特別寄稿:中澤啓介氏への反論に対する返事

(11-27-99)

以下の寄稿は、中澤啓介氏が特別に以下の中澤氏の書いた記事に対して寄せられた反論に対して返事を寄稿して頂いたものです。

元の寄稿者が現役のエホバの証人ですので、読者の便宜のために、ここに掲載します。
宮田さん,10月はじめにお手紙を差し上げてから,早一ヶ月半が経過してしまいました
。この数ヶ月の間,数冊の書物の原稿を書かねばならず,お返事遅くなってしまい,大
変申し訳なく思っております。お許しください。
今日は,先日宮田さんがしてくださった反論に対し、お返事させていただきます。
宮田さん,私が書きました冊子に対し,コメントをくださり、ありがとうございます。
まず、私が書きました『イエスはどのような神か』、『長老への手紙』および『十字架
か杭か』をお読みくださり,反論してくださいましたこと、心よりうれしく思っており
ます。
実は,私はインターネットなどができないため、宮田さんがしてくださった反論につい
て、長いこと知ることができず,先月はじめて、村本さんおよび藤原牧師から教えてい
ただきました。しかし、11月末までにお渡ししなければならない原稿が重なり,お返事
が遅れてしまいましたこと、大変申し訳なく思っております。お許しください。
はじめに、インターネット上ではありますが,宮田さんとこのような対話ができますこ
とをとてもうれしく思います。私は、自分が著わした書物,論文などについては,いか
なる文章にも責任を負うべきものと思っております。どのようなことであっても、遠慮
なく反論してください。スケジュールの関係、その他でお返事が遅れることはあるかも
しれませんが,必ず,お返事いたします。むろん、もし、私の方に間違いや勘違いがご
ざいましたら,喜んでしかるべき対応をとることをお約束いたします。
宮田さんご自身も当然,同じお考えではないかと思いますが、はじめにそのことを相互
に確認しておく必要があると思います。宮田さんご自身も,そのように考えておられま
すでしょうか。お返事、お待ちしています。
では、以下,宮田さんの反論に対して、私の反論を述べさせていただきます。まず,ヨ
ハネ1:1の小論文に対するものからはじめます。
1.宮田さんの反論は、私が記述したものに対する反論ではなく,イエスに関する宮田
さんの理解を展開したものでございます。むろん、宮田さんがイエスについてどのよう
にお考えになろうとそれは自由ですし,お書きくださった宮田さんの見解および引用聖
句については,慎重かつ十分に考慮すべきものであることは言うまでもありません。た
だし、宮田さんの論述は,私の著わした小論に対する直接的な反論にはなっておりませ
ん。もし、私の書いたものに対する反論でしたら,私の記述に対して,不正確な表現,
飛躍した論理,無視しているデータ、ギリシャ語文法の誤解,ものみの塔の文献の間違
った解釈や引用,関連文献の引用間違い、などを指摘し、小論が導き出している結論に
疑問をはさむか,否定することが必要かと思います。宮田さんの反論は、私の小論自体
にはほとんどふれておりません。むしろ、「拝見しますと、貴殿はヨハネ1:1から、キリ
ストは神そのものではないかと考えておられるようです。確かにこの聖句だけでは、『
言葉は神そのもの』で『イエスは神だ』とも結論付けることもできます」と宮田さんは
述べておられます。ということは,私の小論の範囲に限っていえば,基本的には問題が
ない、と評価してくださったのでしょうか。その点について宮田さんのお考えをお聞か
せください。
2.宮田さんは,ヨハネ1:1以外の聖句を持ち出して、私の記述に対し反論しておられま
す。たとえば,「イエス自身の見解」を示すものとして、ヨハネ14:28、マタイ24:36 と
をあげています。これらの聖句は,三位一体論者が御子の従属性を示すものと理解する
聖句です。私の小論は,三位一体全般に関わる議論ではなく,ヨハネ1:1の言明自体が何
を主張しようとしているのか,という点を考察したものにすぎません。ヨハネ1:1を私の
ように解釈した場合,そのような聖句をどのように関連づけるかは大切な問題ですが,
私の小論の範囲を超えています。もし、宮田さんがその点をお知りになりたければ,そ
のことに関連した書物をご紹介してもよろしいかと思います。もし、宮田さんが、私の
責任でそのことを論ずべきだということであれば,かなりのお時間をいただかねばなり
ませんが,責任を果たしたいと思います。いかがいたしましょうか。
3.宮田さんは,私が「イエスはエホバである」と主張しているかのような前提で反論
しておられます。私は,三位一体の神を信じる者ですが,「イエスはエホバである」と
論じたり,書いたりしたことはこれまで一度もありません。仲間の中には,そのような
言い方をする人もいますが,私自身は、誤解されやすい表現だと思いますので,避ける
ようにしております(ただし、そのような言い方をする人々の真意がよく理解されるな
ら,そのような言い方も許されるとは思っております)。それは、私がこれまで書いた
ものをご覧いただければすぐご理解いただけると思います。もし,私の書いた書物が必
要でしたら,喜んでお送りさせていただきます。従って,宮田さんが「イエスがエホバ
であるなら、イエスは死ななかった」とか、イエスの名前やキリストのタイトルから議
論されていることに対しては、私が反論する必要はないと思います。それでよろしいで
しょうか。
4.聖句を考慮する際、聖書学者に頼るのではなく、聖書に頼るべきだという宮田さん
の主張には、百パーセント賛成です。まず、ヨハネ1:1の解釈において,私が聖書学者の
見解に頼っていないことは、私の小論を読んでいただければ,すぐにお分かりいただけ
ると思います。あくまでも、ギリシャ語原文の構造と聖書における言葉の使用例を中心
に論じております。むろん、ギリシャ語文法などに言及しなければならないときには、
ギリシャ語学者の意見を参考にしてはおりますが、それは許されるだけではなく,必要
なことだと考えております。ヨハネ1:1の意味を理解するにあたって,学者の意見に基づ
いて自説を展開している箇所はないはずです。いかがでしょうか。最後の章で学者の見
解を論じているのは、ものみの塔の出版物がそれらの学者の文献を悪引用していること
の証拠として言及しているに過ぎません。小論で論じたことを補完(補強)するためで
ないことは、お読みいただけば,すぐお分かりになるでしょう。聖書の教えを導き出す
にあたっては,一つ一つの聖句をそれぞれの文脈に即し,文法的,歴史的に厳密に解釈
し,しかも、その聖句に直接関わりのある聖句とを比較し,聖書全体から総合的に理解
しながら進めることが肝要です。今後も,聖書の言葉自体を正確に解釈し、聖書の教え
を把握していく努力を続けたいと思っております。その際には、ものみの塔の出版物を
も真摯に検討させていただきます。ご協力いただければうれしく思います。
5.み使い(天使)や裁き人(士師)に対して「神」という称号が用いられていること
(詩 8:5,ヘブ 2:7。詩 82:1)については、小論の第五章10節でふれておきました
。その論述は,宮田さんのおっしゃっていることを基本的にはカバーしていると思いま
すが,小論が意図していることは微妙に違いますので、あるいは宮田さんの反論には十
分な回答にならないかもしれません。この点について,宮田さんは,さらに私の反論を
求められるでしょうか。教えらせください。
6.宮田さんが、み使い(天使)に対して「神の子」という称号が用いられていること
(創 6:2,ヨブ 1:6;38:7)や、「エホバと対峙するのはみ使いだけ」として、「イ
エスはみ使いだ」と断定していることには、私は納得できません。また、啓示の書1:1お
よびダニエル12:1から「イエスは大いなる君ミカエル」と述べていることに異論があり
ます。むろん、このようなテーマは、私の小論の範囲を超えるものですが、もし、宮田
さんがお望みであれば,この問題について、改めて検証しあいたいと思います。そのよ
うにいたしましょうか。お返事ください。
7.聖霊は「神の霊」であると述べられているので(マタ 3:16,ルカ 3:22)、神と聖
霊は同格ではないという宮田さんの言明については、第四章の2節と3節とに簡単にふれ
ております。むろん、ヨハネ1:1の小論とは直接関係ないテーマですが,私自身には,き
わめて興味深いテーマです。かねがね、聖霊についても,じっくり聖書の学びをしたい
と思っておりました。もし、宮田さんがお望みであれば,改めて論争しあってもよろし
いかと思っております。いかがでしょうか。

次に,『長老への手紙』に対するコメントに対して述べさせていただきます。
1.宮田さんは,組織が長い間教えてきた「この世代の解釈」は、「聖書」の見解とは
違うことを認めておられます。そして、変更した理由は「残念ながら分からない」と述
べています。宮田さん,私の手紙を読んで、「残念ながら分からない」というのは、と
ても無責任だと思います。「分からない」と言う前に,私が出した結論に対して,正し
いとか,間違っているとか,反論すべきではないでしょうか。というのは、私は,手紙
の中で,「この世代」の解釈をめぐって,統治体を中心に、過去50年にわたって議論さ
れ続けてきたことを紹介しました。そして、80年代の後半には変更する準備をしてきた
ことを推測しました。そして、結局,1914年から80年が経過した1995年の時点で,それ
までの解釈ではもはや弁明できなくなったので,変更したのだ、と結論づけました。宮
田さんは,分からないと言う前に、私の提供した資料の妥当性,私の到達した結論の正
当性についてコメントすべきだと思うのですが、いかがでしょうか。むろん、私の主張
が間違っているという前提で「残念ながら分からない」と言われているものと推測いた
しますが,間違っているなら,どの資料や論理が間違っているか,指摘する必要がある
のではないでしょうか。
2.宮田さんが「この変更によって協会が聖書を捨てたわけではありません」とおっし
ゃていることはその通りだと思います。「協会の奉仕委員は、不完全な人間だから」誤
りがありうるというのも、当然のことです。また、ダビデのように悔い改めるなら神が
許してくださることも事実です。問題は,協会の奉仕委員(宮田さんの言葉を使わせて
いただきます)は、「この世代」の解釈を間違ったのか,新しい光を与えられたのか,
変更したことを公表するのに公明正大であったか,関係者に対して謝罪する必要はない
のか,といったことにあります。私が、手紙において長老にお尋ねしたのは,そのよう
な点に関してなのです。宮田さんは,物事を論理的にお考えになることができる方だと
思います。私の手紙をよくお読みくださり,論点をずらさないで,返答していただける
とうれしく思います。もし、協会の奉仕委員は誤りうる人々だと言ってしまうと、現在
の『ものみの塔』や『目ざめよ!』などで教えていることも、そのまま信じてはいけな
い,ということになります。それでよいのでしょうか。
3.宮田さんは、誤りを犯した人でもエホバの霊を受けている、と主張されます。エホ
バの霊を受けていても誤りがありうる、という考えは、私には分りません。でも、とに
かく、誤った言明はエホバの霊を受けたものではない,と考えることは、宮田さんも当
然だと認めますよね。宮田さん,統治体は,この解釈をめぐって,20年以上も議論して
きたのですよ。他の代案を何度も検討しながら,結局95年まできてしまったことは、私
が手紙に書いたとおりです。その統治体の決定に基づいて,エホバの証人の方々は、40
年以上にわたって、協会の「この世代」の解釈を信じ続けてきたのです。その決議がエ
ホバの霊を受けていなかったということに、宮田さんは何も感じないのでしょうか。お
聞かせください。
4.宮田さんは,罪を犯したダビデと協会の奉仕委員とを比べています。しかし、ダビ
デは,自分の犯した罪を悔い改め,神の赦しを請いました。宮田さんは,同じ悔い改め
を協会の奉仕委員に求めますか。ダビデの悔い改めは、聖書に明言されています。協会
の奉仕委員の悔い改めとは、どのようなものだったのでしょうか。私は,統治体が、こ
の種の問題を決めるにあたってとっている制度と一つ一つの問題の決定処理の方法を知
ったとき(その一部は,手紙の中に詳しく紹介してあります)、ほんとうにショックを
受けました。もし、統治体が,聖書の教えをこのような形で決定しているのなら,他の
組織と少しも変わらない,と結論を出しました。宮田さんは,私が手紙に書いた統治体
の実態が事実であるとしたら,ショックを受けませんか。それでも、聖書を基準にして
いるとか,エホバの霊を受けているとか,言えますか。
5.「協会も、不完全ながら、聖書の教理を固守していることから、エホバの是認を受
けた組織であることが分かります」という文章は,論理に飛躍があります。まず、協会
は,「この世代」の解釈において、聖書の教理(イエスの言葉)を固守していなかった
のですから(このことは宮田さんご自身が認めておられます)、エホバの是認を受けて
はいないことになります。あるいは、宮田さんは,協会が固守している教理には、何か
別のことを含ませているのでしょうか。もし,そうであるなら,当然,協会だけが主張
している教理でなければなりません。協会だけがエホバの是認を受けているはずですか
ら。ぜひ、その中味を示してください。それが聖書の教理であるかどうか、ごいっしょ
に検討いたしましょう。
6.宮田さんは,箴言4:18を基にして,「教理が変わることは、聖書の中で予告されて
いました」と述べています。箴言の聖句が本来言いたいことは、教理が変わることだっ
たのでしょうか。また、私は,この聖句を「この世代」の解釈変更に当てはめることは
ふさわしくないことをお手紙の中で述べました。それについては一言も反論しないで,
箴言4:18を持ち出して弁明するのは,正しい姿勢でしょうか。
7.宮田さんは,「『世代』に関する教理が変わったからと言って、不満を抱く必要は
ない」と述べています。私は,不満を述べているというより、統治体が間違いを認め,
責任を明らかにすべきだ、と申し上げているのです。一般社会でも,信頼している教師
たちが自分の言説を変えるなら,変えた教師に対し,新しい見解の真意を確かめたり,
古い見解をなぜ変えたのか,変えた責任はあるのか、あるとすれば誰がどのようにとる
のが一番ふさわしいことなのか,ということを問題にするはずです。まして、正直さを
高く掲げているものみの塔の世界です。私の知っている証人たちは,ほんとうに誠実で
すよ。統治体をはじめとする組織の指導者に対して,どうして誠実さを求めないのでし
ょう。内側からそのような声が起こってこないから,一般社会からマインド・コントロ
ールという言葉を使われてしまうのではないでしょうか。
8.「肝要なのは、エホバに対する愛だ」、「教理の変更によってエホバへの愛はます
ます増し加わる」という言明に至っては,コメントのしようがありません。問題を摩り
替えたり,ごまかしたりしないように、と言うのみです。そして、私に対する,「今度
の教理の変更によって、あなたがエホバやその組織である協会に仕えている動機が明ら
かになった」、「あなたの動機はエホバの目に純粋ではなかった」、「あなたもダビデ
のようにエホバに謙遜になれば、きっとエホバのほうから導いて下さるでしょう」とい
う言葉は,宮田さんの証人としての愛から出た言葉として受けとめておくことにしまし
ょう。


1.宮田さんは,新聖書辞典は、協会が教えているように、イエスの刑具は十字架では
なく,杭だったと教えているので,協会出版物は悪引用をしていない,と反論しておら
れます。新聖書辞典は,ほんとうに宮田さんが言われるようなことを述べているのでし
ょうか。新聖書辞典が,イエスの十字架をcrux immissaであったと主張していることは
(それが歴史的事実かどうかは別問題です)、私も同辞典を再び読んでみましたが,明
白だと断言できます。むろん,それは伝承を重視した結果でしょうが,それだけではな
く、四つの福音書が頭上の罪状書きについて言及していることを根拠にしています。も
し、私の読み方が間違っているというのであれば,新聖書辞典の本文を宮田さんが翻訳
し、その訳文を私にお送りください。お手元に本文があるとは思いますが,もし、あり
ませんでしたら、おっしゃってください。さっそくお送りいたします。
2.国際標準聖書百科事典についてお答えします。宮田さんは,横棒をイエスの頭上に
つけられた罪状書きのことと理解し、同事典が、(協会が教えるように)イエスの刑具
は杭であったと主張している、と読んでおられます。もし、宮田さんのそのような理解
が正しければ,むろん、協会出版物は悪引用をしておりません。しかし、この事典が横
棒というとき,有罪と宣告された奴隷が運んだ横棒のことで、patibulumと関係したもの
です。ということは、横棒はイエスの頭上につけられた罪状書きのことではありません
。伝統的な形の十字架の横木です。従って,この事典が、イエスの刑具を伝統的な十字
架の形態であったと主張していることは明白です。もし、私がこの事典を読み間違って
いるということでしたら、やはり、宮田さんご自身の翻訳文をお送りいただけるでしょ
うか。お願いいたします。
3.インペリアル聖書辞典についてお答えします。宮田さんは,変形されたものが導入
されたときを西暦二世紀以降と説明しておられます。ものみの塔の歴史理解から言えば
,そうなるかもしれませんが,一般には,西暦前2ないし3世紀を指していると解釈すべ
きだと思います。そのことは横においても,宮田さんは,インペリアル聖書辞典が言及
している横木を、頭上の釘付けられた罪状書きと読んでおられます。もし、宮田さんの
理解が正しければ,むろん、協会は悪引用しているとは言えません。そして,宮田さん
の「いずれにしても、この辞典を悪引用しているのではない」という結論は正しいこと
になります。ところが、インペリアル聖書辞典が述べている横木は、十字架の横木であ
って、頭上の釘付けられた罪状書きでないことは、明白です。もし、宮田さんがそう読
めないのであれば、やはり、宮田さんの訳文をお送りいただく以外にありません。よろ
しくお願いいたします。
以上が,宮田さんの反論に対する反論です。結局,もし、それぞれの辞書が、イエスの
刑具について十字架だと述べているとすれば,協会は悪引用をしていることになる、と
いう点では,宮田さんと私との間では一致しています。宮田さんと私との間の違いは,
それぞれの辞書が、イエスの刑具は十字架だったと記述しているのか,それとも、杭だ
ったと述べているのか、という点にあります。私ももう一度,読んでみることをお約束
いたします。宮田さんも読みなおしていただけませんか。そして、その結果をお返事く
ださい。
なお、十字架がタンムズの神と関わりがあったかどうかという問題は,悪引用の議論に
おいては直接関係はありません。従って,ここでは問題にしないでおきます。伝承の価
値といった問題についても同様です。
長くなってしまいましたこと、お許しください。では,お返事お待ちしております。
大野キリスト教会牧師
中澤啓介