クリスマスを祝うことに反対するクリスチャン

(12-27-96)

初めまして。
私はクリスチャン(プロテスタント)ですけど、自分の信仰としては
クリスマスに反対する者です。いままで、教会の中でもそのことを
なるべく主張してきましたが、容れられたことはありませんでした。
クリスマスは当人にとっての信仰だと思っているので、今はあまり強硬に
反対することはなくなりましたけれど。ただ

1) 12月25日の祝い事が異教起源であるということは、クリスチャンなら
 (たぶん)たいてい知っていること
2)  同時にイエス様の誕生の日付は聖書には見出せないこと

の2点から、教会はクリスマスからいったん手を引いたらいいのではないか
と思います。少なくとも祝うのなら、「イエス様の誕生を記念する日」等という
あいまいな言い方はやめた方がよいと思います。知らない人にとってはそれは
誕生日とどう違うかわからないからです。
また「だったらなぜ教会はこの日にクリスマスをするのか」ということも、
メッセージの中で明快な説明を聞いたことも、いままでまったく
ありませんでした。そのことにもちゃんと答えるべきだと思います。
そしてこの2点をつきつめれば、教会がこの日に祝う理由がまったくなくなると
思います。
そして、イエス様が約2千年前にベツレヘムで、旧約に預言された方として
お生まれになったというこのメッセージを、この日から解放して、いつでも
語った方がよいと思います。個人的には、日付を記録しないように神様が
配慮なさったのは、祭として祝うのではなく、いつでも語るべきこととして
意図されたのではないかと思っています。
私には、その方がはるかにすっきりするし、エホバの証人から攻撃されることもなく
せいせいとイエス様の誕生のすばらしいメッセージをいつでも語れると思います。
クリスマスがなくても、クリスチャンがクリスチャンでなくなるわけでは
ないんですよ。ペテロもパウロもたぶんクリスマスは祝っていなかったと思います。
それよりも、聖霊に満たされて救いのメッセージを力強く語っていたと思います。

《編集者より》
クリスマスを12月25日に祝うのは、キリスト教2000年の歴史の積み重ねの結果であり、誰かがSさんのおっしゃるような事柄を十分吟味して決定されたものではありません。その意味では確かにこれは「人間の伝統」だと私は思います。大事なことは一人一人がイエスを与えられたことを喜ぶことであり、「伝統」はあくまで付随的なものでしょう。Sさんのおっしゃる「いつでもメッセージを語った方がいい」という提案には全く賛成です。ただ私が問題としたいのは、この「伝統」に従うことが排斥処分を受けなければならない程間違ったことかどうかです。Sさんの教会はSさんがクリスマスを祝わないことを提案し、実際に祝わなくてもそれでSさんを排斥処分にはしないでしょう。エホバの証人の中でクリスマスを祝うことを提案し、実際にクリスマスを祝って見てご覧なさい。あなたは審理委員会にかけられて脅迫を受けた上、「クリスマスを祝うことは間違っていました」とはっきりと「悔い改め」ない限り、永遠の死を意味する排斥になるのです。クリスマスは確かに人の伝統です。祝うことに絶対的な重要性はありません。しかしエホバの証人にとっては祝わないことに絶対的な重要性があるのです。どちらが人の伝統に縛られているのでしょう?

ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。(ローマ14:5)