「エホバ教」について−組織の批判は信者を苦しめるだけ

(12-7-97)

【ラッセル派の生き残りは, どうなったのか。】

現在日本には, 「エホバの証人」という人達が, 21万人いる。
しかし「エホバ教」と言う人達がいるのをご存じだろうか。
大阪市旭区には, 「エホバ教」と名乗る人達が存在。
エホバの証人ではない。「エホバ教」である。エホバの証人が
「私達は, よき音信を伝えているエホバの証人です」と言うと, 
「私達はエホバ教です」と答えるややこしい地域が, 日本には
存在する。

「エホバ教」と自らを名乗るグループは, 大まかに言うと
「ものみの塔聖書冊子協会」と分離した
グループである。アメリカには, 「ものみの塔」組織とは
別個に, ラッセルの追随者が今も存在する。その働きは, 
今も, 殆ど無料奉仕で続けられている。
ところで
各教会が, ものみの塔日本支部の織田正太郎氏と公開討論を
申し込んでいるが, 織田氏は無視し続けている。

ものみの塔協会は, ディベートと実際的な伝道によって信者を
獲得して来た教団である。故に, ディベートに於いては, 
キリスト教会よりも一枚上手と言われている。但し, その内容が
学問的かどうかは, 別として。

さてラッセルは, 1903年3月10日イートン博士(同時に牧師)から
「公開討論をするように」との手紙を受け取る。
公開討論は, 1903年10月18日, 20日, 22日, 27日, 29日, 11月
1日の6回に渡って「キリストの再臨」,「千年期」, 「試練の期間」,
「死と復活の間」, 「永遠の救い」, 「救いの教理」等について
話し合われた。イートン博士は, ラッセルの質問に対して
十分に聖書を開けなかったと言われている。そしてイートン会衆の
メンバーは, そのままラッセルの追随者となる。

しかし1907年WHITE牧師と公開討論したことは, ラッセルの自称牧師
と名乗ることをやめさせる結果となる。
ラッセルはWHITE牧師との討論に負けてしまうのである。
(ものみの塔は, ラッセルが勝利したと今も言いづけているが
  討論会の資料は著者の元にある。)
イートン博士の時も, WHITE牧師の時も地獄論争が大きな山場であった。
私達が, エホバの証人と話し合いをしょうとするときに, 気をつけ
なければならないことがある。
それは, 聖霊が示して下さなければ決して, 罪は分からないし
神の清さも, 来るべき世の裁きについても分からないのである。

「その方が来ると, 罪について, 義について, 裁きについて, 世に
 その過ちを認めさせます。」ヨハネ 16:8 『新改訳』聖書。
 聖霊が, 示して下されなければ, 決して神の愛は分からないし, 神の
 清さも, 神のご計画も分からないのである。まして地獄の話や
 三位一体について正しく理解して貰うことなど, 不可能である。
 たとえ, 地獄についてエホバの証人が, 知的に理解したからといって
 何の意味があるのだろう。ただ相手を怖がらせるだけである。
 神の義による裁きと共に, 神の本質である愛と計画を知ることが
 先決である。エレミヤ 29:11, ヨハネ第一 4:10,他

 振り返ってみるときに, ものみの塔聖書冊子協会の織田正太郎氏も
 組織の犠牲者という事が出来る。勿論, 多くの人を誤導しているという
 加害者という立場もあるが…。
 彼も散々な手紙を叩き付けられて言いたいことも沢山あると思う。
 しかし彼が, 沈黙を守っているのは, 「世界本部」の指示に忠実に
 従っているからである。ものみの塔の研究者であれば, その辺の事情は
 精通しているはずである。それなのに, 何故公開討論会をあえて
 申し込むのか。ものみの塔協会は, たとえ小学生の「公開討論会しよう」
 と言う話にも乗ってこないだろう。問題は「論争に勝つ見込みが
 あるかどうかではなく本部が禁じているから」である。

 私達は, 決してものみの塔の支持者ではないが, ものみの塔に
 公開討論会を申し込むというのなら, ものみの塔日本支部に
 単身で乗り込んでいく位の勇気があって欲しいと思う。
 相手は, 21万人の指導者。加えて, アジア地域の印刷の監督でもある。
 教会側は, 一教会の指導者。筋からからすれば織田氏を呼び
 つけるのでなく, 自ら出かけていくのが流儀だと
 思いますが, いかがでしょうか。
 ものみの塔聖書冊子協会日本支部代表に手紙を出したが
 返事がないと言うことをよく聞く。勿論, かつての統治体のメンバー
 レイモンド・フランズ氏が, 『良心の危機』の中で公開しているように
 不都合な事があるから「ダンマリ作戦」なのかもしれない。
 
 しかし同時に考えられるのは, 「手紙の内容があまりにも攻撃的」
 なので, 返事を出さないのかもしれない。あるいは「手紙を出した
 本人が理論に負けるのを忍びない」と言う【愛の配慮】から無回答
 なのかもしれない。無回答だからと言って, いたずらに先走りして
 批判するのは, キリスト者として相応しいことだろうかと思いますが
 皆さんは, いかがでしょうか。

 因みに, 私達の所にはものみの塔聖書冊子協会から, 誠実かつ
 学問的な返事が毎回寄せられています。

 神の愛は, 必ず信条の違う人にも通じることがあると信じます。
 何故なら私達のイエス様は, 私達がまだ敵であったときにその愛を
 示されたからです。
 「しかし私達がまだ弱かったとき, キリストは定められた時に
   不敬虔な者のために死んで下さいました。」
                 ローマ 5:6  『新改訳』聖書。
  「しかし私達がまだ罪人であったとき, キリストが私達のために
   死んで下さったことにより, 神は私達に対するご自身の愛を
   明きからにしておられます。」  
                    ローマ 5:8  『新改訳』聖書。
  「もし敵であった私達が, 御子の死によって神と和解させられたの
  なら…」
                 ローマ 5:10   『新改訳』聖書。
  組織の単なる批判は, 脱会信者を苦しめ同時に現役信者を
 苦しめるだけではないでしょうか?
 組織の, 幹部も被害者なのです。
 
 「兄弟達。私が心の望みとし, また彼らのために神に願い求めているのは
  彼らの救われることです。」
                 ローマ 10:1   『新改訳』聖書。

《編集者より》
この文面からだけでは良く分からない点が幾つかあります。「エホバ教」がアメリカに存在するラッセル派の日本版であるという証拠があるのでしょうか。「公開討論会」を申し込んでいる「各教会」というのは「エホバ教」の各教会のことなのでしょうか、それともそれ以外のキリスト教会のことをさしているのでしょうか。織田氏が公開討論に応じない理由が、協会本部の方針によるということは、私もそう思います。ものみの塔協会の手紙に対する対応ですが、ものみの塔協会は一般的に言って、割かし単純な質問には誠実に返事をくれるようです。しかし、その矛盾の本質をつく手紙には返事は来ません。そのような質問に答えようとする努力そのものが、担当者を背教の思想に導く危険があることを、ものみの塔は知っているのではないかと私は思います。なお、「組織の単なる批判は, 脱会信者を苦しめ同時に現役信者を苦しめるだけではないでしょうか?」という考え方については賛成しかねます。私の知っているほとんど全ての元エホバの証人は、異口同音に、ものみの塔宗教から離れる過程は非常な苦しみであったことを教えています。「苦しみ」の無い所には、この組織の根本的な欠陥を悟る道はないと私は思います。エホバの証人であることの「苦しみ」を知ること、これが「目覚める」第一歩ではないでしょうか。確かにエホバの証人の方々が、組織の現実を知って苦しまれることは、お気の毒だと思い、十分に同情しますが、しかしその苦しみを作り出したのが結局の所、組織による情報統制によるものであることが理解できれば、私はこれはやむを得ない「産みの苦しみ」であると考えます。