「再度教えてください」−現役エホバの証人の方よりの再再質問

(9-14-98)


こんばんわ、「教えてください」を送った現役JWです。
ご対応ありがとうございます。医師であられるので、非常にお忙しい毎日を送ってお
られることと思いますが、そのような中で私の意見にお返事をくださり感謝いたしま
す。
もう少し教えて頂きたいことがありますので、ご対応くだされば大変嬉しく思いま
す。
   ご存知のように、イエスはバプテスマを受けられてから死ぬまで、宣教をご自分
の主要な仕事とされました。そしてイエスはマタイ28:19,20にあるように宣
教の業をクリスチャンの重要な務めとされました。イエスの生き方に倣い、かつ、ご
命令に従い、1世紀のクリスチャンは宣教を重要視していたことを使徒たちの活動の
書やパウロの書いた聖書文書等は示しています。
    その聖書が示す教えに従い、JWは宣教に非常に熱心です。JWは確かに楽園で
物質的に豊かな暮らしができることを自分たちの宣教の主な内容の一つとしていま
す。しかし、そのことばかりを強調しているのではありません。あなたのおっしゃる
贖いによる罪の隷属状態からの開放による喜びも宣教の主な主題としています。その
ことはあなたもJWの出版物を熟読しておられるのでよくご存知のはずですが・・・
・。あなたはJWが話す内容に賛同されないので、JWの宣教はクリスチャン宣教で
はないとみなされるのでしょうか?ここでは仮に、あなたがJWは宣教に非常に熱心
であることを認めておられるとして、次に進ませていただきたいと思います。JWの
活動のデータについてはあなたもご存知のことと思います。そこで、JWよりも宣教
に熱心な組織があったら教えて頂きたく思います。これは現代においてです。そし
て、宣教という意味を聖書の福音を人になんらかの形で伝えるという意味に限定させ
てください。慈善事業などは含まないこととします。
    次に、、あなたのHPにある、神が世界中に点在している形でご自分の僕からな
る組織をもたれるという場合(この考えを仮に村本論とさせてください)について教
えてください。
    実際、聖書を一人で読んで、自分の理解が本当に真理なのかどうか確かめるのは
困難なことです。私はそう思うのですが、あなたはそうは思われませんか?使徒8章
のエチオピア人の宦官も「だれかが手引きしてくれなければ、いったいどうしてわか
るでしょうか」と述べています。そこで、村本論の場合、そういう点はどうなるので
すか?JWの組織は神は個人と親密な関係をもたれ、JW一人一人を聖霊を用いて導
かれると教えています。(この点はあなたの認識違いでしょう)神は組織も個人も聖
霊によって導かれます。しかし、個人的なことの場合、それが神の導きによるのかそ
れとも偶然のことなのか、よっぽどはっきりしていないと判断しにくいと私は思いま
す。そこで、村本論の場合、神は組織ではなく、個人のみを導かれるということです
が、あることは本当は神の導きではないのに、その個人がそれを神の導きであると思
い込むという危険性があるのではないでしょうか?霊が与えられるというのははっき
りと自分のうちに認識というか、何か知覚出来ることが生じるのでしょうか?この点
について具体的に教えてください。
    非常に私の一方的な依頼で恐縮ですが、すぐにではなくてもよろしいので、お返
事をHP上で公開してくだされば嬉しく思います。

《編集者より》
再びお便りを頂き、ありがとうございます。色々な仕事が重なり、お返事が遅れたことをお詫びします。前回のお便りに続いて、あなたの疑問に対して私の考えを述べさせていただきます。


    その聖書が示す教えに従い、JWは宣教に非常に熱心です。JWは確かに楽園で
物質的に豊かな暮らしができることを自分たちの宣教の主な内容の一つとしていま
す。しかし、そのことばかりを強調しているのではありません。あなたのおっしゃる
贖いによる罪の隷属状態からの開放による喜びも宣教の主な主題としています。その
ことはあなたもJWの出版物を熟読しておられるのでよくご存知のはずですが・・・
・。あなたはJWが話す内容に賛同されないので、JWの宣教はクリスチャン宣教で
はないとみなされるのでしょうか?

エホバの証人が、キリストの贖いによる贖罪という、キリスト教の根幹となる教義を知っていることは否定しませんし、そのことも聖書研究で話題になることも確かでしょう。しかし、そのことを「宣教の主な主題」と教えているものみの塔の出版物を私は知りません。是非そのような出版物があったら教えて下さい。私の知っている出版物で、エホバの証人の宣教の主題が何であるかを説いたものは、例えば、「20世紀におけるエホバの証人」のブロッシュアーの14頁、「彼らが伝えようとしている良いたより」に、エホバの証人が宣教している「よい便り」の主題が詳細に書かれています。あなたはこのブロッシュアーをよくご存知と思いますが、そこには1914年以来、いかに世の中が悪くなっており、まもなく来るハルマゲドンでこの体制が破壊され、その後「地上の楽園が来る」という話ばかりです。その17頁には次の言葉が見られます。「エホバの証人があなたに伝えようとしているのは、この王国と、清められ美化された地上での永遠の命という聖書に基づくこの希望なのです」。しかしどこにも、イエス・キリストによる一人一人の罪の贖いと救いという、聖書の最大の主題で、聖書の中で繰り返されている「よい便り」はどこにも出てきません。

前回のお答えにも書きましたが、「宣教」をするかしないかよりも、何を「宣教」しているかが最も大事なのではないでしょうか。聖書(新世界訳)には次のように書かれています。

6 あなた方が、キリストの過分のご親切をもってあなた方を召してくださった方から別の種類の良いたよりへと、これほど早く移って行くことを、わたしは不思議に思います。7 しかしそれは別の[たより]ではなく、ただ、あなた方を煩わせ、キリストについての良いたよりをゆがめようとしている者たちがいるというだけのことなのです。8 しかし、たとえわたしたちや天からのみ使いであろうと、わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のことを良いたよりとしてあなた方に宣明するとすれば、その者はのろわれるべきです。(ガラテア1:6−8)

今のエホバの証人は、パウロが「わたしたちが良いたよりとして宣明した」と彼が言っていることを、本当に宣明しているでしょうか。いいえ、パウロは、イエス・キリストによる罪の許しと救いをよい便りとして宣明し続けました。パウロは決して、「1914年からキリストが目に見えない形で来て、エホバの証人の統治体である「忠実で思慮深い奴隷」を新たに任命し、その時以来世の中が悪くなって、やがてすぐにハルマゲドンが来て、その後地上の楽園で永遠に生きられるようになる」、などとは宣明していませんでした。あなたは、「贖いによる罪の隷属状態からの開放による喜び宣教の主な主題」とおっしゃいますが、パウロはこの教えを付け足しのように、これ宣教しなさい、とは言っていません。パウロはこれ以外に「よい便り」はない、これ以外のことを宣明するものは「のろわれるべき」とまで言っているのです。

私はあなたが言うように「JWが話す内容に賛同されないので、JWの宣教はクリスチャン宣教ではないとみな」しているのではなく、上に引用したパウロの言葉に従って、JWのやっていることはクリスチャン宣教よりも、「のろわれるべき」者が行うことを、現代において行っているのだと思っています。


                                   JWの
活動のデータについてはあなたもご存知のことと思います。そこで、JWよりも宣教
に熱心な組織があったら教えて頂きたく思います。これは現代においてです。そし
て、宣教という意味を聖書の福音を人になんらかの形で伝えるという意味に限定させ
てください。慈善事業などは含まないこととします。

上に述べたように、また前回のお答えにも書きましたように、「宣教」の中身を問題にせずに、形式と量だけを競い合っても、それは中身の無い空しい競争ではないでしょうか。もちろん、あなたも十分ご承知のように、聖書を使う宗教団体はエホバの証人だけではありません。彼らも彼ら中心の「宣教」を行っています。「熱心」の尺度を何で計るのかを定義せずに、誰が一番「熱心」かを比較はできませんが、例えばモルモン教の信者も世界中で彼らの教えを「宣教」しており、その「熱心さ」を新たな信者の獲得数とすれば、エホバの証人といい勝負であると思います。(今、私の手元にモルモン教の世界統計がありませんので、正確な数字はありませんが、必要であれば調べてお教えします。)

ただ、そのような形式と量を競い合って、そのことであなた方の活動が正当化されると信じているのでしょうか。私は聖書のメッセージを人々に伝えるのは、聖書の存在を人々に教えることで十分であると思います。そして、この現代の通信、出版の高度に発達した時代に、聖書の存在を人々に教えることにそんなに苦労が必要でしょうか。もちろん、多くの人は聖書の存在を知りながらそれを無視するかもしれません。それはその人たちの自由な選択でしょう。でも現代の大多数の人は、聖書を読んでみたいと思えば、多分本屋、近くの教会、図書館などを通じて苦労せずに読むことができるでしょう。そしてこの聖書の普及は、エホバの証人の努力よりも、無数の人々の何世紀にわたる、聖書翻訳・出版と配布の努力の結晶であると私は思います。


    実際、聖書を一人で読んで、自分の理解が本当に真理なのかどうか確かめるのは
困難なことです。私はそう思うのですが、あなたはそうは思われませんか?使徒8章
のエチオピア人の宦官も「だれかが手引きしてくれなければ、いったいどうしてわか
るでしょうか」と述べています。そこで、村本論の場合、そういう点はどうなるので
すか?
聖書の理解が正しいか間違っているかは、誰が決めるのでしょうか。ものみの塔の宗教では、これは組織の指導者が決定し、それが最終的な真理となり、あなたの言う「本当に真理」となります。たとえば、ものみの塔の組織は聖書を理解して、腎臓や角膜の移植を「人食い」であるから聖書が禁じている、と理解しました。これはその当時の「本当の真理」ではありましたが、その後、組織の指導者は気を変えて(彼らの用語では「光が増して」)、聖書は移植を「人食い」として禁じてはいない、という理解になり、それまでの「本当の真理」は「本当ではない真理」となり、新たな理解が次の「本当の真理」となりました。私はこれは人間がその時その時の風潮に従って、自分たちの都合のよいように聖書を使う「人間の真理」に過ぎないと思います。

もちろん、聖書は大昔に書かれた本ですから、言語、文化、歴史、考古学の理解を持たずには正しく理解できません。従ってほとんどの人は、ギリシャ語の辞典や、歴史書、聖書の解説書などを使って理解を深めます。私はその意味で、手引きを使うことは問題ないと思いますし、あなたが引用したように、聖書もそれを認めています。しかし、聖書のメッセージを一人一人の人間の生活にどのように当てはめるか、を考える時、それは他人が干渉するべき問題ではなく、一人のクリスチャンの聖書理解と、祈りと、神、イエスと聖霊の導きのみによるのではないでしょうか。もちろん、私は他人がアドバイスを与えることを否定するものではありません。しかし、そのアドバイスが全ての人を、判で押したように規定して、それ以外の理解を「背教」としてして退け、つねにそのアドバイスが絶対的な力を持つようになったら、(つまりものみの塔のシステム)それはもはや、聖書の教えではなく、ただの「人間の教え」でしかないのです。

一つの簡単な例をあげましょう。つい最近死んだアフリカの独裁者バンダは、マラウィの国で、全ての国民に自分の政党の党員カードを買うように義務づけていましたが、ものみの塔協会の統治体は、これは「世から離れる」という聖書の教えに反すると理解し、マラウィのエホバの証人に対し、独裁者の命令に従わないことを指示しました。その結果、何千人というエホバの証人が残酷な迫害にさらされました。確かに、政党の党員カードを買うことは、政治に参加することになり、「世から離れる」という教えに反するというのは、一つの聖書の理解の仕方かもしれません。しかし、独裁政権で他にどこにも行く選択がなければ、国民全体が義務付けられたことをすることは、その国民である以上仕方の無い義務であるとも考えられます。パウロはローマ13章で国の政治権力に対して「神の僕」あるいは「奉仕者」と見なして従うように教えており、ローマ13:7で要求されるものは全て与えるように教えています。従って、ある人の聖書理解によれば、マラウィのエホバの証人が政党カードを買うことは、単に「上位の権威」に服するだけで聖書の教えに反しないと考えることもできます。どっちの聖書の理解をとって優先させ一人一人の人間の人生に当てはめるかは、その人のおかれた状況にもよるでしょう。ある人は聖書をよく調べ、自分の置かれた状況を考案し、祈って政党カードを買おうと決定するかもしれません。別の人は、別の聖書の箇所を優先させて、政党カードを拒否するかもしれません。私はどちらの決定が「本当の真理」でどちらが「本当でない真理」かを、人間や組織が決めてそれを全員に一律に当てはめるべきではないと思います。それは人が決めることではなく、神のみが知っていることでしょう。

しかし一つだけ確かなことがあります。そのような決定を人の指導者に委託してしまうことだけは、間違いなく聖書に反しているということです。エホバの証人の間では、何か難しい決定をしなければならない時、必ずと言っていいほど、「協会はこう言っている」「組織はこう言っている」として、ものみの塔協会の指示を先ず優先させます。上のマラウィの迫害の例でも、地元の支部は何度も協会本部に、別の聖書の理解ができないか、それによってこの残酷な事態を解消できないかどうかを尋ねています。協会の指導部(統治体)はその度に、マラウィの証人たちに党員カードの購入を拒否し続けるように指示し、マラウィのエホバの証人は残酷な迫害を、この組織の指示のために受け続けました。このように、エホバの証人がその人生において重要な決定をする時、先ず優先されるのは組織の教えであり、その個人のおかれた状況での聖書の理解と祈りと聖霊の導きは考慮されません。私はこれは、クリスチャンの生き方であるとは思いません。


JWの組織は神は個人と親密な関係をもたれ、JW一人一人を聖霊を用いて導
かれると教えています。(この点はあなたの認識違いでしょう)

本当に私の認識違いでしょうか。あなたはJW一人一人が組織を通して聖霊に導かれていると言いたいのではないでしょうか。上に述べた例でも分かるように、エホバの証人がもし個人として聖霊に導かれているのであれば、必ず組織の導きと違う決定が出て来るはずですが、そのような例は全くありません。ある年のある月の「ものみの塔」誌が発行されるまでは、臓器移植は「人食い」として理解されていますが、その月の「ものみの塔」誌に新たな理解が出ると、何百万という世界のエホバの証人はその時点で一斉に、その新しい聖書理解に変わります。これがJW一人一人が聖霊に導かれた結果なのでしょうか、それとも単に世界中の証人が人間の指導者の指導に導かれただけなのではないでしょうか。次のものみの塔誌の言葉を読んでも、証人個人個人が組織と別に聖霊の導きを受けることはないことは明らかではありませんか。

わたしたちには、会衆内で、あるいは目に見えるエホバの世界的な組織に関連して、指導の任に当たる兄弟たちに愛を示す機会があります。その中には、「忠実で思慮深い奴隷」に忠節を示すことが含まれます。(マタイ 24:45-47)どれほど聖書を読んだとしても、真理は自分の力だけでは決して学べなかったという事実を直視しましょう。(ものみの塔1990年12月1日19頁)
つまり、聖書の真理は「忠実で思慮深い奴隷」に忠節を示すことでしか学べないと教えています。
聖書を理解したいと願う人はすべて、エホバの伝達の経路である忠実で思慮深い奴隷を通してのみ「きわめて多様な神の知恵」が知られるようになるということを認識すべきです。(ものみの塔1994年10月1日8頁)
このようなものみの塔の記事から、あなたはエホバの証人が「忠実で思慮深い奴隷」を通さずに一人一人が聖霊に導かれるとどうして言えるのでしょう。どうか、協会の出版物を使ってあなたのおっしゃることを説明して下さい。


                             神は組織も個人も聖
霊によって導かれます。しかし、個人的なことの場合、それが神の導きによるのかそ
れとも偶然のことなのか、よっぽどはっきりしていないと判断しにくいと私は思いま
す。そこで、村本論の場合、神は組織ではなく、個人のみを導かれるということです
が、あることは本当は神の導きではないのに、その個人がそれを神の導きであると思
い込むという危険性があるのではないでしょうか?

あなたのおっしゃることは、よく無神論者が聖霊の導きを否定する時に使う議論と同じであり、興味があります。確かに無神論者も、エホバの証人も共に、人が聖霊によって導かれるということを信じることができず、「それは自分の思い込みだよ」と否定します。先ほどの「本当の真理」と「本当でない真理」の議論でも申し上げましたが、何が神から出て、何が神から出ていないかは、神のみが知っており、人間が勝手に決めて価値判断を下す問題ではないと私は思います。聖書の中にもすでに、多くの人が神の導きを得た、聖霊の導きを得たと思い込んで、とんでもない間違いをした事例が沢山書かれています。同じようなことは現代でも引き続き起こっているでしょう。この「危険性」は、個人だけでなく、ものみの塔の組織にもあてはまることは否定できないでしょう。しかし、ものみの塔は過去の間違いを、「思い込み」とは言わずに、「光が増して来る」過程と教えています。そうであれば、神の個人に対する導きにも、「光が増す」ことはあるのではないでしょうか。

それではそのような「危険性」があるがゆえに、聖霊の導きを否定して人の組織により頼みなさいと聖書は教えているでしょうか。いいえ、人々の間違いは全て神によって正され、神によって赦されました。イエスが来られたのはそのような間違いだらけの人間に保証を与えるためでした。イエスの保証を信じない限り、あなたのような不安は決して無くならず、従って、見えないものより、しっかりとつかめる「組織」により頼むようになるのは、人情としては理解できます。しかし、それは聖書に基づく保証ではなく、人の作った危なっかしい保証に過ぎないのです。


                       霊が与えられるというのははっき
りと自分のうちに認識というか、何か知覚出来ることが生じるのでしょうか?この点
について具体的に教えてください。

これが信仰体験というものだと思います。残念ながらこれは体験した人にしかわかりません。何も、もったいぶっているのでも、出し惜しみしているのでもありません。イエス・キリストに対する信仰は、最も簡単で最も身近なもので、パウロたちの牢番は一夜のうちにイエス・キリストの真理を悟り、直ぐに信仰に入りました(使徒16:25−34)。(現代のエホバの証人のように、何ヶ月も多くの協会の書籍を勉強した後に真理を知ったなどとは書かれていません。)しかし、一方ではこのことは、ある人にとっては不可能に近いほど難しい、程遠いことなのです。最も易しく、同時に最も難しいのがイエス・キリストに対する信仰であると私は思います。どうか、この過程があなたにとって牢番と同じように易しいものであるように、あなたが「霊が与えられる」ことを体験できる日がくることを願っています。

再び、お便りをいただければ幸いです。


読者の広場インデックスに戻る