「エホバの証人になりきれない壁」― エホバの証人研究生としての体験

(10-11-96)。

 本ページをいつも興味深く拝見させていただいております。村本さんのご奮
闘をみて、私からも多少の発信はしなければと思い、お便りさせていただきま
す。

 まず、私の立場について一言。私は、子供の時から「真理は一つなのに、ど
うして多くの異なる考えがあるのだろう?」という素朴な疑問を持っていまし
た。大人となり知識が増えるにしたがい、その疑問はますます深くなるばかり
でした。更には、この異なる考えによる対立が多くの不幸を生み出しているこ
と、この対立は必然的でなく単なる相互理解の不足(すれちがい)から来てい
る場合が少なからずあることも分ってきました。そして、このような対立を、
相手の否定・攻撃にではなく、相互の成長のために積極的に生かす方法・態度
を培うことが世界平和にとって重要であると確信するようになってきました。
 このような異なる考えによる対立は、宗教の世界においてより顕著であると
思われます。特に、キリスト教においては各派とも同じ聖典を持ちながら、そ
の対立には激しいものがあります。そこで、キリスト教をモデルとして昔から
の疑問を解き、少しでも世の中の役にたてるべく、私は数年前よりキリスト教
各派の研究を始めました。ただ、私は理系の人間で多忙な本職(会社の技術
者)の合間での研究となってしまうので、もともと学術的・専門的な研究には
程遠いものではありますが、できるだけ一般信徒レベルでの実践的なものとし
ようしております。なお、私は一応カトリックによるクリスチャンではありま
すが、仏教など他宗教にも心惹かれてしまう柔軟な(?;いい加減な!)ハー
トを持っています。

 この研究で出会い、特に印象の深かったのが「エホバの証人」です。誠実な
人柄・真摯な聖書研究態度と荒唐無稽(?)な教え・頑なな態度のアンバラン
スには、全く不思議な気持ちにさせられました。私の柔軟なハートをもってし
ても理解し難い数多くの教えを、あのような理性的な人々が疑いもなく信じ
きっているのですから。
 ただ、私の研究目的からして、なるべく先入観を排除し素直に理解する努力
をしました。実際、私の立場を理解していただいた上で会衆の長老に半年ほど
聖書研究をお願いしました。また、集会にも出席し、他の信徒の人々とも話合
いを何回が持ちました。そのうちに、彼らの強い信仰(特に敬神の深さ)の他
にも彼らのうちに学ぶべき多くのことを見いだしました。また、彼らの信仰の
プロセス、パターンもなんとなく理解しました。
 しかし、それでもなおどうしても彼らについていけない、彼らを理解できな
い決定的な壁がありました。かれらの教えには教条的な要素が多く、深みのあ
る琴線にふれるようなものはありません。現世利益色が強く、聖なる世界はあ
りません。統治体への盲従が強く、自発的な思考・思索はありません。これら
いろいろな問題点がありますが、それ以上になにか本質的な違和感を強く感じ
ました。そこには分厚い壁が立ちふさがっていました。
 この決定的な壁の正体は、私にもよく分かりません。しかし、この壁を越え
るためにはある大きな飛躍(マインドコントロール?)が必要なのでしょう
し、またこの壁こそが対立を成りたたせている張本人なのでしょう。そうする
と、私が追い求めているのは、この茨の生い茂った壁を、バラのアーチにする
こと他ならないのかも知れません。

 今までのエホバの証人の研究ではこの壁の正体は解明できませんでしたが、
この壁の重要性だけは確信しました。そこで、今後ともこの壁の正体を明らか
にするよう努力してきたいと思っております。そのために、村本さんのご趣旨
とはやや異なるかも知れませんが、この村本さんのページを今後とも大いに参
考にさせていただきたいと思います。
 また、私の拙い(甘い)考えに対して、村本さんやこの手紙を読んでくだ
さった方からアドバイス、ご批判などがいただければ幸いと思っております。

《編集者より》
おっしゃる通り、「壁」を乗り越えるにははマインド・コントロールによる大きな飛躍が必要でであり、彼らのことばで表現すれば信仰の強さとエホバへの愛の強さが必要でしょう。「あなたが素直にエホバを愛し、エホバを喜ばせたいという気持ちになればこの壁は越えられるでしょう」、これが多分長老のあなたに対する答えではないでしょうか。根本的な問題はこの「エホバを愛し」「エホバを喜ばせる」ことの実態が「組織を愛し」「組織の指導者を喜ばせる」ことであることを彼らは、見ず、聞かず、話さないのです。彼らは意識的に、あるいは無意識的に「エホバ」と「組織」の二つの全く異なった概念を巧みにすりかえています。私は彼らが、いっそのこと「ものみの塔教」を名乗って「ものみの塔誌」を聖典としてくれれば、もっとすっきりするであろうと思っています。(彼らの実際の活動はこの通りなのですが。)しかし、彼らは聖書を用い、神の名とイエス・キリストを取り上げ、自分たちを真のクリスチャンと自称します。これほど世間の人々を混乱させることはないでしょう。私は彼らをあわれな人々と思っております。私は彼らを攻撃するつもりは全くありません。しかし私にとって傍観していられないのは、日本の多数の主婦や学生が、聖書とイエス・キリストが使われている故に、全く異なった宗教に引きずりこまれていることです。これが続く限り、私は警鐘を鳴らし続けたいのです。