「単純な感想」−編集者への質問

(11-21-96)。

 興味深く読ませて頂きました。正直申し上げて、このページに掲載され
ている記事については、次の様な偏見を抱いていました。@エホバの証人
の人たちの、少なくとも反社会的側面を指摘していつつも、結局は(どの
宗派かは良く分かりませんが恐らくは何らかのプロテスタント系列の)教
義の上での対立が背景にあるのではないか。Aカルト批判がされているし
、その語義についてもウェブスターを照会しつつ、結局はかなり辞書的な
語義から離れる概念操作を施すことで、一見今日のカルトの問題に対応し
やすくしているように見えて、その実は、非エホバの証人の一つとしての
、一定の立場の、辞書的な意味でのカルト性を隠蔽しているのではないか
。 以上二つにまとめられると思います。
 ところが、仏教の立場からの、ともすればキリスト教そのものに対する
ラディカルな挑戦にもなり得る投稿や、Q資料にまで溯った文献学的な話
など、場合によっては既存のいわゆるキリスト教の教義の一部に対して、
聖書の記述(文献学的に読み替えの必要が指摘された記述)に基づいた深
刻な変更を迫るかもしれないような投稿まで掲載し、しかも同性愛の処遇
についての教会による差異にまで言及してあることなど、このページの作
られ方の潔さに、単純に驚いています(読みづらくてすみません。単純に
、作文が下手なんです)。
 そこで村本さんにお伺いしたいのは、村本さんのキリスト教信仰の動機
です。奥様がエホバの証人で、御自身も一時期研究生であったのが、疑問
を抱くようになったのは分かります(どこかにそう書いてあったと思いま
すが・・・・・・)。もし一般的な、宗教音痴の日本人であれば、ここか
ら宗教全体を十把一絡げにしてしまいかねないと思うのですが、村本さん
は信仰を持っていらっしゃる。その動機は何なのでしょう。
 お医者様でいらっしゃるようですし、分子生物学などにもお詳しいそう
なのでご存知とは思いますが、リチャード・ドーギンス『利己的な遺伝子
』の中の註で、処女降誕は翻訳の課程の誤りから生まれた教義だ、といっ
たことが載せられています。また、映画にもなった『薔薇の名前』をみて
も分かるように、キリスト教も例に漏れず、多くの宗教団体やものみの塔
協会同様、いろいろなスキャンダルや偏執に捕われています。そのような
中、どの特定宗派に村本さんが属していらっしゃるのかは分かりませんが
、どのような形で神を受け入れることが可能だったのでしょうか。この点
に非常に大きな興味があります。
 ドアをノックするのは一人一人だ、といったことが書かれていましたが
、私が理解する限りでのプロテスタント的キリスト教教義は、イエスは神
と人間を繋ぐ階梯であり、イエス以外には神にたどり着く方法がない、と
言うものだと思うのですが、なんでイエスなんてハシゴが必要なのでしょ
う。また、教会によっては、ハシゴを登るきっかけとして聖霊が必要だと
も言うみたいですし。
 我々が科学を信用したり、あるいは「どうでもいいや」と思って純粋に
相対主義的立場を取るのではなく、それなりに「ああでもない、こうでも
ない」と議論するのは、何らかの形で真理が存在し、そこにたどり着こう
とする人間の基本的な知的本性に由来するものと思いますが、少なくとも
私の場合、それがすなわち神であるとは思いませんし、むしろ、そう思う
ことによって宗教に基づく様々な悲劇が歴史的には繰り返されています。
そういう意味で、私個人の本音としては、神なんて概念そのものをなくし
てしまいたいわけです。仮に真理として神を受け入れるにせよ、既存の宗
教は多かれ少なかれ、神を虎の威として借りた人間の思想であって、それ
を狂信的に受け入れているだけのように思われます。ものみの塔協会批判
にはよくこの論法が使われますが、それはどの宗教にも当てはまるんじゃ
ないでしょうか?
 もちろん、「宗教は阿片だ」といったマルクスの影響下では、結局神や
宗教に代わって、自称「科学的」解明とされる階級闘争の説明が教義とし
て作用することで、ファシズム(ナチスは国家社会主義として、資本家階
級の構成員に属したユダヤ人排撃を正当化した)や旧ソ連の悲劇が生まれ
ましたから、神の概念がなくなればいいというものではないでしょう。
 ただ、少なくとも宗教については、それが真理探究の一つの有り得る答
えとして神を掲げ、その間でまさに自由な論争がされるのであればまだし
も、単にお互いにけなし合うか無視するか、都合が悪いものについては情
報統制や思想統制(信者に対するマインド・コントロールを)するかと、
こういったことがされがちです(旧ソ連も教条主義だと言われることが有
りますが、この教条というのは、宗教的と言い換えて差し支えないのでは
?)。そういう意味で、私は宗教そのものにとてつもない不信感を抱いて
いるわけです。
 長くなったのでそろそろ終わります。要するに、キリスト教そのものに
とっても都合が悪いかもしれない投稿を載せるだけの村本さんの気概が、
私に言わせると非常に非宗教的であるにもかかわらず、御自身は信仰なさ
っているということが、どういうことなんだろうなと、こう思ったわけで
あります。はい。ではでわ。

《編集者より》
 非常に広範で深淵な質問ばかりで、だんだん難しい投稿が増えて、正直、頭をかかえております。でも答えられるだけの所はお答えします。答えられない質問もいくつかあることをご了承下さい。

 私の信仰の動機は何か、のお尋ねですが、これはただこれ一つというものはありません。誰かに巡り会ったから、何かの本を読んだから、どこかの教会へ行ったから、というものではありません。一口で言えば私の幼少期からの人生の全てがその動機でしょう。沢山の人々から教えを受け、色々な本を読んで影響を受け、教会の経験もあります。でも聖書を読むことが一番大きいと思います。家族がエホバの証人になったことも大きな影響をもっています。なお私は、Sさんが書かれているようにエホバの証人の研究生であったことは一度もありません。私は最初からこれが「偽物」であることを直感しましたし、調べれば調べるほどそれが分かりましたので私自身が信者になろうと考えたことはありません。しかし、調べれば調べるほど「よくできた偽物」であることが分かり、自分はこの宗教の「研究者」になりたいとは思っています。これは私の人間の行動への知的興味と、啓蒙の必要性への使命感に基づいています。

 科学者であることと神を信じることは私の中では全く葛藤がありません。この二つの心の活動は私の中で整理されて別の次元で行われています。しかし一個の人間として行動しようとする時、お互いに矛盾したことは出来ません。時に私のこれらの二つの心が真剣な討論を繰り広げ、ときには結論の出ないこともあります。同性愛の問題はその一つですし、私の住むオレゴン州で最近住民投票で採択された医師の補助による安楽死の問題もその一つです。私は結論の出ない時は待つことにしています。まかり間違ってもものみの塔の「統治体」のような人間の指導者に盲従しないこと、これが私のモットーです。

 イエスと聖霊の質問に関しては聖書をお読み下さい。明快な答えは得られないかもしれませんが、Sさんがここに書かれたことよりはもう少しはっきりわかるであろうと思われます。

 宗教が人類の多くの問題の根元となってきたこと、これについては私は否定しません。ただそれは全て悪用する人間の側の問題であると思います。確かにものみの塔がすたれたとしても、何時の世にもこれに類する権威を乱用する団体は後を絶ちません。しかし、それにも関わらず、何時の時代にも神に支配されて生きる無数の、無名の人たちが沢山います。これらの人々は何の団体に属さないかも知れませんし、色々な団体に分散しているかも知れません。何時の時代にもこれらの大部分の人々は声の小さい少数派に過ぎません。しかし、これらの人々は確かに神のご意志を部分的にせよこの世界に実現していると思います。私がそのような無名の人々の集まりの中に入れれば幸せであると思っています。Sさんに申し上げたいこと、それはものみの塔のような宗教団体でなくその内外にいる個人個人に注目されることです。