エホバの証人を母に持ち自分は仏教徒である方から−キリストとの「関係」とは。仏教とキリスト教の比較。キリスト教のおかしな点。

(11-17-96)。

 私は、**大学2年のSと申します。私自身は
違いますが、母がエホバの証人なので、あなたのホームページ
を拝見してみました。前から思っていた通り、ものみの塔は
おかしな組織であることがわかりました。。
 しかし、あなたは、エホバの証人をやめて、本当のキリストとの
「関係」を持て、と仰っています。そこが、よくわかりません。
「この箇所を読んだ私は、安心して祈ることができ、イエスを
自分の心に受け入れることができたのです。私は、ガラテヤ 
4:6 に記されたことを自分自身のこととして体験できました。
私は自分がエホバの証人であったときに一度も経験することの
できなかった体験、すなわち神を私自信の「父」として知ること
が初めてできたのでした。」
 関係を持ったものと、持っていないものとの違いは、
自分の心に受け入れて祈ることができるか、できないか
ということでしょうか。
 これは言葉を換えれば、疑いなく信じられるか、信じられ
ないか、ということなのでしょうか。
 そこのところがよくわかりません。
 もし、信じ切ったものとそうでないものとの違いであるのなら、
これは非常におかしいことになります。
 あなたは論理学をマスターしているようですが、ものみの塔
のように、論理的におかしいものは真実ではないことはお判り
でしょう。
 私は仏教徒(浄土真宗)から見て、キリスト教のおかしな点
をいくつか挙げます。
 第一に、仏教では、「信疑一如」という言葉が
あります。信ずることと、疑うこととは一つのことで二つ、
二つのことで一つだという事です。人間が信じるというとき、
常に疑いが混じっているということです。
 たとえば、「明日、10時に来てね。信じてるからね。」という
言い方をするとします。これは、来ないかもしれないという
疑いが混じっているから、力んでいるんのです。もし、
100%わかっていたら、「知っている」と言うはずです。
父親が「男だと信じている」という人はいないでしょう。
 人間の信心は疑いを含んでいるから、仏教ははじめから
信じろとは言いません。仏教は、はっきり知らされるものです。
 第二に、主(ヤーヴェ)は全能ですか。全能でしたら、
存在自体が矛盾しませんか。矛盾という言葉は、「何でも
突き通す矛と、何にも突き通せない盾」という意味です。
これはできないから、矛盾というのではありませんか。
 第三に、なぜ、死んでから、救われるのですか。
これは、あなたの主張を正しく聞かねばなりませんが、
永遠の命は生きている内には得られはしないでしょうから。
人間死なねばなりませんからね。
 今溺れている人に、土左右衛門になってから助けるという
人はいないのではないですか。今腹痛で苦しんでいる人に、
死んだら助けるという医者もいないでしょう。苦しむ者を救うのが
宗教なら、生きている、ただいま現在助けるのが筋でしょう。
仏教は平生業成です。生きている、今、助かります。
あなたの仰っている、永遠の命は仏教で得られます。
 大無量寿経という経典に、
「信心歓喜 乃至一念」とあります。一念で救われるということです。
一念とは一億分の一秒よりも、一兆分の一秒よりも早いと
いうことです。そうでなければ、末期ガンなどで、あと一分ほどで
死んでしまう人は救われないことになりますから。
 救われれば、死をもさわりにならない絶対の幸福を得ることが
できます。これを、歎異抄には「無碍の一道」と言われています。
何ものもさわりにならないということです。
 生きているものの苦しみをとるのが宗教だと思われますが、
キリスト教で「死」を超越できますか。
 国木田独歩は「祈らずとも助くる神なきや」と言って死んでいます。
生きし生きるものの一番の苦しみは死です。この苦しみから
解放しない限り、真の宗教とは言えないのではありませんか。
 妥協でも、思いこみでもない、本当の苦しみからの救い。
それが釈尊の真意であり、親鸞聖人の御教えなのです。
 以上が私の考えであり、仏教です。非常に一方的であり、
排他的ではありますが、あなたがものみの塔を許せないように、
私も、キリスト教には納得がいかないのです。
 どうか、このメールでお怒りになるのではなく、世の中の
真実というものに耳を傾けて下さい。
 よろしかったら、返事を頂けたら思います。よろしくお願いします。
では、失礼します。

《編集者より》
 非常に大きな問題で私の手におえる範囲を越えているでしょう。読者の中でキリスト教神学に造詣のある方、どうかSさんに対する答えをお寄せ下さい。私は自分で答えられる範囲で少しコメントしてみたいと思います。私はSさんの質問の真意が完全に理解できているとは思いませんので、的外れな答えがあるかも知れませんがご容赦下さい。

 あなたが冒頭で引用している文は『ものみの塔を出てどこへ行けばいいのですか?』のページからのもので、私の原著でなくデービッド・リードのものです。しかし私自身はこの文の内容に関する限り、彼と非常に近い考え方をもっていますので彼に代わってSさんにお答えしましょう。

 あなたの仰る通り、祈ることと信じること、それは神とキリストに対するものですが、これがキリスト教の根幹であると思います。信じるという言葉は確かにたくさんの意味合いで使われます。漠然とした分からないものを多分そうであろうと思うことも確かに「信じる」ことでしょう。あなたの言う「明日、10時に来てね。信じてるからね」というのはこの例でしょう。確かにその裏には疑いがあることは否定できません。しかし、私のキリストに対する「信仰」の「信じる」と言う行為は少し内容が違います。私の「信じる」ことは、イエス・キリストが自分の救い主であるとの疑いのない確信です。この確信は余りに確かであるために、我々の救いは未来形でなく現在完了形で表現されます。この救いは間違いなく、肉体の死を超越したものです。

 確かにこれは「信じられるか、信じられないか」の違いかも知れません。しかし、この機会はすべての人に来るはずです。伝道の目的はすべての人にこのチャンスを与えることなのです。しかし、大事なことはドアを叩くのはあなたなのだということです。あなたがドアを叩けば、必ずイエス・キリストは手を差し伸べてくれます。その先は神とあなたとの個人個人の問題でしょう。確かにすべての人がこの「関係」に入る訳ではありません。

 私がものみの塔宗教に警鐘を鳴らしているのは、彼らが論理的におかしいからではありません。論理的におかしな人、団体はこの世の中にあふれるほどあり、ものみの塔は確かにおかしな論理を使っていますが、まだましなほうかも知れません。私がこのサイトを通して訴えたいことは、彼らは聖書を使い、「クリスチャン」を自称しますが、キリスト教の信仰とはほど遠いものを信じていること、そしてただほど遠いだけでなく、その活動の中に人を欺いたり、人を死に追いやったりする、キリストの教えと真っ向から反することを聖書を振りかざして平気で行っていること、なのです。(確かにそれは論理的におかしい教えですが、問題はそれ以上のものなのです。)

 エホバの証人の信じているもの、それはまさしく上に例を挙げた、「漠然とした分からないものを多分そうであろうと思うこと」なのです。彼らは、ニューヨークの巨大なビルディングから世界を支配する、「忠実で思慮深い奴隷」と称する十数人の白人男性老人集団(これを「統治体」という)のみがエホバ神から指令を受けて、自分たちにエホバの真理を教えていると信じています。これが彼らの信仰の根幹です。しかし、この「信じている」状態は、疑いのない確信ではありません。統治体は度々、自分たちは人間で不完全であるから間違いをする、と言い訳を繰り返してきました。エホバの証人もそのことは気付いています。しかし、統治体が言い訳を発表するまでは、それは絶対の真理であり、疑いを挟むことは許されません。彼らの信仰、それは「もしかしたら間違っているかも知れない」という不安に常にかられつつ、しかも疑いを許されないがために目をつぶって信じ込む、そのことなのです。そして「新しい光」が統治体から発表され、昨日までの絶対の真理は「古い光」になると、「これは間違いではなかったのだ、ただ光が足りなかっただけだ」と自分で自分の間違いを正当化できると「信じ」、またものみの塔誌を頭にたたきこみながら、いつまた間違いになるかもしれない新しい「真理」を次の絶対の真理として信じ続けるのです。

 彼らの救いもまた、疑いのない確信ではありません。彼らの救いは遠い未来です。先ずハルマゲドンを通過しなければなりませんが、これが何時来るかわかりません。とにかくすぐに来て欲しいものですから、時間設定をしたがります。しかしこれらの時間設定は全て間違いでした。しかしそれでも、彼らはハルマゲドンがすぐに来て、私のような反対者、あなたのような仏教者、そしてすべてエホバの証人にならなかったものはことごとく、壮絶な苦痛の死を迎え、エホバの証人のみが生き残ることを「信じて」います。しかし、この「救いの信仰」も確かなものではありません。今までに何度もこれが覆されたことを、エホバの証人の中でも知っている人間が多いからです。まさしく彼らは半信半疑なものを確かなもののように信じざるを得ないのです。彼らにとってイエス・キリストは救い主ではなく、ただの偉大な人間に過ぎません。十四万四千人の統治体の老人たちを含むこの組織のエリートを除いては、イエス・キリストによる罪の贖いはなく、(聖書にはっきりとキリストは全ての人の救い主であると書いてあるにもかかわらずです)、彼ら一般の証人のわずかの、そしてどこか不確かな希望は未来に来る、ハルマゲドン後の地上の楽園なのです。

 何故、聖書を使いながらこのような大きな違いがあるのでしょう?それはエホバの証人の信仰がまさしく十数人の白人男性老人集団の脳味噌から放出される「時に応じた」“思いつき”を絶対の真理として信じさせられているからです。イエス・キリストという、不変でしかも全ての個人が誰も他の人間を介さず直接に接することのできる存在と常に関係を持ち、救いを何の不安も持たずに確信するクリスチャンとの違いをよく見ていただきたいのです。

 私は医師として、沢山のエホバの証人の診療を行ってきました。それと同時に沢山のクリスチャンも診てきました。これは既に統計的にもあらわされていることですが、エホバの証人には精神病、神経症、心身症などの傾向を持った人が多く見られます。典型的な彼らの態度、それはこの世の悪をのろい、自分の不幸の原因を他に押しつけ、半信半疑で「救われるかもしれない、でもエホバへの奉仕が足りなかったから駄目かも知れない」という葛藤を必死で押し殺して何とか組織についていかなければという、不安と焦燥にかられられ続ける生き方です。こんな精神状態では病気と闘えるものではありません。精神的にまいってしまうのは当然といえるでしょう。これに対し、苦痛も死の恐怖も克服し、安らかな顔で喜びをもって最後の時をむかえた何人かのクリスチャンの癌患者の顔が私は忘れられません。

 長くなりましたのでこの辺で切り上げます。私の仏教に関する知識は非常に浅いもので、Sさんの上の手紙は大変興味深く思いました。怒る気持ちは全くありませんし、仏教を批判する気持ちもありません。私にはあなたの質問の意味を完全に理解してキリスト教と仏教の違いを明快に説明する能力はありません。ただ一言、「祈らずとも助くる神なきや」の質問に対しては、私の答えは「あります」です。イエス・キリストによる救いは祈りの行為によるものではありません。祈りはイエス・キリストとの関係を持つための手段にすぎません。祈るか祈らないか、と救いがあるかないか、は直接の因果関係ではありません。

 Sさんに対する私の質問はエホバの証人のお母さんに育てられたあなたがエホバの証人にならずに仏教を信じる人間になったきっかけは何なのでしょう?