(9-20-99)
「聖書は神の霊感によって書かれた」のか まさかそんなことはないだろうと思いつつ、ひょっとしらという疑問が、最近では そうに違いないという確信に近い思いを抱くようになってきたことがあります。 エホバの証人を初め、プロテスタント系の教会の信仰告白を見ると、必ず「聖書は 神の霊感によって書かれた」という趣旨のことが書かれています。 たしかに、エホバの証人や、一部のファンダメンタリストのクリスチャン達は、その ように考えているのかもしれませんが、しかし、それさえも最近では疑っています。 一冊の本の中に、明確に矛盾する内容を含んでいるのに、これを「神の霊感に よって書かれた」「誤りのない神の言葉」などということはできません。 たとえば、マタイ福音書(ヤコブ書も)の主張と、パウロの主張とは明確に異なりま す。そして、そのことを知っているプロテスタント系の神学者達は、「パウロの主 張」を主張するために、マタイを軽視したり、あるいは無視したりする。そしてま た、その逆も生まれる。これで聖書が、「神の霊感によって書かれた」「誤りのない 神の言葉」であるわけないではないか。 で、結論として、彼らは、「聖書は神の霊感によって書かれた」というのは、単 なるお題目として唱えているだけであって、本心から出たものではない。ということ です。 これでやっと、村本さんが『福音書の不一致と聖書の不謬性の問題』(4-7-99) に対するコメント「私は、ある意味で不完全な聖書と、間違いだらけの人間組織の解 釈との裏に、時代や組織を超える普遍の真理が端的に聖書に書かれていると思いま す。それを一人一人の人間が自分で読み取り自分の生活の中に取り入れていくことを 望んでいます」ということの意味が理解できました。 私の以前の投書、『聖書解釈の歪みと矛盾』(9-26-98)が、土台無い物(正典) の上に立った投書だったようです。むきになってる自分が恥ずかしい。 ところで、日本バブテスト教会連合(1995年に大野キリスト教会の中澤啓介師が 理事長に選ばれています)の信仰告白に、次のような一文がありました。「イエス・ キリストを信じない人は、その罪のゆえに神の怒りを受けて、永遠の滅亡に定められ ます」と。「イエス・キリスト」を「エホバ」に変えると、どこかで見たことのある文 ですね。 追伸 「聖書は神の霊感によって書かれた」ということの、一つの反論の方法として新約聖 書成立史のHPを開設いたしました。もしよろしかったら、おたちよりください。 http://www.nttl-net.ne.jp/logos
《編集者より》
引き続き独自の聖書に関する探索を行っていられるようで、お便りを興味深く読みました。「『聖書は神の霊感によって書かれた』というのは、単なるお題目として唱えている」と書かれていますが、「聖書は神の霊感によって書かれた」というのは、私はやはり信仰のための教義の一つではないかと思います。ちょうど信仰の対象としてのイエスと、考古学的歴史的イエスとに食い違いがあるように、信仰の書としての聖書の扱いと、歴史上の書物としての聖書の扱いに違いがあるのが現実であると思います。どちらが正しいか間違っているかという論議をしたり、無理矢理に現実を捻じ曲げて一致させるより、現実に存在する違いを認識することが必要であると私は思います。