エホバの証人は偽善者か−元エホバの証人の方の再質問

(8-25-98)

また あらためてメールを 送りました 

あのときからの 疑問を少しだけ自分の中で整理できましたので もう一度意見を言
わせてください

>エホバの証人が、少しの例外的な場合を除いて、一般的に法律を守る人々であること
>は私も意義はありません。また彼らには裁判に訴える権利もあり、それも合法です。
>私がここで述べているのは、合法か非合法か、権利があるかないか、という議論では
>ありません。彼らが法律を最大限に利用してその恩恵を被っているのなら、その法律
>を作り、育て、守っていく仕事に、エホバの証人も参加すべきだということを言って
>いるのです。ある事の恩恵を享受しながら、その恩恵を与えるものを攻撃し、それに
>貢献しないという態度は、典型的な偽善者の態度ではないでしょうか。これはエホバ
>の証人が多くの血液製剤を使用して自分たちの健康を保つ恩恵に浴しながら、一切献
>血活動を拒否し、批判しているのと同じ事です。法律的には彼らは何も間違ったこと
>はしていません。しかし道徳的には彼らの行っていることは全くの偽善です。彼らは
>文字通り他人の血を吸って生きているのです。

ぼくは、エホバの証人は税金も払ってるし、法律も守ってるから立派に社会に参加し
ていると思っているので、道徳的にも彼らの行っていることは偽善じゃなく、真理の
追究だと思うのですが。

偽善というのは外面だけを取り繕い、内面はないがしろだという事だと思うので、そ
れには当てはまっていないと思います。変な言い方ですが、納税の義務を怠っている
人が多いこの現代で、エホバの証人は他人の生き血を吸っているとはあまり思えず、
むしろ前者の方が他人の生き血を吸っている人ではないのでしょうか。

これはあくまで一般論ですが、やはり、この国は資本主義です。、お金で買って血液
製剤を使うのは僕はよいと思います。献血をしないのもまたしかりだと思います。そ
れは個人の自由であり道徳的にも間違えてるのでしょうか。これは社会の作り出した
恩恵でありエホバの証人が作り出したのではないので、それを道徳的に「おまえは、
血液を使った製品を使うのだから献血しろよ」といっても道理が通じないし間違いだ
と思います。

恩恵を与える物を攻撃してともありますが、これは社会的にエホバの証人が輸血制度
を反対し抗議しているのでしょうか。僕が考えるにはエホバの証人は内部には厳しい
ですが、外にむけて攻撃的な態度はとらない宗教ではないかと思っていましたので。

なぜが この辺が気になってしまったので村本さんの意見をもう一度聞きたくなって
しまいました

よろしくお願いいたします

《編集者より》
ご返事ありがとうございます。

私の申し上げたかったポイントを分かっていただけるために、もう一つの簡単な例をあげましょう。ある人たちが、「たばこは健康に害があり、人に迷惑をかけるからやめましょう」と言って街頭に出て一般の人々に広く呼びかけているとしましょう。その人たちが、「まあ少しのたばこを吸うことはいいでしょう」と言ってこっそりたばこを吸っていたら、それは偽善ではありませんか。確かに、あなたのおっしゃる通り、この例でも、世の中にはもっと大量のたばこを吸う人はいくらでもいるし、何もたばこを吸うことは法律違反でもなく、彼らがたばこを吸う権利は保障されているし、彼らが呼びかけていることは良いことなのだから、彼らは良い人たちではないか、と言えるでしょう。しかし、私のポイントはそこにはありません。外で「たばこを吸うな」と言いながら自分たちは裏でたばこを吸う、その偽善を問題にしているのです。エホバの証人は「輸血は聖書が禁じているから受け付けないようにしましょう」と呼びかけながら、その実、「少しの血液はかまわない」と言って様々な血液製剤を受け付けているのです。これは同じように偽善ではありませんか。逆にあなたに質問しましょう。もし血を受け入れることがそれだけ重大な罪なら、なぜ全ての血を使った治療を拒否しないのですか。何故、「少しぐらいはいい」という態度をとるのですか。ものみの塔によれば、聖書は輸血を性的不品行と同列に扱って重大な罪として禁じている、と言います。それでは「少しぐらいの不品行は構わない」と聖書は言っているのでしょうか。

献血が輸血を受けるのと同じように重大な罪であり、排斥の対象になるという規則は1961年にすでに決められており、その後これは変更になっていません。

‥‥輸血を受け続けたり、この医療行為を他人に施すのに使われる献血を行い続けるのなら、このことは、彼が本当に悔い改めず、意図的に神の決まりに反対することを示すものです。そのような者は、反抗的反対者、クリスチャン会衆の会員への不忠実な者の例として、排斥によって会衆から断たれなければなりません。‥‥

(「ものみの塔」1961年1月15日63頁)

また、ものみの塔の現在の献血制度に対する攻撃については、目ざめよ!1990年10月22日号の「血液の販売−もうけの大きい商売」の記事をご覧下さい。ものみの塔は、現在の献血制度の安全性向上のための多大の努力を全く無視し、現在の献血制度の危険だけを扇動的に書いてきました。

資本主義の世の中ではお金で何を買うのも自由であるというあなたの意見は一般論としてはその通りです。前の私の答えにも書きましたが、それが法律的に間違っていることはありません。しかし、例えば、この例を考えて下さい。ある団体が、アフリカの野生動物を保護するために、象牙の売買を禁止するように呼びかけているとします。しかし、その人たちが、こっそりと象牙で加工したネックレスを買って自分の身に付けていたとしたらどうでしょう。確かにこの人は何も違法なことはしていませんし、象牙で作られたものは、すでに市場で売られているのですから、それを買うのは自由です。しかし、この態度は偽善ではありませんか。血液をもらうことも、与えることもすべて禁止しておきながら、その血液で作った薬を使うエホバの証人の態度と、この象牙のネックレスをする人と、どれだけの違いがあるでしょう。私はどちらも偽善者であると思います。

「『おまえは、血液を使った製品を使うのだから献血しろよ』といっても道理が通じないし間違いだと思います」というあなたの考えには賛成できません。「受益者負担」という概念は、社会が複雑になればなるほど、ますます重要になっています。あなたは、「おまえは公共の施設を使うのなら税金を払え」といったら道理が通じない間違いだと思いますか。血液製剤の使用も同じことでしょう。誰かが犠牲になって、血液を出さなければならないのです。私はある人たちが、別の人たちの犠牲の上に生きて行く社会は健全だとは思いません。