(12-3-99)
始めまして。現在36歳独身男性です。 私が聖書研究をしていたのは10年以上も前の事です。 その頃、人生について色々と考え、悩んでおりました。 そんなある日、エホバの証人の方の訪問をうけ、私の方から 飛びつくように、聖書研究を始めました。 研究が進んでいくにつれて、集会にも顔を出すようになりました。 しかし、その集会の様子を見ていくうちに、「何かおかしい」と 思う様になりました。具体的には、発言する証人たちの言語が まるで、小学生の朗読の様でした。感情を伴わない機械的な言葉 とでも言いましょうか。そして、その内容も、答えが予め決まっている ものでした。そこには、建設的なものはありませんでした。 聖書研究も後半になってくると、早く入信してほしいのか、こんな事まで 言ってきました。「エホバの証人の中で、ノイロ−ゼになった人がいて、なかなか それが直らない。他の証人たちが、その人の家を隅から隅へ調べたところ、 創価学会のマ−クのついた鉛筆が出てきた。そしてその鉛筆を処分したら その証人の、ノイロ−ゼは直った。」 そう語った後、私の部屋の押し入れ辺りをじろじろ見回していました。 私は、実際押し入れに、エロ本など押し込んでいた為、押入れの中を 透視されているのでは?などとビビッテました。 それ以降、私の気持ちは、彼らから離れていきました。 そして、引越しを機会に、聖書研究もやめました。 ただ、彼らのどこがまちがっているのか、ハッキリとした答えを自分の 中に見出せぬままでしたので、精神的に気持ちの悪い状態から、数年 抜け出せませんでした。 色々と、書物を読み、自分なりに考えた結果、宗教とは、個人のもので ある。という結論にいたりました。現在、少し変わり者ではありますが、 幸せな毎日を送っています。 このHPを観るまでは、エホバの証人の客観的な情報を知りませんでした。 これを見つけたとき、探していた宝を見つけたように、興奮しました。 そして、心のわだかまりが、完全に消え去ったように感じました。 このHPに感謝すると共に、今後のご活躍をお祈り申し上げます。
《編集者より》
「創価学会の鉛筆」の話は、エホバの証人の間に意外に根強い迷信の端的な現われであると思います。もちろん、ものみの塔は迷信を避けるように教えていますが、エホバの証人の体質上、本来曖昧なものを確実なものとして信じたいという欲求が強いため、迷信的なものの見方が体質上抜けられないのではないかと思います。迷信というのは、つまるところ自分の希望、恐怖を曖昧なものに投影させて安心感を得るものです。「創価学会の鉛筆」という何の意味もない物体に特別の意味を投影させて、それに対して自分の希望を働かせること(ここでは鉛筆を処分すること)で安心を得ているのです。丁度ある方角に向けて寝るということに特別の意味を投影させ、別の方向に向けて寝ることで安心感を得るのと同じことです。この体質は、私は本質的にエホバの証人の宗教の根底を流れるものであると思っています。