このウェブサイトは自分と違う信仰を否定しているだけ−エホバの証人を家族に持つ方より

(12-7-98)

私の姉はエホバの証人です。中学の頃に研究を始め、高校になって、バ
プテスマを受けたように記憶します。

現在36歳の姉は、かなり熱心な信者の部類に入ります。私は姉を通し、
20年あまり、エホバの証人と身近に接しているわけですが、姉や、姉
のまわりにいる証人たちと接していて思うのは、彼らが非常にまじめに
信仰し、日々を過ごしていることです。布教にも熱心です。

13年前に、父が交通事故で亡くなったとき、姉は信仰上の理由で葬儀
(浄土真宗です)に関わる一切に参加しませんでした。父の兄弟は姉を
非難しましたが、私と母は、姉をかばいました。

私も、私の母も姉がエホバの証人であることに対し、若干の嫌悪(私は、
超越的存在を信じていません。母は、先祖のお墓が心配)ありますが、
姉に信仰を止めさせようと思ったことはありませんし、これからもその
ようなことをするつもりはありません。信仰の自由を犯すことは、家族
であっても許されないことです。

さて、ホームページを拝見していて思ったのですが、結局のところAと
いう宗教がBという宗教を糾弾・排斥しようとしているだけに見受けら
れます。宗教文献の解釈の違いによる宗派間の争いは今に始まったこと
ではありません。伝統的キリスト教と、最近になってできた新宗派との
間に教義の違いがあるのは当たり前のことです。それ自体、どうという
ことではありません。ですが、「カルト」という便利な言葉を利用する
ことにより別の宗教を不当におとしめようとすることは、みていても余
りよい気持ちはしないものです。

ほとんどすべての宗教が、その発生期・発展期において、カルト的側面
を持っていたことは、否定できないません。組織が肥大化するに従い巨
大組織の安定のため、カルト的側面は徐々に放逐され、市民社会的常識
および、一般的社会通念ともそれほど齟齬を起こさないものへと変わっ
てきたのが、現在一般的になっている宗教組織の大部分だと思います。
また、マインドコントロールですが、あらゆる宗教はマインドコント
ロールを行います。キリスト教も、仏教も、その点でなんら違いはあり
ません。問題は、その宗教が社会的規範を越えたときの対応でしょう。
法律に触れる行為があったなら、それは法律に則り裁かれなければな
りません。しかし、最近の「カルト」「マインドコントロール」に関す
る報道によって、私刑にあっている宗教が多いのもまた事実です。

例えば十字軍についてどのように思われますか?中世の魔女狩りは、ど
のように考えられますか?私には、カルト集団による集団殺戮にしか思
えません。エホバの証人と較べ、どちらの方が破壊的カルトでしょうか?
「あれは過去のこと、現在の我々には関係ない」
と仰るのでしょうか?エホバの証人が行う教義の修正を非難されますが、
伝統的キリスト教には教義の修正の歴史は存在しないのですか?

極言すれば、私のように神を信じない者にとって、すべての宗教家は
一様に「頭が変」に思えます。ですが、だからといって、他人の信仰・
宗教を否定しようとは思いません。
あなたが宗教家として自身が信じられる信仰以外を否定されるのは構
いませんが、その際、公平・中立な振りを装うのは、フェアな態度だ
とは思えません。

《編集者より》
不思議に思われるかもしれませんが、私の最初の返答は、私とあなたは根本的な見方に関して、大きな違いはないということです。そして次の返答は、たとえあなたがエホバの証人の家族を持っていたとしても、あなたはまだこの宗教の本質的問題を完全には理解してはいないということです。以下に、項目を追ってお答えします。

まず第一に宗教を批判することと、宗教の自由を奪うこととは混同すべきではないということです。私はエホバの証人を批判はしますが、誰もが自由にエホバの証人の宗教を選択することを阻止してはいません。エホバの証人に限らず、多くの宗教は批判を受けると直ぐに宗教弾圧だとか宗教の自由を奪われたとか叫びますが、これはとんでもない履き違えであると思います。実際、ものみの塔協会でさえ、宗教を批判することは宗教弾圧ではないとはっきりと述べています。

だれでも、別の宗教が偽りであることを示し、そう話すことは宗教弾圧の一つの形ではありません。情報を知っている人が、ある宗教を公に偽りであると示して、他の人たちに真の宗教と偽りの宗教の違いを示すことは宗教弾圧ではありません。(ものみの塔誌(英語版)1963年11月15日688頁)
私はこのものみの塔の教えに沿ってこのウェブページを出しています。

「結局のところAという宗教がBという宗教を糾弾・排斥しようとしているだけ」とおしゃいますが、確かにこのウェブサイトはものみの塔宗教の批判をしていますが、「排斥」しようとはしていません。私は上にのべたように、自由な宗教の批判は悪いこととは思っていませんし、むしろ重要なことだと思っています。上の引用にあるように、ものみの塔の指導部は他の宗教全てを批判することを指導しています。あなたは多分エホバの証人の出版物を読まれていないのかも知れませんが、ほとんど全ての出版物、雑誌に「キリスト教世界」の悪い所、過去の過ち、教義と聖書解釈の誤り、が繰り返し書かれています。それに対して、ものみの塔宗教自体の悪い所、過去の過ち、教義と聖書解釈の誤りについて、一般の人は同じように情報を得ることができるでしょうか。誰も、エホバの証人たちが「キリスト教世界」の悪口を家から家へ広げるようには、ものみの塔宗教の批判を広げる人はいません。このようなアンバランスを正し、エホバの証人が他の宗教を批判するのに匹敵した批判を、エホバの証人の宗教自体に行おうとしているのが、このウェブサイトの目的です。

ほとんどすべての宗教が、その発生期・発展期において、カルト的側面を持っていたことは確かであると思います。エホバの証人もその一つです。私は、エホバの証人が徐々にその姿を変えつつあると思っていますし、そのことはこのサイトの他のページにも述べています。マインドコントロールが社会的規範を越えたときが問題であるというご意見にも賛成です。オウム真理教のように殺人をするような信者を作り上げれば確かに警察力が介入されるでしょう。それでは輸血をすれば助かるはずの患者を輸血をさせないで死に至らした場合はどうでしょう。これが社会的規範を超えるか超えないかは今まさに問題になっています。国旗掲揚、国歌斉唱、クラブ活動の拒否などはどうでしょう。ある人はそんなことは自由で全くかまわないと考えますが、別の人はやはりこれは社会的規範を超えた行為と考えるでしょう。確かに他のカルトと言われる集団と比べると、エホバの証人が法律に触れることをすることは多くはありませんが、そのことをもって、批判の声を封じるべきではないと、私は思います。

十字軍について私は何も弁護する積もりはありません。あれは集団ヒステリーであり、あなたの言われるようにカルト集団の集団殺戮と同じであると思います。魔女狩りについても同じです。しかし、十字軍や魔女狩りがエホバの証人よりひどいからといって、それがどうしてエホバの証人を批判してはいけない理由になるのか、あなたの意図は全くわかりません。今の20世紀に十字軍や魔女狩り批判のウェブサイトを出して、それがどれだけ意味があるのでしょうか。それに対して、現在のエホバの証人の中で行われている、「背教者狩り」を問題にした方が、はるかに現代の世の中の必要にあっていると私は思います。

私は教義の修正を非難はしていませんし、あなたのおっしゃるように他の宗教もみな、教義を修正してきました。問題は修正されるべき教義を唯一絶対の真理と教え、教義の批判を許さない教条的な体制を問題にしているのです。端的な例を挙げれば、1970年代前半までは血友病治療の凝固因子も「血を避ける」という教義のゆえに禁止され、血友病のエホバの証人は死ぬか、教義に反して治療を受けて排斥されましたが、その後、この教義は変更になり、今は凝固因子による治療を受けることは血を受けることではないという判断です。ここで、私は何もこの教義が変更になったこと自体を非難する積もりはありません。この変更は、多くの患者が病気の治療を受けられるようになり、歓迎すべきことであると思います。問題は教義の変更自体ではなく、その時その時に変更になった教義が絶対になり、教義変更以前の問題を無視し、将来の教義変更に関してもあたかも一切ないかのように教えることです。この例で言えば、現在凝固因子による治療を認めるなら、1970年代以前に誤った教義により排斥になったり、死んだ人に対する何らかの言葉があっていいはずですが、ものみの塔はそのことについて全くの沈黙を守り、従ってほとんどのエホバの証人はそのような問題があったことも知りません。また、将来の教義変更についても、もし凝固因子が許されるのであれば、同じような治療効果があり、現在は禁止されている凍結血漿による治療でも、近い将来に変更になる可能性があるから、その使用に関しては柔軟性をもってもいいはずですが、そのような態度は許されません。統治体が変更を告げるまではそれがどれだけ変更される可能性があっても、現在の教義が唯一絶対の教義であり、それ以外の教義の解釈は許されません。このことは、つまり、エホバの証人は教義や解釈に従うというより、ただ統治体がどう言っているかによって動いているだけであることを意味します。私は目まぐるしく変更する教義に振り回されるエホバの証人の姿を通じて、エホバの証人がいかに聖書やイエス・キリストより人間の指導者のいいなりになっているかを理解していただきたかっただけであり、教義を変更することは全く非難する積もりはありませんし、むしろ歓迎したいと思っています。

最後に、あなたは、私が「宗教家として自身が信じられる信仰以外を否定」している、と書かれていますが、「否定」が「批判」を意味するのならその通りであり、何度も申し上げますが、これは正しくエホバの証人が熱心に毎日行っていることです。そのこと自体がいけないことであるなら、先ずエホバの証人が最初に改めなければならないでしょう。私が公平、中立であるかどうかは、見る人の立場によるでしょう。もちろん、エホバの証人の側からすれば、このサイトに書かれていることはとんでもない偏った見方と見えるでしょうし、エホバの証人の被害者の方から見れば、生ぬるい批判としか見えないかもしれません。「公平・中立な振りを装うのは、フェアな態度」ではないとおっしゃても、これはあなたの見方の問題であり、どうにもならないことでしょう。日本の新聞でも公平・中立をモットーにしているはずですが、その新聞によって批判された人たちにとっては新聞は「フェアではない」と思えるでしょう。全ての立場の違う人を同じように公平・中立に扱うことが不可能であることはあなたも理解できるのではないでしょうか。ただ私のエホバの証人に対する批判と、エホバの証人の私たちの宗教に対する批判とで決定的な違いがあります。それは、私たちは自分たちに対する批判を謙虚に受け止め、改めるべき所はあらため、謝罪すべきことは謝罪する用意をいつでも持っていますが、ものみの塔宗教にはそれがないことです。批判には耳と目をふさぎ、「光が足りなかっただけ」と指導部の責任を包み隠し、批判するもの自身を攻撃するのがものみの塔宗教のやり方です。たとえて言えば、昔の中国の専制君主が自分を批判するメッセージを持ってきた使者を見ると、そのメッセージに答えるのではなく、まずメッセージを話させないように使者を殺すのと似ています。この手口で、多くの元エホバの証人が、ものみの塔協会の誹謗中傷に苦しみました。どちらのやり方が公平・中立により近いでしょうか。