「教えて下さい」−現役エホバの証人の方よりの再質問

(9-9-98)

こんにちわ、この前、「排斥された人への気遣い」を送った者です。現役の熱心なJW
です。ご対応ありがとうございます。
   さて、わたしには思想犯罪者は冷たい態度を取られて当然だと思います。あなた
も背教者にはあいさつさえしてはならないという聖書の教えをご存知でしょう。しか
し、その背教かどうかを決めるのは神ではなく、JWの組織なのでそこがあなたの納得
いかない点だと思います。そこで、JWは本当にエホバ神の地上の唯一の組織なのかと
いう点を見極めることが重要です。今のところ、私にはJWがそうであるとしか思えま
せん。
   あなたのHPからJW世界本部の内部の様子や教理の不確実性について知りました。
わたしは、もしかしたらHP通りなのかもしれないと思っています。はっきり言って、
大変な衝撃です。しかし、それでもわたしはJWを止める気にはなりませんでした。そ
の理由を読んでいただきたいと思います。また、考え方が間違っていたら教えてくだ
さい。
   まず、わたしには、JW世界本部の内部事情についてのことは判断できません(特
にフランズさんの件)。あなたのHPで読んだ通りなのかもしれませんし、そうではな
いかもしれません。もしかしたら、HPどおりなのかもしれません。しかし、聖書には
人は皆不完全で罪を犯すと書かれてある通り、統治体の成員や世界本部の幹部たち、
はては、各会衆の長老まで、その罪を犯すことは全員に当てはまります。そして、統
治体も自分たちは不謬ではないことをはっきりと認めています。その中には大きな罪
もあるのかもしれません。しかし、人間である以上仕方がないことです。完全に罪を
犯さないことは誰にもできないのです。その犠牲者となった人はお気の毒というか、
悲惨であるというか、本当にむごいことです。しかし、地上の楽園ですべて解決され
ます。
   実際、どこかの長老はひどい人もいるでしょう。セクハラとか賄賂を受け取ると
か、あるかもしれません。長老も罪人です。やるべきことをやらないと、たとえ長老
でも悪い傾向に流されていきます。それは、カトリック、プロテスタントの僧職者を
見ればよくわかります。しかし、そのような人の罪は決して見逃されることはありま
せん。必ず、明らかになり、適正な処置が組織によってとられるのです。私も地元の
会衆でそのことを見てきました。不適切なことは必ず適正に正されます。ですから、
フランズさんやその仲間たちも、統治体に意見してそれが受け入れられなかったので
あれば、じっと我慢すれば良かったのです。フランズさんたちの言っていることが本
当ならば必ずそのようになるように、エホバが動いてくださるのです。それを押し通
そうとしたので排斥になったのです。1914年の年代計算の件もあなたのHP通りな
のかもしれませんし、そうではないかもしれません。わたしには判断がつきません。
もし、HP通りだとしても、その日と時刻についてはエホバしか知らないというマタイ
書でイエスが言われた通りになるだけです。私はハルマゲドンが近いというJWの教え
を動機としてJWしているのではありません。エホバに仕えるのはエホバを愛している
からです。ですから、年代計算の教えが間違っていてもそれがJWをやめるきっかけに
はなりません。
   しかし、あなたのHPを読んで、JWの組織について再考したのは事実です。でも、
教理に矛盾や度重なる変更があったとしても、どうしても次のことだけはJWにしかな
いと思います。それは「楽園」の本の22章「真の宗教を見分ける」に書かれてある
点です。それは、神の御名を神聖なものとする、神の王国の宣明、神の言葉に対する
敬意、世からはなれている、彼らの間にある愛です。この5つの点でJWより優れたキ
リスト教の派があったら教えてください。もしあるならば、調べてみたいと思いま
す。
    また、私には神が地上に組織を持っておられるとしか思えません。愛にあふれる
エホバが愛する人間に導きを与えないということはありえません。さらに、神はイエ
スを通してであるとしても現代において奇跡的な方法を用いて個々の人間と交渉をも
たれるということは考えられません。奇跡は廃されますとパウロはコリント人への手
紙に書いています。
HPの「ものみの塔とイエスキリストの比較」に書いてあるイエスが直接人に呼びかけ
ると言うのは具体的にどういうことですか?神とイエスは1世紀にクリスチャン会衆
という、まとまった組織を持っておられましたから現代にもまとまった組織を持って
おられると考えるほうが道理にかなっているのではないでしょうか?
   長々と書いてしまいましたが、可能ならばご対応のほどよろしくお願いします。
    (「楽園」22章の件だけでもお願いします)

《編集者より》
再度お便りをいただきありがとうございました。あなたの、真摯な探求の態度に深い敬意を表したいと思います。あなたが非常に正直で真剣なだけに、私も出来る限り正直で真剣なお答えをいたします。

   さて、わたしには思想犯罪者は冷たい態度を取られて当然だと思います。あなた
も背教者にはあいさつさえしてはならないという聖書の教えをご存知でしょう。しか
し、その背教かどうかを決めるのは神ではなく、JWの組織なのでそこがあなたの納得
いかない点だと思います。

いいえ、私が納得がいかないのは、あなたたちが「あいさつさえしてはならないという聖書の教え」をまず捻じ曲げているからです。聖書(新世界訳で結構です)を開いてみて下さい。あなたのおっしゃる「聖書の教え」とはヨハネ第二1:10のことだと思います。

「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば、決して家に迎え入れてはなりませんし、あいさつのことばをかけてもなりません」
しかし、前後関係をよく読んでみて下さい。どこに、私が前回の答えに書いたような人たちのことを言っていると書いてあるでしょう。 7節を読めば、「あいさつさえしてはならない」人は、
「イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たちです。それは欺くもの、反キリストです」
とあります。つまり、聖書が教えている「あいさつさえもしてはならない」人は、キリストを否定する人のことです。それに対し、ものみの塔協会の教える「あいさつをしてはならない」者は、組織の教えに疑問を提起する者です。しかし、そんなことは聖書のどこにも書いてありません。どうして、西暦前607年から起算して1914年を算出することの欺瞞、血清は受け付けてもよいが血漿は拒否しなければならないという矛盾と一貫性のなさを指摘し、より正しい方向に向かうことを人々に呼びかけることの、どこが「反キリスト」なのでしょうか。これらの人々のキリストに対する信仰にはみじんも揺らぎはないのです。

エホバの証人は聖書に忠実であると自負し、それを触れ回っていますが、「聖書に忠実」であることの実態は、この簡単な例でもわかる通り、自分の組織に都合を合わせた聖書の曲解にすぎません。残念ながら、エホバの証人は聖書を前後関係から切り離して読み、またその教えを学ぶ人も前後関係を読まないので、ここまで沢山のエホバの証人が増えているのでしょう。

   まず、わたしには、JW世界本部の内部事情についてのことは判断できません(特
にフランズさんの件)。あなたのHPで読んだ通りなのかもしれませんし、そうではな
いかもしれません。もしかしたら、HPどおりなのかもしれません。しかし、聖書には
人は皆不完全で罪を犯すと書かれてある通り、統治体の成員や世界本部の幹部たち、
はては、各会衆の長老まで、その罪を犯すことは全員に当てはまります。そして、統
治体も自分たちは不謬ではないことをはっきりと認めています。その中には大きな罪
もあるのかもしれません。しかし、人間である以上仕方がないことです。

あなたのおっしゃる通りであると思います。私は人が罪を犯しただけで、直にその人を判断すべきではないという点は、賛成です。では、エホバの証人は、エホバの証人以外の人々の罪に対してどう教えているでしょう。あなたは、ものみの塔誌や目ざめよ誌で、何度も何度もキリスト教世界の僧職者が罪を犯したことを大々的に取り上げて、カトリックを初めとするキリスト教会を厳しく批判しているのを、読まれたことでしょう。ものみの塔はどうして同じように、自分たちの指導部に起こる、多くの罪について同じように真剣に取り上げないのでしょう。ここでも、エホバの証人の自分中心の価値判断が出ていると思いませんか。自分たちの罪に対しては「人間である以上仕方ないことです」と寛容で、人の罪に対しては厳しいというのは、真のクリスチャンの態度でしょうか。

犯さないことは誰にもできないのです。その犠牲者となった人はお気の毒というか、
悲惨であるというか、本当にむごいことです。しかし、地上の楽園ですべて解決され
ます。

あなたの、「犠牲者となった人は・・・・地上の楽園で解決されます」という考えがいかに矛盾したものかは、次の簡単な例を考えて頂けばご理解できるでしょう。これは全くの仮定の話ですが、エホバの証人であるあなたが、気の狂った仏教のお坊さんに襲われてけがをしたとしましょう。お寺の責任者があなたの入院している病院を訪れ、「犠牲者となったあなたには気の毒ですが、あなたには仏の加護が加わるからすべて解決します」、と言われたらあなたは納得しますか。「仏の加護」はこの場合、加害者を守るための加害者のための論理です。「地上の楽園ですべて解決されます」というあなたの論理も、同じように加害者にとって都合のよい論理ではありませんか。被害を受けた人に必要なのは、加害者に都合のよい「仏の加護」や「地上の楽園」のような慰め話ではなく、公正な義ではないでしょうか。

   実際、どこかの長老はひどい人もいるでしょう。セクハラとか賄賂を受け取ると
か、あるかもしれません。長老も罪人です。やるべきことをやらないと、たとえ長老
でも悪い傾向に流されていきます。それは、カトリック、プロテスタントの僧職者を
見ればよくわかります。しかし、そのような人の罪は決して見逃されることはありま
せん。必ず、明らかになり、適正な処置が組織によってとられるのです。私も地元の
会衆でそのことを見てきました。不適切なことは必ず適正に正されます。ですから、
フランズさんやその仲間たちも、統治体に意見してそれが受け入れられなかったので
あれば、じっと我慢すれば良かったのです。フランズさんたちの言っていることが本
当ならば必ずそのようになるように、エホバが動いてくださるのです。それを押し通
そうとしたので排斥になったのです。

まず、罪を見てもそれをじっと我慢するべきであるというのは、私は聖書の教えに反する考えだと思います。マタイの23:1−36を見て下さい。イエスは当時の宗教組織の指導者たちが間違ったことを行っていた時に、何と教えたでしょう。イエスはこれらの人々を黙って見過ごしたでしょうか。いいえ、イエスはこれらの指導者を偽善者と呼び、「盲目の案内人」、「愚か者」、「盲目の者」、「白く塗った墓」と厳しい言葉を使って非難しています。また、パウロは、エホバの証人自身がよく引用するように、「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」(コリント第一5:13)と言っています。問題は、やはりここでも、ものみの塔が聖書の言葉を自分の都合のよいように当て嵌めることです。組織が間違っている場合には、「エホバに待つ」あるいは「エホバが正すまで待つ」ことを教え、その間違いを正そうとする人々を弾圧するのに対し、組織の方針を批判するものに対しては、決して「エホバが正すまで待つ」ことなく、排斥にしてしまうことです。ここでも、上に述べてきた、組織の安泰を第一とする一方的自己中心の方針が明らかに見えます。

次に、フランズが排斥になったのは、組織への批判を押し通したからではありません。彼の著書を読めばわかると思いますが、彼は聖書に基づく良心によって行動してきた人でした。その中で、聖書に基づく良心と組織の方針が異なった時、彼は聖書の良心に従ったのでした。彼は組織の秩序を乱す気持ちは全くありませんでしたが、組織の方から彼に追求の手を出したのです。しかし、それは彼の排斥の理由とはなり得ませんでした。実際、聖書を読んで聖書に忠実に行動する人を、誰がそれを理由として排斥できるでしょう。彼はその時に統治体の役職を解かれただけです。しかし、彼の排斥は別の理由で来ました。それは彼が、統治体を離れた後、自分の雇い主で大家である人とレストランで会食をしている所を他のエホバの証人に見られて、通報されたからです。その雇い主であり大家である人というのは、その当時すぐその前に、エホバの証人から断絶した人でした。この人は確かに組織から切り離された人ではありましたが、フランズにとっては雇い主で大家であるという、非常に重要な人物で、この人と交友を続けない限り、彼は生活を続けることはできなかったのです。この時、組織はそのような事情を考慮して、何故「エホバに待つ」、つまりあなたが言うように「じっと我慢して」排斥せずに待たなかったのでしょう。

ここでもう一つつけ加えますが、「フランズさんたちの言っていることが本当ならば必ずそのようになるように、エホバが動いてくださるのです」とおっしゃるのは、確かにその通りです。1970年代にすでに、フランズは「この世代」が「1914年の変化を見た世代」とする解釈に疑問を持ち、統治体でその教義の変更を検討しましたが、当時、彼の提案は受け入れられませんでした。しかし、ご承知のように、この教義は1995年にフランズの提案とほぼ同じ形で変更になりました。また、徴兵義務のある国で、兵役の代わりに非軍事代替勤務をエホバの証人の男子が受け入れることは禁止されていましたが、これもフランズたちが廃止を提案していましたが採択されませんでした。しかしこの方針も、ごく最近になって変更になり、今では兵役に代わる非戦闘代替勤務を受けることで排斥されることはなくなりました。

                 1914年の年代計算の件もあなたのHP通りな
のかもしれませんし、そうではないかもしれません。わたしには判断がつきません。
もし、HP通りだとしても、その日と時刻についてはエホバしか知らないというマタイ
書でイエスが言われた通りになるだけです。私はハルマゲドンが近いというJWの教え
を動機としてJWしているのではありません。エホバに仕えるのはエホバを愛している
からです。ですから、年代計算の教えが間違っていてもそれがJWをやめるきっかけに
はなりません。

1914年の年代計算については、ものみの塔以外の聖書解説書、考古学の本などを読んでご自分で確かめて下さい。自分の組織が教えていることが、本当かどうかを調べずに、ただ組織が教えるからという理由で信じ続けるのは、クリスチャンとして真摯な態度でしょうか。聖書に手本として書かれているベレアの人々は、たとえパウロの教えたことでも直にうのみにするのではなく、熱心に聖書を調べて確認していました。ものみの塔の書籍は確かに、1914年を計算するのに聖書を引用しますが、ものみの塔が引用しない聖書の箇所に重要な鍵があります。従って、ものみの塔を離れて聖書を調べることが、大事であると思います。

あなたは、年代計算やハルマゲドンの教えを動機としてエホバの証人になったのではないから、これは重要なことではないとお考えのようですが、もし、その教えの根本に嘘や偽りや隠し事があって、それに基づいてこの教義が築き上げられていたらどうでしょう。あなたは、奉仕や研究において、エホバの証人に興味を持つ一般の人々に1914年やハルマゲドンの教えを教えずに、王国宣教を続けることはできないはずです。たとえ、あなた個人にとって重要ではなくとも、自分が世間に教えてまわることが、嘘や偽りに基づいていないことを確認することは、クリスチャンであろうとなかろうと、人間の最低限の義務ではありませんか。この組織が長年の間に作り上げては変えてきた、年代計算とハルマゲドンの予告の背後に、嘘と偽りがあるかどうかをご自分の目で確認せずに、エホバの証人としての活動を続けられることは、あなたの人間としての最低限の責任の放棄であると私は思います。

   しかし、あなたのHPを読んで、JWの組織について再考したのは事実です。でも、
教理に矛盾や度重なる変更があったとしても、どうしても次のことだけはJWにしかな
いと思います。それは「楽園」の本の22章「真の宗教を見分ける」に書かれてある
点です。それは、神の御名を神聖なものとする、神の王国の宣明、神の言葉に対する
敬意、世からはなれている、彼らの間にある愛です。この5つの点でJWより優れたキ
リスト教の派があったら教えてください。もしあるならば、調べてみたいと思いま
す。

「真の宗教を見分ける」に書かれていることを理由に、エホバの証人に留まる人は、あなただけでなく、沢山います。しかし、この5つの基準は、誰が決めたのですか。それはものみの塔協会が、聖書の中から選択的に集めてきたものです。この5つが聖書の中に書かれている沢山の事柄の中で、どれだけ重要であるかは、読む人によって、異なるでしょう。問題は、それ以外の聖書の重要なメッセージを無視して、自分たちの考える重要なものを取り上げ、あたかもどこかに「真の宗教を見分ける5つの基準」があってそれをあてはめてみるとエホバの証人しかない、という錯覚の結論に導かせることです。これを例を挙げて説明すれば、A自動車会社が「最もよい自動車を見分ける5つの基準」を広告の中で発表するとします。消費者は、この基準にあてはめると、A社の自動車しかよい自動車はない、と結論してしまいます。それはなぜかというと、その広告を読む人が、あたかも「最もよい自動車を見分ける5つの基準」が通産省か、自動車工業会のような権威ある団体が作った基準で、それに当てはめるとA社の車が一番という錯覚に陥るからです。しかし、ちょっと調べてみれば、「最もよい自動車を見分ける5つの基準」はA社が自分の会社の車にしかないような点だけを寄せ集めて作ったものであることが分かるでしょう。その時あなたは、本当にA社の車しかいい車はないと信じますか、それともA社は、B社やC社の車にある全く別の素晴らしい点を一切隠して、そのような点では比較していないとしたら、A社が消費者に与える、A社の車が一番よいという結論は、消費者をだますものではないでしょうか。もし、B社が自分たちの車の長所をすべてあげてそれを「最もよい自動車を見分ける5つの基準」としたら、B社の車の方がA社より、はるかに優れていたとしたら、あなたはどう思いますか。

実際、他の聖書に基づく宗教は、それぞれ自分たちが最も重要であると考える聖書の教えを取り上げて、それに基づいて自分たちの宗教を他の聖書に基づく宗教と区別しています。これは普通「信条」(使徒信条、ニケア信条)と言われています。ものみの塔もこの5ヶ条の信条を決めてそれを「真の宗教を見分ける点」としているだけです。聖書には繰り返し愛の重要性が書かれていますし、その愛は隣人を自分のように愛することだとも書いてあります。それに基づいて、「真の宗教を見分ける基準」はどれだけ隣人愛を示しているか、であるという議論だって立派に通用します。この基準でいけば、エホバの証人よりはるかに慈善事業に力を入れている団体、たとえばマリア・テレサのような人々が、ものみの塔とは比較にならないほど真の宗教と言えるでしょう。このように「真の宗教」かどうかの議論は、誰の作った基準によるかによって、全く違ってくるのです。

ここで、これらの5つの点のすべてを詳細に述べることはできませんが、幾つかの問題点を指摘しましょう。

「神の御名を神聖なものとする」:これがどれだけ聖書全体の中で重要なものか、多くの疑問があります。詳しくはこのページをお読み下さい。エホバの証人以外は、聖書を全体として読む限り、つまりエホバの証人のようにそれに関係した聖書の節だけを取り出して読むのでなければ、誰もこれが他のこと、例えばイエスキリストの復活と罪の贖い、に比べれば聖書の中で重要視されているとは読み取れません。

「神の王国の宣明」:まず神の王国のよい便り、とは何かをしっかり調べずに、ただ自分たちの伝えたいメッセージを伝えているからといって、それが聖書で教えている「よい便り」とは限りません。「よい便り」という言葉は、クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)の中で100回以上使われていますが、その中で「王国の」という言葉がついているのは、8回だけです。それ以外の全ての場合、「よい便り」の前後関係は、イエス・キリストの「よい便り」、すなわちイエス・キリストにより罪が贖われ、人が罪から自由になれる「よい便り」のことを言っているのです。そして「よい便り」が王国のという修飾語がついていても、それは常に「イエス・キリストの個人による支配」という意味で「王国」が使われているのです。これに対して、エホバの証人が家から家へと述べているのは、どのような便りでしょうか。今の世の中がいかに悪い「終わりの日」であるかを説明し、それに対する唯一の希望は「神の王国」、すなわち「神権政府」による「新しい体制」が来ることであると言います。ものみの塔は、この王国は「政府」であるとも言います。あなたは、ものみの塔の出版物の中で、そのような「新しい体制」では、人々がいい服を着て、いい家に住み、おいしいものを食べて、全員が笑っている絵を何度も見たことでしょう。そうです、これがエホバの証人の「よい便り」なのです。ものみの塔が描く王国は、先ず物質的欲望が満たされる世界です。しかし、それが一世紀当時のクリスチャンが熱心に伝えた「よい便り」でしょうか。使徒たちの活動全体を通じて何度も何度も語られる「よい便り」にあなたも耳を傾けて下さい。その便りの喜びは、あくまで罪人一人一人がキリストの贖罪によって罪から救われる喜びでした。聖書と違うことをいくら宣明しても、それで真の宗教になることはありません。

「神の言葉に対する敬意」:これも、どの神の言葉をとって、どのように解釈したうえで敬意を払っているかによって、評価は変わってきます。やはり、自分にとって一番都合のよい部分を取り出して、自分なりに解釈すれば、それが「神の言葉に対する敬意」となります。しかしそのようなご都合主義は、神の言葉への敬意でしょうか、それとも神の言葉の悪用でしょうか。簡単な例を輸血拒否で見てみましょう。聖書には、ある条件の下であるとしても、確かに血を食べることを禁じている箇所があります。輸血が、神の目から見て血を食べることと同じであるかどうかは、意見が分かれますが、ものみの塔の言うように、他の解釈の可能性は一切無くて「輸血イコール血を食べること」としましょう。もし聖書の言葉に敬意を払うのなら、なぜこれだけの簡潔な決まりで終始しないのですか。ものみの塔は「少量」の血液(血清やアルブミン)は受け付けても構わないと言います。これは聖書の言葉に対する敬意ですか。「少量」の不品行もそれなら聖書は許しているのでしょうか。「これが神の言葉だから絶対守る」と自分たちで決めたのに、どうしそれをなし崩しにしていくのですか。これでは、ものみの塔がキリスト教世界が行っていると常に批判している、「少量の不品行」を許している態度と全く変わらないではないですか。ものみの塔の「神の言葉に対する敬意」とキリスト教世界の「神の言葉に対する敬意」とにどれだけ違いがあるというのでしょう。

「世からはなれている」:これほど漠然とした基準もありません。エホバの証人はこの一言で、クラブ活動から国旗国歌、政治への参加などの拒否から、未信者との交際の禁止まで一切含めます。しかし何が「世」であって離れていなければならないかは、聖書ではなくものみの塔の組織が決めているのです。これも手前味噌の自分中心の基準と言えます。イエスは確かに自分は政治活動に参加はしませんでしたが、それに参加しているものを止めさせることはしませんでした。彼は罪人たちと共に食事をしました。聖書の中には多くの政治家が登場しますが、イエスも神もこのような人々を非難している様子はありません。従って、聖書に基づく限り、どこまでが世から離れていることになるかは一概には言えません。ものみの塔のような具体的な禁止事項は、聖書に基づくものでなくあくまで組織の決めた方針に過ぎないのです。

「彼らの間にある愛」:更に漠然としていて比べようもないのが、「愛」の量と質でしょう。人々の間に愛があるかないかは、一人一人の経験で異なるでしょう。問題は、多くのエホバの証人はエホバの証人同士でしか付き合えないために、他の人々のグループにどれだけ友情や同胞愛があるかを経験することができません。従って、新聞やテレビ、あるいはものみの塔誌や目ざめよ誌などで報じられる人々の争いや傷つけあいの衝撃的な話から来る印象に基づいて、他の人々の間に愛が冷えていると固定観念を持ってしまいます。どうかあなたは勇気を出して、エホバの証人以外のクリスチャングループと交わってみて下さい。大部分の元エホバの証人は、そのような経験からエホバの証人の間の「愛」も「憎しみ」も、他のクリスチャングループのそれらと大差がないことに気が付いています。

しかし「真の宗教を見分ける」ことの最も重要なことは、あなたが「宗教団体を見つけてそれに所属しなければ、自分の愛するエホバを崇拝できない」という、ものみの塔が長年にわたってあなたの中に植え付けてきた固定観念によります。イエスもパウロもどこにも「宗教団体に所属する」ことがエホバに近づく第一歩であるとは言っていません。

   また、私には神が地上に組織を持っておられるとしか思えません。愛にあふれる
エホバが愛する人間に導きを与えないということはありえません。

神が人間を導くのに組織を使うと聖書は言っているでしょうか。いいえ。もし詳しい内容を知りたければ、このページを見て下さい。聖書全体を通じて、神を崇拝する人たちの様々なグループがありましたが、ことごとく間違いを犯し、その中の個人個人が神の指示を受けて、正しい道に導いてきました。その指示はどのようにして来ましたか。エホバは組織を通すのではなく、常にイエスと聖霊とを通してこれを個人個人に与えてきました。これも聖書に書いてある通りです。

                              さらに、神はイエ
スを通してであるとしても現代において奇跡的な方法を用いて個々の人間と交渉をも
たれるということは考えられません。奇跡は廃されますとパウロはコリント人への手
紙に書いています。
HPの「ものみの塔とイエスキリストの比較」に書いてあるイエスが直接人に呼びかけ
ると言うのは具体的にどういうことですか?神とイエスは1世紀にクリスチャン会衆
という、まとまった組織を持っておられましたから現代にもまとまった組織を持って
おられると考えるほうが道理にかなっているのではないでしょうか?

イエス・キリストが神から遣わされ、人間に導きを与えることは何も奇跡ではありません。全ての信じる者に保証されている恩恵です。聖書をみてみましょう。

そしてわたしは父にお願いし、父は別の助け手を与えて、それがあなた方のもとに永久にあるようにして下さいます。それは真理の霊であり、世はそれを受けることができません。それを見ず、また知らないからです。あなた方はそれを知っています。それはあなた方のもとにとどまり、あなた方のうちにあるからです。
確かにイエスが地上からいなくなった後、あなたが今おっしゃるような心配はその当時からありました。従って、神は(聖)霊という「助け手」を常に私たちに与えてくれたのでした。興味深いことに、それを見ず、知らない人がいると書いてありますが、エホバの証人を見ていると、その通りだとつくづく思います。どうかものみの塔の教えの外で聖書をよく読んで下さい。イエス・キリストの助け手があなたの中に住むことができるのです。

しかし、神の霊があなた方のうちに真に宿っているなら、あなた方は、肉とではなく、霊と和しているのです。けれでも、キリストの霊を持たない人がいれば、その人は彼に属する者ではありません。(ローマ8:9)

あなた方は、自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。(コリント第一3:16)

そうです、霊はあなたの中に真に宿ることができるのです。それだけではありません。キリストも、神もまた信じる者の中に住むのです。

信仰により、あなた方の心の中に、愛をもってキリストを住まわせてくださるようにするためです。(エフェソス3:17)

イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(ヨハネ第一4:15−新共同訳) (新世界訳は前置詞inに当たるギリシャ語を「中に」とか「内に」とか訳さず、「結びついている」と訳しています)

あなたは、もしかしたらこれらのことは、組織に霊があり、組織の中にキリストや神がいることを表現している、と解釈するように教えられているかもしれませんね。しかし、「神がその人の内にとどまってくださり」という「その人」は単数形であって、複数ではありません。たしかにあなたが受けてきたものみの塔の訓練では、イエスは大統領のようなはるか上の人、エホバに至っては上の上の、自分とはずーっと離れた恐るべき存在というふうに感じるように訓練されているでしょう。しかし、イエスとその弟子たちが教えた霊、キリスト、神はそんなものではありません。イエスを信じる者全てに、一人一人、イエスも霊も神もその人の中に住まわれるのです。祈りを通してイエスが、私をあなたを、そしてイエスを信じる人それぞれを、導いて下さることは、あなたが考えるような奇跡でも何でもないのです。これがイエスの与えられた保証であり、こんな素晴らしいことは他にないと思いませんか。そうです、これこそ本当の「よい便り」なのです。

長い返事を読んでいただき、感謝いたします。また、是非お考えをお聞かせ下さい。