「油注がれた者」排斥された元エホバの証人より愛の本質とロイド・バリーの死について

(11-14-99)

 私はインターネットを初めてまだ二週間になるかならないかなのでまだなにも分か
らずとまどっているところです。メールを送ったつもりでしたが届いていなかったよ
うに思います。おじゃまかもしれませんがこの一ヶ月ほどの間の急変について知って
いただきたいと思い長いメールを送らせていただきます。
 私の基本的な考え方はイエスキリストが教えてくださった「まず心と思いを込めて
あなたの神エホバを愛すること」「そして隣人を愛すること」この二つのことに集約
されるものです。そして敵をも愛することの意味を知っていただきたいと思います。
この敵をも愛すると言うことは誰もが簡単にはできないと考えてしまうことなのです
が。愛の本質を理解するとそうではないことが分かるのです。イエスキリストは私た
ちにできないことではなく容易にできることを求めておられるのです。
それゆへご自分に近づく者の荷を軽くするとおっしゃるのです。
 愛の最低限の所、基礎の基礎を守るだけで十分なのです。それは相手の存在を認め
ると言うこと。このことができればたとえあなたの気持ちの中にその人に対する怒り
が存在したとしてもイエスの愛の立法を守っていることになるのです。相手の存在そ
のものを認めるならその人を排斥したりあるいは殺したりはできないことになるので
す。相手の存在を認めることができれば怒りや恨みも時間とともに消えていくでしょ
う。それに対して兄弟を憎み続けて相手の存在を認められなくなる人に対してイエス
は人殺しであると宣告されるのです。このこと、愛の最低限になる一線を知ることが
できるとずいぶんと気持ちが楽になるのではありませんか。イエスは私たちが行うこ
とが難しい聖人君子がやっとできるようなことを求めておられるわけではないのです
。私たちがクリスチャンであり続けるための最低限の所はじつはそんなところにある
と私は思っています。そのようなわけで基本的には統治体の兄弟たちや愚かな長老
たちに対してもこの最低限の愛を持ち続けたいと思います。それ以上の所に関しては
全くエホバに頼ることになります。このけじめを付けていると私たちの思いを越えた
厳しい措置をエホバがある人々に対してきっぱりと行われることがあります。アナニ
ヤとサッピラに対するエホバの裁きはそのようなものと考えられるのです。
 大会中にそれも演説中になくなったロイドバリー氏はレイモンドフランズ氏やス
エーデンの兄弟また日本の北海道の金沢兄弟などの排斥事件に深く関わっていました
。私に対する問答無用の態度もやはりロイドバリー氏のものでした。 彼は日本に長
くいましたし1975年騒ぎを利用してたくさんの信者を集めた功績により統治体に
入った兄弟なのです。彼はかなりの年になってから油注がれた者であると言い出した
のです。そうです表彰物に預かりだしたのは統治体に迎えられる数年前からだと聞い
たことがあります。彼は油注がれた者ではなかったようです。といいますのは今回の
件であまりのひどさに油注がれた者ではないものが統治体に入り込んでいると思われ
るのでそのものが油注がれた者ではないことが私に理解できる形でエホバが滅ぼされ
ますようにと祈ったところ彼がまさにヘロデアグリッパのように演説中に死んだので
す。私はこの祈りをした時点で彼の名を特定していたわけではありません。彼の死に
方は聖書的な見方によると(彼らがあくまで主張している見方)誕生日を祝はない事
理由にしている例のように聖書の見方によると明らかにエホバに滅ぼされた形になる
のです。なぜなら敵に囲まれていたステファノでさえ言うことを言い終えてから死ん
でいるのです。またエホバに油注がれた者が大会を混乱させるような死に方はエホバ
はさせません。この神は力が強く現在でも死人を生き返す業まで行っておられるから
です。ものみの塔協会は一世紀の当時のパリサイ人と同様にエホバ神の聖霊の業から
阻害された状態になっているようです。
 それ故自分たちの間で印しと不思議がないため一生懸命奇跡はない奇跡はないとエ
ホバ神がなにも今はしないのだと言い続けているのです。彼らの発言はエホバ神の自
由を人間が制限しその行動を制限することになる僭越な発言であることさえ理解しな
いのです。彼のもっとも大きな罪は油注がれた者が1935年で集め終わったという
教理を作り上げたことでしょう。それも過分のご親切による選びではなく彼のように
実績で選ばれると言い出したのは自分を脅かす本物の兄弟たちを追い出したかっただ
けなのかもしれません。その教理を根拠として多くの油注がれたという信仰を持った
兄弟姉妹に対して過酷な扱いをしたことは否定しがたい事実となっているのです。彼
が死んで新たに比較的若い兄弟が四人も加わったことによりどう変わっていくのかを
しばらく静観することにしております。彼らは今のところ不忠実になった残りの者の
代わりとしてその実績からエホバから認められた者たちとのふれこみのようです。と
いうのは60歳では1935年に生まれていないのです。50そこそこの統治体員は
彼らの教義によれば本来油注がれた者ではあり得ないのです。彼らは聖書が述べる過
分のご親切による選び、それもイエスキリストご自身による任命を否定して組織の任
命を定めたように思えます。彼らの見解によるとエホバの組織の任命権はイエスキリ
ストの任命権を上回ることになります。これがどういう意味を持つかは賢明な聖書の
理解を持つ方ならよく分かることではないでしょうか。
むしろ私はマザーテレサのような人が油注がれた者の一人と見ております。彼女も私
と同様にイエスキリストからの直接の任命を受けた人であるように思うのです。彼女
のことを詳しく知りません。しかし彼女がカトリックの中であのような行動にでた力
は人の単なる思いこみではできないことと思っています。
 彼女の行為もその人の存在を認めること、そこから始まっております。どんなに貧
しい人であれ世間からは役立たずと思われるような人であっても優しく世話をしてあ
げたい。それは世間から存在を否定されてしまった人々に対するイエスキリストの愛
を具現化した行為に他ならないからなのです。世話を受けた人々のその喜びの表情を
見た時に、正直負けてると思いました。エホバの証人からは輸血の問題から忌み嫌わ
れる赤十字もその始まりは敵味方のべつなく負傷したために捨て去られた人々に対す
る愛の行為でした。博愛主義は人々の存在を認めることそのものなのです。
この原則を踏み越えた教えはイエスキリストからのものとは言えないのです。いかな
る団体もこの原則を犯す行動をとっているならば愛の神のものではありえません。
「かず」より

《編集者より》
あなたの愛の本質に関する洞察には私も賛成いたします。ロイド・バリーの死については、それだけ特別の意味があるのかどうかわかりません。確かに劇的な死に方ですが、年齢から考えるとこのような死に方は特別に稀であるわけではありません。医師の目から見れば単なる偶然のようにも思えますが。マザーテレサに関する見方には賛成です。