(11-16-98)
主の御名を賛美いたします。 #########教会牧師の***というものです。突然のメールを 失礼いたします。いつもホームページをみさせていただき、大変参考になってい ます。 最近、エホバの証人の研修生(まだ洗礼を受けなかったそうです)を5年間続 けてきたが、どうしても、エホバの証人の教えに締めつけられるようであると気 がついて、プロテスタントの教会に思い切ってきはじめた40代の独身男性が、当 教会に何回か来ました。その男性の件についてお尋ねしたいことがあります。 その男性は、エホバの証人の教えに締めつけられるようであると気がつき、*** の##書店に行っては、いろいろと本を読んでいたそうです。その書店の店長 の方に紹介されて、一時、当教会に来ました。その兄弟は、「エホバの証人で は、知恵を得ることによって救われる。」と教えられ、「奇跡は、現代はない、 異言はない、聖霊のみたしはない」と教えられていたそうです。 しかし、##書店に行くと、「奇跡はある、異言はある」と第三の波や、ペン テコステ系の本で発見したそうです。そしてそのような傾向の本を好んで読むよ うになったそうです。 そして、思い切って、いろいろなプロテスタントの教会巡りをしたそうです。 そして、どちらかというと第三の波の流れのうちにある教会が、一番、自分にぴ ったり来ると思ったそうです。 その方が、時々、私の教会に来られます。(初めて来た教会が、当教会だった からだと思います)。私たちの教会は、立場が違うことを、最初から言ってあり ます。 そこでお聞きしたいことなのですが、エホバの証人から改宗した人たちは、 「知識を求める」(プロテスタントでいうところの教理)ことに対して、うんざ りしているのでしょうか。またその反動として、異言や、聖霊の満たしを求めて いく傾向が強いのでしょうか。それとも、それは、その人個人だけの特質なので しょうか。 以上の件についてアドバイスをいただければ感謝です。
《編集者より》
私の経験から言う限り、エホバの証人を出た人々のキリスト教に対する態度は個人個人で千差万別であると思います。一概に一つの傾向を指摘することはできないと思います。お手紙の男性の言動を見てみますと、彼は結局エホバの証人にはなりきれなかった人間であり、その意味ではエホバの証人から改宗した人という範疇には入れられないかもしれません。むしろ、エホバの証人の一部の人たちに共通の「宗教の渡り歩き」をしているのではないでしょうか。私の知っているエホバの証人から改宗した人の多くは、「知識」の不足や誤りに気がついたことがきっかけとなっていますが、これは私の行っている活動の性質によるものである可能性があり、他の原因でやめた人々については私はあまり接触がありません。