「『エホバ』のみ名−対話シリーズ―」に対する反論

(12-17-99)

「『エホバ』のみ名−対話シリーズ―」に対する反論

対話1.エホバのみ名を使わなければならないか(マタイ 6:9)

イエスにとってエホバは文字どおり「父」でした。当時のイスラエルの慣習では、
自分の父親を名前で呼ぶことはしませんでした。ですから、イエスが祈りの中で
「エホバよ」と祈らなかったとしても何の不思議もありません。

対話2.イエスが明らかにしたみ名は?(ヨハネ 17:6,26)

「わたしは、あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。
……そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせま
す。」

ここにでてくる「み名」とはイエスの名ではなくみ父の名です。なぜなら、ヨハ
ネ16章でイエスは「わたしの名を通して」という言葉を用いておられるからで
す。ですから、ここでいう「み名」とはイエスの名でないことは明白です。

話題3.イエスが旧約聖書を読まれたとき

確かに今日わたしたちの手元にある聖書写本や「ギリシャ語原語による新約聖
書」(ウエストコットとホート共編)にはエホバの名はありません。しかし、今
日現存しているのはあくまで「写本」であることに留意してください。今日現存
していない原本に含まれていなかったとは言えないでしょう。

話題4.エホバが永遠の名とはどういう意味か

アブラハムへの契約(創世記17:3,13,19)、安息日に関する律法(出エジプト
31:16-17)は文字どうり「永遠」です。なぜなら、これらは象徴的な意味でイエ
ス・キリストを予表するものだからです。ですから、「エホバ」というお名前も
「永遠」のお名前です。ですから新しい契約にふさわしい名前を使用すべきでは
ありません。

話題5.「み名をもって呼ばれる民」とは

イザヤ書43章10節: 43章全体を読むと、これがイスラエル国民だけではなく、
クリスチャンにも当てはまることが分かります。

使徒15章14節と17節: 「ユダヤ人は紀元前3世紀頃になると、エホバという名前
を発音しなくなった」というのは嘘で、実際には西暦1世紀頃まで発音されてい
ました。

使徒1:8: 確かに、クリスチャンは「キリストの」証人です。しかし、イエスに
は「ヤハウェ(エホバ)は救いなり」という意味があります。(「広辞苑」)で
すから、キリストの証人はエホバの証人です。

対話6.マタイはへブル語で聖書を書いたか?

ヘブライ語の福音書とギリシャ語の福音書は同じ人が書く以上、無関係なはずは
ないでしょう。それに、神の名が記されたギリシャ語聖書の写本が一つもなかっ
たとしても、それでけで神の名を発音しなくて良い理由にはなりません。

対話7.七十人訳とエホバのお名前

「イザヤ書の写本において四文字語とアドナイとが混同 して出てくる現象は、
写本を筆記させた人が四文字語もアドナイも両方とも『アドナイ』と読み、それ
を筆記していた人がその時に頭に浮かんだ方の言葉を書き留めたと考えるのが一
番よい」というのはハワード教授の推測にすぎません。その逆も考えられます。
「あなたの神エホバの名をいたずらに取り上げてはならない。その名をいたずら
に取り上げるものをエホバは処罰せずにはおかないからである。」とは、貴殿が
おっしゃるように「不敬虔な態度でみ名を使うことによって、み名を辱めてはな
らないということ」でしょうが、神の名を一切使ってはならないと言うことでは
ありません。

対話8.エホバのみ名はいつ置き換えられたか

「P46の書体が…1世紀後半のものに類似している」だけでそれが西暦1世紀のも
のであるとは断定できません。

対話9.エホバの復元作業について

ケニヨン氏の主張は「聖書は“実質的には”書かれたとおりに我々のもとに伝わ
ってきた」というものです。彼は写本の過程でいくらかの相違が生じたことも認
めており、協会の立場と矛盾しません。

対話10.正しい発音と意味の重要性

「エホバという発音は12世紀まで存在しなかった全くの人造語です」というのは
嘘です。神の名はそれ以前からも神を愛する人々に愛用されていました。確か
に、多くの学者からはヤハウェと言う名が提案されているのは事実ですが、「ヤ
ハウェ」が正しい発音であったという証拠はありません。それに、エホバはヤハ
ウェの同義語としてすでに辞書に載っています。確かに神のことを「父」と呼ぶ
ことはできますが、それは明らかにエホバの称号の一つです。

対話11.四文字語が出てこない書物について

四文字語が出てないからといって、それによりその筆者が神の名を発音しなかっ
たことを証明することはできません。

《編集者より》
これは「エホバ」のみ名−対話シリーズに対する反論であり、現役のエホバの証人で、ものみの塔協会の立場を擁護する投書を続けていられる宮田さんからのものです。これも以前の投稿と同様、中澤啓介牧師に対する反論ですので、中澤氏に再びお返事をお願いしておきました。返事が来ましたらまたこちらに掲載しますのでお待ち下さい。宮田さんの名前は以前の投稿ですでに名前が公表されていますので、続けて実名を使わせていただきます。

ここでは一つだけ私の宮田氏に対する基本的な疑問を述べます。上の議論は、古文書を考証して昔の実態を推測することの議論ですが、宮田さんはその根本的な論理に無理な飛躍を行っています。それはAという事実が昔存在したかどうかを議論するのに、「Aを否定する確かな証拠はない、従ってAであることは確実である」、という議論です。ここでは「A」とは「イエスの時代にエホバの名が一般に使われていた」という説です。つまり宮田さんは、「『イエスの時代にエホバの名が一般に使われていた』ということを否定する確かな証拠はない、従って『イエスの時代にエホバの名が一般に使われていた』ということは確実である」という論法です。

しかし、この論議は論理学上の初歩的な誤りを犯しています。それはAを否定する確かな証拠がないことは、必ずしもAであることを確定することにはならないということです。簡単な例を挙げて考えてみましょう。明日雪が降る可能性が天気予報の上で50パーセントあるとしましょう。その時、誰も明日雪が降るという可能性を完全に否定することはできません。それではその事実をもって明日確実に雪が降ると言いきることができるでしょうか。いいえ、それでも雪が降る可能性は充分残っているのです。宮田さんの議論をここに当てはめれば、誰もエホバの名が使われていたという可能性を否定することはできない、従って確実にエホバの名は使われていた、という議論です。これは上に述べた「確実に雪が降る」と言い張るのと同じように馬鹿げた議論であることは少し考えればすぐ分かるでしょう。