エホバの証人の国家斉唱拒否について

(9-5-97)

エホバの証人の子どもは学校の卒業式などの「君が代」斉唱時に、起立を拒否するようですが、
そこにはどのような理由があるのか教えて下さい。

《編集者より》
それは、エホバの証人の指導者である統治体が、国旗敬礼、国歌斉唱、は「崇拝行為」であると決めて、「エホバ以外のだれに対してでも、どんなものに対しても、崇拝行為を行うことはできない」ことを理由に拒否を指導しているからです。しかも、それは国歌だけではありません。学校の校歌を歌うことも同じ理由で拒否させています。(詳細は『学校とエホバの証人』というパンフレットの13ページからに書かれています。)私は国家を歌うことが国家や皇室を崇拝することになるかどうかは、それを歌う個人の心の状態によって決まることであろうと思います。それに対してエホバの証人の教えでは、何よりも外見を第一にします。この『学校とエホバの証人』のパンフレットの中では、「起立しさえすれば、その歌に表現されている感情を共にしていることを示せます」と述べて、国家を歌う時は座ったままでいることを指導しています。しかし、もし歌う前に既に起立しているのなら、わざわざ座る必要はないとも指導しています。その理由は立つ行為が元々、国家を歌うために行われたのではないから構わないのだそうです。

ご質問の方は学校の生徒の方のようですが、もし聖書がお手元にあったらイエスがパリサイ人の心のない形式主義をどれだけ戒めたか、読んでみて下さい。同じ立つことでも、それぞれに宗教的な意味づけを勝手につけて、それに基づいてルールを作り上げ、そしてそのルールを守ることがエホバを敬うことになるとする教え、これがエホバの証人の教えなのです。確かに心をこめて、国家や学校を崇拝する気持ちで歌う人もいるでしょう。またその様な歌は嫌いで参加したくない生徒がいたら、それもまたその人の自由でしょう。しかし、私は国家や学校を崇拝する気持ちは全くありませんが、周りの国家や学校を大事に思う多くの国民や、学校の生徒や先生への思いやりを考えて、一緒に歌うと思います。私の心にこれらのものに崇拝する気持ちが全くないのは神が何よりも知っているのですから、そこに他の人が干渉して批判する余地があるでしょうか。このような行為は、全く個人個人の心の状態によって、良心に基づいて決めればよい問題ではないでしょうか。これに対し、エホバの証人の教えでは、外見でどのように他の人に見えるかが、第一の基準となります。従って、歌い方、起立のし方などに細かいルールが作られ、それらが心の状態、個人個人の神とイエス・キリストとの関係よりも優先されるのです。