王国の意味と隠された偶像崇拝(王国会館)

(11-06-99)

王国の意味と隠された偶像崇拝(王国会館)。
 王国会館、ならびに支部施設に対する見方を日本の兄弟たちによりよく理解させるた
めに次にあげる聖書の言葉、イエスキリスト、あなた方の主人の言葉を基に考慮します
。 マタイ23章1〜22節までを読んでください。その文脈を考慮しながらまず16〜19節に
注目しましょう。
*** 聖8-参 マタイ 23:1-22 ***
23 それからイエスは群衆と弟子たちに話して,こう言われた。2 「書士とパリサイ人た
ちはモーセの座に座っています。3 それゆえ,彼らがあなた方に告げることはみな行ない
,また守りなさい。しかし,その行ないに倣ってはなりません。彼らは言いはしますが,実
行しないからです。8 しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師
はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。9 また,地上のだれをも父と呼んで
はなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。10 また,『指導者
』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。11 あなた方
の間で一番偉い者は,あなた方の奉仕者でなければなりません。12 だれでも自分を高め
る者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められるのです。
13 「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! あなた方は人の前で天の
王国を閉ざすからです。あなた方自身が入らず,また入る途中の者が入ることをも許さな
いのです。14 ――
15 「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! あなた方は一人の改宗者
を作るために海と陸を行き巡り,それができると,これを,自分に倍してゲヘナに行くべき
者とするからです。
16 「盲目の案内人よ,あなた方は災いです! あなた方は,『神殿にかけて誓っても,それ
は何のことはない。しかし,神殿の金にかけて誓うなら,その者には務めがある』と言う
のです。17 愚か者,また盲目の者たちよ! 金とその金を神聖にした神殿とでは,実際の
ところどちらが偉大なのですか。18 また,『祭壇にかけて誓っても,それは何のことはな
い。しかし,その上の供え物にかけて誓うなら,その者には務めがある』と[言います]。1
9 盲目の者たちよ! 供え物とその供え物を神聖にする祭壇とでは,実際のところどちら
が偉大なのですか。20 それゆえ,祭壇にかけて誓う者は,それとその上のすべての物にか
けて誓っているのです。21 そして,神殿にかけて誓う者は,それとそこに住んでおられる
方にかけて誓っているのです。22 また,天にかけて誓う者は,神の座とそこに座しておら
れる方とにかけて誓っているのです。

イエスが地上に居られたこの時代のパリサイ人は、神殿より神聖にされた金のほうをよ
り偉大なものとしていたことが聖書に記録されています。この事実を心にとめてくださ
い。
 では現在供え物や金に当たるものはエホバの証人にとって何に当たりますか。供え物
とはエホバに献じたものを言いますので、現在正式に献じている物はべテル施設や王国
会館などが在ります。(これらは正式なものです)
現在実際に機能しうる神殿は何処にありますか。贖いをしてくださる実際の祭壇はどこ
にあるのですか。
あなた方は即座にそれは天に在りますと答えることができるはずです。*)でもそれは
心に在る知恵ではなく頭の中にある知識にすぎないのです。その事実を解明してみまし
ょう。
 王国会館はエホバに献堂されたものであるのでエホバの家である。王国会館で開かれ
る集会は他の場所で開かれる集会より勝って祝福が大きい。エホバの家である王国会館
を通して聖霊を注いでいただきましょう。エホバの家である王国会館の備品に対してエ
ホバに不敬な態度となる行為を避けましょう。
 あなたの心に知恵があるのならばこれらの言葉の意味を理解することができるはずで
す。貴方は恐らくここに書かれている言葉に何の抵抗も無く同意されるのではありませ
んか。これらの言葉はすべて集会で話された実際の表現なのです。おもに祈りの時に長
老たちが述べた言葉でありほとんどすべての会衆の兄弟姉妹たちはこれらの言葉にアー
メンと唱えて同意を与えたことは事実なのです。これらの事実は兄弟姉妹たちに王国会
館がどのようなものとして心に刻まれているかが良く分かるのではありませんか。そう
ですエホバの家であり神聖な場所であると言う共通認識です。
 そうなのです私達は王国会館を神聖な場所としたのです。そのことに異議があります
か。無いはずです。
さて先ほどのマタイの聖句とともにコリント第一3:16から17節も考慮しましょう。
*** 聖8-参 コリント第一 3:16-17 ***
16 あなた方は,自分たちが神の神殿であり,神の霊が自分たちの中に宿っていることを知
らないのですか。17 もしだれかが神の神殿を滅ぼすなら,神はその人を滅ぼされます。
神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその[神殿]なのです。

 これらの聖句から神殿と祭壇は金やその他の献納された物を神聖にすることができる
と言うことを読み取ることができます。またクリスチャン時代の神殿はイエスキリスト
を隅の親石とする人間で構成されたものであることを理解できるはずです。兄弟姉妹達
が神殿なのです。この聖句を文字道理に適用することに一部の長老達は反対であること
を公の場で表明されましたが次ぎの聖句をその人達は考慮されますように。
*** 聖8-参 コリント第一 4:6 ***
 それは,わたしたちを例にして,「書かれている事柄を越えてはならない」という[定め
]を学んでもらい,あなた方がそれぞれ一方に付いて他方を退け,思い上がるようなことの
ないためです。

 さてここで本題に戻して、「神聖視すること」と「神聖にすること」の意味の違いを
理解してください。
この二つの言葉は一文字違うだけなのに天と地ほども違う意味があるのです。このこと
を理解しやすくするために図を用いて考えてください。



              (聖の聖なる所)
    @ イエスキリストの名を通すこと、贖い      「神聖視する」
          (清い崇拝のための取り決め)
                                             崇拝的な見方
                                                        C
        人間クリスチャンは神に神聖にされた
    A     神殿(コリント第一3:16)         (自分自身の位置)


          人間が神聖にするもの
    B      王国会館    べテルの施設
          (崇拝のために取り分けた物)           「神聖にする」
          取り決め、べテル奉仕等             

              (聖の聖なる所)
    @ イエスキリストの名を通すこと、贖い      「神聖視する」
          (清い崇拝のための取り決め)
                                             崇拝的な見方
                                                        C
        人間クリスチャンは神に神聖にされた
    A     神殿(コリント第一3:16)         (自分自身の位置)


          人間が神聖にするもの
    B      王国会館    べテルの施設
          (崇拝のために取り分けた物)           「神聖にする」
          取り決め、べテル奉仕等             
A  
                         (参)塔97 8/1 p9

         この図の上下関係はそのまま偉大さの上下関係なのです。

 マタイの聖句によれば神聖にされた金より神殿の方がより偉大なものとなる事は自明
の理なのです。それと全く同じように神聖にされた王国会館より兄弟達のほうが偉大な
ものなのです。このことを上の図は表しています。すべてAから@へ向かう上向きの矢
印方向は「神聖視する」崇拝的な見方を表します。A〜Bの下向きの方向は「神聖にす
る」向きです。昔の祭司達は神殿で用いる器具や衣服を「神聖にする」事を行ないまし
た。それと同じように崇拝のために用いる物が王国会館なのです。この事実をどうして
も受け入れることはできないと言われるならそれはあなたの信仰の問題であり私は関係
ありません。しかし偶像に使える人の愚かさを見事に示したイザヤの聖句を思い出して
ください。イザヤ44 14から20節  その人はこの図で表すとエホバ神とクリスチャン
の間に自分の作り上げた物(偶像、王国会館)を自分の上におくことになります。Cの
矢印のように王国会館を@とAの間に入れます。
この図で分かるようにクリスチャンの位置からは上向きの「神聖視する」向きに変わっ
てしまうのです。つまり自分達が聖書によって神殿であると宣言されているにもかかわ
らず王国会館を自分達より偉大なものとしたことになるのです。王国会館を「神聖視す
る」人々はそれが神殿でないことは学んで知っていますと必ず言います。
 それと同じように現代の偶像を崇拝する人達は異口同音にこのように述べます。「私
達はその像が木や石で作られていて実際の神でないことは知っています。その像を通し
てその像の表す実体を崇拝しているのです。」などの答えが返ってくるのです。これら
の発言と兄弟達の発言を比べてみるならどうなるでしょう。 王国会館はエホバに献堂
されたものであるのでエホバの家である。王国会館で開かれる集会は他の場所で開かれ
る集会より勝って祝福が大きい。エホバの家である王国会館を通して聖霊を注いでいた
だきましょう。エホバの家である王国会館の備品に対してエホバに不敬な態度となる行
為を避けましょう。
 これらの発言が「エホバの家」という言葉によって誘発されていることが分かるので
す。兄弟達の心の中に王国会館は神殿に匹敵するものであると言う意識が潜んでいるの
です。つまり明らかに「神聖視している」のです。自分の上に王国会館を置いてしまっ
たのです。遇像崇拝になりませんか。 つまり彼らの意識の中にはエホバに献堂したの
でエホバ神が神聖なものとされたはずだという考え方なのです。しかしその考え方は絶
対にあり得ないことなのです。何故かまず自分で考えてみてください。
 御自分でその答えを見出すことができたでしょうか。もしそれができたのであれば幸
いなことです。分からない人のためにいくつかヒントをおきましょう。モーセの時代エ
ホバが隣在されたシナイ山は神聖な場所となりました。今でもそうですか。エホバ神は
むやみに祭壇をたくさん作ることを許されましたか。物質の神殿を許されるのならなぜ
エルサレムの神殿を石の上に石が乗ることの無いまでに破壊されたのですか。霊的な事
柄とこの事物の事柄とどちらが偉大なものなのですか。ペンテコステの時に聖霊が注が
れたのは兄弟達に対してだったでしょうか、それともそこにあった建物でしたか。1世紀
ごろの初期クリスチャンは神殿も祭壇も、さらに礼拝堂も持とうとしなかったために非
難されていました。どうして礼拝堂(王国会館)すら資産があったのに持とうとしなか
ったのでしょう。貴方方にエホバの霊が本当にあるのならばこれらのヒントで明確に理
解できるはずなのです。                

 いつの時代でも御自分に対する崇拝の取り決めの中に他の宗教と同じようなたくさん
の神殿や祭壇を設けることを許された記録は聖書の中に無いはずです。現在は物質の神
殿をこなごなに破壊して、より偉大な霊的神殿を実際に機能させておられるのです。ゆ
えにそれに対抗するものを地上に許すことはあり得ないことなのです。エホバが王国会
館を神聖にしたのであればそこにエホバの聖霊をおかなければなりません。もしそうで
あるのならば霊が宿っている場所なので神殿になってしまいます(マタイ23)。そう
なるとエホバご自身で立てられた霊的な偉大なエホバの神殿と王国会館の神殿とが対抗
するものとして存在することになってしまうのです。そのような矛盾をエホバ神が許す
はずがありません。そうした意味でエホバに建物を献堂する行為事態が微妙な意味を帯
びてしまうのです。一世紀ごろの兄弟達の態度はその辺の事情に左右されていたのかも
しれません。はっきりした答えを私がイエスから受けているわけではありません。しか
し「すべてのことが許されています、しかしすべてのことに益があるわけではありませ
ん」との言葉に注意することは益となるでしょう。
 さてここまで論議を尽くしてきましたがある長老のために次の事を明らかにしておき
たいと思います。
コリント第一の3:16節の聖句に関して、「この、兄弟が神殿であるという記述はあ
くまで霊的な比喩であって実際の意味はありません」と言われました。その方にお答え
します。貴方はエルサレムに在った神殿のような形が天にあるのだと考えておられます
か。もしそうであるなら貴方は大いに誤っているのです。神殿や王国は肉的な形ではな
くその力にあるのです。 かつての神殿のように形だけであるなら貴方方に救いは無い
のです。貴方方は神聖な者とされたのではありませんかそうであるならいいかげん肉的
な見方ではなく霊的な見方を身に着けてください。貴方方は聖霊によって任命されてい
るはずではありませんか。
 イザヤ44 14から20節を読んでください。
*** 聖8-参 イザヤ 44:14-20 ***
14 杉を切り倒すことを業とする者がいる。彼はある種類の木,それも巨木を取り,それを
森林の木々の中で自分のために強くする。彼は月桂樹を植えた。降り注ぐ雨がそれを大
きくしてゆく。15 そして,それは人が火を燃やしつづけるための[もの]となった。すな
わち,彼はその一部を取って身を暖めようとする。事実,彼は火を起こし,実際にパンを焼
く。また,自分が身をかがめるための神を作る。彼はそれを彫刻像に作り,それに平伏す
る。16 彼はその半分を火の中で実際に燃やす。その半分で自分の食べる肉をよく焼いて
満ち足りる。また,彼は自分の身を暖めて言う,「ははあ,暖まった。火明かりを見た」と
。17 しかし,彼はその残りを実際に神に作り,自分のための彫刻像とする。彼はそれに平
伏し,身をかがめ,それに向かって祈って言う,「わたしを救い出してください。あなたは
わたしの神だからです」と。
18 彼らは知るようにならなかった。また,理解することもない。彼らの目は塗料にまみ
れて見えず,その心も[そうなっていて]洞察力がないからである。19 そして,だれも,「
わたしはその半分を火の中で燃やした。わたしはまた,そのおき火でパンを焼いた。わた
しは肉を焼いて食べる。それなのに,わたしはその残りでただの忌むべきものを作ったり
するものか。乾き切った材木に平伏したりするものか」と言って,その心に思い起こすこ
とも,知識または理解を持つこともない。20 彼は灰を食っているのである。もてあそば
れたその心が彼を迷わせたのだ。そして,彼はその魂を救い出さず,「わたしの右手に偽
りがあるのではないか」と言いもしない。

 貴方方が聖霊を受けているならわかるはずです。この偶像崇拝者が何を重要なものと
して見ているかが。彼らは一本の木から半分を薪とし、もう半分を神(偶像)とするの
です。薪と偶像は同じ木でできています。では偶像と薪は何が違うのでしょうか。その
半分を神とするのはその形によるのです。その形が彼らの心を惑わしているのです。こ
の事実から目をそらすことのないようにしてください。かつての壮大な形の有ったエル
サレムの神殿は石にすぎず人類を救うことができませんでした。しかし形の無い霊的神
殿は人類を死から開放することができるのです。
 この言葉は聖霊によるのです。もう一度言います「王国はその力にあるのです」。形
や比喩的な言葉ではありません霊のことは霊を持たなければ理解できません、愚かな発
言をされた方は悔い改めてどうか聖霊を得られるようになってください。このことに同
意しない者はサタンの会堂の者として必ず退けるように。
 さて結論を申し上げましょう。貴方方は王国会館を神聖な場所にすることができます
。しかし貴方方がエホバとイエスが神聖な者とされた兄弟姉妹より偉大な神聖さを付与
する権限は無いのです。それゆえ王国会館の形が貴方方を惑わし「神聖視」していたの
であれば間違い無く偶像崇拝の過ちに落ちていたのです。些細な問題と言えるのですか
。貴方方にとって取るに足ら無いことなのですか。
 従がって貴方方が「神聖にした」王国会館で何か失敗したとしてもそれがエホバに不
敬を表した事にはなりません。そうした意味において幼い子供が集会中におもらしをし
たとしてもそれがエホバに対する不敬になるわけではないのです。そうでなければ幼子
を安心して王国会館に連れて行くことなどできないのです。むしろこうした真理を語る
油注がれた者に対する不敬な態度こそエホバ神と主イエスに対する冒涜になるのです。
 そうですエホバ神が居られた時だけシナイ山が神聖な場所となったように兄弟達が集
まり合う時だけその場所が神聖な所となりイエスも共にいていただくことができるので
す。そのようなわけで競馬場や競輪場で大会を開いたとしても私達のゆえにその場所を
神聖な場所とすることが可能なのです。そうした意味で王国会館を清潔で整えられた場
所とすることは良いことなのです。ただしある長老が声高に演壇から発言したように大
きくて立派な王国会館がより祝福されることなど絶対にありません。これもまた物質の
ことではなく霊的なこと、その会衆の忠実さにかかっているのです。極論を言えば王国
会館など無くても崇拝に何の支障も無いのです。以上マタイとコリントの聖句を基に王
国会館の霊的な位置付けを考察してみたのです。どうか真剣に考慮されますように、貴
方方がエホバ神とイエスキリストに忠実な者であるために。

《編集者より》
王国会館だけでなく、大会ホール、支部やベテル、印刷工場などの建築物に、ものみの塔協会とエホバの証人は大きな意味をつけています。立派で大きく数の多い建物の数々は、エホバの祝福を受けている証拠であるという見方です。例えば1996年4月15日のものみの塔誌27頁には、ベテルの数々の立派なビルディングの写真と共に、次のような言葉が見られます。

*** 塔96 4/15 27 エホバの祝福による拡大 ***
エホバの祝福は明らか

聖書の詩編作者の一人は,「エホバご自身が家を建てるのでなければ,建てる者たちがそのために骨折って働いても無駄である」と書きました。(詩編 127:1)エホバの証人による建設の業は,イエスが行なうようにと追随者たちに命じられた,宣べ伝え,教える世界的な業を促進するものであり,エホバがその建設の業を祝福してこられたことは明らかです。―マタイ 24:14; 28:19,20。

同様に印刷物の出版の多さでもエホバの祝福を計ることが出来ると教えています。確かに、これが偶像崇拝にあたるかどうかは別としても、エホバの証人が、物質的な証拠を信仰の頼りとしていることは、ものみの塔の書き方でも明らかであり、確かに偶像崇拝と共通する基盤を持つのかも知れません。あなたの王国会館に関する洞察は、とても興味あり、おっしゃる通りであると私は思います。