年の教義に手を着けることを拒否し続けたのである。

 この1914年の教義変更の一連の議論の中で、レイの最も驚嘆したのはアルバート・シュレーダーを中心とする司会者の委員会が1980年3月5日の統治体の会合で提案した、「この世代」を1914年でなく1957年から開始することに変更する案であった。それによると、マタイ24:3−22は、一世紀当時と1914年以来起こっていることとを平行して述べており、24:23−28はキリストの1914年の「パルーシア」(目に見えない臨在)を指している。それに対し24:29−44は天体現象を述べており、これは1957年のロシアのスプートニク人工衛星の打ち上げによって開始した、宇宙時代を文字通り指しているものである。したがって、「この世代」は1914年を見た世代ではなく、1957年の宇宙時代の開始を見た世代に変更すべきである、というものであった。この案により1914年と「この世代」の教義は修正を加えられて47年だけ更に時間をかせげることになるはずであった。この案は統治体の会合で奇抜過ぎるとの理由で却下された。しかし、レイの最大の驚きと悲しみは、この1914年と「この世代」の教義を推進し、一般のエホバの証人に揺るぎない真理として教えている本部の統治体の内部で、少なくとも3人の統治体員がこのような案を提出するという事実であった。このことは他でもない、この教義の大本である最高指導部自体が、この教義を揺るぎない真理とはして信じてはおらず、別の「案」によって真理を置き換えようとしていることであった。

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人生の岐路に立って

 レイの統治体員としての九年間は、積み重なる良心の危機を通して彼に新たな境地を切り開くと同時に、彼の良心の葛藤は彼の心を苛ませていった。1976年以後、レイの統治体の中での立場はますます困難なものになって行った。多くの場合、彼の立場は少数派であり、彼の意見は疑いの目を持って扱われた。それでも彼は、事態が時と共に良い方向へ変化することを期待して待つことにした。しかし、この期待は根拠の無いものであることをレイは認めざるを得なくなっていった。レイは亡きケネディー大統領の演説の中の次の言葉が、彼のその時の心境をよく現していると思えた。

真理の最大の敵はほとんどの場合、計画的に作り上げられた不正直な虚偽ではなく、一貫して説得性のある非現実的な神話である。

 レイは自分の行ってきたことが、まさしく「一貫して説得性のある非現実的な神話」に基づいていたということに気がついていた。これは彼の聖書と神に対する見方が変わったことを意味するものではなかった。実際はその反対であった。聖書そのものに語らせること、このことがいかに重要であるのかを彼は改めて見出した。彼はそれまでに統治体の行って来たことが、いかにこの「聖書そのものに語らせる」という重要な立場を欠いていたか、いかに、聖書の言葉がまず不完全な人間の組織を「経路」として通されて変えられたか、を九年間の統治体員としての経験を通して痛いほど知ったのであった。レイは指導者の権威や組織の存在そのものを否定する立場に至ったのではなかった。しかし、権威はクリスチャンに仕えるものであって、クリスチャンを支配したり抑圧したりするべきものではないこと、組織はクリスチャンの兄弟姉妹をただ組織に従順に従うだけの「霊的な赤ん坊」として指導するのでなく、彼らを個々の人間として善悪を自分で判断できる「霊的な大人」に鍛え上げるものでなければならないこと、をレイはあらためて認識したのであった。そして何よりも彼は、組織よりもキリストが、クリスチャンの指導の中で第一でなければならないことを知った。レイにとって、人間の論理によって聖書の言葉が変えられ、神の言葉より組織の伝統的立場が擁護されることはもはや絶えられないことであった。人間の論理が一貫性のない決定を下し、二重の物差しでクリスチャンの生死を支配し、それが絶対的権威として世界中で一斉に受け入れられること、これはレイの知性にも感情にも耐え難い痛みを与えるものであった。

 1979年の秋、レイはアフリカの地帯訪問の任務を与えられたのを機会に、妻のシンシアに彼のその時の心境を打ち明けて夫婦の今後の行く末を相談した。レイは57歳、シンシアは44歳であった。シンシアはレイの統治体でのストレスをすでに感じてはいたが、レイが全てを打ち明けて話したのはこれが初めてであった。彼は統治体員の職を辞任する考えをシンシアに相談した。レイは二人の健康状態のこと、夫婦に子供を作れる可能性を検討することなども考えた。これはレイにとって実に大きな決断であった。統治体員であることはレイにとって一生涯の保障であった。ブルックリン本部での心地のよい住居、生活の保障、ほとんど世界中をすべて協会の経費で旅行できること、そして世界中どこに行っても熱烈な歓迎を受けること等、統治体員として留まることの魅力は数多くあった。一方57歳という歳で、手に職を得る技術もなく、年金も貯金もないレイとその妻が、統治体をやめてただのエホバの証人として生きていくのが、どれだけ困難なことかは日を見るより明らかであった。レイがただ無難で平和な一生を送りたければ、統治体の会合で多数意見に同調し、常に他の構成員と協調を保っていけば、彼の生涯の統治体員としての地位は保障されていた。しかしレイの心の中ではこの時点で、これ以上この恩恵を受け続けることは良心が許さなくなっていた。

 レイはこの時点ですでに、組織の教えの幾つかに聖書の裏付けがないことを知っていた。その中にはすでに述べた1914年と「この世代」の教義の他、エホバの証人の中の14万4千人のみがイエスを仲介者として天で復活し、その他大勢の信者たちはイエスが仲介者となる希望はなく、ハルマゲドン後に地上で永遠に生きられる可能性のみが希望であるという、信者を二階級にわける教義があった。レイは組織がこれに関して引用する聖句、ローマ8:16、17を前後関係を含めて読む限り、決して組織の教えるような信者の二階級をパウロが述べているのでないことは明らかであった。彼はしかし、自分の統治体員という立場から、世界各地の講演旅行では常に組織の教えを強調する内容の話をしなければならなかった。実際彼は自分自身の組織の教義に関する疑問を講演の中で話したことは一度たりともなかった。彼の教義に対する疑問はほんの一握りのレイの個人的な友人の間に限られていた。しかし、自分が真に信じることと、公開の場で話すこととの食い違いを続けていくことは、レイにとって耐え難い苦痛になっていくのであった。

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嵐の前触れ

 1979年11月14日の統治体の会合は、その翌年にエホバの証人の世界本部に吹き荒れた粛正の嵐の前触れとなった。この会合で統治体員の一人、グラント・スーターは、統治体員の一部と執筆部の一部に協会の教えと一致しない教えを話すものがおり、混乱が生じているという報告を聞いたことを持ち出した。このような報告は統治体の構成員の間では、スーター以外にはほとんど知るものはいなかった。レイは、彼が世界各国で講演して回った時には、一度も協会の出版してきた教えと矛盾するような講演をしたことはないこと、そのようなことがあれば聴衆の誰かが録音したり記録をとったりして、どのような内容かわかるはずだがそのような証拠はあるのか、とスーターに尋ねた。しかし答は、これはただのうわさ話にすぎないということであった。結局、教育委員会が調査した結果、統治体の一員が講演に際しキリストの王国が紀元33年に始まったと話したことが、1914年の教義と一致しないことから聴衆の間に混乱が起こったということであった。後の会合で統治体は、今後の講演ではそのようなことのないように気を付けようということで、この問題は一件落着したかに見えた。この申し合わせでは個人的な会話の内容まで含むものではなかったが、これが実はその後に来る全ての発言を含む統制であることは、レイはその時点では気がつかなかった。しかし、レイは1976年以降、年を追って高まる組織指導部の権威的態度の強化から見て、さらに進んだ統制の手段がとられること、そしてそれがレイと何人かの本部で要職についている人々に向けられるであろうことを薄々感じていた。

 レイの予感は間もなく的中した。レイに対する攻撃の口火を切ったのは統治体員ロイド・バリーであった。彼は「ものみの塔」誌に毎号載せられる記事を、印刷に回る前に最終検閲をする役であったが、彼は多数の記事の原稿に、レイだけが5人の執筆委員会の委員の中で承認の署名をしていないことを統治体の会合で問題提起した。レイはこれに対し、自分は良心に照らしてこれらの記事を承認はできなかったからだと述べた。レイはしかし、これらの記事に反対するものではなく、署名をしないのは投票で棄権するのと同じ論理であると述べた。そして、もしこれが統治体の意向に沿わず、良心の理由から署名をしないことが好ましくないのであれば、統治体はレイを執筆委員から外して、他の署名のできる者に席を譲らせたらよいとも述べた。統治体は結局、レイを執筆委員の職から外すことはしなかった。しかしこのレイの最後の言葉は、更に協会本部でその後一年近くにわたって吹き荒れた、嵐の前触れを感じさせるのに十分であった。

翌1980年3月4日、レイは統治体の人事委員会に3月24日より7月24日までの休職願いを提出した。レイも彼の妻も、心身の健康を取り戻すのには数ヶ月の気分転換が必要であると結論した。この間に二人は健康診断を受けるとともに、アラバマ州ガズデンの町にいる友人ピーター・グレガーソンを訪ね、統治体を辞職後、どのような職と住居が得られるかを調べることを予定していた。しかし、レイとシンシアがアラバマに落ち着いて間もなく、ブルックリン本部には「組織に対する陰謀」の罪状で「粛正」の嵐が吹き荒れることになるのだった。

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宗教裁判の嵐

 宗教裁判は人を信仰の内容によって裁く裁判である。中世期においては拷問、暴力的処罰が常につきものであったが、これらは現在では違法行為とみなされる。しかし、その権威主義、教条的なやり方、被告の公正な裁きを受ける権利の無視は、現代の宗教裁判にも受け継がれている。ものみの塔協会の世界本部で1980年に繰り広げられた一連の事件は、現代の宗教裁判の典型を示すものといえるであろう。

 レイが休職に入ってほんの2週間の間に、何人かの本部職員に疑惑がかけられ、調査が始められた。その対象となったのはギレアデ宣教学校の教務主任で、ヤコブの手紙の注解書を執筆し、その広範な聖書の知識で良く知られていたエドワード・ダンラップ、元のスペインの支部監督で、本部の奉仕部門では全国のスペイン語会衆を専門に指導したこともあるルネ・バスケス、キューバ人で本部の印刷工場で働くクリス・サンチェスなどが含まれていた。事の発端は、本部の奉仕部門に入った、一人のキューバ人のエホバの証人からの密告であった。それはベテル家族(本部職員の別の呼び方)の中に組織の教えと異なる教えを話す者がいるという内容であった。この密告者、フンベルト・ゴディネスは奉仕部門と司会者の委員会で二度にわたって長時間の聴取を受け、その内容はテープに録音された。この中では先ずクリス・サンチェスが大きく取り上げられ、更にルネ・バスケス、エドワード・ダンラップ、そしてレイの名前が、同じ仲間として上げられた。また、その聴取の最中にゴディネスはルネ・サンチェスに電話して、直に彼の口から証拠となるような発言を誘導させられた。この二時間半にわたるゴディネスの聴取の録音は、統治体の会合で参加者全員に聞かされた。これがきっかけとなり、広範な審理委員会が設けられ、尋問の輪は広範に波及することになった。

 エドワード・ダンラップは二人の統治体員、ロイド・バリー、ジャック・バーの二人により、彼の組織に対する見方、1914年の教義、14万4千人と2階級のクリスチャンの教義などについて尋問を受けた。ダンラップはそれに対する答として、統治体の構成員の間に聖書の勉強がほとんど無いことを憂慮していること、1914年、14万4千人の教義に関しては率直に、統治体の内部にもこの教えに疑問を抱いている者もいるくらいであるから、教条的になるべきではないこと、を述べた。一方同じ頃ルネ・バスケス、クリス・サンチェスの関与していたスペイン語翻訳部の職員も一斉に尋問を受けることになる。これらの尋問は個別に行われ、各人が同じ部門の別の人間が私的にどのようなことを話していたかを、根ほり葉ほり問いただされた。そして一人の人間の尋問で得た情報を次の別の人間の尋問の材料として使う、犯罪の取り調べの常道が使われた。あるスペイン語翻訳部の職員が証言を拒否したとき、統治体員で審理委員の一人は「あなたが証言しないなら、背教を隠した罪であなたも排斥になる」と脅した。しかしその証人は彼の聞いたことは背教に当たるものではないと信じるから話す必要はない、として退けた。彼はしかし、この審理委員の脅かし通り、間もなく排斥処分にされた。

 当時アラバマにいたレイは、この事態の急展開をエドワード・ダンラップからの電話によって初めて知った。レイは統治体の司会者で審理委員会の中心となっているアルバート・シュレーダーにアラバマから電話して事態の説明を求めた。その時点で、シュレーダーはレイに対して、ゴディネスの聴問のテープのこと、エドワード・ダンラップやレイの名前が「共謀者」の中に上がっていること、その罪状は「背教」という重大なものであることを、一切レイに知らせなかった。シュレーダーはレイに対して「執筆部門の運営がうまく行っていなくて出版業務が遅れているのを調査しているのだ」と事実に反する答を与えた。そこにはクリスチャンの兄弟同士の間にあるべき率直な正直さは見られなかった。このことは、統治体のエドワード・ダンラップに対する態度でも同様であった。彼らは、ダンラップを尋問はしたが、決して何を調査し審理しているのかは教えなかったのである。

 1980年4月25日、レイがアラバマに移ってちょうど一ヶ月が経った時、審理委員会は大量の排斥処分を決定した。この中にはルネ・バスケス夫妻、クリス・サンチェス夫妻、数人のスペイン語翻訳部の職員、バスケス夫妻の所属した会衆の長老などが含まれていた。この内、バスケスだけが上訴を認められ、上訴委員会が開かれたが、その中で彼は組織の教義のリストを突きつけられ、これに全部イエスと言うかどうかを問いただされた。バスケスはその余りの冷酷な仕打ちに泣き崩れ、それ以上の返答は出来なかった。上訴委員会はバスケスの排斥処分を支持し、彼の処分は決定した。バスケス以外の者の上訴は直ちに棄却され、排斥処分は本部職員全員に発表された。これらの排斥された者たちはみな、その成人としての人生の大部分をエホバの証人として、私的な生活を犠牲にし、組織のために捧げてきた敬虔的な信者であったが、わずか一週間足らずの審理の結果、数十年間にわたる組織への奉仕も無にされた。彼らはみな私的な会話の中で、組織の教えに対して聖書に基づいた疑問を話したのであったが、これに対して、審理委員会は一切その発端となる教えを聖書の上から論じてこの「背教者」たちの「誤り」を教え諭すことをしなかった。審理委員はこの「背教者」たちの審理において、「われわれはあなたの聖書の疑問を論じるために来たのではありません」と言って聖書に基づいた議論を最初から回避した。審理委員にとっての関心事は、聖書の言葉に忠実であるかどうかより、組織とその教えに忠実であるかどうかなのであった。

 五月に入り、宗教裁判の輪はついにレイに波及する。5月8日、レイは統治体の司会者、アルバート・シュレーダーから正式に本部に戻って尋問を受けるように電話で指示を受けた。この時点ですでにレイは、すでに排斥を受けたり冷酷な尋問にさらされた多数の友人たちからの電話連絡により、事の重大性と自分への疑惑が波及することを予知していた。しかしこの時点でも、統治体と審理委員会はレイに対し、それまでの経緯を一切知らせなかった。多くの本部にいた友人はレイに対し、これは「小物」を先ず処分して証拠固めをしてからレイやエドワード・ダンラップのような「大物」に取りかかる方策であろうと教えた。5月19日、ブルックリンの協会本部に戻ったレイを待っていたのは、何か理解を超えた異常事態に打ちひしがれた多くの本部職員の友人たちであった。彼らは、尋問の内容とやり方を「悪夢」「妄想的」といった言葉で表現し、それはクリスチャンに対する態度ではなく、彼らは最初から危険な敵の一部として扱われたことをレイに話した。その尋問内容からレイがすぐに理解できたことは、その尋問の基本態度が、異なった見解を持つ者はそれだけで神に不忠実な者というレッテルを貼ることであった。

 レイは4月28日に配布された、統治体の司会者の委員会の名前で発せられた次のような覚え書きを読まされた。

間違った教えが広まりつつある最近の証拠

以下にあげるのはベテル(訳注:本部の別名)から発している間違った教えのいくつかである。これらは4月14日以降、外部から統治体に対してもたらされたものである。

  1. エホバは今日地上において組織をもっていない。統治体はエホバによって指示を受けていない。

  2. キリストの時代(紀元33年)から終わりの時までバプテスマを受けたものは全て、天での復活の希望がある。これらの全ての者は記念式で表象物にあずかるべきであり、「油塗られた残りの者」と思う者だけに限るべきではない。

  3. 油塗られた者から成る「忠実で思慮深い奴隷」級の者たちと統治体がエホバの民を指示するという正当な根拠はない。

  4. 今日、「天的」級と、ヨハネ10:16の「他の羊」といわれる「地上」級、の二つの級は存在しない。

  5. 啓示7:4でのべられている14万4千の数は象徴的な意味であり、文字通りにとるべきではない。啓示7:9でのべられている「大群衆」もまた天で仕える。このことは15節で彼らが「夜も昼もその神殿で」あるいは王国行間訳版では「彼の神聖な住まいで」仕える、と書いてある通りである。

  6. われわれは今、「終わりの日」の特別な時期に住んでいるのではない。「終わりの日」は、ペテロが使徒2:17で予言者ヨエルを引用して述べたように1900年前の紀元33年にすでに始まっている。

  7. 1914年は確立された年ではない。イエス・キリストは1914年に王座についたのではなく、紀元33年以来王国を支配している。キリストの再臨(存在=パルーシア)はまだ起こっておらず、マタイ24:30で述べられている「人の子のしるしが天に現れる」将来の時に起こる。

  8. アブラハム、ダビデ、その他の昔の信仰のあった者たちもまた、ヘブライ11:16に書いてある通り天で復活する。

注意:上に述べた聖書の見方はある者たちによって受け入れられ、「新しい理解」として他の者たちに伝えられている。このような見方は協会のクリスチャン信仰の基本的な聖書の「枠組み」と反している。(ローマ2:30、3:2)これらはまた、エホバの民によって長年にわたって聖書的に受け入れられてきた「健全な言葉のパターン」にも反している。(テモテ第二1:13)このような「変更」は箴言24:21、22で非難されている。従って上記は「真理からそれ、ある人たちの信仰を覆している。」(テモテ第二2:18) 全てを考慮するとこれは背教であり、会衆の決定として処置すべきではないか?(神権宣教学校教科書1977年58頁参照。)

議長委員会 4/28/80

 ここで使われている論理は、レイにとってはすでに何度も聞いたなじみ深いものであった。それは、長年にわたって協会の教えとなっているものを先ず守らなければならないこと、長年信じられてきた事実があたかもその正しさを証明するかのように、これらの人間の伝統的な教えが神の言葉より第一に重視されたことであった。

 レイは次にゴディネスの聴問のテープを聞かされた。その中でレイの聞いたものは、三人の取り調べに当たる統治体員たちの、すでに結論を下したような態度であった。そこには、容疑者の反論を聞いたり証拠調べをしたりする前から、すでにこれらの「背教者」のレッテルを貼られた者たちへの強い非難と、密告をしてきたゴディネス夫妻への賞賛が聞かれ、ただの一言も、誤りを犯した可能性のあるクリスチャン兄弟姉妹への愛ある思いやりは聞かれなかった。次にレイが聞かされたのは第二の密告者ボネリの聴取のテープであった。この内容は第一のテープより更にひどい内容であった。ボネリはルネ・バスケス、クリス・サンチェスたちが新たな分派を作って別の教えを教えたり、別の集会を開いたり、バプテスマを与えたりしているという、自分の目撃したこともないことを噂に基づいて証言していた。彼の証言の半分以上は根拠のないうわさか、全くの作りごとであった。彼の証言のもう半分は、聖書についての個人的な会話の内容であった。聖書を個人的に論じる時に、組織の教えと完全に一致していない限りそのような会話は禁じられるという規則を作らない限り、これは処罰される事柄ではあり得なかった。

 ボネリのこの噂に基づく告発は、二次的な噂を作り上げ、以後本部職員の一部が新たな分派を作ろうとしているという噂が、本部全体の1500人以上の職員の間に広がり、それは結局世界中のエホバの証人の間の噂として広がっていった。この全く事実に反する噂を広がるに任せ、容疑者を排斥するだけでその噂の信憑性を調査して、根拠のない噂の広がるのを止める指導をしなかったのが統治体であった。この他、その時点でエホバの証人の間に世界的に広がった噂に、スペイン語翻訳部が共謀してスペイン語版の出版物の内容を書き変えた、これらの「背教者」の間に同性愛が行われていた、という何れも全く根も葉もないものがあった。レイは何故このようなとんでもない噂が、世界中のエホバの証人の間に広がりやすいのかを考えた。情報が統制されている社会の中で信じられないようなことが起こった時、人は自分なりにその説明を探し、その事態を整合的に理解したがるのである。この場合には、これらの多くの敬虔的なエホバの証人が、急に一斉に排斥されるという未曾有の事態が起こったのであるが、情報統制下のエホバの証人たちは何とかそれを自分なりに説明して、正当化しようとしたのである。その結果、少しでももっともらしい噂は「真実」として受け入れられ易くなっていた。それに代わる説明は、彼らが神から出たものと信じる「組織」そのものが誤りを犯したことを意味し、それは彼ら一般のエホバの証人の、考えの片隅にも出すことが許されない可能性なのであった。組織を信頼し続けることを正当化できる理由を必死で探す結果が、このような噂の広まる結果になるのであった。

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最後の統治体会議

 5月21日、レイは統治体の全体会議に臨んだ。17人全員が出席したこの会議の雰囲気は異常なものがあった。アラバマから戻って二ヶ月振りに顔を合わせる統治体員たちの誰一人として、レイに親しく話しかけるものはいなかった。司会者アルバート・シュレーダーは先ず、レイに司会者の委員会が配布した八項目の教義に関して、各項目ごとに意見を表明するように求めた。この司会者の委員会の八項目の書き方は教条的であり、これを受け入れるか、受け入れないかの選択を迫るようなものであった。これに対し、レイは自分の聖書に基づいた良心に妥協させない範囲で、これらの項目に関する見解を出来る限り組織の教えに合わせる形で述べていった。例えば第一項目の「エホバは今日地上において組織を持っているか」の問いには、レイは、地上において組織を持っているかどうかが問題なのでなく、どのような組織をエホバが持っているかが問題である。中央集権的な、高度に階層化した、権威的な組織か、それともクリスチャン兄弟の会衆の組織で、その中での権威は兄弟を助け、導き、仕えるものであって、決して支配するものではない、そのような組織ではないのか、そこが問題であった。従ってレイの答は「私は神が地上に組織を持っているとは信じるが、それは神が地上に会衆をもち、兄弟愛を持っているという意味においてである」というものであった。統治体がエホバの指示を受けているかどうかの質問に対しては、「私は統治体が聖書の言葉に忠実である限り、神の指示はあると信じる。しかし統治体が神の言葉から離れる時には、神の指示はないと信じる」と答えた。レイの答は全ての項目に関して、このように条件付きの柔軟性のあるものであった。もし他の背教の罪で告発された者の誰かがこの八項目のような教条的な見方を述べたとすれば、レイ自身が先ずそれに対してより柔軟な見方をするように促したことであろう。

 これに対し、統治体員の何人かは、レイが今述べた見解がテープの中で証言されたレイの見方とされるものと異なっており、このレイの話では問題点がぼかされている、と追求を始めた。レイはこれに対し、他人が彼の見方をどう解釈するかに責任を持つことはできないと答え、使徒パウロでさえその言葉を誤解されたことを指摘した(ローマ3:8;ペテロ第二3:15、16)。その他、キリスト教界の聖書注解書を使用することが適当か、ものみの塔誌をゴミ箱に捨てたという証言は本当か、レイが記念式(毎春に行われるエホバの証人が行うキリストの死を記念する儀式)の講演で「他の羊」について言及しなかったのは何故か等の質問がレイに向けられた。「他の羊」は二階級のエホバの証人のうちの「その他大勢」の級を指すのであるが、これに対し、彼の叔父で現会長であるフレデリック・フランズ自身が、レイが最初にブルックリンに来た年の記念式で「他の羊」を言及しなかったと述べ、もし確認したかったら自分がその時に書き留めたノートが残っているから証拠として提出してもよい、と語った。一連の質問の後、レイは今回の事態でもし言われているような、組織に反対する教条的な意見を表明した者がいるのであれば、それは遺憾なことであると述べた。そしてすでに排斥されていた友人、特にルネ・バスケスについて言及し、彼が過去30年間いかに忠実なエホバの証人として組織に対して献身的な奉仕をしてきたかを強調し、彼のクリスチャンとしての人柄に今でも敬意と信頼をおいていると述べた。

 レイは統治体のこの尋問の後、会議室を出て次ぎの通知まで部屋で待つように言われた。彼は自分のオフィスに戻り、数時間をそこで何もすることなく待った。昼食時に他の統治体員が中庭を歩いて食堂へ行く姿を窓から見ていたが、レイは食欲もなくオフィスに留まった。その午後から夕方にかけて、統治体からの通知を待ちくたびれたレイは自室に戻ったが、ますます気分が悪くなり、床につかざるを得なくなった。その夜、シュレーダー議長から夜の統治体の会合に出席して、更に質問に答えるように電話があった。レイは妻を通して、自分は病気で気分が悪くこれ以上尋問は受けられない、自分の言いたいことは全て述べたから、後は自由に結論を出して欲しいと伝えた。その夜ただ一人、統治体員のライマン・スウィングルがレイの部屋を訪ねて様子を見に来た。レイはスウィングルに率直に感謝の気持ちを伝え、この数週間にわたる心労がたたったようだと述べた。そして彼にとって最も辛いことは、聖書の言葉が二の次にされ人間の作った組織の教えが第一の基準として人が裁かれている事実であると説明した。

 翌日昼近くになって、レイは再びスウィングルに会う機会があり、統治体の結論が出たかどうかを訪ねた。スウィングルは結論は出ており、昼過ぎに知らせが来るであろうと知らせた上、統治体の何人かはレイの排斥を主張したことを明らかにした。そして、スウィングルは「あんな事を言うなんて信じられない、僕はたたかったんだよ」と言いながら泣き出した。レイは逆にスウィングルをなだめる立場になり、もはや排斥かどうかは余り大きな意味を持たない、早くこの事件が終結して欲しいだけだとスウィングルに言った。レイはこのライマン・スウィングルが示してくれた友情をその後決して忘れない。レイにとってその後スウィングルがレイをどう評価しているかを知る由はない。しかしそれでも、レイは彼に感謝の念を忘れることはなかった。

 その午後、統治体議長のシュレーダーが統治体の結論をレイの部屋へ持ってきた。結論は、レイを統治体から辞任させ、同時に協会本部の奉仕からも辞任させるというものであった。レイの排斥を主張する意見は三分の二に達せず、排斥処分はまぬがれた。エホバの証人には病弱特別開拓者という制度があり、病気や老齢で奉仕活動が出来なくなった元の巡回監督、地区監督が、決められた宣教活動の条件を満たさなくとも、協会から毎月一定の手当をもらえる制度があり、統治体はレイにその制度を当てはめてもよいと申し出た。しかしレイは少しでも義務が伴うような経済援助を受ける積もりはないと、その申し出を断った。シュレーダーは最後に『聖書理解の手引き』は実に良くできた仕事だ、とレイの本部での仕事の中での最大の貢献をほめた後、レイの部屋を去った。その日レイは正式に辞表を提出し、ここにレイの十五年間に及ぶブルックリン本部での仕事と九年間に及ぶ統治体の仕事は終わりを告げたのであった。

 これとほぼ時を同じくしてエドワード・ダンラップの審理委員会が開かれ、短時間の審理の末、彼の排斥処分は決定された。レイは後にダンラップから、彼の審理委員会の内容を聞かされた。ダンラップの審理委員の質問に対する答は率直明快であった。例えば、二階級のエホバの証人の教義に関しての質問に対しては、ダンラップはローマ8:14「神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです」を引用して、これ以外にどのような読み方ができるのかと審理委員に逆に質問した。審理委員はこれに対し「あなたが審理されているのだ」と答えたという。ダンラップは持ち前の聖句の記憶を発揮して、すべての質問に聖書の引用を使って答えた後、本当の問題は兄弟たちが聖書をよく勉強せずに協会の出版物ばかりを勉強していることだ、と述べた。更に今回の審理の理由の一つに、すでに今回の事件で排斥された人間と彼が食事をともにして、聖書の内容を語り合ったことが上げられていたが、ダンラップはこれも率直に認め、誰でも彼に聖書に関する質問を持って私的に尋ねてきたら、それに対して答えて上げるのが彼の義務であると思うと語った。この彼の解答は簡単に排斥処分を決定できる鍵となった。なぜなら排斥処分を受けた者と親しくつき合うことは、それだけで排斥処分になることは、エホバの証人の間の基本的な規則であるからだった。

 皮肉なことに、審理委員の一人がダンラップに最後に語った言葉が、実は深い意味を持っていた。その委員は、ダンラップが自分は排斥処分は望まない、自分は多くの兄弟たちとの長年積み重ねた親交を断絶するのは忍びない、と言ったのに対し、彼に組織に留まって待ったらどうかと言った。そして「わからないよ、五年位待ってごらん、今君の言っていることの多くあるいは全てが組織から出版されるかもしれないよ」とダンラップに対して言った。この審理委員は組織の教えが時と共に変化していることを充分承知していた。もし組織の教えが五年経って変化する可能性があるから、待つだけの価値があると考えるのなら、どうしてこの目の前の人間が忠実な神の僕かそれとも「背教者」かの判断も五年間待てないのだろうか。このダンラップという人間は、すでに組織の中で五〇年間も待った人間ではないか。このような疑問を持たずに一人の兄弟を簡単に切り捨てられるのは、ただ組織の安泰を守るためには一人の信者の一生はその時その時の組織の都合により、使い捨てにされても構わないという論理があることを、レイは痛いほど学んだのであった。エドワード・ダンラップは七二歳の歳で排斥処分を受け、協会本部を立ち退かされ、生まれ故郷のオクラホマ州に戻りそこで壁紙張りの仕事で生計を立てるしかなかった。ダンラップは、排斥処分の通知を受けた時、次のように語っているが、これはこの1980年の春の協会本部の嵐の中で排斥された者たちの共通の気持ちを現すものであろう。「わかった、それがあなた方の決定なら受けましょう。でも『背教』のために排斥されたというのはやめてもらいたい。背教というのは神とキリスト・イエスに反逆することで、知っての通り私はそんなことはしていないのだから。」

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思想統制

 1980年春の協会本部を吹き荒れた嵐の中で、レイはついに事態の根底にある問題を明らかに見ることができるようになった。究極的には、聖書の言葉につくか、それとも組織の伝統的な教えを優先させ、聖書の神の言葉を組織の教えにあわせるのか、の選択であった。このことはまさしく、エドワード・ダンラップが最後の言葉で述べたように、エホバの証人の「背教」の意味が聖書で使われている「神とキリストに反逆すること」とは異なり、「組織に対して反対すること」を実際は意味することによく示されているのであった。1980年8月の『王国宣教』(伝道者の間に配布される月刊の伝道指示書)には多数のベテル家族が排斥されたことが発表され、それに続いて「組織に対する背教」という言葉が使われていた。この「背教」の言葉のここでの使い方は、エホバの証人の「背教」という言葉の理解を端的に示している。

 1980年9月1日には全国の巡回監督、地区監督などの全ての旅行する監督に対して、「背教者」に対する対処の仕方を詳細に指示した手紙が配布された。その中の一段落には次のように記されていた。

 排斥処分を受けるためには、背教者が背教の見方を宣伝する者である必要は必ずしもないということをおぼえておくべきです。1980年8月1日の「ものみの塔」誌17頁第2節に書かれているように、「『背教』という言葉はギリシャ語の『離れて立つ』、『こぼれ落ちる、変節』、『反逆、放棄』などを意味する言葉から来ています。従ってもしバプテスマを受けたクリスチャンが、忠実で思慮深い奴隷によって与えられたエホバの教えを放棄し、聖書による叱責にも関わらず、他の教えを信じ続けるなら、その人は背教しているのです。その人の考えを再調整する長時間の親切な努力を続けるべきです。しかしもしそのような長時間の再調整の努力にも関わらず背教の考えを信じ続け、「奴隷級」を通して与えられるものを拒否し続けるのなら、しかるべき審理上の措置がとられるべきです。

 この手紙はレイの理解を明快に裏付けている。すなわち排斥処分になるには、もはや聖書に反するかどうかは問題ではなく、唯一の基準は「忠実で思慮深い奴隷によって与えられたエホバの教え」に合意するかしないかなのであった。これはまるで、王様(すなわち神)に忠実かどうかを調べるのに、王様の書いたメッセージ(すなわち聖書)に忠実であることは王様への忠実さの証拠にはならず、王様の奴隷であるメッセンジャー(すなわちものみの塔協会)が伝える、王様が言ったことだと主張することに従うことが基準になる、という事と同じであった。そして背教の罪は、ただ単に組織と異なることを信じることだけで充分であり、何もその異なる見方を宣伝しなくとも、ただ個人的に信じるだけで審理上の措置の対象とされるのである。これこそ「思想統制」の最もよい例ではないか、とレイは感じた。この思想統制に基づいた排斥処分は、その後の多くの審理委員会の決定を支配するものとなっていった。

 個人個人は献身的で誠実なクリスチャンであるはずの、これらのエホバの証人がなぜ、このような組織の盲目の虜になってしまうのだろうか。レイは自分自身の経験からその根底にあるものが、エホバの証人一人一人の心の中に巧みに植え付けられた「組織」のイメージであることを見出した。この「組織」のイメージは、エホバの証人の独特の思考過程により、一人立ちした絶対的な権威としてエホバの証人の心の中を支配するのである。この「組織」のイメージは、一つの抽象的、観念的存在として、現実のクリスチャンの兄弟姉妹の存在からかけ離れ、絶対的権威として聖書よりも上位に君臨するようになる。もしこれらのエホバの証人の一人一人が、誠実な個人として神とキリストと聖書のみから事柄を判断し、クリスチャンの兄弟姉妹と同胞の人類への奉仕の心を持つなら、このような個人を圧殺する強大な組織が支配することは無かったであろうということを、レイは知ったのである。

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嵐の後

 1980年夏、レイと妻のシンシアは住み慣れたニューヨーク・ブルックリンの本部を後にして、アラバマ州北部のガズデンの町に引っ越した。協会が餞別としてレイに支給した一万ドルに、借金した五千ドルを加えて、彼は仮設住宅を購入し、友人であるピーター・グレガーソンの敷地に住むことになった。グレガーソンはアラバマ、ジョージア州に幾つかの店を持つスーパーマーケットのチェーン店を経営する二代目の献身的なエホバの証人であった。レイ夫妻はイスラエルの地帯旅行をともにしたことを通じて、グレガーソン夫妻との数年の友情を築き上げていた。グレガーソンはレイに、彼の住居の敷地と、その敷地の手入れをする庭仕事の職を与えてくれた。グレガーソン自身、生涯のエホバの証人としての生活の中から、その当時自分で、独立した聖書研究の必要性を痛感して実行していた。彼はやがて聖書を研究すればするほど、組織の教えと聖書との食い違いに目を見開かざるを得なくなり、ついに長老職を自ら辞めていた。彼はレイに「僕は人の前に立って、自分が聖書の裏付けがないと見えているものを研究する司会者にはなれないよ」と長老を辞める時の心境を語っている。

 レイはグレガーソンの所有地の芝刈り、雑草取り、植木の刈り込み、などを仕事とした。蜂や虻に刺され、真夏の酷暑の下での連日の筋肉労働は、レイのそれまでの59年間の人生の中で初めて経験するものであった。それは彼にとって、確かに肉体の痛みであったが、それでもそれに比較できない大きな心の傷を和らげるのには役に立った。レイ夫妻は、その中にあっても毎朝の夫婦での聖書研究を欠かさなかった。レイはその当時、夫婦で読み続けた詩編が彼の傷ついた心を癒すのに役だったことを忘れない。

 一方、レイは東ガズデン会衆の一員として、エホバの証人としての活動も怠らなかった。レイは最初会衆の中に暖かく迎えられ、集会や野外奉仕に参加した。そして二ヶ月後には長老としての推薦を受けることになった。しかし、この推薦はブルックリンの本部の承認を得られなかった。その理由はレイが統治体を辞職した通知が『王国宣教』の紙面に他の排斥された者たちと並んで掲載されてから間もないから、というものであった。この措置と、1980年後半に何回か「ものみの塔」誌に現れた協会の排斥者に対する新たな強硬路線は、この地方の一会衆の中でさえ、レイに対する態度を変化させていった。エホバの証人のこの当時の雰囲気は、一種の反動体制にも似ていた。各会衆の中で疑惑と恐怖が支配し、「背教者狩り」の雰囲気が盛り上がって行った。これは「ものみの塔」誌の当時の記事を読むと、明らかに統治体がエホバの証人の社会の中に醸し出そうとした雰囲気であった。

 レイ自身も自分が会衆の活動の中で、ますます異質なものを感じていくことを抑えることは出来なかった。集会で語られる多くのことの中に聖書が誤用され、組織の自画自賛と自己中心の言葉が語られるのを聞き続けることは、レイにとって苦痛になっていった。レイは自分が王国会館の「お客様」的な存在になっていることが分かっていた。彼は集会の発言でも、出来る限り聖書の引用を述べるのにとどめていた。しかしそれでも会衆の雰囲気は険悪な兆しをはらみ、「背教者狩り」の期は熟していったのであった。

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判決

 レイがアラバマに移って六ヶ月が経った頃、エホバの証人の社会では「魔女狩り」にも似た反動の雰囲気がますます高まっていた。1980年の9月には、前々章で紹介した、新たな背教の定義、すなわち組織の教えと異なることを信じるだけでも背教となるという指示と共に、エホバの証人の間に背教者探しの雰囲気が高まっていった。この時に一致して、東ガズデンを管轄する巡回監督に、より強硬な方針を支持する人間であるベンナーが任命された。この新巡回監督ベンナーは東ガズデン会衆の訪問に際して、先ずピーター・グレガーソンの調査を始めた。グレガーソンが「ものみの塔」誌の記事に公然と反論している、という噂が会衆の内外にたっていることがその理由であった。このベンナーの追求がすぐに終わらないことを知ったグレガーソンは、審理委員会の取り調べを受けて排斥されるより、自ら断絶届けを出して組織を脱退することを選んだ。グレガーソンの家族全員と、彼の事業の雇用者の何十人もがエホバの証人であった。彼が排斥されるということは、それらの多数の家族と雇用者に多くの迷惑をかけることを、グレガーソンはよく知っていた。その当時、自発的な断絶をした者は、排斥処分を受けた者のような厳しい処遇を受けないことになっていたのである。1981年3月、ピーター・グレガーソンは会衆に辞退の届けを出し、これは大きな問題もなく受け入れられた。その時点では、グレガーソンはそのままガズデンの町で、それまでと同じ様な社会活動や、家族、友人、雇用者との関係を保つことができた。

 しかし、この状況は1981年9月15日20頁の「ものみの塔」誌(英文)(日本語版「ものみの塔」1981年11月15日20頁「排斥−それに対する見方」)の記事で全く変えられた。排斥者にもある程度の温情的な扱いをすることを認める、それまでの1970年代の態度から、極端な強硬路線への方針転換がなされたのである。この「ものみの塔」誌の記事では排斥者に対する徹底した忌避が教えられると共に、自発的に脱退した者も排斥者と同じ様に扱うという教えが初めて打ち出された。この記事が発表されるのとほぼ時を同じくして、レイの取り調べが東ガズデン会衆の長老によって開始された。その「罪」はレイが、自発的に脱退していたピーター・グレガーソンとステーキレストランで会食をしたというものであった。会衆の長老で、ピーター・グレガーソンの弟であるダン・グレガーソンが目撃したのであった。

 最初のレイの取り調べはこの、長老ダン・グレガーソンによって行われた。もう一人の長老と二人でレイの家を訪れたダンは先ず、第二コリント13:7−9を読み、彼がレイの考え方に「調整」を加えるために来たと告げた。ダンはレイがピーター・グレガーソンとステーキレストランで会食したことは、9月15日の「ものみの塔」誌の記事に照らして、彼の断絶された者に対する考え方を「調整」しなければならないことを意味すると述べた。レイはそれに対して、ピーター・グレガーソンは彼の地主であり、雇い主であると述べた。その上でレイはダンに対して、脱退した人間をそのように厳しく扱う聖書の根拠を尋ねた。ダンは第一コリント5:11がその聖書的根拠であるとした。レイはそれに対し、この部分では使徒パウロは「兄弟と呼ばれる人で、淫行の者、貪欲な者、偶像を崇拝する者、ののしる者、大酒飲み、あるいはゆすり取る者がいれば、交友をやめ、そのような人とは共に食事をすることさえしないように」、と言っているのであって、レイはこれに当たる人間と交際したことはないし、ピーター・グレガーソンはこのような人間ではないと述べた。それに対してダンは、今度は第一ヨハネ2:19を取り上げて、この聖句が根拠であるとした。そこには「彼らはわたしたちから出て行きましたが、彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら、わたしたちのもとにとどまっていたはずです」、とあった。レイはこのヨハネの手紙の前後関係を見ると、ヨハネが問題にしている人々は「反キリスト」のことであり、レイは一度も「反キリスト」、すなわちキリストと神に反逆した人とつき合ったことはないし、ピーター・グレガーソンはそのような人間ではないから安心するように、と述べた。

 以後の取り調べはもっぱら、レイが組織の教えにどれだけ忠誠を持っているかに向けられた。レイは組織の教えがはっきりと聖書に基づいているのなら、その教えには従うが、聖書の根拠のはっきりしない教え、例えばこの脱退した人間に対する処遇の仕方のような教えでは、時と場合による、と返答した。ダンは次いで神の教えに謙虚になることが重要であることをレイに諭した。レイはこれには全面的に同意するが、その謙虚さは先ず、それを教える者たちによって見本を示されるべきであると述べた。そしてレイは次のようなたとえ話でそのことを示した。ある者が幾つかの意見を述べたのに対し、別の者がその者の意見の多くに同意するが、幾つかについては別の見方を持つと言った場合、別の者が全面的に彼の意見に全て同意しない限りその部屋から出て行けと命じたら、その態度は謙虚と言えるだろうか、とレイは尋ねた。ダンの明確な答はなかったが、それでも第一回の取り調べは平和裡に終了した。

 第二回の取り調べは巡回監督ベンナーを交えて行われた。この新しい巡回監督は気短でしばしばレイの発言をさえぎってしゃべり出す人間であった。レイはこの取り調べの中でローマ14章を取り上げ、使徒パウロが信仰に基づいた良心を重視していることを示した。神の承認を得ていることに対して疑念を持つことは罪であり、「信仰から出ていないことはみな罪」である、とパウロは教えている(ローマ14:23)。聖書には「邪悪な者を義にかなっていると宣告し、義なる者を邪悪であると宣告する者−その両者ともエホバにとって忌むべきものである」と書いてある(箴言17:15)。レイはだから、邪悪な人間でないピーター・グレガーソンを邪悪な人間として扱うことは、この聖書の原則に基づいて自分の良心からできないことである、なぜならピーター・グレガーソンに関するレイの知っている全ての知識は、彼が邪悪な人間ではないことを示しているからである、とレイは述べた。ベンナーはこれに対し、レイが自分の良心に基づいて行動するなら、会衆の長老たちも、自分たちの良心に基づいてレイに対して措置をとらなければならない、と言った。そこには良心に基づく「措置」はあっても、良心に基づく寛容はなかった。その措置とは、統治体が決定し、ごく最近の「ものみの塔」誌に掲載された、断絶した者との交際の禁止の規定であることは明らかであった。

 1981年11月1日、レイの審理委員会が会衆内に正式に設けられ、レイの処分が審理されることになった。11月5日、レイは統治体に直接手紙を書き、「ピーター・グレガーソンは彼の大家であり雇い主である。60に手の届くレイにとってグレガーソンと絶縁して新しい住居と職を探すのは困難である。このような状況の元では、グレガーソンの招待を受けて彼と会食をすることは、「ものみの塔」誌9月15日号の記事で明らかにされた、断絶者を忌避する新たな教えによって排斥の理由になるのか、それともレイの個人的事情を考慮してより柔軟な裁定が下されるべきか」、という要旨の質問を送った。審理委員会はしかし、統治体からのこの手紙に対する返事を待つことなく審理を開始することをレイに通告してきた。3人の審理委員の長老の名前で書かれたこの通告の手紙は、あたかも裁判所への出頭命令のような冷たい事務的な手紙であった。そこには、生涯をエホバの証人として捧げて、統治体員も務めた組織の兄弟に対しての、また老齢で困難な生活状況に置かれている者に対しての、愛ある配慮の姿勢はみじんも見られなかった。たとえレイが本当に間違いを犯したとしても、そこには同じクリスチャンとして兄弟の間違いを心配し、愛を持って導こうとする姿勢は全く無かったのである。

 レイはこの通告に対し、11月21日に設定された第一回の審理委員会は、他の州から来る来客のために延期したいと申し出た。この日付は延期されたが、委員会は11月25日を最終期限とし、もしその日に出頭できないなら、レイの欠席のもとでも審理を進めるとレイに通告が届いた。レイは彼のそれまでの統治体での経験から、この性急で「判断を急ぐ」姿勢が、実は会衆の長老団の決断ではなく、巡回監督が本部の統治体と密接に連絡をとりながら決めたものであることを知っていた。レイは11月25日の委員会に出席することにした。

 この間、ピーター・グレガーソンのもう一人の弟で、長老ではあるが審理委員会には参加していないトム・グレガーソンはレイに一貫して同情的であった。トムはレイの審理委員会に同席して、レイの弁護をすることを申し出てくれた。11月25日の夕方、レイとトムはすでに3人の審理委員が待つ王国会館に出頭した。審理委員たちはトムの同席は認められないと言った。トムは、グレガーソン家の事業の人事を担当しており、レイはその雇用者の一人であるから審理を見届ける必要があると反論したが、これも認められなかった。レイは結局弁護をする者もなく、三人の委員の尋問を一人で受けなければならなかった。

 審理委員会は先ず証人の尋問から始まった。最初にダン・グレガーソンが証言した。彼はレイがピーター・グレガーソンとウェスタン・ステーキハウス・レストランで、両方の妻と共に食事をしているのを目撃したと証言した。レイはこれに対しその日付を尋ねた。ダンはこれは夏で、9月15日の「ものみの塔」の記事が出版される前であることを認めた。レイは、委員会がこの記事を過去に遡って適用される法律と信じない限り、ダンの証言は無関係であると述べた。第二の証人はロバート・デイリーという会衆の長老の奥さんであった。デイリー婦人も、やはりレイ夫妻がピーター・グレガーソン夫妻と同じステーキハウスで会食しているのを目撃したと証言したが、この日付は9月15日の「ものみの塔」誌発行の後であった。レイはこの事実は素直に認めた。しかしレイは逆に、デイリー夫妻もピーター・グレガーソンと食事を共にした事実を指摘した。ピーターがある日、モリソン・カフェテリアに食事に行って列に並んだ時、たまたま彼はデイリー夫妻のすぐ後ろに並んだのだった。デイリーは実はピーターの父が死んだ後、ピーターの母と再婚しており、過去においてピーターの義理の父に当たっていた。そんな関係から、ピーターとデイリー夫妻はそのカフェテリアでテーブルを共にすることになったのだった。デイリー婦人はこの会食が9月15日以後であったことを認めなければならなかった。デイリー婦人はさすがに取り乱したが、すぐに彼女は、このことはすでに別の姉妹に報告してあり、自分のしたことは間違いであり、二度と同じことはしないと言ったと自己弁護につとめた。しかしレイは後でピーター・グレガーソンから、その後もデイリー夫妻と同じカフェテリアでテーブルを共にしたことがあったこと、しかもそれはデイリー夫妻がピーターを招き寄せたものであったことを聞いている。

 この証人尋問が終わった後、審理委員長テオティス・フレンチはレイの「ものみの塔」誌9月15日号の記事に対する見解を質した。レイは11月5日に統治体に質問状を送っており、その反応を待ちたいと述べたが、フレンチは「ものみの塔」誌のみがわれわれの必要とする権威であると述べた。レイは、もし統治体が直にこの件に関して指示してくれたらより確かではないか、と尋ねた。これに対しフレンチは初めて、審理委員会がブルックリンの本部と密接に連絡をとりながら審理を進めていることを認めた。「被告」に当たるレイにこのような重要な審理の経過がそれまで知らされなかったことは、レイにとっては驚きではなかった。すでにブルックリンの本部での前年の大量排斥処分の嵐の中でも、被疑者の知る権利は全く無視されていたことは、レイがよく知っていたからであった。審理委員長フレンチは、本部はこの9月15日の記事に何も付け加えることはないと言っていたとレイに告げた。他の委員も、彼らは皆「ものみの塔」誌が教える所に合わせなければならないことを強調した。これに対し、レイは聖書に基づいた議論が全くなされていないことを指摘し、この新しい「ものみの塔」誌の教えの聖書的根拠を求めた。レイは聖書が自分の唯一の指針であると言った。

 審理委員ジョンソンは第一コリントの5章の幾つかの節を読みだしたが、その読み方にはためらいが隠しきれず、すぐに彼は読むのをやめてしまった。彼はその聖句とこのグレガーソンとの会食の事件との関連性を論じることはできなかった。レイは一人一人の委員に対し、ピーター・グレガーソンがこの第一コリント5章に書いてあるような人間であり、第一ヨハネに書いてある「反キリスト」に当たる人間であると信じるかどうか尋ねた。フレンチ委員長はこのレイの質問に対し興奮気味になって反論してきた。彼は、審理委員はこのグレガーソンと言う人間の全てを知っているわけではないし、そのような判断を下すことは彼らのすべきことではない、とレイに言った。レイは、それでは審理委員も判断を下そうともしない人間に対して、レイが判断を下さなければならず、その判断によって彼が裁かれるのはどういう訳か、と尋ねた。フレンチは「フランズ兄弟、われわれはあなたに教えてもらうためにここに来たのではありません」とレイに言った。レイはこれに対し、彼は審理委員を教えようとしているのではない、彼のクリスチャンとしての人生の全てが裁かれているのであるから、彼には自分の見解を表明する権利が許されるのではないか、と述べた。レイがピーター・グレガーソンという人間と食事をしたことの罪を裁こうとしているのに、どの委員も、ピーター・グレガーソンが聖書から見てどのような人間であるのかを明確に述べることはできなかった。

 一週間後にレイの排斥処分の通知はもたらされた。彼には一週間の上訴の期間が認められた。レイは上訴の長い手紙を書いた。それはレイが上訴によってこの処分の決定を覆すことができると考えたからではなかった。聖書に基づいた彼の信ずるところを書いた物で残すこと、これがその手紙の目的であった。それまでの経験から、どのような審理委員会であろうと、聖書に基づいた議論がなされることは先ずないであろうことをレイは知っていたのだった。レイはその手紙の中で次のように述べている。

 多分ピーター・グレガーソンと食事をしたことに対して、私は悔い改めを示していないとあなたがたは言われるかもしれません。しかし悔い改める前には、私は先ず自分のしたことが神の前に罪であることを確信しなければなりません。そのような確信は、霊感を受け間違いなく信頼のおける神の言葉から来なければなりません(第二テモテ3:16、17)。私の聖書の理解では、神とその言葉への忠誠は最高の事柄であり、他の全てのことに対する忠誠を超越するものです(使徒4:19、20;5:29)。また私も、どの人間も、またどの人間のグループも、神の言葉に付け加えてはならず、そうすることは「うそをつく者」と呼ばれ、災厄が加わることになることを、私は聖書から理解しています(箴言30:5、6;啓示22:18、19)。私はそのような聖書の警告を軽視することはできません。聖書の、他人を裁く事に対するすべての警告を考慮すると、私は自分を(あるいはどのような人間も、人間のグループも)立法者にすることには健全な恐怖を感じるものであります。私はそのような判断は、神の言葉のみにまかされるべきであると感じざるを得ません。私がそのような判断をするには先ず、私が単に人間の作り上げた基準に従っているのではないということを、私が確信する必要があります。そのような人間の基準は、神の基準のように見えながら実は霊感を受けておらず、神の言葉によって支持もされていないことがあるからです。私は、神がその表明された言葉によって裁いてはいない人間に対して、自分勝手な推測と横柄さで判断を下す罪を犯したいとは思いません(ローマ14:4、10−12;ヤコブ4:11、12;『ヤコブの手紙の注解』161−168頁も参照)

 もしあなた方が聖書から、ピーター・グレガーソンと食事をしたことが罪であることを示して頂けるなら、私は謙虚に神の前に私の罪を悔い改めることをお約束いたします。今までの所、私の尋問に当たった方々は、この聖書に基づく根拠を示さず、上に述べた雑誌からの引用のみを「権威」(審理委員長の使用した言葉)として来ました。私はクリスチャン会衆内の権威はすべて神の言葉から由来し、神の言葉に堅く基づいていなければならないと理解します。箴言17:15には「邪悪な者を義にかなっていると宣告し、義なる者を邪悪であると宣告する者−その両者ともエホバにとって忌むべきものである」と書いてあります。私は神にとって忌むべきものとなる積もりは全くなく、従ってこの事を非常に懸念しております。

 レイがこの上訴の手紙を提出した7日後、上訴委員会が作られたことがフレンチによって告げられた。3人の委員が巡回監督により新たに選ばれたが、この3人の長老はすべてピーター・グレガーソンをよく思っていない者ばかりであった。一人は以前の審理委員会で若いエホバの証人の問題を審理された時に、その行き過ぎたやり方をピーター・グレガーソンにより批判された人間であり、他の二人は、その息子がグレガーソンの娘と離婚したばかりの家族の者たちであった。レイにとってこの上訴委員の選択は、彼とピーター・グレガーソンに対する不利な裁定を意図したものとしか考えらず、レイが公正な裁きが受けられるはずがなかった。レイは直ちに委員全員の入れ替えを請願した。レイの上訴委員会は12月28日に設定されたとの通知が来た。

 この間、ニューヨークの本部からは、レイの統治体に宛てた11月5日の手紙の返事は来なかった。レイはその後二回も手紙を書き、何らかの回答を請願した。しかし、ブルックリンの本部の統治体と奉仕委員会は、レイの審理委員会とは密接な連絡を保っていながら、レイの三回にわたる「ものみの塔」誌の9月15日号の記事に関する質問の手紙を完全に無視した。統治体は、回答することが自分たちの立場を不利にすると考えた時には、質問の手紙を無視することはレイも知っていた。レイはこれが、クリスチャンの原則に堅く付いていると宣伝する組織の指導部が行うこととは信じられないことを知っていたが、自分の身にそれが起こった時、彼は協会指導部の本性をはっきりと見ることができた。この時点でレイはこれ以上の上訴をすることが無駄であることを知り、上訴を取り下げる決意をした。彼は元々、上訴により状況が激変するとは考えていなかった。それまでの雰囲気から見て、長老団と本部統治体はレイを排斥する堅い決意の元に、ありとあらゆるレイにとって不利な手だてをして、彼を必ず排斥に追い込もうとしていることは明らかであった。恐らくこのピーター・グレガーソンとの会食の罪が排斥に追い込むのに充分な強さがなくとも、彼らは何れ、別のことを取り上げて、レイの排斥を求めてくることは時間の問題であった。

 上訴委員の入れ替えにより、もしかしたら上訴が受け入れられる可能性があることを恐れたフレンチは、他のエホバの証人に電話をかけて、レイが組織を批判するような話をしたのを誰か聞いた覚えがないかを探し回っていた。レイはこのことを他のエホバの証人でフレンチから直接電話をもらった婦人から知った。どこにもレイの罪を目撃したと自発的に申し出た人間がいない時に、罪の咎を作り上げるための材料を人々の記憶の中から掘り起こして探し回るこの態度は、もはや常識を超えており、レイはそれ以上このような不条理な取り扱いに耐えることはできなかった。

 上訴取り下げの手紙の中で、レイはガラテヤ6:17「これからは、だれもわたしを煩わせてはなりません。わたしは、イエスの奴隷としての焼き印を自分の体に負っているのです」の言葉を引用して自分の心境を語っている。彼は上訴の取り下げが、彼の罪の認知を意味するものでもなければ、排斥処分が正当で聖書に基づいたものと認めているものでもないことを述べた後、第一コリント4:3、4の使徒パウロの次の言葉を引用している。「さて、わたしにとって、あなた方に、あるいは人間の審判の場で調べられることは、ごくささいな事柄です。わたしでさえ自分を調べることはしません。わたし自身、責められるようなことは何も意識しないからです。しかしそれによって、わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べる方はエホバなのです。」レイはこの一連の経験の中で、神の言葉の正しさへの彼の信頼はますます強められたことを述べ、最後に同胞のエホバの証人との訣別に際して、レイの善意の心と神への願いは同胞のエホバの証人の上にあること、1938年以来彼は全力をつくしてエホバの証人の兄弟のために自分の人生を捧げてきたこと、もし彼の裁きがこれ以上続くことが本当にエホバの証人の兄弟のためになるのなら、喜んで継続したであろうとして、ローマ9:1−3(「わたしは、自分の兄弟たち、肉によるわたしの同族のために、自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです」)を引用して、この手紙を結んでいる。

 1981年12月31日、レイモンド・フランズの排斥処分は最終的に決定された。この日付は奇しくも彼のエホバの証人としてのちょうど43年目の最後の日であった。彼は1939年1月1日にバプテスマを受けたからであった。その正式な罪状は、組織を脱退した人間とレストランで会食をした、ただそのことだけであった。

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波紋

 レイの排斥処分は1982年、世界各地のマスコミの話題になり、エホバの証人の社会にもかなりの影響を与えた。特に「タイム」誌は1982年2月22日号で「迫害下の証人−隠された終末主義セクトの前指導者の忌避」と題する記事では、先ずレイの排斥に至る経過を詳しく述べている。

指導者の立場から見れば、フランズやその他の批判分子をたたくことは明らかに必要であったのだ。これらの批判分子は、この宗教の正統な聖書解釈よりも、ルターのように「聖書のみ」に重点を置くので、この宗教の土台にとっては脅威なのである。その他の多くのものみの塔の中心となる教義も危険にさらされているのだ。

この記事では更に、レイ以外の多くの脱退者、排斥者の処遇にも言及している。

しかし他の元エホバの証人たちは次々に抗議運動や出版運動、訴訟などを繰り広げている。これらの批判者たちは過去十年間で約百万人のエホバの証人が組織を離れたと言う。エホバの証人はそれでも休み無い勧誘運動により信者の増加を見ている。しかし、この成功も長続きはしないかもしれない。彼らは1975年の終末預言を取り下げざるを得なかったが、しかしそれでも終末は1914年の出来事を記憶している世代が生きているうちに起きなければならないのだ。このような老人の数が急速に減っている現在、エホバの証人は自分で課した絶対的な締め切りを前にますます困難な時をむかえる。(Time 2/22/1982, p66 本著者による日本語訳)

 この「タイム」誌の記事はレイに直接取材して書かれたものであったが、その反響は世界的に広がり、レイの元には返事を書ききれない程の多数の手紙が殺到した。大部分は、ものみの塔のために苦しみを受けた元エホバの証人や家族からの励ましの便りであった。

 しかし、その一方ではものみの塔協会の広報担当者に取材した記事では、全く別のことが語られていた。1983年6月25日のシカゴ・トリビューン誌は、ものみの塔の広報担当者サミュエル・ハードの言葉として次のように書いている。

「このような不穏状態は、比較的少数の不満を持つ元のエホバの証人によって作りあげられたもので、これらの不満分子は聖書に背を向けた者たちなのです。」「私たちは霊的な警察官ではありません。私たちはだれでもその意見だけで人を抑圧することなどしません」とハード氏は語った。

 カナダ・トロントの新聞はものみの塔カナダ支部の広報担当者ウォルター・グラハムに取材した次のような記事を掲げている。

「もし私たちの原則にそって生きていくことがいやなら、その人が辞めるのは自由です。嫌がらせをするなんてとんでもない、身体的にも感情的にも悩まされることはありません」と彼は語った。グラハム氏は更に付け加えて、問題があれば会衆レベルで長老の委員会によって処理されており、「私たちは本部の指令を受ける訳ではありません、私たちの組織は非常に開放的で実に多様な個性が許されているのですよ」と語った。

 レイはこれらの記事でものみの塔組織の広報担当者が、正直に内情を外部に知らせていないことを知っていた。

 この時に至って、レイは自分のこれまでの体験を一冊の本にまとめて出版することを決意した。その一つの理由は、マスコミの反響の結果レイの元に舞い込んだ手紙の圧倒的に多くが、レイの排斥に至る正確な経緯に関する情報を求めていたことが上げられた。もう一つの理由は、正確な情報の無い中で、エホバの証人側から、レイの意図に関する根も葉もない中傷と噂が広がり、レイがそれ以上沈黙を守ることは出来なかったからであった。これらの噂はレイだけでなく、多くの神の言葉を第一にして組織を離れた者たちにも向けられ、自分を高めるための野心に駆られた行為に走った者とか、神とイエス・キリストに反逆した者という、冷酷なレッテルがはられ、世界中のエホバの証人の間に広められた。そのような悪意に満ちた噂と中傷の陰には、もしかしたらこれらの排斥者たちは聖書の言葉に誠実で真理を愛するために、あのような行為に至ったのではないかという可能性すらも考えることを許さなかった。一部の排斥者の悪行が自動的に全ての排斥者のレッテルになるのであった。更に世界中のエホバの証人の間に広められた悪意に満ちた中傷には、夫婦交換者、同性愛者、偽善者、自分のカルト宗教を始めようとしているなど、全く考えられないような噂が平気で語られた。老齢の排斥者には「老いぼれて判断力を失った」といった噂もつきものだった。

 『良心の危機』と題するこの本の第一版は1983年に出版された。レイはこの本を書いた意図をこう語っている。「ここに示されたものはある種の「暴露」を意図したものではない。確かにここに書かれていることは私にとって衝撃的ではあったが、その衝撃のゆえにこれを書いているのではない。これらの事件は実に基本的な問題、非常に深刻な問題を浮き彫りにし、例示しているゆえに私はこれを書いている。これらの事件は極端な「組織への忠誠」が、それが基本的にどのようなものであろうと、いかに善意で行われていようと、人を不親切、不正、そして残酷な、行為と決定に走らせることになることを示している。」この本は1992年に第二版になり、現在七カ国語に翻訳され、世界中のエホバの証人に関係した人々の必読の書となっている。



レイモンド・フランズ
近影
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エホバの証人からクリスチャンの自由の証人へ

 レイは排斥後も、ピーター・グレガーソンの雇用人として、その敷地に住み続けグレガーソンのスーパーマーケットの事業を助けた。そして1985年、新居を建築する計画を立てていた所、折から、『良心の危機』を読んだオーストラリアの見ず知らずの婦人が、思いがけない多額の寄付をレイに提供してくれた。これにわずかの貯金と妻の親戚からの借金を足して、レイは1986年、ジョージア州アトランタの西の郊外にあるウェストンの町に小さな家を新築できた。この建築には、元エホバの証人で建築業を営む人が全面的に支援してくれた。レイ自身も可成りの仕事を自分自身で行った。

 1986年以来、レイはピーター・グレガーソンのスーパーマーケットの事業を退職し、社会保障年金と、出版物のわずかの売り上げで細々と生計を立てている。彼の年収は常に州の定める貧困のレベル以下である。しかし、それでも彼はそれほど生活に困ってはいないと言う。一つには彼は節約をすることに訓練されたこと、そしてもう一つには世界中の人々の温かい支援があることである。レイの最近の毎日は、ほとんど出版の仕事と手紙書き、電話の応対に明け暮れているという。手紙と電話の数は常にレイのこなせる数を超えており、レイは時に何ヶ月も手紙の返事が書けずにいて、心を痛めている。比較的広い敷地を持つ彼の家の日々の手入れも、74歳のレイにとってはかなりの大仕事であるが、幸いにして彼の健康状態は良好とのことである。子供を作らなかったレイ夫妻は、代わりに愛犬のムチャドを実の息子のように可愛がっている。ムチャドを連れての散歩はレイの重要な日々の運動になっている。また、ほとんど毎週のようにアメリカ国内は元より世界各地からの訪問者があとを絶たない。これらの訪問者の接待もレイ夫妻の大きな仕事である。

 1991年、レイは『良心の危機』の続編に当たる『キリスト者の自由を求めて』を出版した。この本では、彼は『良心の危機』と異なり、教義に関する彼の信仰を深く論じている。彼の出版物は「コメンタリー・プレス」の名前で出版され、現在レイのこれらの二冊の本の他、約十冊の関連した書籍の通信販売を行っている。1996年から97年にかけては『異邦人の時再考』の本の再版の出版に向けて、レイは自分でコンピューターの出版プログラムを操作しながら、版元を作成しているとのことであった。

 排斥後のレイの、キリストと神への信仰は以前にも増して強いものがある。しかし、彼は二度と「組織」に属する積もりはないことを、事に触れては語っている。レイはどのキリスト教の宗派にも属さず、キリスト教の教会にも通ってはいない。それに代わるものとして、彼はほとんど一生続けてきた妻との毎朝の家庭聖書研究と、世界中から尋ねてくる訪問者や、近所の人々との家庭聖書研究を欠かさない。レイはこれが一世紀当時のクリスチャンの会衆の姿であったと信じている。彼はしかし、既存の多くのキリスト教教派に挑戦する態度は全くなく、教義の論争に参加する積もりもない。その彼の信仰は、『キリスト者の自由を求めて』に詳細に論じられている。

 レイのごく最近の心境は次の彼の手紙の一節に最も端的に語られていると思われる。彼はもし、ものみの塔が内部改革を行った場合、再びその宗教に戻る気持ちがあるか、という質問に対してこう書いている。

私がものみの塔の組織に戻る気持ちがあるかという問いに対しては、あなたの言っているような抜本的な処置を彼らがとるなどという可能性は先ずあり得ないことですし、たとえそのようなことがあったとしても、私は再び一つの宗教組織の一部になる積もりはありません。この組織の基礎となる教義に重大な欠陥があり、うわべだけの取り繕いでこの基礎は決して変えられないでしょう。強力に、また継続的に行われてきた、組織の強調によって培われてきた精神は、非常に不健全なものであり、その精神が人々の注意を神の一人子と神の聖霊からそらし、その結果信者の関心は人間の教えに主眼がおかれ、彼らは霊的に退化してきたのです。本来神の一人子にのみ帰せられる権利と特典を、一つの人間の組織に横取りさせたことが、恐らく彼らの犯した最も重大な誤りでしょう。もう一つの誤りは、神とキリストとの個人的関係の真の感覚を個人の信者から奪い取り、純粋に人間のものである無数の規則、規定を課する結果、個人の良心の正しい行使を侵害したことが上げられます。この事態はマタイ15:9に記されたような、一世紀当時のパリサイ人のものと酷似した状況を生み出しているのです。彼らがその組織としての存在をあきらめない限り、その抜本的変革はありえないでしょう。キリスト教は兄弟愛であり、そうでなければならないのであって、中央の執行部に従属する体制化された社会ではないのです。



村本 治筆 (ご意見、ご感想をお知らせ下さい)

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