聖書解釈の歪みと矛盾

(9-26-98)

打ち切られた対話−研究を打ち切られた研究生の投稿者からの再投稿です。


「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」(ローマ9:20)

  情報センターにリンクを貼っている市川北バブテスト教会の藤原導夫牧師が、『教
会における女性の位置と役割について』という文で、フェミニズム神学=女性神学に
ついて述べています。この中で「教会における女性教職の問題に対する答えを求めよ
うとするとき、それは聖書解釈の問題と深く関わってくること、聖書解釈の問題を避
けては通れないということである。しかし、そこでの深刻な問題は、 同じ一つの聖
書を論拠とし、一方では女性教職を拒否し、他方ではそれを肯定するという、相矛盾
した結論が導き出されてしまうということである」と牧師は嘆く。
   ここにもキリスト教が正典宗教であるがゆえの歪みを見ることができます。
   しかし、「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていま
せん。律法も言うように、服従しなさい。もし、何か学びたければ、家で自分の夫に
尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです」(Tコリン
ト14:34〜35)という文をどう解釈しようと、またガラテヤ3:28を対極に
置いてどう解釈しようとも、このように書かれているのは事実である。聖書を「正
典」として読むのであればそのようにすればいい(女性教職拒否)。もしそうではな
いと言うのであれば、「正典宗教」の看板を降ろしましょう。
    証人歴20年の女性信者に、「こんな文書(特にTテモテ。私のキライな文書の一
つ)を読んで頭に来ませんか」と、聞いたことがありました。その時は笑っていまし
たが…
   はたしてイエスは、このような認識だったのでしょうか。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威は
すべて神によって立てられたからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背く
ことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ13:1〜2)
「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけで
なく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神が
そうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(T
ペトロ2:18〜19。他=テトス3:1、Tペトロ2:13〜14)
  たとえば、現在の沖縄を見てみましょう。日本の国土の0、6%に全国の米軍基地
の75%が沖縄に集中していることも、小学生少女の悲劇も、海上ヘリポート基地建
設も、あれもこれも、み〜んな「神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、
それは御心に適うことなのです」よ。だから大田知事始め沖縄県民の皆さん、つべこ
べ言わず、日本国政府の言うことを聴きなさい。「権威に逆らう者は、神の定めに背
くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」と、聖書に書いているでは
ありませんか。
   支配階級にとってこんなオイシイ宗教は他にはない。我が国もキリスト教を国教
にしましょう。
   聖書を「正典」として読むということはこういうことであり、このようなものとし
てキリスト教は二千年にわたって機能してきた。そして、このような聖書の記述に矛
盾を感じ批判を加えてしまったなら、もはや「正典」ではなくなる。そして、この種の
矛盾を糊塗するため伝統的キリスト教の護教家たちは二千年にわたって屁理屈をこね
てきた(その代表選手が三位一体)。かたや二千年、かたや百年(ものみの塔)。
   はたしてイエスは、このような「権威に対する服従」を本当に説いてまわったの
でしょうか。

  「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」(ローマ9:20)
   イエスがユダヤ教に抗い、律法学者や最高法院を批判するとき、彼らの口から
「イエスよ、神に口答えするとは、あなたは何者か」という非難がイエスに投げかけ
られたであろうことは予想に難くない。しかし、パウロが「人よ、神に口答えすると
は、あなたは何者か」と問うとき、その意味するところは異なってくる。

   R・ブルトマンは「イエス自身はキリスト教徒ではない」と言い、田川建三氏は
「イエスはキリスト教の先駆者ではない」と言う。このことが何を意味するのか、も
う一度聖書(特に福音書)に帰って考察する必要があるのではないでしょうか。

追伸
   上記の文は、この投書欄には馴染まないかもしれませんので、採用・不採用の判
断は全面的に村本さんに御任せ致します。

《編集者より》
あなたのおっしゃる「正典」という日本語の正確な意味がよくわかりませんが、多分、聖書は完全な神の言葉で、矛盾はなく、全てを文字通りに受け入れるという、ファンダメンタリストの立場を言っているのではないかと思います。あなたが問題提起された、女性差別の正当化、奴隷制の正当化、国家権力への服従、などは確かにある人々にとっては、聖書に基づいた正しいことでした。更にこの問題を広げれば、生命進化の否定、現代医学の否定と信仰治療による病気の治療、同性愛者への差別と迫害、ユダヤ人差別と迫害、更には広く「キリスト教」に反対する勢力、国に対する戦争と迫害まで、全ては聖書の名の元に正当化されてきましたし、それは現代でも続いています。ただし、夫々の宗派や教団が自分たちの判断で、ある部分は選択的に切り捨て、ある部分は今でも守っています。「護教家たちは二千年にわたって屁理屈をこねてきた」とあなたは言いますが、確かに聖書にはっきり書かれていることを行わない場合、そこには何らかの別の正当化が必要でした。

ものみの塔宗教もこの典型です。彼らは女性に講演はさせませんし、会衆の役職にもつかせません。国家権力への服従に関しては、全く一貫性はありません。選挙には参加しないので、受動的に現体制を支持していますが、自分たちの宗教活動が危うくなると権力への反抗もします。逆に自分たちの宗教を認めてくれれば、独裁者であろうと迎合します。エホバの証人はかつてユダヤ人差別、黒人差別の立場をとっていましたが、今はそのことには触れません。彼らは一昔前までは、現代医療を軽蔑し、自分たち独自の民間療法を推奨していましたが、現代では無血治療をしてくれるハイテク医療の最大の信奉者となっています。一方、生命進化や同性愛の否定に関しては、他のファンダメンタリスト・グループと全く同じように先鋭的な立場を守っています。

これはあなたの趣旨かどうかわかりませんが、私はこの点だけをとる限り、ものみの塔宗教は特に他の聖書を使った宗教、たとえばカトリックやプロテスタントのファンダメンタル・グループと何ら違いはなく、その時その時の時勢に従って、聖書の解釈を「整形」して組織の安泰と拡大を図っているのだと思います。この過程は今後も続くでしょうし、現に最近のものみの塔の次から次への「調整」を見れば、この時勢に合わせた「整形」作業が目下進行中であることが分かります。

私は、これはものみの塔に限らず、全ての宗教組織の持つ、避けて通れない限界であると思います。しかし、私は聖書の人々に対する影響は、そのような「組織の政策」を超えた所に生き続けていると信じています。無数の心有る聖書の読者は、聖書を読みながらも、現実の世界と宇宙に関する現在の状況も見極めています。組織の情報統制で盲目化されない人々は、現実の前後関係の中で聖書の言葉を受け入れ続けると私は思います。私も医師として、また数年の間、分子生物学の手法を使って病気の研究をした者として、生命体は色々な時間のスケールの中で時々刻々変化していることを実感として体験しました。「生命は進化か創造か」などと議論すること自体が、全く現実離れしていると私は思っています。病気は「のろい」でも「罪」でもなく、一つあるいは複数の生命体の独特な干渉と反応の結果にしか過ぎないことも確信しています。これらの全ての現実への直視は、ある人を無神論に走らせるでしょうし、それはそれで理解できます。

地球が宇宙の中心ではなく、単なる惑星であることが分かった時にも、その事実をあくまで否定して聖書の文字通りの解釈にしがみついた人、それで無神論に走った人もいれば、それにもかかわらず、聖書のメッセージを求め続けた人もいました。私も、この現実の中で現実を否定するのでなく、現実を素直に受け入れながら聖書のメッセージを求め続けたいと思っています。しかし、それは情報と決断を独占する「組織」を通してではなく、祈りと、この絶えず変化する現実の世の中との係わりを通して、したいと思っています。